2014年、ロシアのクリミア侵攻以来、エストニア共和国では国防意識が高まっている。2015年、エストニアの民兵組織「エストニア防衛連盟(KAITSELIIT)」への参加志願者は前年度に比べ10%増加した。バルト情勢を懸念するNATOとの連携強化もロシア牽制の一環だ。しかし、国防意識の高まりに対して懸念を抱くエストニア国民もいる。9割をロシア系住民が占める国境の街ナルヴァでは、国内に蔓延する反露感情を危惧する住民もすくなくない。
エストニア国民のさまざまな想い、エストニア防衛連盟の使命、NATOはエストニアでいかなる役割を果たすべきなのか。エストニア各地で住民、連盟関係者、NATO関係者を取材。
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原題:THE RUSSIANS ARE COMING – ESTONIA’S NATIONAL MILITIA (2015)
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13世紀、デンマーク人によるタリン建設以来エストニアは、ドイツ、ポーランド、スウェーデン、ロシア帝国といった大国に翻弄されながらも、1918年2月24日、エストニア共和国として独立を宣言した。第一次世界大戦、ロシア革命に起因する混沌としたバルト情勢のなかエストニアはなんとか独立を保っていたが、1940年、第二次世界大戦中、ソビエト連邦の侵攻を防ぎきれず、同国に占領された結果、エストニア・ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦への編入を余儀なくされた。
ソビエト連邦編入後、社会主義化が進められたが、1980年代に入り、ゴルバチョフ大統領が掲げた「民主主義、平和、ペレストロイカ、加速」のスローガンが浸透するにつれ、エストニアでも自由を求める気運が高まった。1988年、エストニア人民戦線が設立され、翌89年には、エストニアの首都タリン、ラトビアの首都リガ、リトアニアの首都ヴィリニュスを、三国の国民200万人が手と手で繋いだ「バルトの道」で独立への強い意志を表明。その後、1990年5月12日、独立の回復を宣言した。
しかし、ロシア連邦に接するがゆえに、ロシア系住民、国境問題は、独立後もエストニア共和国を悩ませている。2004年、国際社会における自国のポジションを確立すべく、EU、NATOに加入するものの、2007年には、首都タリンでロシア系住民の暴動が発生し、時を同じくして、ロシアからのサイバー攻撃を受ける。その後も関係修復には至らず、2014年、永らくロシアと領有を争っていたエストニア南東部、ロシア連邦と境を接するペツェリを放棄した。
独立後のエストニア・ロシア関係、2014年以来不安定なウクライナ情勢がエストニア世論を刺激した結果、国内の対露警戒ムードはいつになく高まってしまった。エストニア政府と国民の大半は、全人口の四分の一を占めるロシア系住民の不安を余所に、軍事、意識、テクノロジーなどあらゆる分野で国防体制の強化に勤しんでいる。