産後復帰を目指す女性アスリートの現状
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産後復帰を目指す女性アスリートの現状

女性アスリートは、現役復帰という厳しいタスクを身体に課した後、産後に職場復帰する女性と同じく、社会からの期待、水準の低い産休、育休制度などの問題に直面する。しかし、そんな負担を抱えながらも競技復帰して卓越した力を発揮できることを女性選手たちは再三にわたって証明してきた。

姪に初めて会ったのを機会に、出産とはどんな経験なのか、姉に尋ねてみた。姉は、怖ろしい戦争体験を語る退役軍人のような冷ややかな目で、私をまじまじと見詰めた。3600グラムの赤ん坊を生むときに、どんな膣裂傷を負う可能性があるのか説明した後、私を安心させようとしたのか、姉はこう続けた。「程度に差はあれ、ほとんどの女性は出産中に裂傷を経験する」

妊娠と出産は、いわば人体が耐えうる最大の試練だろう。この超人的な忍耐力の発現を経験した後なら、少しだけ休みをとって、9ヶ月我慢していた生魚やソフトチーズ、強い酒を楽しんでももよいのではないか。

だが、ジェシカ・エニス =ヒル(Jessica Ennis-Hill)の答えは「ノー」だ。七種競技の選手である彼女は、息子のレジー(Reggie)を出産した直後にトレーニングを再開し、そのわずか9ヶ月後に、2015年IAAF世界選手権で金メダルを獲得した。エニス=ヒルは、トレーニングを再開するために授乳をあきらめた時期が、とてもつらかった、と打ち明けている。あまりのつらさに、競技生活からの完全な引退も考えたという。

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驚くほど短期間で、出産からエリート・アスリートが競う舞台に復帰したスポーツ選手は、エニス=ヒルだけではない。ポーラ・ラドクリフ (Paula Radcliffe)は、2007年に娘のアイラ を生んだわずか12日後にランニングを再開し、その年のニューヨーク・シティマラソン で優勝している。ゴルファーのカトリオナ・マシュー (Catriona Matthews)は、2009年、第二子の出産後わずか10週間で、スコットランド人女性として初めて全英オープンで優勝した。2016年のクリスマス直前には、元女子テニス世界ランキング1位のビクトリア・アザレンカ (Victoria Azarenka)も、息子を出産した直後にコートに復帰すると誓った。

プロ・スポーツ選手の怪我の治療期間として、出産のわずか数ヶ月、または数週間後に国際試合に復帰するのは驚異的だ。コメンテーターたちは、怪我がアスリートに影響を及ぼしている可能性があるか否かについて、数時間は思い悩む。例えば、リオ・オリンピックが近づくにつれて、ウサイン・ボルト (Usain Bolt)のハムストリングについて散々議論された。それはまるで、体内に新たな命を宿して1年近く生活することよりも、ボルトが困難を克服するほうが凄い、と信じるのが許されたかのようでもあった。

息子のレジーを出産した1年後、エニス=ヒルは再び金メダルを獲得した. // PA Images

怪我についての解説には、専門知識に基づいた鋭いコメントもあれば、挫折を克服するメンタリティーに関する勝手な推測に逸れたりもする。一方、妊娠と出産の場合は、三面記事に近い観点から語られる。母親になってからわずか数ヶ月で金メダルを獲得した女性の話は、北京で1000個のチキンマックナゲットを平らげるのと同じレヴェルで、単なる興味本位のエピソードのように扱われ、アスリートが身体的な苦境を乗り越えた偉業として語られはしない。産後の療養は、大怪我の治療と大差がないのに、プロ・スポーツとは異なる文脈に組み込まれてしまう。

おそらく、これは、家族計画にまつわる女性の選択が、社会でどう見なされているかに通じる問題なのだろう。一般的に女性は、母親としての役割を黙って忠実にこなすよう期待される。企業の出産、育児制度は改善されつつあるが、いまだ妊娠と出産は、男性ではなく、女性が決定権を有する選択肢、とされるのが普通だ。まるで、彼女たちが育児という〈贅沢〉を堪能するために、平気で仕事に穴を開け、長期休業し、退職すら厭わないかのような扱いだ。

この論理に従えば、出産によるキャリアの中断は〈選択〉によるが、怪我による中断は〈偶然〉なので復帰して当然、となる。しかし、これは誤解だ。妊娠は必ずしも意図的ではない。

例えば、エニス=ヒルにとって、妊娠は、まったくの予想外だったという。妊娠は嬉しい驚きだったものの、絶頂期のアスリートとしてのキャリア・プランには入っていなかった。米国のオリンピック選手、サラ・ブラウン (Sarah Brown)も、避妊具を使用していたにもかかわらず、突然、母親になった。ブラウンは産後わずか4か月で競技復帰したが、身体を完全にコントロールできるか否かにすべてがかかっている、アスリートのキャリアにおいて、予期せぬ妊娠は、明らかに理想的ではない。

この問題をより詳しく知るため、ノーサンプトンシャー で開業しているウィッティー、パスク&バッキンガム(Witty, Pask & Buckingham)の理学療法士、マーク・バッキンガム (Mark Buckingham)に話を聞いた。数多くのアスリートの産後の復帰を手助けしたマークによると、家庭生活と、競技での活躍、両者を両立しようとするアスリートは、メジャーな選手権を視野に入れて計画的に妊娠するという。

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「学生時代から15年の付き合いになるクライアントがいます」とマーク。「第一子を生んだ後、彼女は復帰して、英連邦競技大会(the Commonwealth Games) のマラソンに出場しました」

「彼女は最近、2年後の英連邦競技大会での競技復帰を視野に入れつつ、第二子出産を決断しました。数年単位で効率的に計画するのが肝心です」

妊娠したアスリートが現役復帰するには何が必要なのか。サッカー選手のダニエル・スタリッジ(Daniel Sturridge)が臀部の怪我で167日間病床にいたのだから、生きた人間を膣から押し出した後、回復までかなりの時間がかかるのは想像に難くない。バッキンガムはこう振り返る。「〈生まれるまで9ヶ月、生んだ後9ヶ月〉という通説がありますが、私の経験から、この説はほぼ間違いありません。力、コントロール、安定性、スピードを完全に取り戻すには、何ヶ月もかかります」

「赤ちゃんは夜通し寝ているとは限らないので、母親は睡眠不足になりがちです。さらに母乳をつくっているので、エネルギーも欠乏します。トレーニングを全面的に再開し、ピーク時のパフォーマンスを取り戻すのは非常に困難です」

第一線で活躍するアスリートにとって、高強度トレーニング、ピーク時のフォームを手放し、変化を受け容れるのは難しい。体調を把握し、必要に応じてペースを落としたり、敢えて休むよう選手を説得するのに、マークのような理学療法士は非常に苦労する。妊娠中もトレーニングを続けたポーラ・ラドクリフは、自らの決意を認めた。「私のなかのアスリートは、母親になりたがっていません」

アレックス・ランカスター(Alex Lancaster)は、ローラーダービー に属するリバプール・ローラー・バーズ(the Liverpool Roller Birds)で、〈アトミック〉という選手名でプレーしているローラースケート選手だ。昨年出産したアレックスは、第一線に復帰し、現在、Aチームでプレーしているかなりの強者だ。しかし、長年活躍してきた彼女でも、以前のレベルでプレイするのは想像以上に難しかったという。「数週間で復帰する自信があったのですが、現実はそう簡単ではありませんでした。出産後、足を持ち上げてベッドから降りるのもひと苦労でした。立ち上がるのに介助が必要で、最初の数週間は歩くのもやっとでした」

アレックス・ランカスター. // Photo by Joe Ehlen

「分娩の4ヶ月後、スケートを履きました。比較的、トラックを速いスピードで滑れたので驚きましたが、ジャンプやホッケー・ストップなど、突発的なアクションは出来ませんでした。私の身体は、激しいコンタクト・スポーツをする準備が出来ていなかったんです」

それに同調するように、マークは、出産直後に自分を追い込もうとするアスリートはやっかいだ、と明かした。「復帰を焦って身体を壊し、慢性的な故障に悩まされ、第一線に復帰できなかった選手を何人も知っています」

「特にプロアスリートは常に、身体をコントロールしている、と自負しています。自分の身体は望み通りに動くと信じているのです。ですから、まず、身体の変化を認めなければなりません。闘うのではなく、受け入れるのです」

アレックスも、ローラー・ダービーに復帰するのに同じ経験をした。彼女は今でも妊娠前の状態に戻るため、スピードを上げたり、感覚やスキルを磨こうと奮闘している。アレックスは当時をこう振り返る。「スケート競技に復帰できた喜びは、想像以上でした。すぐに復帰するのが当然だとおもっていましたから、予想通りにならないのがわかると、ときには睡眠時間を1時間に削り、自分を激しく追い込みました。大好きな競技で、またプレイしたかったんです」

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子育てもプロ・スポーツも多大な犠牲を要求される。サラ・ブラウンは出産後、わずか4ヶ月でトラックに復帰したが、妊娠中にはこう話していた。「女性アスリートがもっとも苦労するのはバランスです。アスリートとしては自己中心的で構わないのですが、家族のひとりとしては、その逆です。この先どうなるのか、見当もつきません」

女性アスリートは、現役復帰という厳しいタスクを身体に課した後、産後に職場復帰する女性と同じく、社会からの期待、水準の低い産休、育休制度などの問題に直面する。サッカー・イングランド代表のケイティ・チャップマン (Katie Chapman)は、家族の面倒を見るために休暇を取ったせいで代表から外されたとして、組織として 〈母親となった選手〉をどう待遇するのか、サッカー協会を問い詰めもした。

ローラー・ダービーの開放的な雰囲気のためか、あるいはローラー・ゲームが女性による女性のためのスポーツだからなのか、アレックスが母親になると、リーグは、彼女の希望を叶えようとようと尽力してくれた。アレックスはこう語っている。「チームに支払う会費は、出産休暇中、普段よりずっと安くなります。リーグの理事会が方針を見直して、トレーニング中、必要に応じて授乳できるように、子どもと家族がホールに入れるようにしてくれました。チームの助けがなかったら、こんなに早く復帰できなかったでしょう」

リバプール・ローラー・バーズが手を差し伸べてくれたにもかかわらず、アレックスは復帰まで非常に苦労した。最大の問題は〈時間〉だった。母親になった後、練習、試合、遠征のために時間を確保するのが、以前よりはるかに難しくなった。「子どもの授乳時間と就寝時間を中心に予定を立てなければいけません。スケートの試合会場や家では、夫と母に子どもの世話を任せています」

2015年, 妊娠34週目, 800メートル走に出場したアリシア・モンタノ. 2016年もに出場. // PA Images

「現状、常勤に戻って高い保育料を支払うか、家で子育てに専念するか、どちらかを選択しなければならないのですが、仕事と子育てを両立しようとする女性をサポートする方法は、もっとあるはずです」

「仕事、子育て、競技のバランスを取るのが理想ですが、とても難しいです。予想外の妊娠で、子供が生まれた今、競技の参加費も余分にかかります。遠征には子どもを同行させますから、ときには宿泊の予約をしなくてはなりません。法定の産休手当ではその出費をまかなえませんし、9ヶ月経てば手当もなくなるので、財政的に厳しいです。家計が苦しいので、希望よりも早く職場に復帰しなければならないでしょう」

スポーツ・ダイレクト(Sports Direct)で働いていようと、金メダリストだろうと、出産と仕事の両立はまったくうまくいかない。さらに、ある種の競技では、子育てが終わってから競技復帰を望んでも、選手としてのピーク、寿命などのプレッシャーもある。例えば、テニスでは二十代前半にピークを迎える選手が多く、28歳で競技生活が終わる場合もある(史上最高のプレーヤーと比較するのは公平とはいえないが、セリーナ・ウィリアムズ(Serena Williams)は明らかな例外だ)。

サッカー選手やゴルファーのピークはそれより遅く、場合によっては三十代後半まで続くが、陸上競技となると話は別だ。英国代表の三段跳び選手、ヤミレ・アルダマ(Yamile Aldama)は「陸上競技では子供をつくるタイミングを見極めるのが難しいため、ほとんどの女性アスリートが妊娠、出産を先延ばしにしています」という。アレックスによると、能力を磨くため、出産は引退後に、という女性選手も多い。種目によっては、特定の年齢で子どもを産むと、選手生命が絶たれる恐れもある。

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母親になるのを決意した女性は、肝心なタイミングで労働市場から離れ、出世から遠ざかる可能性と向き合わなければならない。男性であれば、出世コースにのって、何の邪魔もされずに到達できるはずの役職も、女性の手は届かないのだ。チーム・スポーツでは、育児休暇を取得するのはさらに難しい。最高レベルの女性アスリートの場合、個人の家族計画が、チームのパフォーマンスに影響する恐れもある。スター・ストライカーやゴールキーパーの妊娠は、ジエゴ・コスタ (Diego Costa)やダビド・デ・ヘア (David de Gea)の故障のように、チーム全体が打撃を受けてしまう。

戦力への影響を考えて出産をためらう女性選手もいる、とアレックスは認める。「特に大事な試合やトーナメントが控えていれば、チームに及ぼす影響を懸念して、先延ばしにするでしょう。でも、母親になるべきではない、というプレッシャーを感じた経験はありません」

「怪我や個人的な理由で選手を失っても、その変化が良い意味でチームに刺激を与え、新しい才能が開花する可能性もあります。優秀なチームは選手とともに成長し、進化するのです」

このような課題に直面した米国女子代表サッカーチーム(USWNT)は、母親になることは、必ずしも競技人生の終わりではない、と証明した。ジョイ・フォーセット (Joy Fawcett)をはじめとする女性選手は、出産後わずか数週間でワールドカップやオリンピックに出場した。子育てにおける役割分担や偏見は未だ根深く、出産、育児をサポートする体制が整っていなくても、負担を抱えながらも競技復帰して卓越した力を発揮できることを女性選手たちは再三にわたって証明してきた。

フォーセットは3人の子どもを育てながらUSWNTで輝かしい業績を上げた. // PA Images

バッキンガムによると、母親になった場合、多くのアスリートが慎重になるそうだ。「トップに上り詰めようと、取りつかれたように自分を追い込んでしまうアスリートは少なくありません」

「育児の影響で、うまくいかなかったり、満足にトレーニングできない日もあります。しかし、不思議なことに、子供はアスリートのスケジュール管理能力を高めます。時間が足りないので、過剰なトレーニングもなくなるんです。物事を文脈のなかで整理できるようになるので、優れたアスリートになれるのです」

私の姉は、陣痛は女性に力を与えると説明した。理由を姉の言葉通りに記しておこう。「これを経験すれば、どんな災厄にも耐えられる気がする」。出産とは、新たな生命を世界へ送り出す、人体が耐えうる最も過酷な試練であり、女性のとてつもない強さを浮き彫りにする。そのような試練を乗り越えた女性に対し、失礼なほど不十分な出産、育児制度が待ち受けているが、身体や制度の負担をものともせず、女性アスリートたちは優れた業績を上げ続ける。ジェシカ・エニス=ヒルが果たしたような産後の勝利は、女性の心身の回復力と力強さを示す確固たる証拠なのだ。