120Rに及ぶ遺恨試合の末に死んだボクサー

アメリカのボクシング人気は19世紀初頭に始まった。それは1816年のジェイコブ・ハイヤー(Jacob Hyer)vs. トム・ビーズリー(Tom Beasley)戦に遡る。現代ボクシング・ルールの基礎となるクインズベリー・ルール* を遵守させる公式の管理機関は設立されていなかったが、その試合には新しいルールを守ろうとする「努力の姿勢」があったようだ。当時のボクシング熱の中心はニューヨークで、あらゆる選手たちが、爆発的に増えたボクシングジムでのトレーニング、スパーリングに勤しんでいた。1820年代には、上流階級も労働階級も関係なく、男たちはボクシングを愛好していたが、当初イギリスで謳われていた「男の護身術を紳士的に習得するためのボクシング」は、ジェイコブ・ハイヤー vs. トム・ビーズリー戦からたった10年で終焉し、アメリカにおけるボクシングは、暴力的な見世物、と批難されるようになった。以下は、1826年の『New York Post』紙への投書である。

* 19世紀のイギリスで始まったグローブ着用などを義務づけた現在のボクシングの基礎となるルール。

「このような行為は乱暴であり、忌々しい。こんなスポーツを容認しているのは、国家にとっても不名誉だ。賛成する者は『護身術』だというが、実際は恐るべき暴力の行使、あるいは殺人でしかない」

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この投書はあまりに誇張が過ぎるような気もするが、ボクシングのリアルな危険性は、1842年のトーマス・マッコイ(Thomas McCoy)vs. クリストファー・リリー(Christopher Lilly)戦で顯わになった。当時、アメリカのボクシングには、ルールと呼べるようなルールはなく、試合は何十、ときには何百ラウンドにも及んだ。マッコイ VS. リリー戦は120ラウンドに及び、マッコイは80打以上のダイレクトブローを受けてダウン。そして死亡した。検死の結果、マッコイの肺は液体に浸されていた。つまり、自らの血液に溺れ死んだのが明らかになった。アメリカのボクシング界は、この恐ろしい死をきっかけに、新たな道を拓いたのである。

試合前

試合当日の1842年9月13日、クリストファー・リリーとトーマス・マッコイは、ニューヨークのバワリーで顔を合わせた。実はこの試合は、「遺恨試合」でもあった。というのも、その数週間前、リリーがマッコイに挑戦状を叩きつけたが断わられ、怒ったリリーがマッコイを殴る、という事件が起きたのだ。スポーツマン・シップを欠いたリリーの振る舞いをきっかけに、両者は試合での決着に同意。ボクシングの正当なマナー通り、マッコイもリリーも当代きってのボクシング・コーチの下でトレーニングを積んでいた。

ある記者がニューヨークの『Spirit of the Times』紙に、この試合の記事を寄稿した。プロボクサーの人生と、彼の痛ましい死についての秀逸なボクシング記事であった。この記者は、試合当日、トーマス・マッコイの家を訪ね、彼が飼い犬と遊ぶ姿、仲間たちとジョークを交わす姿、応援の言葉をかけてくれた近所のアイルランド系女性たちに、丁寧にお礼をいう姿を見た。もしかしたら誇張かもしれないし、あるいは奇妙な啓示があったのかもしれないが、マッコイは「勝つか、死ぬかだ」と言明したらしい。試合会場は、ニューヨーク州ウエストチェスター郡、ヘイスティングス・ランディング。1500人以上の観客が仮設アリーナに集まった。その会場は草だらけで、ほぼ平坦だった、と表現されている。

クリストファー・リリーは、当時23歳だった。20歳のマッコイよりも数センチ背が高く、体重は約63.5キロ。約62キロのマッコイに比べると、リリーのリーチは明らかに有利だった。2人の若者は向かい合い、コイントスでコーナーを決めた。そこではマッコイが勝ち、やや高くなっているコーナーを選んだが、逆にそのために、陽射しにより視界が遮られてしまった。そして両者は、勝者への賞金となる100ドルを献上。つまり、トーマス・マッコイは100ドルのために命を落としたのだ。

試合開始

午後1時きっかりに、1ラウンドが始まった。両者ともパンチが決まり、マッコイの耳は既に流血していたが、リリーをダウンさせる。しかしリリーは無傷で立ち上がり、笑顔で自分のコーナーに戻ったマッコイを逆に嘲笑していた。『Spirit of the Times』に掲載された記事には、120ラウンドの詳細が記されている。ほぼ毎ラウンド、2人のどちらかがダウンしたが、アメリカでクインズベリー・ルールが制度化される、そうでなくともルールが「守られる」前に行われた試合だったので、投げ技は容認され、エイトカウントシステムもなければ、ダウンの回数にも制限がなかった。試合序盤は両者互角とみられていた。

「8ラウンド。リリーが鋭いブローをマッコイの顔に入れると、そこから怒涛の連打がマッコイを襲う。マッコイも距離を詰めた。厳しい打ち合いのあと、マッコイはリリーを投げ飛ばそうとした。しかしリリーはその際にマッコイを巻き込み、彼を下敷きにして激しく倒れ込んだ」

「28ラウンド。リリーは落ち着いており、用心深かった。逆にマッコイは興奮しており、セコンドが『落ち着け』という隙も無いほど、殺気立っていた。リリーがマッコイの首あたりに、3発のきついブローを立て続けに見舞った。客席全体に潰れたような音がした。恐れ知らずのマッコイは、思い切って距離を詰め、2〜3発を当てるものの、逆に投げ技を決められてしまった」

30ラウンドまでに、マッコイは鼻からひどい流血をし、さらに片目が腫れあがっていた。一方のリリーはアザひとつなく、マッコイにブローを見舞い続ける。マッコイは空振りも多くなり、自ら転ぶようになった。しかしマッコイはダウンしない。35ラウンドでマッコイは、血にまみれた自分の顔を指し、「なんでここを殴らないんだ?」とリリーを挑発した。それにリリーが乗ると、マッコイは復活し、激しいパンチを食らわせた。その威力は大きく、リリーは投げ飛ばされ、その際リングポストに頭を打ち付けた。

2人は1時間以上戦い続け、ラウンドは50を過ぎていた。リリーはそこまで疲弊しているようには見えなかったが、マッコイの流血はひどく、顔はすっかり腫れ、視界はほぼ塞がれていた。それでも少し回復した54ラウンド、リリーをヒップトスで頭から投げ飛ばした。しかし、彼の復活も長くは続かず、70Rまでにはリングの中をよろめき、吐いた血が自身の胸にかかっていた。観客席からは、「彼を下ろしてやれ!」とマッコイ陣営のコーナーに叫ぶ声も聞こえていたが、勇猛な(あるいは愚かな)マッコイは、根気強く戦い続けた。そして2人は消耗戦を続けた。リリーが何度もパンチや投げ技を繰り出し、マッコイは攻撃を仕掛けるよりも受けるほうが多かった。88ラウンド、試合開始から既に2時間。観客は試合を終わらせるよう要求し始めた。「やめろ、やめろ!」「死ぬまで殴るのか!」その叫びが「予言」になるとは、誰ひとりとして知らなかった。

試合が経過するにつれ、マッコイは自身のコーナーで立ち尽くすようになる。リリーは何度もマッコイを倒した。観客は「頼むからマッコイをリングから下ろせ!」と叫んでいた。しかし、それでもマッコイは戦う姿勢を見せ、数ラウンドに1度はリリーに対しパンチや投げ技を繰り出した。間違いなく2人とも疲れ切っていたが、マッコイは体内の大量出血で苦しんでいたはずだ。息も絶え絶えで、血を吐きながらも立ち上がり、何度もリリーに向かっていった。

107ラウンド。やはりマッコイは立ち尽くし、舌を出し、ただ空気を吸っていた。記者は、彼の様子を描写する。儀式で詠まれる詩のようだった。

闘争心こそ雄々しいが
すでに命脈は絶たれ
全ての血管が破裂しようとも
一切苦痛の色を見せなかった

マッコイは、覚束ない足取りでリリーへと向かっていくが、またダウンした。そのとき、彼のコーナーでは、念のため雇われた医師がその様子を見ていたが、明らかに危険な状態なのに何もしなかった。記者はその「人でなし」な医師について、マッコイの死の責任は疑いの余地なくその医師にある、と指摘している。「硬く汚いもじゃもじゃの髪、ブツブツの顔、表情のない濁った目」……記事に描かれている医師の風貌はいかにも卑劣漢だ。118ラウンド、マッコイは再び倒れる。観衆は「彼を助けてやれ!」とマッコイ側のコーナーと医師に罵声を浴びせるが、セコンドは「まだ半分もやられていない」と返しただけだった。しかし、そのたった2ラウンド後、リリーの投げ技を喰らい、そのままリリーの下敷きになったマッコイは、遂にリングの上で動かなくなった。2時間43分の死闘だった。

「彼は仰向けに横たわっていた。顔と首はアザだらけで、原型をとどめず、腫み、腐敗の初期段階にある物体だった。喘ぎ、激しく呼吸するせいで、腫れた唇は口内に深く入りこんでいた。次の瞬間、彼の呼吸が止まった。『死んだ!』。その言葉が周囲に広がっていった」

マッコイの死体は彼の家に運ばれ、検死解剖された。そして検死にあたった医師たちは、彼の両肺が血液で浸された状態になっているのを確認し、窒息死、と断定した。

裁判

アメリカで初めての死亡例となったこの試合に対して怒りの声が噴出した。さらにボクシング反対派は、これを恰好の批難材料にし、法律によるボクシングの禁止を訴えた。1842年11月22日火曜日、クリストファー・リリーと、リリーのセコンド、マッコイのセコンド、そして「人でなし」の医師を含む18名が、殺人の罪で起訴された。ボクシングを禁止する制定法は当時なかったため(しかしその後、法令となった)、罪状は殺人、そして「暴動・乱闘」とされ、たった3時間の審議の結果、陪審員団は被告を有罪と判断。判事はボクシング、そして、そのような不道徳なショーに参加する人間を非難した。ボクシングの観客を「労働もせず、乱暴で、危険で、堕落的で、暴力と犯罪によって生きているような人間の集まり」とさえ断言した。潔癖・厳正を良しとする、ピューリタニズムに端を発するアメリカ合衆国の善良な国民は、トーマス・マッコイの死に恐れ慄き、反道徳的で無法なボクシング・コミュニティを何の躊躇いもなく批難した。

もともとボクシングを批難する反対派はいたが、マッコイの死により、複数の州でボクシング禁止運動が起こった。それは、ボクサーたちを危害から守るため、そしてボクシングに参加する無頼漢のような輩たちから、アメリカ国民を守るためであった。19世紀のボクシングは、現在のボクシングでも総合格闘技でもなかった。当時のボクサーは、頭突きも、投げ技も、踏みつけも、蹴り技も、目潰しも可能であったし、試合をコントロールする本当のレフェリーもいなければ、選手たちの状態をチェックするスタッフもいなかったのだ。マッコイの死とその後の訴訟によって、より安全でマイルドなボクシングへの道が開かれたのは確かだ。そしてその250年後の今、ボクシング人気は不動のものとなっている。

19世紀のアメリカは、英国のボクシングスタイルを見習うべきだった。クインズベリー・ルールを徹底すべきだった。業界の組織化と、選手の安全に対する配慮があれば、「自己防衛のための男の術(すべ)を紳士的に習得するためのボクシング」、もしくは現在のスタイルにもっと早く近づいていたに違いない。