29年前、私が一歳だったころ、キエフから約100キロ離れた、ウクライナの小さな町、プリピャチで両親と暮らしていた。こんなありふれた話、私の町がチェルノブイリ原子力発電所から、たったの3キロちょっとしか離れていないところじゃなかったら、どうでもいいことだ。さらにどうでもよくないことに、私の父はエンジニアとして、原子炉の1つを動かしていた。
当時、プリピャチに住む人の平均年齢は約26歳だった。動作試験時に4号炉が爆発し、空中に高濃度の放射性物質が放出された後、そこに住む約5万人は36時間以内に逃げなくてはならなかった。今日に至るまで、最悪の原発事故だ。
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数千人のご近所さんがそうだったように、この大事故は私の人生を変えた。私だけでなく、父コンスタンチンの人生も。ご近所さんの多くは多量の放射線に曝されたせいで今日まで生きることができなかった。
写真家、ゲルト・ラドウィッグの新刊『The Long Shadow of Chernobyl 』(Edition Lammerhuber, 2014)は、彼が20年の間、立入禁止区域を9回も訪れ写真を撮り続けた結果だ。幸運にも、彼と、写真について言葉を交わす機会に恵まれた上に、立入禁止区域での、お互いの経験譚まで共有することができた。
あなたの作品は旧ソ連邦の国々を扱うことが多いようですが、それはどうしてですか。
始まりは、まだ若い頃です。第二次世界大戦中、父はドイツ陸軍に徴兵され、ソ連と戦いました。父はスターリングラードで従軍していたようです。帰還後、父は子守唄替わりに、その時の経験を話してくれました。物心がついた頃には、父に質問するようになりました。父の説明は不充分でしたが、ロシアを始め、旧ソビエト連邦だった国々に対し、信じられないほどの罪深い意識を抱えながら育ちました。そんな気持ちから、雑誌『Geo Magazine』用に初めてロシアで写真を撮ったとき、ロシアに対して批判的な写真は撮れませんでした。ロシアはドイツの侵略によって恐ろしいほど苦しんだのですから。
なぜチェルノブイリの写真を撮り始めたのですか。
私の2番目の大きな仕事はナショナルジオ・グラフィックでした。1993年のことです。ソ連崩壊後に独立した国々の汚染が取材対象でした。その仕事以後、私はチェルノブイリを撮る必要性を感じたんです。些細な仕事でしたが、最後にはそれ自体でストーリーになりました。私は、チェルノブイリに興味を抱き、いずれそこに戻るであろうことを予感していました。 11年前の話です。私は、2005年、2011年、2013年にチェルノブイリを訪れ、長い時間を過ごしました。犠牲者たち、ゴーストタウンになったプリピャチ、立ち入り禁止区域、原子炉そのもの、ベラルーシとウクライナのフォールアウトに脅かされたエリアを撮影しました。
私もチェルノブイリで、オリジナル・ストーリを何度か撮影しています。事故は劇的に私たちの生活を変化させたんです。私のすべての欲望や情熱は、チェルノブイリの廃墟から生まれました。もし事故がなければ私の人生はどうなっていただろう、と考えることもあります。私は今でもそこに住み、夫と子供たちに囲まれ、原子物理学者になっていたかも知れません。
事故が起こったとき、あなたはそこにいたのですか。
はい。私はプリピャチに住み、父は2号炉を運転していました。事故の夜、父は遅番でした。父の友達は4号炉のコントロール・ルームで働いていました。状況の修復のため、友達が駆けずり回っていた、と父は教えてくれました。結局、何もできなかったのですが。父はシフトを終えて帰宅すると、窓を閉めて部屋から出ないように、と母に指示しました。守秘義務にサインしていましたから、なぜかは説明しなかったようです。翌日、母の警告を無視して友達がビーチに行ってしまったことを、母からよく聞かされました。当局は危険を隠していたのでしょう。
最初に入ったとき怖くはなかったですか? リスクを心配しなかったのですか?
最初の旅は相当な準備をしました。 4週間余りの調査でしたから、ケースいっぱいの防護装備を持参しました。ガイガーカウンター、ガスマスク、線量計、靴カバー、防護服。しかし、いざチェルノブイリに着くと関係者に、防護服は着ないでくれ、と要求されました。防護服なしに働いてる人たちを怖がらせたくない、という配慮からでした。プリピャチの墓地など、訪れた地域はかなり汚染されていましたが、帰還者の家を訪れる場合は何の防護装備も身につけませんでした。写真家としてきわどいラインにいる以上、協力者なしには仕事にならないので、チェルノブイリの汚染地域では、すべてそこで生産された卵、魚、ジャガイモを食べました。かなり考えはしましたが、あまり怖くはありませんでした。
いい写真を撮る、ということはそこまでのリスクに値するのでしょうか?
われわれジャーナリストは、無辜の犠牲者に代わって、彼らのストーリーを世に問うためには危険を冒さざるを得ません。食べたり、飲んだり、彼らと時間をともに過ごして初めて、彼らの痛みを知り、魂の一端を垣間見ることができるんです。
敵意を持った人と会うこともありましたか?
人はどこにいても、敵意を持った人に出会うことがあるでしょう。私が撮った人たちは理解を示してくれました。ナショナル・ジオグラフィックの撮影は、数時間もありませんでした。カメラマンとして、現地の生活に入らないよう気を付けました。まず、一人の人間として、現地で生活する人々に接します。きちんと話もせずに、こころは開いてもらえません。そんなステップを踏んで、はじめてカメラを取り出せるんです。人が自らの物語を他人と共有しようとすると、人は英雄的な心境になります。苦しむ人たちにカメラを向けるのであれば、そこに気を遣わなければなりません。ほんの一瞬ですが、彼らの記憶にある痛みを、もっと強いものにします。
放射線の影響による身体的障害をたくさん撮っていますね。障害を持った子供たちの写真には、心底いろいろ考えさせられました。
チェルノブイリ事故の、放射線と放射線障害の因果関係は、科学者たちのあいだでもさまざまな議論が繰り広げられています。しかし、議論の余地のない統計もあります。白血病、ガンなどは、放射線の影響が無いエリアに比べ、とても発生率が高いのです。ゴメリは、災害の影響を強く受けたベラルーシの南にある町なのです。その地域から来た若い女性たちに会いました。彼女たちは極端に将来、五体満足の子供が産めるか否かを心配していました。恐れやストレスだけでも健康に害があります。ソ連邦が残した負の遺産です。西欧諸国の親御さんに比べて、ベラルーシの障害を持った子供たちの親御さんは、子供たちを育てることに消極的です。ベラルーシ政府はチェルノブイリ事故の影響を、本当に軽んじています。特に、発育障害の発生については、その傾向が著しい。この問題を指摘するごくわずかな人たちは、障害の増加と放射能の因果関係を確信しているようです。
立入禁止区域の中で最も印象的だった経験は。
2005年、他の西欧の写真家が潜入したことのない、4号炉のもっと奥まで、危険を犯しつつ進むことができました。労働者たちが一日15分しか作業することを許されていないエリアを撮影しました。もちろん、防護服着用でしたが、信じられない量のアドレナリンが分泌されました。2013年には、再び原子炉に戻り、以前より奥まで進むことができました。内部の暗い通路の奥深く、案内してくれた技術者は苦労して重い金属製のドアを開けてくれたのです。
彼が私を引き戻すまで、数回しかシャッターを押せませんでした。その数回の中で、偶然にも、壁にかかった時計を撮ることができました。それは午前1時23分で止まったままでした。原子炉が爆発した瞬間です。チェルノブイリの時間は、永遠にそこで止まっているのでしょう。
あなたは核エネルギーについて何を感じているのですか。写真を通じて人々に何を伝えたいのですか。
自分自身にラベル貼りたくありませんし、反核バッチをジャケットにつけて歩き回るつもりはありません。人は安直に判断して、偏見に満ちた眼差しを私に投げかけます。ですから、写真に語らせたいのです。見たものを撮り、見る人それぞれの結論を描いてもらいたい。ただ、私の写真を見たら、核エネルギーを安全だとは思わないはずです。
これからもチェルノブイリを撮り続けるんですか。それとも、もう撮らないのでしょうか。福島はどうですか。
福島に行こうとは思っていません。原発の惨事そのものを追ってはいるわけではないので。ただ事故後30年を記念してチェルノブイリの本をもう一冊出版できれば、と考えています。小さな静物のコレクションになる予定です。私は自分の仕事が終わったとは思っていません。この本『The Long Shadow of Chernobyl』は一休みであり、過去を振り返り、未来を展望するための、ちょっとした休憩みたいなものだと思っています。