ここは日本の首都、東京。ムハンマド(Mohammad)は昨年11月に日本に避難してきて以来、自分を見失ってしまった。
彼という人間を形作る全ては、32年間彼の故郷だったアフガニスタンに置いてきた。友人もいない。ひとりでとる食事は、アフガニスタンの首都カブールの実家で12人の家族と食卓を囲んで味わうスープと比べると随分静かだ。
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しかし彼は、身の安全のためにつらい犠牲を払うことを決めた。かつて米国国際開発庁(United States Agency for International Development: USAID)で働いた経験から、2021年8月に国を制圧したイスラム主義組織タリバンに、欧米の国家権力との関与を疑われるのを恐れたのだ。昨年11月、彼は荷造りをして、ビザの申請手続きのためにパキスタンで数ヶ月過ごしたあと、就労ビザを持って東京にやってきた。
ムハンマドは、タリバンのアフガニスタン制圧からわずか数ヶ月後に出国できて幸運だったと考えている。彼が適切な書類を入手できたのは、単にUSAIDに勤務していたときの取引先だったNPO法人が日本と強いコネクションがあったからだという。
しかし、日本に到着した途端、ムハンマドはそれ以上に孤立的で、避けては通れない壁にぶつかった。孤独だ。
飾り気のない白い壁とアフガニスタンから持ち込んだ50冊ほどの本に囲まれた彼は、平和に暮らしている。「それでも時々つらくなります。体を動かすとか、何かをして悲しみを紛らわせています」と彼は、タリバンに家族が狙われる危険を考慮し、偽名でインタビューに応じた。
昨年、アフガニスタンがタリバンの手に落ちて以来、約500万人が戦闘によって住む場所を失った。これらの難民のうちのほんのひと握りが、孤独、厳しい移民政策、国際的な人道危機への関心の低さで知られる日本にたどり着く。
2021年に日本が難民認定したアフガニスタン人は、たったの9人だった。政府の試算によれば、現在人口1億2500万人のこの国で暮らしているアフガニスタン人は、4000人にも満たないという。
ムハンマドはそのひとりだ。彼は時折東京のモスクに礼拝に行くが、新しくできた友人は少ないという。もちろん、過去の日本出張でできた知り合いはいるが、ハグや握手を交わす相手はいない。
「これまでとは全く違います。以前はオフィスにいても、何ヶ月かぶりに会ったみたいにハグしていたので」と彼はアフガニスタンの元職場について語った。
ムハンマドが新しいモスクで会うのは皆見知らぬ顔だ。彼が知っている数人のアフガニスタン人は、いずれも難民認定が受けられずアフガニスタンに戻る予定で、ストレスを抱えているかうつ状態かのどちらかだという。
「でも、彼らがここに残ったとしても、政府からなんの援助もサポートも受けられません」
母の手料理のような味は見つけられず、彼はインドカレーや牛丼で妥協している。和食に欠かせない食材である魚には、決して手を出さないという。
「日本で僕が馴染める場所はどこにもありません」と彼は悲しげに微笑む。
世界第3位の経済大国であるにもかかわらず、日本は過去10年で1107人しか難民を受け入れていない。参考までに、ドイツは2021年だけで3万2000人もの難民を受け入れている。
しかし、今年2月にロシアがウクライナに侵攻し、1200万人以上の人びとが家を追われて以降、日本は例外的に難民を積極的に受け入れてきた。
今年3月以降、1300人以上のウクライナ人が日本に入国し、政府からシェルター、語学講座、住環境整備費、生活費の提供を受けている。さらに日本は、ロシアに対する防衛費としてウクライナに6億ドル(約770億円)融資している。
日本政府は、ロシア・ウクライナ戦争の直後に突如として難民支援を拡大した理由を明らかにしていないが、難民支援団体は日本に支援の手を広げ、全ての難民申請者を対象にするよう要請している。しかし、支援団体は、その要請が数十年にわたる難民保護に消極的な政府の姿勢を変えるには不十分だということを重々承知している。
千葉大学大学院で社会学を専門とする小川玲子教授は、地政学的な懸念と人種的な偏見が、日本のウクライナとアフガニスタン難民に対する対応の違いの主な原因だとVICE World Newsに語った。
「日本人は、難民がメディアで見るような金髪で青い目の女性なら、快く手を差し伸べるでしょう。優越感を覚えるんです」と彼女はVICE World Newsに語った。日本はアフガニスタン、ミャンマー、シリアなどの国からの避難民にもっと関心を向けるべきだ、と教授は訴える。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ アジア局プログラムオフィサーの笠井哲平は、ミャンマー、シリア、アフガニスタンの難民は教育水準が低いという偏見を持たれがちで、そのために難民認定を受けにくい、と指摘する。「この3カ国の人びとはヨーロッパ出身ではないので、ウクライナの人びとに比べて日本の習慣や生活に適応しづらいという無知なイメージや偏見があります」と彼はVICE World Newsに語った。
難民支援を行うNGOピースウィンズ・ジャパンのボランティア、齋藤栄は、ウクライナ戦争がここ数年の人道危機の中で最も国際社会への影響が大きい危機だと語る。ロシアとウクライナは主要な商品生産国であり、そのために日本を含め多くの国々が戦闘による経済への影響を実感している。「だからこそ日本は今まで以上に関心を持ち、ウクライナ支援に貢献しているのです」と彼はVICE World Newsに語った。
家族全員をアフガニスタンに残さざるを得なかったムハンマドは、国際社会が自分の故国を忘れ、ウクライナ難民だけに注目していると語る。「なぜ差別的な扱いを受けなければならないのか、僕には違いがわかりません」
「ウクライナには、少なくとも民主政治が存在します。でも、アフガニスタンには何もありません」
日本の難民認定率の低さの理由のひとつは、難民の厳密な定義にある。
1951年に採択された国連難民条約の加盟国でありながら、日本は申請者が故国の政府から個人的に狙われ、迫害されている場合に難民として認める。そのため、性的指向、人種、国家間紛争を理由に迫害を恐れて国を逃れた多くの人びとが除外されてしまう可能性がある。ウクライナ戦争の最中、日本はウクライナ人を〈避難民〉として分類することで、この厳密な定義を巧みに回避した。
この解釈がいまだにアップデートされていない理由は、同質性の高い日本社会が、難民に対して国境を開放することに関心がないからだ、と難民支援協会支援事業部マネージャーの新島彩子はVICE World Newsに語った。
内閣府政府広報室が2019年11月に実施した世論調査によると、難民を「慎重に受け入れるべきである」と答えたひとの割合は、57%近くにのぼった。5年ごとに実施されるこの調査で、慎重に受け入れるべき理由として最多だったのは、移民申請者の中に犯罪者が混ざっている可能性への憂慮だった。
この調査結果は、ウクライナ戦争中にわずかに変化した。ロシアが攻撃を開始すると、日本では数千人が抗議運動を行なった。アフガニスタンでの人道危機の最中には見られなかった規模のデモだ。最近の調査では、国民の過半数がウクライナからの避難民の受け入れを増やすべきだと回答している。
かつての日本では、難民の受け入れを増やす準備が整ったかのように思えた時期もあった。1970年代のベトナム戦争後、日本はベトナム、カンボジア、ラオスから戦闘を逃れてきた約1万1000人を受け入れた。しかしそれ以降、難民認定率はずっと低迷している。過去40年間で8万7892人が難民申請をしたが、認定されたのはたったの915人だ。
それでもなお、日本を目指す人は減らなかった。
日本に入国するために、モルタザ・フセイン(Murtaza Hussein)は10年を費やした。難民支援協会が彼のビザを後援してくれることを知った後、アフガニスタン人の彼は、「無神論への迫害」を逃れるために、2019年11月に東京に到着した。その直後に難民申請をして、長時間の面接を何度も行い、アフガニスタンで受けた身体的暴力について詳しく説明した。
「長い時間がかかることは承知の上でしたが、それでも日本は信仰心が薄いので、ここに来たかったんです」と彼はVICE World Newsに語った。現在26歳の彼は、幼い頃から無神論的な思想を持っていて、それはタリバンにとって死刑になる十分な理由だと語った。学校で教師たちにイスラム教の教義について疑問をぶつけるたびに、何度も殴られたという。
「学校や家族全員に、本当の自分を隠さなければなりませんでした」とモルタザはいう。彼は16歳で家を出て以来、ずっと1人で暮らしてきた。カブールの旅行会社で働きながら独学で英語を学び、アフガニスタンから出るための準備を進めた。昨年12月に日本政府に難民として認められた。彼によれば、異例の速さだという。
しかし、いざ日本に着いても、書類を待つ難民は長々とした手続きの途中で送還されるリスクに直面する。正式な書類がなければ、難民申請者は〈不法移民〉のレッテルを貼られ、収容施設に無期限で収容される恐れがある。過去には質の悪い治療を受け、亡くなった例もある。
昨年、33歳のスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリ(Wishma Sandamali)さんが収容施設で亡くなった事件は、難民支援団体から激しい非難を受けた。検視報告では死因は臓器不全と甲状腺機能障害とされたが、彼女の家族は医療過失を指摘している。サンダマリさんはもともと2017年に学生ビザで日本を訪れ、それが失効すると、難民申請をした。2020年、パートナーから暴行を受けて警察に保護を求めたさい、彼女は拘束された。
日本の出入国在留管理庁によると、当局が記録をつけ始めた2007年以降、サンダマリさんを含む17名が収容施設で亡くなったという。
しかし、難民支援協会の活動を通して、日本の収容施設で同様の暴行を受けた難民を支援してきた新島さんによれば、難民申請者にはこのような施設を出たあともトラブルがつきまとうという。
「解放されてもなんのサポートも受けられません。住む場所も、食べ物を買うお金もなく、最低限の生活すら維持できないんです」と彼女は説明する。
日本に来て9ヶ月になるムハンマドは、まだ仕事が見つかっていない。
現在、彼は日本のビザの費用を出資してくれたNPOからの支援でなんとか食い繋いでいる。「日本語が話せないため仕事を見つけるのはとても大変で、毎日ほぼ何もせずに過ごしています」
米国の組織での実務経験を活かし、ムハンマドは、米国政府が一部のアフガニスタン人を対象にした難民再定住プログラム〈P-2 program〉に申請している。彼にはアイダホ州に住む兄がいて、会うのを心待ちにしているが、故郷に残してきた家族への責任を思い出さずにはいられないという。
「母はもうかなりの年で、僕を必要としています。でも、僕は助けになれません。今こそ僕の力が必要なのに」現在32歳の彼は母親のお気に入りの息子で、家族の問題解決を引き受けていたという。
ムハンマドがいつ故郷に戻れるかはわからない。今年7月に弟がタリバンに拘束され、危うく処刑されかけたという知らせを受けたあと、故郷は自分にとって安全な場所ではないということを身をもって実感した。「あの国は刑務所も同然です」
同様に、モルタザも過去を振り返ることをやめた。
「あの国では死や死刑が当たり前です」もしそのまま国に残っていたら、命はなかったかもしれない、と彼はいう。
日本には友人も家族もいなくても、少なくとも夢を見る自由がある、とモルタザは語る。「僕をここに来させてくれた全ての人びとのことを伝える漫画を描きたい」
しかしその前に、まずは絵の描き方を習わないと、と彼は締めくくった。