FYI.

This story is over 5 years old.

News

OKINAWA 2015 遺骨を掘り続ける男 国吉勇さんの話(完全版)

「遺骨も返してあげられた。壕のなかにも案内できた。そういうのが最高ですね」
04 September 2015, 2:30am

那覇市在住の国吉勇さん(76歳)を取材させていただいた。国吉さんは約60年間、日曜と雨の日を除いたほぼ毎日、沖縄戦の犠牲者の遺骨を掘り続けている。これまで掘り出した遺骨は実に3,800柱。今回は、その活動に密着しつつ、国吉さんを突き動かしている熱の源に迫ろうと試みた。取材当日は朝から遺骨掘りに同行したのち、これまで収集した遺留品の一部を展示した自宅敷地内の資料館を撮影(OKINAWA 2015: EPISODE 2 – 遺骨を掘り続ける男)。夕方から、国吉さんが35年通っているという地元の常連が集うディープな酒場でインタビューした。

飲みながらやりますか。今日は昔の話から聞かせてください。沖縄戦のとき、国吉さんはおいくつでしたか?

6歳です。3月に幼稚園を出て、4月1日から1年生になるはずが、その日にアメリカさんが上陸してきたもんだから、国民学校に上がれなかった。僕らは北部を山原(やんばる)って言いますけど、山原にある大宜味村の大保(たいほ)というところの山奥に避難したんです。大宜味村の村民が四畳半ぐらいの茅葺家を200~300軒つくってくれていました。

避難する前は、那覇のいまと同じところにお住まいだった。

同じところです。

那覇から大宜味村までどうやって行きましたか?

おやじが持っていた馬車で避難しました。2~3カ月分ぐらいの食糧を満載して。ところが、アメリカさんの戦車やトラックが通れないように、日本軍が橋をみんな壊していた。それで、大宜味村に行くまでに相当遠まわりしたらしいです。途中、敵の艦載機が僕らめがけて超低空で来るんです。おやじが「あれは民間人には攻撃かけないよ」って言ったのを覚えています。パイロットの顔が見えたんですよ。確認に来るわけ、超低空で。でも、おやじの言うとおりで攻撃かけなかったですね。あとは、吹き飛ばされてバラバラになった死体が木からぶらさがっていたのを記憶しています。

それは米軍の上陸前ですか?

上陸前です。艦砲か飛行機の爆弾で亡くなったんでしょう。

ご家族は何人でしたか?

きょうだいが10人だから両親含め12人ですね。

国吉さんは何番目ですか?

7男3女の6番目。

おじいさんとおばあさんは?

おじいはもういなかったけどね、ばあちゃんはいたな。当時はどこの家庭にも5~6メートルぐらいの小さな避難壕がつくられていたらしいんですね。ばあちゃんは足が悪かったもんだから、兄貴らが畚(もっこ)で担いで避難させたんです。ばあちゃんと親戚のおじいとおばあの3名を僕らの壕に。それで半年分ほどの食糧を置いて、僕ら山原に避難したんですよ。戦争が終わって半年後ぐらいに帰ったら、3名とも死んでいました。僕は覚えがないけど、誰か年寄りが紛れ込んで、4名になっていたらしいですね。どういう状態で死んだか知らないけど、ばあちゃんの着物の懐に鰹節の削り残しが入っていたそうです。

最期はそれで飢えをしのいで。

そうそうそう。

当時、お父さんはどんなお仕事をなさっていましたか?

48歳ぐらいだから、もう兵隊には行けない。食糧営団というところに雇われていたらしいんです。軍に徴用されているので、僕らを大宜味に送り届けてから帰っていきました。おやじは無傷で戦後まで生き延びましたけど、おふくろは疎開中にマラリアに罹ってね、死んだんですよ。僕らの身内で亡くなったのは5名おるんです。ばあちゃんでしょ、おふくろでしょ、兄貴、弟、姪っ子。兄貴は予科練に行くときに敵の潜水艦にやられて。

お兄さん、予科練ということは16歳ですか?

16歳です。その下に商工学校3年生と中学2年生の兄貴がいて、ふたりとも鉄血勤皇隊* でした。いちおう軍服は着せられて、鉄兜やら鉄砲、手榴弾もみんな持たされていたらしいんですね。どんな小さな軍服着ても、指が見えないぐらいダブダブだったらしいです(笑)。大人より身軽だから、敵兵が何名おるか、しょっちゅう匍匐前進で斥候に行かされたらしい。ふたりとも生き延びましたが、上の兄貴は弾の破片が体にめり込んだままでした。だから、飛行機で本土に行くときなんかはゲートを通過するときにブザーが鳴りよったらしいです。財布とか全部取っても何回やっても鳴るから、「わし、これ鳴るのはね、戦争で破片が入ってるんですよ」と言って、通してもらってました。3年ぐらい前に亡くなりましたが、火葬場で焼いたら遺骨から青く錆びた1センチほどの破片が4つぐらい出てきました。嘘かなと思ってたけど本当に出たんです。骨壺に入れるときにわかったんですけどね。

艦砲の破片でしょうか。

でしょうね。大きいのに当たったら即死かもしらんけど、小さいのだったから生き延びたんでしょうね。その下の兄貴は無傷でした。捕虜になってハワイに連れていかれて1年半いました。沖縄の人ばっかりハワイに連れていかれて、本土の人はほとんど行っていないそうです。沖縄で戦争中は日本軍から壕を追い出されたり、子供が泣いたら日本刀で斬り殺されたり、鉄砲や拳銃で撃たれたりしたんだからね。砲弾や銃弾が雨霰のように飛んでくるところに追い出されて、どんどん死んでいったでしょう。だから恨みがあるって、アメリカさんはわかってるんですね。

一緒に収容したら元日本兵が危ないと。

戦争が終わったら、沖縄の人に殺されると思ったんでしょう。下の兄貴はハワイの収容所に1年半いたものだから、おやじは兄貴のことを亡くなったと思っておったんです。

お兄さんが帰国されたときは喜ばれたでしょう。

でしょうね。僕は子供だったからあんまり記憶がないけど。顔が丸くなって帰ってきたのは覚えているけどね。太ってから。

弟さんはおいくつで亡くなりましたか?

あれは1歳半。姪っ子も1歳半。ふたりとも栄養失調でなくなったらしいです。

疎開先の大宜味村ではどういうものを食べていましたか?

山のなかだから食糧がないわけ。畑がないから野菜もつくれないしね。自分らが持っていった食糧を食い尽くしたら、みんな野草を食べて飢えをしのぎました。それで、食べられる草と食べられない草の見分けがつくようになった。それはいまでもわかります。
戦争が終わって那覇に帰ってきてからも、肉とかないですよ。あなた、ネズミとか食べたことないでしょ。最高でしたね。兄貴らがバネ式のネズミ捕りでパチンと捕まえて皮剝いで、頭とか内蔵は捨てて、塩焼きにして食べるんです。最高に美味しかった。いまでも食べようと思ったら食べられますよ。べつに毒ではないんだから。ハブも食べたことあるんです。ハブはね、ウナギみたい軟らかくないんですよ。硬くて筋肉質で。

ハブも焼いて食べるんですか?

そう。ハブはウナギみたいにきれいに骨が取れないんですよ。骨にトゲがいっぱいあるから肉に食い込んでいて。

戦争が終わったときのことは覚えていますか。

覚えてないね。

那覇に帰ってきたとき、風景が変わっていたでしょう?

あんまり記憶がないけどね。那覇から糸満、具志頭まで完全に焼き尽くされて、一木一草なんにもない岩肌ばっかしの状態だったらしいです。

国吉さんの家は残っていたんですか?

全然ないよ。あるわけないさ。全滅さ。残ってるとこってないよ。

じゃあ、家があったところに建て直したんですね。

米軍が6畳ぐらいのテント小屋、骨組はツーバイフォー* 、あれを何万戸ってつくったんですね。雨風はしのげたからよかったですけど。

何歳ぐらいまでテント小屋で暮らしましたか?

小学校卒業するぐらいまで。僕らテントの上から滑り台やって遊んだけどね。

他にはどんなことやって遊んでいましたか?

僕らの家の後ろに、直径7~8メートルぐらいのすり鉢状の艦砲穴(かんぽうあな)があって、プールみたいにして泳いでた。あとは、メンコやビー玉遊びなんか。

艦砲穴に水が溜まっていたんですね。

そう。艦砲穴で、そこらじゅうあばただらけさ。徹底的にやられてるんですから。

戦争が終わって、いつ小学校に入学されましたか?

学校は始まってはいたんですけど、僕は2年生ぐらいからしか覚えがないんですよ。校舎がないから、ガジュマルの木の下で授業しました。机も椅子もないよ。教科書もないから、1日交代で1冊の本を親に写本させよったんですよ。写本で勉強しました。

戦中は幼稚園児ですから軍国教育は受けてないですね。

軍歌ばっかし教えられた。いまでもわかるよ。

(歌う)〽亜細亜の子供は いざ戦わん 長い途轍で絶え間なく 楽しい道を苦しめた 敵はアメリカやイギリス いまぞ掘り起こすときがきた~

というのがあったんですね。まだあるよ。

(歌う)〽空襲警報聞こえてきたら いまは僕たち小さいから 大人の言うことよく聞いて 慌てないで騒がないで落ち着いて さあ入ってみましょう防空壕~

なんだか凄い歌ですね。

いくらでもあるよ。

(歌う)〽あれよ 向こうをご覧なさい 向こうに見ゆる軍艦は 戦闘艦に巡洋艦 続いて潜水 駆逐艦~

(歌う)〽僕は軍人大好きよ いまに大きくなったなら 勲章付けて剣下げて お馬に乗ってハイドウドウ~

当時、大きくなったら何になりたいとかありましたか?

ないですね。

国吉さん、歌お上手ですね。

今日は声がかすれてる。

幼稚園児にそんな歌を教えていたんですか。

もう徹底的に軍歌ばっかし。いっぱいあるよ。戦後、小学校で教えられた歌は全然覚えがない。どんなの教えられたかわからない。

小学生のころはどんな子供でしたか?

やんちゃで勉強嫌いだった。

食べ物はいつごろからよくなりましたか?

中学生のころから、ごはんが食べられるようになりました。ごはんちゅうてもビルマ米でしたけどね。ネズミの糞とか石ころとかがいっぱい入ってたから、のけるのが大変でした。でも、美味しかったですよ。

中学校のころの思い出とかありますか?

思い出ゆうよりも、僕らの中学校のころは学生服なんてないから、アメリカさんからの払い下げを姉が着たのの、そのまたおさがりを着て学校に行ってました。靴は底に穴が開いたのをおやじに貰って履いてました。

まわりの子たちもみんなそういう状態だった。

そうそう。全部。

高校もこのあたりですか?

いや、中部にある私立高校に行きました。バスで通ってましたね。

私立は学費が高かったんじゃないですか?

僕は新聞配達してたから、親にお金貰わないで自分でやってました。離島から来ている生徒がいっぱいおるんです。粟国島、南大東島、北大東島とか、高校ないからね。みんな親からの仕送りで苦労してました。僕はアルバイトやってたから。新聞配達を8年ぐらい。中学のときはこのへんで新聞配達して、高校は中部、普天間わかるでしょ、普天間基地がある。あの近くに住んでいたんです。アメリカーのハウジング(米軍住宅)に新聞配ってた。配達だけやってたら安いけど、集金もやってたからちょっと高く貰えたんです。学費に十分足りてました。それで高校出たら沖縄国際大学行ったんですけど。

当時の普天間はどんな感じでしたか? 風景とか。

見渡すかぎり十字架が立っていたのを覚えてる。沖縄戦でアメリカの兵隊も12,000名ぐらい死んでるから。

そこはいま、基地のなかですか?

そうです。

戦後、初めて壕のなかで遺骨を見られたのはいつですか?

小学校5年か6年ぐらいだね。壕探検やりよったんですよ、女の子も男の子も。そこらじゅう何百箇所も壕があったから。各家庭どこにもあった。懐中電灯なんてないから、それぞれが小さな瓶に石油入れて芯に火を灯して。ある日、大きな壕に入ったとき、つまずいて転んだんです。大きな石につまずいたのかと思ったら、人が横たわったままミイラ化していました。遺骨じゃなくて遺体だった。女の人は着物で、男は軍服着た人も民間人の服装した人もおりました。

戦後間もないから、白骨化していない遺体が残っていたんですね。小学校5~6年というと1950~51年でしょうか。

そんなもんでしょう。

怖かったでしょうね。

全然怖くない。それまでたくさん死んだ人を見てるでしょう。

収骨を始められたときのことを話していただけますか。

高校を卒業してから同級生5~6名で収骨に行ったんですよね。小学生のときの壕探検で、どこの壕にたくさん遺骨が転がっているか覚えていたから、始めてみようと相談して。あの時代、沖縄は日本じゃないから、琉球政府だったんですよ。壕の入り口近くに遺骨を集めて、南方連絡事務所* ちゅうとこに電話して回収してもらっていた。

いまみたいに収骨した人が持っていくわけじゃないんですか。

いっぱい転がってるから持っていけなかった。どこの壕でも掘らなくても50体とか100体とか転がってた。

当時、一緒に収骨していた人たちとはどうなりましたか?

5~6年一緒にやって、そのあとみんなやめて。いまでもたまに飲んだりはしてるんですけどね。亡くなった人もおるし、杖つかないと歩けない人もいる。

それからずっとひとりで収骨しているんですね。

そうそう。いままで3,800柱ぐらい出した。100名束になっても勝てないさ(笑)。年がら年中やってるの、僕ひとりだからね。

国吉さんは、どんな思いで遺骨を掘っているんですか?

だからね、「明るいところに出してあげるからね」と独り言を喋りながらやってるんです。「僕がやらないと、あんた土に還ってしまうから」と。今日行った白梅壕だって、昔は何十人も出てきよったんだから。35年ぐらいずっとやってるけど、まだまだ出し切れないです。

僕らが一緒のときは国吉さん黙って掘ってるけど、ひとりのときはそうやって語りかけているんですね。

そうそう。大きな壕で掘ってるとき、たまにね、後ろに立ってないかなって振り返るんですよ。わかる?「こっちも掘ってくれ」「俺も掘ってくれ」って呼んでる気がして、振り向いて電灯で照らしたりもする。
昔、家に16体の遺骨を置いていたことがあるんです。そしたら、夜中に寝ていると、遺骨があるほうからガサガサ音がするんですね。ゴキブリもいないのに。だから「話したいんなら聞いてあげるから、出てきてから喋んなさい」って言うたことがあるんです。

怖くなかったですか?

怖かったら置けないさ。

60年間ずっと続けてこられて、最初のころと現在では気持ちは同じですか?

そうですけど。いまはなかなか出てこないからね。1週間やっても何も出ないこともあるんです。でも、諦めたら出せなくなるからね。前みたいにどんどん出てくれたら疲れも吹っ飛ぶんです。出ないと疲れる。
糸満の新垣部落の野戦病院壕は、2年半かかりました。出入り口が2つあって、なかがロータリーみたいになってる。朝8時半ごろ入って、遺骨も遺留品もいっぱい出てくるもんだから夢中で掘って、終わろうと思って外に出たら暗くなってるんですね。遺留品は軍刀や鉄砲、野戦病院だから薬品も出てきた。夜になっても気づかないです。

いまよりも長時間掘ってたんですね。いまは朝8時ぐらいに家を出て、午後1時ぐらいには掘り終えて。

そうですね。遺骨がたくさん出るところでは午後2時か3時までやるけど。もうほとんど出なくなりました。やり尽くしたから。

で、家に帰って、お酒を飲んで。

そう。まだ明るいときから飲むから、コレ(小指を立てる)に怒られる。だから、すぐ寝るわけよ。そのあと、2次会、3次会するときもある。

と言っても。家でひとり飲んでいるんですよね。

そうそう。3次会は夜中の1時ぐらいから。

あんまり寝てないですねぇ。

僕は毎日、夜中の3時15分に起きてる。なんでかわからんでしょう? 新聞3紙とってるの。(沖縄)タイムス、(琉球)新報、赤旗。タイムスが3時15分、新報が4時、赤旗が5時ぐらいに配達される。新聞来るのが待ち遠しい。3つ全部読むからね。そしたら、朝になってしまう。

いつごはん食べてるんですか?

食べない。晩酌しながら、刺身とかおかずだけ少し。朝昼食べなくなって6年ぐらいになるんだよ。

国吉さんの好物はなんでしたっけ?

山羊だな。ヒージャーがいちばん好きだ。嫌いな人は臭いっちゅうわけさ。僕はいい匂いなの。

これまで3,800柱収骨されたなかには、沖縄の住民の骨と日本兵の骨の他に、米兵の骨もありましたか?

1体だけアメリカさんだったな。いまから40年以上前、糸満街道のとこの丘の上で掘った。持ち物でアメリカさんてわかった。鉄兜や靴や認識票があったからね。認識票はステンなんです。

ステンレス製だから残るんですね。

そうそうそう。光ってんの。

国吉さんは、遺骨が沖縄の人でも日本兵でも米兵でも分け隔てしないんですね。

関係ない。でも、何回も怒られたよ。

誰にですか?

今日行った白梅壕の近くの住民にも。5~6年前よ。「兄さん何してんの?」「遺骨収集やってる」「バカモノ! ここはジャパニーに壕追い出されて5名亡くなったんだよ。こんなことするな」って。日本兵に壕から追い出されてね、家族5名も亡くなったから、怒られたわけさ。こんなされたんだよ(胸ぐらを摑まれる身振り)、おじいに。僕よりおじいがよ(笑)。

そのとき、どんなお気持ちでした?

いや、べつに。そのときも、おじいが行ってから続けたんだけどね。

遺族に遺骨や遺留品を返せたことはありますか?

40~50件ぐらい返したこことあるよ。亡くなった方のお姉さんと弟さんと妹さんが、僕のところに引き取りに来られたことがある。万年筆と双眼鏡と進軍ラッパが出て、フルネームが書いてあったから返せたわけです。遺骨も返してあげられた。壕のなかにも案内できた。そういうのが最高ですね。

壕探検をしていた小学生のころ、収骨を始めたころから、沖縄はずいぶん様変わりしたでしょう。

うん。いまは、危ないからっちゅうことでね、役所がコンクリーで壕の入り口を塞いで入れないようにしている。塞がなかったら入って、穴掘りできるんだけど。

入りたいですよね。

うん、入りたい。

いま遺骨収集するうえで、困っていることってありますか?

困ってるっていうほどでもないけど、地主の許可がないと掘れない。昔は関係なかったし、出してあげたらみんな喜びよったけど、2~3年前からうるさくなった。だから今日も行った白梅壕は来年3月まで、喜屋武の壕も3月まで。

いまの沖縄、いまの日本について、どう思いますか?

琉球政府時代がよかったね。もう、沖縄ばっかしに基地を押しつけて。辺野古につくるんだのに、それを減らすちゅうバカなこと言って、安倍ちゃんは。普天間飛行場の代わりを本土に持っていったらいいのに。辺野古は、きれいな珊瑚礁があって、世界遺産になるぐらいの海です。青い海殺して埋め立てて、アメリカに提供して、何百年返らない(返還されない)ですよ。前の知事が、あれもバカ。この飛行場は返ったら沖縄の財産になるって、そんな言い方して許可して、それで安倍ちゃんが強制的につくろうとしてるんですね。

仲井眞前知事ですね。沖縄の人はみんな怒ってますか?

怒ってるよ。だからね、安倍ちゃんがまた戦争しでかそうとしてるでしょ。自衛隊を海外に派遣するって言ってるでしょ。必ず死人が出ますよ。イラクに派遣したときは、道路つくったり、いろいろ工事なんかもやってあげたんだけど、今度の条件で海外に派遣したらダメですよ。

集団的自衛権。

そう。ゲリラなんかは洞窟とかに隠れてるから、アメリカも手をつけられない。爆撃では殺すことできない。自衛隊なんかが行ったら殺されるよ。

これは他の方にも聞いている質問なんですが、もし戦争がなかったら、国吉さんはどんな人生を歩んでいたと思いますか?

そんなことわからないね。

そうですか(笑)。これまで一緒に穴掘りさせてもらって、お酒も何度か飲みましたけど、ちゃんとお話聞いたことなかったですよね。今日はあらためて聞けてよかったです。

あぁ、そうね。こっちカラオケもあるよ、歌いますか? 僕もみなさんに聞かせてみようね。

取材後記 国吉さんのこと

text by 亀山亮

南国特有の肌にギリギリと差し込むような日差しのなか、国吉さんはヘルメットにヘッドランプ、雨合羽とゴム手袋、長靴の完全装備で、真っ暗な穴の奥へと進んでいく。
ほとんど何も喋らない国吉さんに気圧されながら、遅れまいとカメラを担いであとを追う。
沖縄県民の4人に1人が犠牲になったとされる沖縄戦。米軍の砲弾に追われた住民の多くが逃げ込んだ先はガマと呼ばれる沖縄独特の自然の洞窟だった。
国吉さんは携帯ラジオをかけ、黙々とライト片手にガマの底を撫でるように掘り進んでいく。
遺骨の破片や遺留品が出てくると国吉さんは手を止めて説明をしてくれる。「獲物」について語るとき、国吉さんは饒舌になる。
70年間、岩のあいだで押しつぶされた頭骨の破片は脆く、土色に染まっていた。子供のものか大人のものかさえわからない小さなかけらを手に乗せ、ライトに照らしながら見入っている。
尖った岩の先端からから落ちてくる水滴。皮膚にまとわりつく暑さと湿気。救いようのない闇のなかで、彼らはどのような最期を迎えたのだろうかと想像する。
米軍に追い詰められた日本軍が暴走すると同時に、人々に植え付けられた皇民化教育が圧縮、暴発し、ガマでは集団自決など極限の地獄が繰り広げられた。
時折こちらを見る国吉さんの強い視線に、60年間、誰に頼まれることもなく、ひとり孤独に闇のなかで遺骨を探し求め、掘り続ける男の狂気のようなものを感じる。
どうして掘り続けるのか。いまの沖縄をどう思っているのか──。知りたいと思っても、国吉さんは多くを語らない。それなら、沖縄滞在中はなるべく一緒に時間を過ごし、そのなかで自分が感じていけばいいのかもしれないと思った。
戦争の体験者が亡くなっていくなか、物言わぬ遺骨だけが沖縄での戦争の事実を永遠に突きつけるのかもしれない。
誰にもなびかない、どこか超然とした国吉さんの人柄にも惹かれた。
好物はなんですか? と尋ねると「ヒージャー」と返ってきた。「もう何年も食べてないさー」と言う国吉さんと、国際通りから裏道に入った、以前は赤線地帯だったという桜坂にあるヤギ料理店に行った。
国吉さんは父の日に息子さんから貰ったというおしゃれな帽子を被り、オリオンビールを飲みながら、旨そうにヤギの刺身をつまんでいる。健康のため、食事は1日1回と決めているそうだ。
狭くて暑い店内、扇風機が何台もまわっている。「エアコンが壊れて暑くてごめんねー」とひとり忙しく切り盛りするママが言うと、「この店は何十年も前から冷房なんてないよ」と国吉さんはいたずらっぽく呟く。
那覇の再開発で風景が激変していくなか、この界隈だけが昔ながらの沖縄を感じさせている。
ママの母親と思われるおばあがやってきて「暑いねー」と声をかけ、沖縄の塩煎餅をくれた。
塩味が絶妙な煎餅を食べていると、突然、奥でママとおばあが喧嘩を始めた。ママが何事か叫び、ドンドンと壁が鳴り、店全体が軋んでいる。
あまり酷いようなら止めないといけないと思い、国吉さんを見ると、おや? という顔をしながらも我関せずという感じで、「あの親子は奄美出身だよ」とボソッと言う。
「これ飲んだら帰るよ」
少しふらつきながらまだ日が残る路地を歩く国吉さんの後ろ姿に、沖縄人の匂いのようなものを色濃く感じた。
その後、何度か国吉さんとガマに入ったが、とりとめのない会話に終始した。不用意に踏み込むと大事なものを壊してしまうような気がして、多くを聞かないまま時間が過ぎていった。
戦後70年の節目の夏、国吉さんには国内外のメディアの取材が殺到していた。
VICEの動画の取材を数日後に控えた日曜日の午後、約束を忘れているのではと嫌な予感がして、自宅に電話をかけた(国吉さんは携帯を持っていない)。誰も出ないので不安は募り、しつこくかけているとようやく本人が出た。国吉さんはすでに酔っており、案の定「え、なんだっけ?」「そんな先の予定は──」などと言う。もうダメだ。
「15分後にそちらに行きます」と告げて電話を切り、タクシーを飛ばして国吉さんを迎えに行った。
「おっ、早かったな」と呟いて玄関口に出てきたが、珍しくふらふらなので、靴を履くのを手伝う。
国吉さんの30年来の行きつけの飲み屋に行った。お酒を2本注文したらママの手料理がタダで食べられるという、なんだか親しい知人の家で飲んでいるような居心地のいい店だ。
数日前に伊江島で取材した話をすると、国吉さんは島のガマも掘っていたので、ひとしきりその話で盛りあがった。
「これ飲んだら帰るよ」と、いつも通り国吉さんが早めに切りあげようとするので、この店を取材で使わせてほしいと、ママにお願いした。酔った国吉さんの記憶は怪しいが、まわりから固めれば大丈夫だ。
帰りのタクシーのなかで「にいさん、この歌知ってる?」と話しかけ、子供のときに覚えさせられたという軍歌を披露するのが、国吉さんのいつものパターンだ。その日も「にいさん、この歌知ってる?」が始まり、僕は笑いを噛み殺しながら窓越しに夕方の混雑した道を眺め、国吉さんに出会えてよかったなとじんわり思う。
国吉さんの家に着くと、いつもは優しい笑顔を見せてくれる奥さんがホースでアスファルトに水を撒きながら仁王立ちで僕たちを見ていた。しまったと思ったがもう遅い。
インタビューの日、国吉さんの心のなかを初めて聞いた気がした。

後日、ガマに一緒に入るとき、「この前のインタビューで国吉さんが沖縄について何を感じているのか知れてよかった」と言うと、国吉さんは「そうね」と少しはにかんだような顔をした。そして言った。「80になったらもう穴掘りはやめるさー」
作業を終え、汗と泥でドロドロになった服を着替えて帰り仕度をしていると「来年もまた一緒に穴掘ろうな」と言う。
来年、また沖縄に来ることができるだろうか。蝉の声が響くなか、国吉さんの言葉を反芻していると、子供のころに遊ぶ約束をしたときのような、なんだか懐かしい気分になった。