平和を願い銃を手にした霧の中のゲリラ

ビリヤード場の前にいれば誰かが迎えに来る、と司令官に告げられたが、私たちは2時間遅れで約束の場所に到着した。もう、迎えが来るのかすらもわからなかった。私たちは、その日の午後、夜、そして安宿に泊まり、翌朝も待った。黒い帽子と、きつそうな青いシャツを身にまとい、小さい緑のインコを肩に乗せた女性が、私たちが待つよう指示された売店の前にバイクで現れたのはその時だった。彼女はわれわれを疑いの眼差しで一瞥すると、一言も口にせずに去った。

迎えの合図を見逃さぬよう、インコの女性だけでなく、農家や売店の店員など、視界に入る全てをわれわれは凝視した。そうするのが、コロンビアで最も長い歴史を持つ共産主義ゲリラ組織、コロンビア革命軍(Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)、通称〈FARC〉とわれわれが交わした約束だった。1964年以来、FARCは、共和国政府に闘いを挑み続けており、その結果、少なくとも21万8千の国民が命を落とした。FARCが占領している広大なヤリ平原(Llanos del Yarí)のはずれにあるこの小さな村に来れば、ジャングルにあるテリトリーの中心部に案内してくれる、と彼らは約束してくれた。

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その前日、われわれはコロンビアの首都、ボゴタを出発した。霧で覆われたゆるやかな丘陵地帯を進み続けると、木という木、谷間という谷間に、蛇やホエザルが潜んでいるような気分になった。現在、8000名のメンバーからなるFARCは、この占領地を30年以上にわたって支配してきた。FARC本部への道のりは、進めば進むほど、コロンビアの歴史を旅しているかのようでもあった。寂れた村々は、コロンビア中心部と忘れられた周縁の計り知れない格差を物語っている。二車線あった道路は、徐々にひと気のない泥路になる。ボゴタから離れるにつれてインフラは貧弱になり、旅が終わりに近づく頃、FARCのテリトリーに辿り着く直前には、ゲリラがグラフィティを描いた政府の建造物がちらほら姿を現す。

「武器を持たずに来たのか?」。政府軍の兵士が驚いていた。そこは、アンデス山脈のとある山頂、カケタへの下りが始まる直前に位置する移動分隊の検問所だ。この辺りでは、FARCのテリトリー周辺に、政府軍が幾つもの検問所を設けており、内戦の前線、といったところだ。私たちのトラックの積荷が三脚とカメラだけであるのを確認した兵士は、少しばかりほっとしたようだった。

「戻ったほうがいい」と兵士はいう。「このまま進めば、ゲリラの司令官、エル・パイサ(El Paisa)に出くわすだろう。どんやヤツかわかってるのか? エル・パイサは血に飢えた男で、とにかく和平交渉に反対しているんだ。頼むからこれ以上進むのはやめてくれ」

最終的に、兵士はしぶしぶ通過を許可してくれた。それから2時間後、闇夜の中を私たちがトラックを走らせていると、突然、道の真ん中に佇むひとりの男性がライトに照らされて浮かび上がった。男性は、ライフルの銃口を真っ直ぐわれわれに向けていた。

「ライトを消して降りろ!」。男性は叫んだ。彼は、人民服に身を包んだ若いゲリラだった。彼の両脇には、武装した2人の男たちがいた。

彼らの1人が、「どこから来た?」と叫ぶ。どうやら私たちは、いつの間にかFARCのテリトリーに入り込んでしまったらしい。「18時以降、通行禁止だぞ?」

ドキュメンタリーを収録するためにボゴタから来た、と説明したが、FARCの司令官からテリトリーへの訪問許可を得ている、とは告げなかった。目の前にいるFARC戦闘員が、われわれに許可をくれたFARC司令官と懇意か否かがわからなかったからだ。ひとりの戦闘員が、「どっちから来た?」と詰め寄ってきた。

「ボゴタ、ギラードット、ネイバ…」とコーディネーターが答えた。
「それだけか?」
「それから山頂にある政府軍の検問も通過した…」

沈黙が訪れた。男はわれわれを試していたのだ。政府軍の兵士とのやり取りを説明しなければ、事態はこじれていたかもしれない。

男は、「行け」といった。「ここはダメだ。銃撃、爆撃に巻き込まれる。戻るんだ。夜間通過禁止なのも忘れるな」

私たちは引き返した。少しトラックを走らせ、サン・ビセンテ・デル・カグアンにある政府軍の検問所を通過した。近くのテントでは、政府が発行した指名手配ポスターに描かれたFARC戦闘員32名の顔を、小さい電球が照らしていた。大勢の指名手配者の頂点には、5億ドルの賞金首、エル・パイサの顔写真が掲載されていた。ポスターは、「情報提供者は賞金を手に入れ、皆は待ち望んだ平和を手に入れる」と謳っていた。

ヤリ平原を目指したのは、コロンビア最重要と目されるゲリラに会うためだけではない。コロンビアのフアン・マヌエル・サントス(Juan Manuel Santos)大統領率いる現政権とFARCが、キューバの首都、ハバナでの2年に及ぶ対話を経て、歴史的和平合意成立に向けての最終調整を始めたのも、FARC訪問の理由だ。FARCの代表団は、2015年7月20日、一方的に停戦を宣言した。一方的停戦は、対話が始まって以来4度試みられたが、全て失敗に終わっている。実際に前回の停戦宣言から4ヶ月後の2015年4月、FARC戦闘員が政府陸軍小隊の寝込みを襲撃し、兵士11名の命を奪ったために、停戦が崩壊した。その1ヶ月後には、政府軍が反撃し、ゲリラ26名を殺害した。今回は成功するのだろうか? われわれは確認したかった。

その晩、われわれは、政府軍の検問から数ブロック離れた粗野なホテルに泊まった。翌朝、陽の光のなか、ヤリ平原、そしてFARCの本拠地に続く曲がりくねった泥路に沿って、われわれはトラックを駆った。

われわれは、相変わらず、ビリヤード場の前で迎えを待っていた。その村は、小屋が12軒ほど集まったボロボロのはきだめのような場所で、そのなかには、八百屋、学校、酒屋が1軒ずつあった。FARC司令官のひとりが、迎えをよこす、と約束してくれたが、その迎えはまだ姿を見せず、そこには農民、肩にインコを乗せた例の妙な女がいるだけだった。

ビリヤード場の前に突っ立って見張りを続けて24時間が過ぎ、諦めようとしていた矢先に、人民服の男性がバイクから降り、私たちに声をかけてきた。恐ろしいほど険しい表情を浮かべた男性が、ついてこい、とわれわれに告げた。男性は、私たちを先導してヤリ平原を抜け、丘陵の麓にある孤立した集落にわれわれを案内した。家屋の前に集まっている数名のFARC戦闘員を見渡すと、見慣れた顔があった。緑のインコを連れた例の女性だ。彼女を見た瞬間、迎えを待っているあいだ、われわれは監視されていたのに気づいた。

彼女は手を振り、笑顔を浮かべた。そして、彼女は、われわれを峡谷にある大きな家に案内してくれた。農園に佇む赤い木造の館の前には、少なくとも20名の男性がおり、大半が疲労の色を顔に浮かべ、数名は自動小銃を携えていた。彼らはFARCの東部前線に配属された第63戦線(Frente 63)ヤリ戦闘部隊(Combatientes del Yari)のメンバーだった。館の傍に立つポールには、コロンビア国旗と同色の黄、青、赤色を背景に、交差するライフル2丁をあしらった、FARCの旗が掲げられていた。その反対側には、一方的停戦の成就を誓う白旗が掲げられていた。

人の良さそうな恰幅の良い女性が、敷地の入り口からわれわれに歩み寄り、気さくに迎えてくれた。彼女は緑のユニフォームを身にまとい、コンバット・ブーツを履いていた。全ての出来事が瞬く間に起きたような気分だ。ついさっきまで、一般市民に囲まれていたのに、いつの間にかゲリラに囲まれている。われわれは、すでにFARCのテリトリーの心臓部にいたのだ。

人なつっこい女性戦闘員は、われわれのトラックを、牧草で隠れた道にバイクで先導し、分岐の多い道をゆっくりと進み、3時間後にはフェンスも家屋も道もなく、家畜すらいない荒涼としたサバンナの中心に辿り着いた。そこは、ジャングルの回廊と、プトゥマヨ川や前人未到の果てしない山岳地帯へと続く迷路に囲まれていた。路の終わりでは、さらに大勢の戦闘員たちが、平和か、さらなる激戦か、次なる未来を待ち構えている。

その日は、2012年に和平交渉が開始されて以来、FARCが6度目の一方的停戦を宣言した翌日、7月21日だった。ハバナでは、カストロ政権とノルウェー代表が、FARCとコロンビア政府の仲介役を務めていた。交渉の一環としてFARCは何度か和平を誓ったが、闘いの終結に至る真の合意には、一度も達していない。FARCは、1980年代から2000年代初頭の交渉において、自陣の軍事的立場が有利になるよう停戦協定を利用してきた。政府は、今回の交渉でこうした過去の失態を繰り返さぬよう警戒していた。かくして、両者とも和平を語りながら、闘いを続けていたのだ。

交渉が続くあいだ、政府軍がFARCの野営地を攻撃し続けていたので、攻撃対象になりにくい農家に泊まるよう、ゲリラは私たちに支持した。こうして私たちは、電気も水もない、それなのになぜかディレクTV(訳注:衛星放送サービス。北米、中南米のスカパーのようなもの)用のパラボラアンテナがある木造の小屋で、それからの数日間を過ごすことになった。

FARCの命令のもと、ローラ婆さん(Granny Laura)というシワだらけの農婆が、われわれを自宅に招いてくれた。腰の曲がったローラ婆さんは、弱々しく、歩くのも遅かった。彼女の声は、あまりにも嗄れてか細かったので、次の言葉が最期のように思えた。彼女は、この家に夫のクルス(Cruz)、娘と息子、息子の嫁と3人の孫に囲まれて暮らしていた。われわれが話しているあいだ、子供たちは自家製玩具の木製ライフルを手に、家中を駆け回っていた。

子供たちの母親は、最寄りの学校に教師がいないため、子供たちは今年は学校に通っていない、と説明してくれた。次に近い学校は、カトリック教会が運営する全寮制の公立学校で、そこに通わせる金銭的余裕がないので、子供たちはローラ婆さんの農作業を手伝い、時間が空いたらゲリラごっこをしているようだ。

ローラ婆さんは病気だった。彼女は糖尿病を患っており、慢性的な目眩と吐き気に苦しんでいたものの、定期診断は受けられない。サン・ビンセンテ・デル・カグアンにある病院までの交通費は約100ドル。彼女の月収の約半分だ。ローラは通院する替わりに、2週間に1度、家の前を通るバスから薬を購入していた。薬を購入する代金を用立てられなければ、バスを見送るしかない。

この地域に住む農民の大勢と同じく、ローラ婆さんと家族は、FARCの規範に従い、FARCの法律を遵守していた。「これでいいんだよ……人を殺したり物を盗んだりする奴はFARCに裁かれるんだ」と別の農民が教えてくれた。「もちろん税金もある。商品、家畜一頭、すべての値段が決まっている」そうだ。コロンビア国内各地と変わらず、ここでも住民たちで構成された革命評議会が住居、公的サービス、地方政府への陳情など、日常的問題の解決、地域発展を目指して問題に取り組んでいる。税金は、貧しい農民の生活をさらに追い詰めもするが、FARCによる法律は国家のそれと同じくらい公正である、と話をしてくれた農民たちは信じていた。現地住民が教えてくれたのだが、一般住民がコミュニティ・ミーティングを運営しており、同制度が住民に政治参加の機会を与えているそうだ。しかし、地域住民全員が、最終的決定権がゲリラにあることもわかっている。

チピ(Chepe)という、大柄でシャイな男にインタビューで初めて会ったとき、彼は、30名の戦闘員からなる部隊に所属していた。われわれは、ローラ婆さんの家から数マイル離れたところにある、荒削りな木の幹や大きな緑の葉で設営されたFARCの簡易キャンプにいた。チピは小さい声で喋っていたが、訛から、ボゴタの裕福な家庭に育ったことがわかる。チピは、カケタ県のジャングルで産まれたが、幼い頃からボゴタで育った。彼は、コレヒオ・クラレチアーノ(Colegio Claretiano)という小学校を経て、コレヒオ・サン・ヴィアートール(Colegio San Viator)という中産階級の上流に属する子弟向けの高校に通った。チピは当時、ホルヘ・スアレス(Jorge Suárez)と呼ばれており、FARC司令官であったヴィクトル・フリオ・スアレス・ロハス(Víctor Julio Suárez Rojas)、そう、彼の父親の名字を名乗っていた。父親のスアレスは、2012年9月22日、滞在していたキャンプが、7トンの爆薬による政府軍の爆撃により他界した。

チピは、「同胞は、ぼくが市内で勉学に励み、その後、ここに戻って革命を手伝うのを望んでいたんだ」と話した。「僕が9年生の時、政府が圧力をかけ始め、準軍事組織がぼくたちを殲滅しようとしていた。だから僕は、9年生まで学校に通い、その後は父とともに、ここに帰ってきた。父とは11年をともに過ごしたんだ」

「学生時代の友人がどうしているか、考えたりもする」とチビ。「ぼくがここにいると知ったら、彼らはどう思うだろう? 彼らはきっと、医者、政治家、エンジニアになっているはずだ。ぼくは大学に進めなかったけれど、革命を学んだんだ」

チピの父親は名高い……というより、悪名高い男だった。彼は、モノ・ホホイ(Mono Jojoy)、または、ホルヘ・ブリセーニョ(Jorge Briceño)として知られており、1990年代、2000年代初頭に、多くの市民を誘拐したFARCの東ブロックを率いていた。10年以上にわたって繰り返された、富裕層を標的にした身代金目的の誘拐が、彼らの主な資金源だった。当時誘拐され、人質になったほとんどが、監禁中に命を落としている。チピの学友たちが人質(secuestrados)になってしまったら、どうなっていただろう?

チピは、学校で学んでいたのは、クラスメイト、つまり〈敵であるブルジョアジーの息子たち〉に役立つ知識である、と常に心得ていたそうだ。闘うべきは「公益のため。クラスメイトたちの理想は、われわれを感化できない」とチピにはわかっていたそうだ。「われわれは、とっくに個人として自己を確立していた」

チピの向かいには、ビーチ・チェアに座った戦闘員たちが司令官の話を聞いていた。チピはラップトップを開き、全ての部隊が1日の始まりに行う、日課のミーティングを始めた。彼らは「インターナショナル(The Internationale)」(カール・マルクスと同じくらい古い革命の歌)を歌い、その後、チピが「剃刀の刃(Al Filo de la Navaja)」という、カルロス・アントニオ・ロサダ(Carlos Antonio Lozada)同志がハバナで書いた文章を読み上げた。その記事は、過去6ヶ月間について言及しており、FARCが停戦を宣言した期間中に、政府軍のパトロールが同組織のテリトリーに足を踏み入れたことによって停戦が破られた、とコメントしていた。ハバナで活動するFARC代表団のメンバーであるロサダは、停戦を口約束で終わらせないためには、何よりも、政府軍が烈しい攻撃の手を緩めなくてはならないという。

ロサダの記事が読み上げられた後、戦闘員たちは起立して、1964年に共産主義の農民たちとFARCを創立した男たちのひとり、マヌエル・マルランダ・ヴェレス(Manuel Marulanda Vélez)を讃える頌歌を斉唱した。

〽マニュエル、親愛なる古き友よ、君がために我は歌う
マニュエル、いつか夢みることを恐れぬ勇気を持った人
マニュエル、嘘偽りを広める者たちは匪賊と呼び 悪魔に例えた
彼の存在に満ち満ちたる愛は栄えるだろう
フィデルのように、歴史はあなたを受け入れるだろう、マニュエルよ

その後、8人の戦闘員たちが手を挙げ、ロサダの記事について意見を述べた。彼らはそれぞれ、全く同じ見解とビジョンを言明した。全員、内戦を生んだコロンビアの独裁政治とアメリカの帝国主義を責めた。さらに全員、ハバナにいる代表団への信頼を表明し、武器を捨て、選挙を通して革命を遂行する意志がある、と言明した。雄弁さの度合いだけが個々人の違いだった。彼らは、自らの思想に疑いがないようで、神の啓示に震えているようでもあった。

ボゴタ出身の若い戦闘員、ルイーザ・モンセラット(Luisa Monserrat)は、神を観るために目を閉じる信仰者かのように、「とても美しい」と宗教的高揚に満ちた笑顔を浮かべた。「真実をわが身に宿せるなんて、素晴らしすぎる」

戦闘員は全員、軍(FARC)と政党(Partido Comunista Clandestino Colombiano、以下PC3)の両方に所属している。彼らは、一度ゲリラに参加すれば、革命が人生そのものになるのをわかっていた。FARCの規則によると、自ら望んで戦闘員になるのであれば、革命に全てを捧げなくてはならない。つまり、革命が成就するまで革命のプロフェッショナルであり続けることを誓わなければならないのだ。任務放棄は、時として死刑に処されるほどの罪だ。

団結力、集団としてのアイデンティティを固めるために、戦闘員たちは、日々、ミーティングを怠らない。そこで扱われる文献は、レーニン主義の基礎、シモン・ボリバルのカルタヘナ宣言、ロシアやコロンビアの古典小説など、多岐にわたる。

ミーティングには、アントニア・シモーン・ナリーニョ(Antonia Simón Nariño)という女性も参加していた。アントニアはチピ同様、ボゴタで育ちで、国立教育大学(National Pedagogic University)に通っていた。アントニアはゲリラの政治的著作を10年ほど前に読み始めるとすぐに、FARC入隊に興味のある若い学生の登竜門である〈ボリバル主義運動(Movimiento Bolivariano)〉に勧誘された。アントニアのボーイフレンドは民兵団のメンバーだった。アントニアは、3年間、実家から抜け出し、カケタにあるキャンプでの訓練に参加した。彼女は、両親に、シエラネバダでキリスト教の教理を講義している、と嘘をついていた。ある日、彼女の父親は、シエラネバダにいる娘、他の若いインストラクターたちの様子を伺うために、アントニアが通う大学に赴き、そこで娘の嘘を知った。アントニアは、自らが戦闘員である、と父親にどうしても伝えられず、PC3とは違う、コロンビアでは合法で、破壊的な活動をしない共産党(Communist Party)に入党した、と嘘をついた。それから間もなくして、アントニアはジャングルへと旅立った。アントニアは、ボーイフレンドを介して家族に真実を伝えた。

アントニアはその涙ぐましい物語を、メルセデス・ソーサ(Mercedes Sosa)の『すべては変わる(Todo Cambia)』を歌って締めくくった。

〽私の愛は変わらない
どんなに離れていようと
想い出も 同胞の痛みも
変わることはない

キャンプは、戦場とはかけ離れた雰囲気に包まれている。われわれの滞在中、戦闘員たちは、チピのMacBookでアメリカのテレビ番組や、ケイティー・ペリー(Katy Perry)のビデオを眺めて日々を過ごしていた。塹壕を掘る構成員もいれば、トウモロコシ粉の揚げパン、カンチャリーナ(cancharina)をつくる構成員もいた。

FARCそのものは、50年以上も闘い続けている。当初は、共産主義の農民たちと、米国に支援された富裕エリート層の闘いだった。しかし、1980年代に入ると、FARCは、軍資金調達のために麻薬取引を始めた。麻薬流通の急増により、既存の麻薬密売組織が新たに準軍事組織を結成し、縄張りを制圧するために、FARCと戦火を交えた。1990年代、闘いは激化し、どの勢力に属する組織も、それまでにない非人道的な戦略を採用した。FARCは、市民を標的にした誘拐、爆撃を繰り返した。準軍事組織は数百もの村で、数え切れないほどの村人を虐殺した。政府軍の兵士は、FARCに対する自陣の優勢を演出するために、数千人を下らない無辜の若きコロンビア人を殺害し、〈positivos(戦闘中に殺されたゲリラを指す軍事用語)〉であると主張した。

その真相や死者数を知ると陰鬱な気持ちになる。国立歴史記録センター(National Center for Historic Memory)によると、内戦で命を落とした死者21万8千のうち、80%が非戦闘員だったという。過去10年間、政府軍が〈Positivos〉と発表した〈無辜の市民〉殺人事件は4、761件にのぼる、と国連は報じている。それに対して、シンクタンク〈シフラール・イ・コンセプトス(Cifras y Conceptos)〉は、ゲリラが誘拐した市民の数は9、447名にものぼる、と推測している。準軍事組織は、2004〜05年、アルバロ・ウリベ(Álvaro Uribe)大統領率いる当時の政権によって解体されたが、その多くが麻薬を取引する犯罪集団として再組織されたが、こうした組織の役割も衰えつつある。

しかし、われわれが訪問したキャンプから6マイル離れた地域では、一触即発の緊張が未だに続いていた。上陸した政府軍の侵攻を食い止めるべく、峡谷の各所にFARCの部隊が配置されていた。ほとんどの戦闘員が、政府軍の行動を、挑発、と判断していた。

われわれがキャンプ内を歩き回るのを、チピが許可してくれた。肩にライフルを担いで訓練しているゲリラ部隊を見かけた。われわれは、正午に昼食をとり、川で水を浴びた。そこでは戦闘員たちが、自分の体以外には目もくれず、下着一丁になっていた。ベッドコンパニオンや恋人とともに、木材と葉っぱでこしらえた小屋のなかで休憩している戦闘員たちもいた。(FARCの40%が女性であり、戦闘員の大勢には恋人がいる)。

「ジャングルが私たちの家」。26歳の女性、ヒネス(Jineth)は、とマルクス主義的な意見とFARC創始者達に捧げる詩を子供のような字で書き綴った手作りのノートを腕に抱えながらいう。ヒネスは9歳のとき、ビリャビセンシオ市内で母親が経営していた商店の前で、男が母親を殺害する現場を目撃した。「セラピストのところに連れて行かれた」

ヒネスはその後、叔父に育てられた。そこで従兄弟がゲリラであるのを知り、ヒネスは、自分もゲリラ運動に参加してもいいか、と彼に訊ねた。従兄弟の答えは「もちろん」だった。

「もし今日、戦争が終わったらどこへ行くの?」と質問した。「私たちの家は、背中に括りつけられてる」。10年前にゲリラに参加して以来背負い続けている、90ポンドのリュックを、ヒネスは指差した。

もしも和平合意が成立したら、この地域はどうなるのだろう? 農民、地域の民兵、ゲリラたちはどうなるのだろう? ヒネス、アントニア、チピ、ルイーザは、人生をPC3に捧げるつもりなので、彼らの使命に終わりはない。何らかの手段で革命を全うしなければならない、と彼らは口を揃えた。武力を放棄したら、チピとヒネスは勉学の機会を求め、アントニアは教育者になりたいらしい。彼らは皆、戦争に疲れているようではあったが、それ以外の生き方を全く知らないようだ。

「現時点で、武力闘争の放棄なんて想像できない」とチピ。「このあたりの住民は、牛が盗まれた、隣人と喧嘩した、何であれ問題があれば報告に来る。われわれは武装政党だ。武力を放棄したとしても、われわれの組織は政治闘争を続ける」

「同士たちが虐殺されるのを、どうやって防ぐ?」と質問した。「どうやって薬物密売組織、準軍事組織からの襲撃を排除するつもり?」

「全て政府次第だ」とチピ。「和平合意の履行を確約するには、何らかの保証が必要だ。諸外国の協力も不可欠だろう」

FARCテリトリーでの最後日の午後5時、ローラ婆さんの家に戻ろうとした矢先、仲介役のコーディネーターのひとりが私に近づいてきた。「ヤバいですよ」と彼はいった。「マズい質問をしてしまいました」

誘拐された人質を世話した経験はないのか、と戦闘員や地域住民に私が質問している、と誰かが司令官に報告したのだ。その夜のうちに去れ、私たちは司令官に指示された。ただの誤解だった。50年に及ぶ誤解の連鎖に、もうひとつ誤解が加わってしまったのだ。

指示の2日前、ローラ婆さん、彼女の家族と夕餉の食卓を囲んで交わした会話が原因で、われわれは疑われたようだ。すっかり夜になった頃、われわれは、星が見える窓辺に座っていた。ロウソクの光がみんなの顔を照らし、木の壁に影を映し出していた。私の隣には、普通の農民であろう女性が、おいしそうなディナーに舌鼓を打っていた。彼女は、自らが戦闘員であることを、私に教えてくれた。何年も戦闘員だったそうだ。彼女はあまり喋らなかったが、せっかくなので、チピへの質問を、彼女にも投げかけてみた。

「人質の世話をしなければならなかったことは? 彼らはきっと、この家みたいな農家に捕らえられていたのではないでしょうか。ここに人質がいたことはないんですか?」

「一度もないよ」と婆さん。

その後、ローラ婆さんと彼女の子供たちに話題に変わったので、私は、人質についての質問を蒸し返さなかった。ローラは、彼女自身のの健康、目眩に効くらしい薬草、トリマで過ごした幼少時代、ウイラに住む彼女の家族の生活について話してくれた。そんな会話も長くは続かなかった。

「見て、あいつらまたカメラの電源を入れた」。父親と同じく日雇い労働者であるローラの息子が、漆黒の夜空に浮かぶ光を指差した。それは、衛星、もしくは、携帯電話の中継塔のようでもあった。

ライトは突然消えた。

私は「カメラ?」と訊ねた。

「そう、あれは政府軍だよ。ぼくたちを見張っているんだ」と彼は答えた。

「もちろん連中は、私たちを見張っている」とローラのかすれた声。「私たちの家まで、1度だけ軍が辿り着いたんだ。兵士のひとりが、私に彼の姿が見えていないと思い込んで、うちのドアの上にデバイスを隠したんだ。数日後、彼は再び静かに現れ、それを持って帰った」

その夜は暖かかった。ローラは次から次へと、とりとめのない話をした。それから私はローラに、コロンビアの和平が実現すると思うか、と問いかけた。

「うん」と彼女は淀みなく答えた。

「なぜ、そこまで確信しているんですか?」

「聖書で読んだんだ。たった1日だけだとしても、共産主義が私たちの世界を統治する、と明らかに記されているんだ」

ローラは暗闇の中で立ち上がり、ランプを手に、聖書を取りにいった。彼女は小さい、震える体でそこに立ち、バビロンの滅亡が記してあるヨハネの黙示録18-19章をランプの灯で照らした。

ローラ、チピ、現地で知り合ったみんなと別れ、夜中にヤリ平原を脱出した2ヶ月後、FARCは、6回、停戦を自ら反故にした。政府陸軍は76回、FARCに攻撃を仕掛けた。太平洋岸で活動するダニエル・アルダナ部隊(Daniel Aldana Column)に所属する戦闘員が、アフリカ系コロンビア人の政治家、ヘナロ・ガルシア(Genaro García)を殺害した。自らの管轄下にある、貧苦に喘ぐコミュニティを支配するFARCに異議を唱えたのが、この温厚な政治家の犯した唯一の罪だった。

現在、停戦交渉が続くと同時に、戦争も続行中である。