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HISTORY OF DJ : TECHNO ①

良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」9月に東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。テクノ編スタートです。

電子音楽と呼ばれるものは、実はかなり前から存在しており、19世紀末に開発されたテルハーモニアムという電子オルガンや、20世紀初頭に発明されたテルミンなどを使用した風変わりな音楽は、長い間実験的な現代音楽の一種とされてきました。それが1960年代のアナログ・シンセサイザーの登場により、現代音楽以外のフィールドでも電子楽器が取り入れられるようになります。特に80年代に入ってからはロックやポップス、ジャズやファンクにもドラムマシンやシンセサイザーが使われるようになり、電子音そのものはそこら中に溢れていました。

では、「テクノ」と広義の電子音楽の違いは何なのか!?そうです、DJカルチャーの介在でございます!!ハウスと同じように、テクノという音楽もDJなしには誕生し得なかったダンス・ミュージックなのです!!

というわけで、HISTORY OF DJテクノ編も、その発展の鍵となったDJたちに焦点を当てながらご紹介していきましょう。まずは何はともあれ、デトロイトに行かないことには話が始まりません。ハウスの故郷シカゴからほど近い、自動車産業で有名なミシガン州の工業都市。80年代に入り、自動車工場の多くが自動化(機械化)されていき、低価格の日本車との競争が激化し、次第に雇用が減って景気が後退し、治安が悪化、犯罪率も上昇… とこの街にとっては暗い時代の幕開けという頃。

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Electrifying Mojo – Midnight Funk Association

当時を知るデトロイトの音楽ファンが口を揃えて最も影響を受けたと言うのが、ラジオDJ、エレクトリファイング・モジョです。1977年から85年にかけて、彼がホストを務めた伝説の『Midnight Funk Association』は毎日深夜0時から放送されていた1時間番組で、デトロイトのみならず、ミシガン州南部、対岸のカナダの一部でも愛されていました。過去に類を見ないユニークな選曲と番組編成で、アルバムを最初から最後までまるまる流したり、当時特に黒人リスナーにはあまり馴染みがなかったヨーロッパの電子音楽、クラフトワークや、ニューオーダー、ディーヴォやジョージ・クランツをプレイしたり、まだ駆け出しだったプリンスやB-52’sを公共の電波で誰よりもプッシュしたのが彼でした。このことに感謝したプリンスが、モジョの番組で初めて電話を通じた生のラジオ・インタビューに答えたというのは有名な逸話となっています。

モジョの番組を通じて、新しい音楽に出会ったというリスナーが多く、もともとジャズが盛んでMotownの拠点でもあった音楽都市デトロイトのミュージシャンたちの音楽性に大きな影響を及ぼしました。

A Number Of Names – Shari Vari (81)

81年にリリースされている、「最古のデトロイト・テクノ」とも言われる「Shari Vari」と「Alleys Of Your Mind」はクラフトワークやイタロ・ディスコをかなり意識した造りのエレクトロ。「Charivari」というハイスクールのパーティーでの「Shari Vari」の演奏を見たモジョが、彼らを番組に呼び、グループ名がまだなかったのでア・ナンバー・オヴ・ネームスにしてはどうかと提案したという話もあります。それくらい、常にフレッシュな音楽の発掘に熱心だったんですね。

Cybotron – Alleys Of Your Mind

サイボトロンは「テクノ」というジャンル名の名付け親とされているオリジネーター、ホアン・アトキンスのユニット。語源は、未来学者アルヴィン・トフラーの著書『第三の波』に出てくる “techno rebels” という概念に共感したアトキンスが、「Techno Music」という曲を作り、これが88年にイギリスで発売されたコンピレーション、『Techno! The New Dance Sound Of Detroit』に収録されたことが、テクノというジャンル名を定着させ、定義することとなりました。このアトキンスが一番の先輩で、同じベルヴュー高校の後輩だったケヴィン・サンダーソンとデリック・メイが、刺激的なアイディアを豊富に持っていたアトキンスに影響され、同じようなスタイルの楽曲を制作し始めます。アトキンスはMetroplex、サンダーソンはKMS、メイはTransmatとそれぞれにレーベルを立ち上げました。「ベルヴュー・スリー」とも呼ばれる彼らこそが、テクノ・ミュージックのパイオニアとされています。

地元デトロイトのクラブ・シーンにおいて、DJとしてこれらの音楽の発展とDJのプレイ・スタイルに最も影響を与えたとされているのがケン・コリアー。70年代後半からディスコDJとしてゲイ・コミュニティーで活躍していた彼は、デトロイトのラリー・レヴァンとも呼ばれる存在。彼がデトロイトにおいてディスコとテクノの架け橋となったとも言われています。コリアーが82年に手がけたデトロイトのポスト・ディスコ・バンド、ワズ(ノット・ワズ)のリミックスは、Paradise Garageでもヘヴィー・プレイされていた曲。

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Was (Not Was) – Tell Me That I’m Dreaming (82)

コリアーがデトロイト市内のHeavenというクラブでレジデントとして活躍していた頃のプレイは、デトロイト・テクノ第一世代のDJたちの手本となりました。またその一方で、コリアーはDJとして地元でどんどん作られるようになった、そんな彼らの新しい音楽をプレイに取り入れていきました。しかし、デトロイトの DJやプロデューサーが当初最も刺激を受けたのは、実はお隣イリノイ州のシカゴのハウス・シーンです。親戚がいたことで頻繁にシカゴを訪れていたデリック・メイやケヴィン・サンダーソンは、フランキー・ナックルズやロン・ハーディーのプレイを体験しています。シカゴのラジオ番組を録音してデトロイトに持ち帰っていたといいます。神業とも言えるミックスやイコライジングの上手さで、ファンキーなグルーヴを作り出し聴くものを踊らせずにはおかないデリック・メイのプレイは、まさにロン・ハーディー直系のスタイルです。先に触れた『Techno! The New Dance Sound Of Detroit』というコンピレーションも実は86年に出ていた『The House Sound of Chicago』というコンピレーションへのデトロイトからの回答のような位置付けで、シカゴがハウスならデトロイトはテクノ、と差別化を図る上でつけられた名前という側面もありました。

Inner City (Kevin Saunderson) – Good Life

そして同じ頃、ザ・ウィザードという名前でハイスクールのパーティーやDJバトルで名を馳せていたDJが台頭してきます。彼は超人的なクイック・ミックスとジャグリング(2枚のレコードを使ってビートを延長したり異なるリズムを刻んだりする技)とスクラッチのスキルが際立った若者で、『Midnight Funk Association』にもゲストDJとして呼ばれ、間もなくして別のラジオ局で『The Wizard』という毎晩放送の番組を持ちます。高度なヒップホップDJとしてのテクニックを持ちながら、モジョのように様々なジャンルの音楽を次々とプレイするスタイルは他には類をみないもので、ちょうど80年代後半にモジョがオハイオ州に活躍の場を移したこともあり一気に人気を獲得していきます。

The Wizard

ハイ、既にお分りの方も多いと思いますが、このザ・ウィーザードとはジェフ・ミルズのことですね。このザ・ウィーザードのラジオ番組を、デトロイト川の向こう側、カナダはオンタリオ州のウィンザーで夢中になって聴いていたオタク少年がリッチー・ホウティンでした。

Rhythim Is Rhythim – String Of Life (87)

88年には、デトロイト市内にシーンにとって非常に重要となった、シカゴのハウス・クラブを意識して作られたThe Music Instituteというクラブがオープンします。そこでレジデントを務めたのがディープ・ハウスDJとしてその後人気を博すアルトン・ミラー、シェ・ダミエ、そして既にリズム・イズ・リズム名義で「Nude Photo」やテクノ史上最大のアンセムと言ってもいい、「Strings Of Life」をリリースして乗りに乗っていたデリック・メイなどでした。彼もまた、ザ・ウィザードと同じラジオ局WJLBで『Street Beat』という番組を持っていました。

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The Music Instituteは残念ながら89年に閉店に追い込まれてしまいますが、この頃のデトロイトのクラブ・シーン及びDJスタイルには、ハウスのそれとの明確な違いはなかったと言えます。強いて言うと、ハウスが愛や肉体に重点を置いた音楽だったとすると、テクノはより未来と機械に眼差しを向けた音楽だったという方向性の違いくらいでしょうか。実際のDJたちは、ビートを基調としたダンス・ミュージックという共通項でヨーロッパのニューウェーヴやインダストリアルから、ディスコやハウスと色々な楽曲をミックスしていました。

Underground Resistance – Final Frontier

テクノがその決定的な特徴を打ち出したといえるのが、よりハードに、高速に、そしてミニマルになっていく80年代末です。その代表格が、ジェフ・ミルズとマッド・マイクが89年に立ち上げ、間も無くしてロバート・フッドも加わった音楽集団、アンダーグラウンド・レジスタンス(UR)。彼らはテクノ版パブリック・エネミーのような集団で、反商業音楽、反メジャー音楽産業、ブラック・エンパワーメント、DIYのスピリットと政治的スタンスを強力に打ち出しました。そのサウンドも激しく未来的でダークなものが多く、それまでのディスコやエレクトロ、ニューウェーヴからの流れとは異なるものでした。

もうひとつ、テクノ・カルチャーの特徴として明確になり、URが決定的なものとしたのが匿名性。誰が作ったのかではなく、作られた音楽そのものが主役でありメッセージであるという考えから、メンバーの誰が作ったのかレコードに記されることはなく、宣伝活動やメディアへの露出もほとんどナシ。DJやライブの際はスキーマスクやバンダナで顔を隠すなど、制作者の正体を明かさないポリシーがしばらく貫かれました。このミステリアスかつ硬派なURの活動は、瞬く間に世界中の”アンダーグラウンド”でカルト的な支持を得ていきます。その後しばらくしてミルズとフッドはURを脱退し、それぞれAxisとM-Plantを設立してソロとして活躍していき、URは新たなメンバーを加えていずれも現役バリバリです。

黒人が大半を占めるデトロイト市内のこうした音楽の盛り上がりに、果敢に飛び込んで来た白人の若者たちもいました。川向こうのウィンザーに住んでいたリッチー・ホウティンとジョン・アクアヴィヴァです。既にザ・ウィザードやデリック・メイに憧れて地元でDJを始めていた彼らは、自ら曲も制作し始め、デトロイトの一通りのレーベルにデモを送ってみたはいいけど誰も出してくれなかったそうで、90年に自分たちでPlus 8というレーベルを開始して作品を出し始めます。特に彼らとダニエル・ベルのユニット、サイバーソニック名義の楽曲がヒットし、新たに郊外の白人の若者たちをもテクノに引きつけていきます。ファンを獲得した彼らはデトロイト市内のウエアハウスなどでレイヴを開催するようになり、彼ら独自のシーンを築き上げていきます。ホウティンはF.U.S.E.やサーキットブレーカーなど、複数の名義でリリースを続けますが、93年にプラスティックマン名義でイギリスのNova Muteから出したアルバム『Sheet One』でヨーロッパでも大ブレイク。

デトロイトでテクノが急成長/急発展した背景には、既にハウス編の第二回で触れたように、ヨーロッパではイギリスを震源地としたレイヴ・ムーヴメントが爆発していたという状況があります。またベルリンでも壁が崩壊して新たなユースカルチャーが生まれようとしていました。アメリカにおいては、ハウスと比較してもテクノはさらに極めてアンダーグラウンドな音楽であり続けているので、ヨーロッパ市場でレコードが売れ、クラブにDJやライブアクトとして招聘されることがデトロイトのテクノ・アーティストの成功には不可欠でした。次回テクノ編第二回では、その拠点としてテクノの発展において最も重要となるベルリンでどんなことが起こったのか、見てみたいと思います!