私たちは、タイ保健省内にあるソムヨット博士のオフィスの近くの、日当たりがよいカフェで話をした。広々として緑豊かなキャンパスに設けられたバンコク郊外の政府施設だ。カフェのスピーカーからメロウなボサノバが流れるなか、学者然として温厚な皮膚科医のソムヨット博士は、自身がマリファナに関心を抱くようになった経緯を教えてくれた。「私の弟が…」と博士は切りだし、一瞬、間を置いた。まるで、のどに絡みつく感情を払うように咳ばらいをすると、こう続けた。「私の弟は、甲状腺がんを患っていました。私は弟のために治療法を探しましたが、何も効かなかった。そして弟は他界しました。その後、大麻でがんを治せると知ったんです。元々、カンナビス・オイルががん細胞を破壊する仕組みの研究結果しかありませんでしたが、私はさらに、参考になるような情報を探しました」この研究が実証されているとは言い難い。確かに、カンナビノイドが肺がん、乳がん、さらに脳腫瘍を含む様々な疾病に有効な治療法となりうる、と主張している研究は、論文審査のあるまっとうな医学専門誌に掲載されただけでも数百もあるが、そのうちのほとんどが、人体に発生した実際のがん細胞ではなく、研究室でつくられたがん細胞を使用している。大規模な臨床試験が実施されない限り、マリファナに含まれるカンナビノイドが、がん患者の治療に有効なのか否かは不明だ。しかし、バンコク、チュラロンコン大学(Chulalongkorn University)の社会研究所(Social Research Institute)所長、ニヤダ・キアティン=アングスリー(Niyada Kiatying-Angsulee)博士は、タイのようにマリファナの栽培、使用を法律で禁じている国では、臨床試験が不可能だという。現在、大学の研究者たちが禁止薬物を研究するさいは、政府から特別な承認を得なければならない。ニヤダ博士のチームも医療用クラトムとマリファナの研究をしており、承認を得られないわけではないが、そのプロセスは研究に差し障る。
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「人体への使用は禁止されています。臨床試験ができません」とニヤダ博士。「カンナビスを栽培、使用は違法であり、その罰は重い。現行の法律では、医師によるカンナビスの処方も認められていません」とニヤダ博士。「文献レビューや他国の法律、そして既に他国で販売が認められている医薬品から、カンナビスの医療的効果は明らかです。私たちは医学的見地から、使用を推進しています」そういう研究者の声に、親身になって耳を傾けたのがソムヨット博士だった。ソムヨット博士は政府機関で働いており、これまでに『Marijuana is Medicine That Cures Cancer』も上梓している。この著書により、タイにおける彼の注目度は上がった。そして彼は水面下で、医療用カンナビスの合法化を現在の軍事政権に必死に訴えた。カンナビス・オイルは、がんに効く可能性があるのになぜ違法薬物に指定されているのか、と疑問を抱いた彼は、政府にマリファナへの姿勢を改めるよう働きかけるグループを結成する。「私たちのグループは、いくつかの党と接触を図り、この国の経済成長のためにも大麻の栽培を認可すべきだ、と訴えています」とソムヨット博士。「水面下とはいえ、動いていることには変わりない。できるかぎり多くの政党に働きかけています」政府は合法化によりもたらされる利益に驚いていた、とHighland Networkのキティは証言する。この事実は、軍事政権にとって保健、健康にまつわるどの議論よりも強力な動機となり得る。タイ政府は、歳入の多くを消費税に頼っている。消費税が歳入を占める率は西洋諸国に比べると高く、2017年の歳入のうち、33%が消費税だった。タイ政府にとって、消費税は最大の収入源だ。マリファナのように、消費税の課税対象となる新たな品物を認可すれば、政府の利益も増加する。「現在、少なくとも米国では、ウィードが利益を生んでいます」とキティ。「オレゴンでは、20億から40億ドル(約2100億~4200億円)規模の市場が形成されています。オレゴン州だけで、です。タイも巨大市場になるでしょう。政府は、マリファナが利益となること、国民の健康に良い影響を与える可能性があることを認識しています」タイ人が抱くマリファナの印象も変わりつつある。今や、タイ人の大半が医療用マリファナに賛成しているのだ。2018年8月に公開された、バンコクの大学院〈National Institute of Development Administration〉の調査では、調査対象となったタイ人の72.4%が医療用マリファナ合法化を支持していることが判明した。タイにおけるマリファナや薬物使用の印象が変化しつつある何よりの証拠だ。2016年には、タイの司法大臣も「世界は薬物戦争に敗北した」と主張し、覚せい剤の合法化に言及した。これも、コストがかかり、勝利もできない薬物戦争にタイ全体が疲弊している事実を示している。「倫理や思想ではなく、科学的根拠を元にした政策決定へと変化している。好ましい変化です」と説明するのは、〈International Drug Policy Consortium(国際薬物政策協会)〉のアジア地域長、グロリア・ライ(Gloria Lai)。「おそらく他のアジア諸国も追随するでしょう。既に、韓国、スリランカ、フィリピンで医療用カンナビス合法化に向けた議論が進んでいます」