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アレックス・ブラウン(GORILLA BISCUITS)オレのレゲエBEST10

「あの頃のダウンタウンにはレゲエ・ショップはたくさんあった。でもそれは裏でマリファナを売るための隠れ蓑的なものだったんだ」
All photos courtesy of of Double Cross XX

80年代半ばにアイオワからマンハッタンのロウアー・イースト・サイドにやって来たと思ったら、アレックス・ブラウンはあっという間にニューヨーク・ハードコア(NYHC)シーンの中心に定着していた。NYHCのファンジン「SCHISM」の編集者、そしてSIDE BY SIDE、PROJECT X、GORILLA BISCUITSのギタリストとして。彼のインパクトの強さは、REVELATION RECORDSの初期作品からもがっちり伝わって来る。

その後アレックスはアイオワ州に戻って、真摯にアートのキャリアを積んでいた。同時にジャマイカン・ミュージックにハマっていった。そこでこのあまり世に知られていないレコードを聞かせてもらって、同時に彼のジャマイカン・ミュージックのお気に入りベスト10を紹介してもらうことにした。

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こういった作品を見つけ出すのに何か決まったルールってあるんですか?

ルールはないね。とにかくたくさん聞かないと。本物を見逃してしまうかもしれないからね。7インチ・シングルや10インチ、そしてLP、どれもジャマイカの初回盤が好きだね。再発盤もいいけど、やっぱり初回盤の方が音が良いからね。多少傷がついてしまっていてもそれが味になってくるし。どのレーベルかというのはもちろん、プロデューサーをまず調べるんだ。普通プロデューサーとレーベルは同じ意味だよね。そしてシンガーやDJを見てみる。JAMMYS、UPSETTER、STUDIO ONEなんかは外せないね。

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SCHISMやSIDE BY SIDEをやっていた頃にも既に集めていたのですか?

レコードにはずっとハマってたんだ。ニューヨークに引っ越してすぐにYOUTH OF TODAYのレイ・カポやポーセル達と仲良くなってね。だって彼らとはレコード愛を共有出来たから。二人ともパンクやハードコアの作品のすごいコレクションを持ってたっけ。僕は1987年に8thアベニューにあったVENUS RECORDで働くことになった。建物の2階にオフィスがあって、中に入るにはブザーを鳴らさないといけなかった。ロンとボビーっていう同僚がいて、二人ともニュージャージー州から来たロック好きだったよ。超クールな奴らで、いい音楽をたくさん教えてくれたね。毎週土曜日も働いて、その日はみんな自分のレコードを持ち寄って売ったりしてたんだ。クビになっちゃう頃には、俺のコレクションはすごいものになってた。残念ながら何年も前に全部売っちゃったけどね。ホント後悔してるよ。ジャマイカのものは90年代に入ってから集め出したんだ。レゲエのショップにはどこも入りにくくてね。知らないかもしれないけど、あの頃のダウンタウンにはレゲエ・ショップはたくさんあった。でもそれは裏でマリファナを売るための隠れ蓑的なものだったんだ。かつてのイースト・ビレッジには、あまり商品が置かれてない雑貨屋やコーラを売るような売店でも防弾ガラスが装備されてたんだ。レゲエ・ショップもそんな感じの店の一つだった。

ジャマイカのミュージシャンとNYHCには共通点があると思うんです。どっちの世界も変人や残酷なやつらばかり。

(笑)。NYHCとジャマイカのミュージック・シーンにも共通点はたくさんあると思うよ。まっ、初期のヒップホップの方がもっと似ていると思うけど。ハードコアやパンクやレゲエはどれも現実に苦しんでいる人達の立場いる。それにインディペンデントな姿勢も共通している。メインストリームを避けて、自分たちの音楽を自分たちのレーベルで出し、アートワークも手掛けて、マーケティングやプロモーションも実費でやる。ぜんぶDIYだ。

インターネットが無かった時代に、誰かアドバイスしてくれた人はいたのですか?レコードをナビゲートしてくれた人とか。

いい質問だね。試行錯誤の連続だった。運が良ければレコード店でジャマイカン・ミュージックについて何でも知っている店員がいることがあった。彼らはたいてい仲間に入れてくれるようなクールな奴らだったよ。いつも見た目が面白そうなコンピレーションを選ぶようにしてた。シンガー、プロデューサー、レーベル、そして年代などを見て気に入ったものを手に入れるんだ。こういった音楽が好きな人はそんなに多くなかったからね。数年前に閉店するまでは、よく3rdストリートのJAMMYLANDへ通っていたんだ。いい店だったよ。壁中アルバム・ジャケットでいっぱいだった。じっくり探せていいものを見つけられ、しかも財布に優しかった。今もプロデュースやレーベルで活躍しているRas Kushが働いていてね。彼が店にいる時に他の客がいなかったらラッキーだった。何枚かレコードを持って行って彼にかけてもらうんだ。そしたら彼がそれを参考にして、俺が気に入るような他のレコードを探してくれたりした。そこで見つけたのがジョージ・パンのPOWER HOUSEから出ていたハーフ・パイントのLP『Greetings』。このレーベルのものはすべてJAMMYLANDで見つけたんだ。

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GORILLA BISCUITSの再結成ツアー中にもたくさんのレコード・ショップに行ったとか。

そうだね。この10年のツアーのおかげで様々な店に行けた。お気に入りの店は、これまたマンハッタンなんだけど、チャイナタウンにあるDEADLY DRAGON SOUND SYSTEMだね。その店は俺が90年代に住んでいたアパートの並びにあるんだ。今の店の場所には当時イギリス人のディーという男が中国人のガールフレンドとアートスタジオとして使っていた。奴らは延長コードをそこの玄関から、隣のビルの5階の俺の部屋の窓まで這わせていたんだ。俺の電気を盗んでたんだぜ!!(笑)とにかくDEADLY DRAGON はいいものを揃えている。でも値段は高いから、ただ店の中をブラブラするようなことは出来ない。ニューヨークにいる時は、前もって探しているレコードのリストを持って、計画を立ててココで買うんだ。あとはオースティン、ベルリン、東京などに素晴らしい店がたくさんあるよ。持って帰るのは大変だけど、間違いなくその価値はあるね。オンラインで買うのは嫌いなんだ。

最近何をしている時間が一番長いのですか?

アートだね。絵を描いて売ったりしてる。そして窓の外を眺めながら音楽をずっと聞いてるね。

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ALEX BROWN'S JAMAICAN TOP 10

「Roll Called」テナー・ソウ 1984年 POWER HOUSE

後期テナー・ソウの最初のレコーディング曲。スライ&ロビーのリズム・セクションをゲストに迎えたジョージ・パン制作の素晴らしいチューン。テナー・ソウはパンのクラシック「Queen Majesty」や「No, No, No」 のリズムを再構成したんだ。ウィンストン・ライリーのTECHNIQUESから出た「Ring the Alarm」が彼のスマッシュヒットとなるんだけど、僕個人としてはこの曲がお気に入り。この頃の彼はまだ17か18歳なんだけど、成熟した繊細な歌声は、彼が21歳で死を迎えた事を一層悲しいものにするね。

「On the Right Track」ジョニー・オズボーン 1987年 JAMMYS

このトラックを最初に聞いたのはコンピレーションの『Superstars Hit Parade』で、JAMMYLANDで買ったんだ。あの店が懐かしいね。プロデューサーは当時のお気に入りだったキング・ジャミー。イントロの“ドレミファソラシド”から最後まで、パワフルなジョニーのボーカルがたまらない。聞くたびに感動するよ。

「Oh Mr. DC」シュガー・マイノット 1979年 STUDIO ONE

有名な偉大なアーティストのコラボレーション。リンコン“シュガー”マイノットとクレメント“コクソン”ドッド。レゲエ好きなら誰もが異論無いだろう…コクソン・ドッドのSTUDIO ONEレーベルが、全てのジャマイカ音楽にとって最も重要で影響力があるということをね。「Oh Mr. DC」はマイノットがリディムの再利用をするアプローチを初めてやったヒットで、この若くてハングリーなシンガーが「マリファナを売ろうとしたが、バビロンによって一人ぼっちにされた若き苦悩」を歌ったものだ。彼を責めることはできない。STUDIO ONEの偉大なリズムに合わせて書いた歌詞を手に、シュガーがコクソン・ドッドにアプローチしたんだ。既存のインストルメンタル・トラックに声を乗せただけで、そのプロセスでほとんどダンスホールのジャンルを作り上げた。何でもリサイクルするジャマイカのような場所から来たということ考えると、実に面白いといつも思っていたんだ。なぜ音楽をリサイクルして新しいボーカルを乗っけることをしないんだ?この曲は『Showcase』というアルバムに入っている。一作前の『Live Loving』というアルバムにも素晴らしい曲が詰まっているよ。

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「Ali Baba」ジャッキー・エドワーズ 1975年 JACKPOT

ここにあるのはオリジナル・バージョンじゃないけどキラーだ。夢についての歌詞で、空飛ぶ絨毯、小さな羊飼い、不思議な国のアリス…などのキャッチ―なビジュアルが浮かぶんだ。これはバニー・リーによってプロデュースされたもの。彼は“フライングシンバル”の生みの親とされる人物。未だに俺にはそれがなんだか分からないけど、本当にクールなサウンドでより一層危険に感じるんだ。オリジナルはデューク・リードのレーベルTREASURE ISLEからリリースされていて、ジョン・ホルトが歌っていたよ。

「Country Boy」ヘプトーンズ 1974年 HARRY J

HARRY Jレーベルの知識は全くないし、ヘプトーンズに関しては『On Top』っていうSTUDIO ONEから出されたアルバムと、リー・ペリーとの作品何枚かしか知らない。でもこの声!このストーリー!リロイ・シブルスがこのハーモニー・トリオのリード・シンガーで、同時に彼は素晴らしいベーシストでもあった。言うまでもなく彼は、70年代初頭にジャッキー・ミットゥがカナダへ離れた後のブレントフォード・ロードのミュージカル・ディレクターを務めた人物でもある。リロイはコクソン・ドッドにたくさんの素晴らしい曲を提供したけど、そのことは誰も知らないんだ。曲にクレジットされるのは結局給料を支払う人物の名前だからね。これは地方からキングストンへやって来て、知り合いもいないのでどうしたらいいか分からず、まじめに働くことより、銃を使って生きることを選んだ男の歌だ。本当にビッグなチューンなんだ。

「Duppy Conqueror」ボブ・マーリー&ザ ウェイラーズ 1970年 UPSETTER

ずっとボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズを避けて来たんだ。メインストリーム過ぎたし、高校の頃、浮ついたパーティーでチェ・ゲバラのTシャツを着て、ボブ・マーリーのべスト盤を聞いていた女の子を思い出すからね。でもやっぱり聞かずにはいられなかったからアルバムを買ったんだけど、スウェーデン盤だったんだ。安っぽいライブ写真のジャケットで、質の悪い印刷でね。スウェーデン人はもっとまともなデザインをすると思ってたよ。(笑)
で、アルバムのほとんどの曲にリー・ペリーがクレジットされていることに気付いた。リー “スクラッチ”ペリーについて軽く紹介すると、50年台終わりから60年代の初めぐらいに地方からキングストンへ移り、STUDIO ONEでコクソン・ドッドのもとで働き、スカを沢山レコーディングして、最終的にはキングストンに自分自身のスタジオBLACK ARKを作ったんだ。ずっとスクラッチが彼の小さなTEACの4トラックテープにどうやって曲を作っていたのか分からなかった。チャネリングでもやってたに違いないね。BLACK ARKスタジオでレコーディングされた音楽の深さは、革新、リッチなサウンド、品質の基準などの点では他の追随を許さなかった。この時代のUPSETTERは、どの作品もホントに信頼ができる。
特にこのトラックは意味が分からないと同時に完璧なセンスがある。ジャマイカでDuppyとは幽霊という意味。Yes mi friend mi friend me live pon street again…素晴らしいフレーズ。リー・ペリーのプロデュースしたものだったら何でも買うね。特に7インチのレコードはB面の曲の方がさらにいい場合があるからね。そしてこのギター。ワォ!彼のそのスポンジーなサウンドはどこで手に入れたんだ?それはどこから来たんだ?どこかで聞いたことある?ないね。外せないベーシック曲だ。40年経っても彼の音は新鮮なんだ。

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「Kick Up Rumpus」フランキー・ポール 1984年 POWER HOUSE

80年代の若きフランキー・ポールのものの一つ。ジョージ・パンこそがPOWER HOUSEを支えていた男なんだけど、実際サウンドに力を与えていたのはリズム・セクションであるベースのスライ・ダンバーとドラムのロビー・シェイクスピアなんだ。POWER HOUSEの多くのレコードは質の悪いレコーディングとマスタリング、そしてひどいプレスに悩まされていた。それはタイヤをリサイクルしたか、段ボールを黒く塗ったかのようなものだった。でも唯一光っていたのはフランキーの声。この時代のレコーディングで当時の新しい技術を使っているところも好き。あちこちでデジタルクラップをしてしまうんだ。

「Rough Neck」 ピンチャーズ 1985年 THUNDER BOLT

ジャマイカ・シーンの歴史で一人だけシンガーを選ぶのなら、それはピンチャーズことデルロイ・トンプソン。彼は究極のシングジェイ・スタイリストさ。なんたってリリックでボーカル的な動きを表現するからね。これはフランキー・ポールの曲をフォローしたデジタル・サウンド初期の素晴らしい曲。ドノヴァン・ジャーメインが手掛けた初期のもので、彼はのちにPENTHOUSEを設立して90年代に数々のビッグチューンを出した。この曲をレコードボックスに入れて備えておくんだ。そうすればサウンドクラッシュで強力な相手が現れた時に、この曲であっさり勝つことができると思うよ。

「God of My Salvation」 ブジュ・バントン 1994年 PENTHOUSE

ピンチャーズのチューンのいいフォローアップで、ドノヴァン・ジャーメインのもう一つの作品。90 年代へようこそ。サウンドはこの時代のアメリカのヒップホップからかなり拝借しているね。PENTHOUSEのこれらのサウンドはいつもクリーンでクリスプでブライト。体の中をシェイクする感じ。このトラックは、僕が一番気に入っているリズムにブシュが乗っている。間違いなし。

「Rock Fort Shock」 プリンス・フランシス 1971年 IRON SIDE

最近この宝石みたいな作品を暗い箱の中から見つけ出したんだ。本当に嬉しかった。STUDIO ONEのアーカイブ金庫の中に、今まで日が当たらなかったり、出て行くことがなかった素晴らしい音楽がどれくらいあるのか想像出来ないね。コクソン・ドッドの様々なレーベルのレコードに出くわすことは珍しくないけどね。この宝石みたいな作品はプリンス・フランシスが真面目にDJをしたもので、彼は「Rock Fort Rock」の健全で純粋なスタイルを練り上げたものを否定する勢力に対抗する人物だった。たぶんこんなレコードみたことないだろうし、見つけたとしても思っていた以上の金額になると思うよ。

「Ninja Mi Ninja」 ニンジャマン 2013年 DOWNSOUND

西インド諸島の小さな島からの音楽を称えるこの企画。最後を飾るのはこの人、ニンジャマン。金の前歯に銃が彫られた男。DJの中で一番の悪党?かもね。このレコードは超難しいね。馬鹿げてるよ。この病みつきになるフックとビートは、実は他の曲を探しているときに偶然見つけたものなんだ。ジャマイカのあちらこちらの岩の陰には素晴らしいチューンが隠れているに違いないんだ。