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刑務所食事情 マレーシアの場合

刑務所の食事といえば、とても食べものとは思えない代物ばかり。しかし、カムンティン拘置所の料理はひと味違った。
刑務所の食事といえば、とても食べものとは思えない代物ばかり。しかし、カムンティン拘置所の料理はひと味違った。
Illustration by Farraz Tandjoeng

マレーシア人にとって、美味しい食事と自由は、生まれながらに与えられた権利だ。

ふた切れのパンに加工肉を数枚挟んだだけで、まともな料理と呼ぶのはやめよう。私たちは、いつどこにいようと、丹精こめてつくられたカレーやルンダン(付け合わせは10以上の香辛料と副菜)を求め、それを味わう権利がある。もちろん、価格もリーズナブルだとありがたい。

自由市民である私たちは、当たり前にように、美味しい料理と自由のすばらしい組み合わせに酔いしれている。しかし、なかには自由を求める闘いのなかで、その両方を奪われる人びともいる。政治犯だ。

これは、マレーシアのモハマド・サブ(Mohamad Sabu)国防大臣にとっても馴染み深い体験だ。20年前、反キリスト教感情を煽ったとして国家の敵とみなされたサブ国防大臣は、警察の狭い留置所から悪名高いカムンティン拘置所(Kamunting Detention Center)まで、あらゆる拘留施設の食事を食べ尽くしてきた。

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「カムンティンの食事でもカロリー摂取はできますが、満足感は得られません」とサブ国防大臣は打ち明けた。「警察の留置所よりは少しだけマシでしたが」

1987年のオペレーション・ララン(もしくは〈草刈り作戦〉。民族対立を防ぐという名目のもと、多数の政治家が一斉検挙された)の逮捕者のひとり、サブ国防大臣は、裁判もされず60日間拘留されたといわれている。その後、拘留期間はさらに2年延長され、彼はカムンティン拘置所に収監されることとなった。

カムンティンに収監されるのは、1960年の国内治安法制定(1度目はマレーシア国内でイラン革命を企てたとして逮捕された)以来2度目だった彼は、国が全力をもって下す制裁の実態をよく理解していた。

「毎日、魚も牛肉も鶏肉も出ません」とサブ国防大臣。「でも、刑務所の食事に予算が割り当てられていることは、みんな知っています」

2013年に公開され注目を集めた、サブ国防大臣と同じく元政治犯のリム・グアンエン(Lim Guan Eng)財務大臣の対談映像で、ふたりは、拘置所での思い出や、サブ国防大臣が他の収監者に振る舞ったフィッシュヘッド・カレーを、笑いも交えつつ楽しげに振り返っているようにみえる。しかし、彼らが逮捕された理由、そして彼らの不当な収監による影響は、笑いにはほど遠い。

オペレーション・ラランは、マレーシア史上最も重大な人権侵害とされている。1987年10月〜11月の一斉逮捕で、100人を超える政治家、市民団体の指導者、活動家が「国内の治安を脅かした」として「取り除かれ」た。うち40人は裁判もされず、カムンティン拘置所に最長2年拘留され、最後の拘留者が釈放されたのは、1989年4月だった。

彼らを逮捕した直後、政府は食事を通して、拘留者の人間的な生活を奪った。

マレーシア警察特別捜査局による取り調べと、独房で過ごす時間の合間に、拘留者たちにはいわゆる〈留置所食〉が支給された。朝食は、糖尿病になりそうなほど砂糖の入った薄い紅茶かコーヒー、そして硬くなったパンだ。

昼食と夕食も、米と怪しげな肉や野菜という粗末な内容だった。国連の〈被拘禁者処遇最低基準規則(Standard Minimum Rules for the Treatment of Prisoners)〉では、全ての被拘禁者は「健康・体力を保ちうる栄養価を持ち、衛生的な品質で、かつ、上手に調理、配膳された食事」をする権利がある、と定められているにもかかわらず。

別の拘留者で、活動家のクア・キア・スーン(Kua Kia Soong)博士の著書『445 Days Under Operation Lalang: An Account of the 1987 ISA Detentions』によると、彼の2.4メートル×2.8メートルの独房に届けられる朝食は、コーヒーや紅茶を装ったぬるい「香りつきの泥水」と、飲みこみづらい6切れの白パンだったという。

「連中は、マーガリンやジャムを人間業とは思えないほど薄く塗るスペシャリストを雇ったに違いない」と彼は記している。

マレーシアの刑務所にまつわるあらゆる逸話の大半は、そこで提供される食事が占めている。食べものが有する政治的意味が殊更大きいのも、ここマレーシアだろう。

マレーシアの歴代政権は、国民の反発を招くことなく被拘禁者に罰と屈辱を与える手段として、食べものを利用してきた、と説明するのは、ノッティンガム大学(Nottingham University)准教授で、『Eating Together: Food, Space and Identity in Malaysia and Singapore』を上梓したゲイク・チェン・クー(Gaik Cheng Khoo)だ。

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「拘留者は、収監されたら基本的人権を剥奪されるも同然で、彼らの人権が侵害されているかどうかなんて、誰も気にしません」とクー准教授。「拘留者には、虐待や暴行を告発する場所も手段もなく、汚名を着せられた彼らの訴えが、当局や世間の人びとに真剣に受け止められることもありませんでした」

しかし、カムンティン拘置所は違った。

まず、カムンティンの生活環境は、少なくとも国内の他の拘留施設に比べれば良いほうで、刑務所と同レベルだった。拘留者にはまともな部屋が与えられ、ちゃんとしたトイレも使える。別の拘置所の小さな独房で、わずかな通気孔の隙間から空をひと目拝もうと必死だった60日を思えば、カムンティン拘置所の庭や空の眺めは、待ち望んでいた救済のようだった、とクアは記している。

さらに、行動は制限されていたものの、カムンティン拘置所には、仲間との絆、人種を越えた友情、そして20年忘れられない極上のフィッシュヘッド・カレーがあった。

カムンティン拘置所で友情を育んだ男たちは、本来ならば、控えめにいっても有刺鉄線のフェンス越しに視線を合わせることもなかっただろう。しかし、収監1年を記念して実施された1週間にわたるハンガーストライキでは、彼らは飢えをものともせず、共に歌い、抗議し、互いに支え合った。

拘置者たちは、互いの好きな料理のレシピを教え合ったりもしていた。

当時、拘置所で料理を担当していたサブ国防大臣は、他の収監者たちからレシピを仕入れていたという。彼らの抗議のあと、 収監者に提供される食事は大幅に改善されたそうだ。

「カレーをつくるなら、インド系の収監者に訊きました」とサブ国防大臣。「中国料理なら、元民主行動党党員のロウ・ダッキー(Lau Dak Kee)。ケランタン(Kelantan)州の料理にも詳しい人がいました。みんな私の料理の腕を認めてくれていた。〈秘伝のレシピ〉なんてものはなかったんです」