当事者が語る、成人期ADHDとの向き合い方

「ADHDとは、すぐに気が散ったり、忘れっぽいだけではない」
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All photos courtesy Devansh Savernya 

2020年のはじめに新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まった頃、僕は映画専門学校を卒業したばかりだった。自己優先志向が強いせいで就職活動はしておらず、仕事は決まっていなかった。自分と向き合う時間をとるべきだと思い、最初のステップとしてセラピーを受けることにした。

セラピーを始めて数週間目で、僕は成人期注意欠陥多動性障害(成人期ADHD)と診断された。過去の自分の行動、そして今の自分がなぜこうなのかが理解できて、ホッとした。セラピーを受ける前、自分がいかに人生と自分の可能性を無駄にしているか、そして身近な人びとの僕に対する期待の高さと、その期待に応えられないことについて悩んでいた。自分が成人期ADHDだと知ったことで、物事がはっきり見えるようになった。

ADHDは、不安症やうつなど、他の疾患や障がいと併発することが多い。僕の場合は不安症だった。不安は僕の性格を形づくっていて、ADHDの症状と重なることも多かった。ADHDの症状が出始めたのは、インドからネパールに移住したあとの学校生活だった。

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登校初日から、勉強にしか重きを置かない学校に失望した。勉強に対する拒絶感から、反抗心を抱くようになった。当然、成績は散々だった。勉強が苦手というわけではなく、勉強したい科目や良い成績を取れる科目がなかったのだ。

保護者面談で、両親は担任から、僕は素晴らしい生徒だが勉強を「怠けている」と告げられた。僕は怠けてるんじゃない、勉強は僕の脳には刺激が足りないんだ、と叫びたかった。集中力が続かず、一か所に座っていることも、紙に何かを書くことすらもできなかった。

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「保護者面談で、両親は担任から、僕は素晴らしい生徒だが勉強を「怠けている」と告げられた」──デヴァンシュ・セイヴニア

高校3年生になる頃には勉強以外にもフォーカスを当ててくれるもっといい学校に転校することができ、勉強以外の活動が増えたため、成績も上がった。僕の担任は写真部の顧問で、美術の授業もあり、好きな科目を自由に選ぶことができた。だんだん学校に行くことが楽しみになっていた。

成人期ADHDをよく知らないひとのために説明すると、この症状を抱えるひとは〈怠け者〉のレッテルを貼られやすい。ADHDと成人期ADHDの違いに関しては、注意欠陥、多動、衝動性などの症状は子どもや10代後半の若者にしか見られないとされる傾向がある。注意欠陥のサインとしては、すぐに気が散る、常にアクティビティやタスクを変え続ける、ケアレスミスをする、などが挙げられ、多動と衝動性のサインは物忘れが激しい、過度に話し続けたり体を動かしたりする、などが挙げられる。いずれも幼少期の一過性のものとして見過ごされやすい行動だ。

大人のADHDと子どものADHDの症状にはわずかな違いがあるが(成人期ADHDの症状には落ち着きのなさ、急激な気分の変動、細部への注意欠陥などが含まれる)、大人とADHDは無関係だとみなされがちなのは残念なことだ。

個人的に、僕は物事を最後までやり通せないことが多い。例えば洗濯が終わって、あとは畳んでどこかに仕舞うだけだとする。僕はそれがなかなかできないのだ。何かをやりかけてうまくいかなければ、途中でやめてしまう。この症状はだんだん手に負えなくなっていった。日常生活の最も基本的なタスクすらも山積みになり、途方に暮れた。

3分足らずで完遂できるタスクなのか、1秒の遅れもなく今すぐ取り掛かるべきなのか、意識的に決断を下さなければならなかった。やりたくないという衝動に駆られると──つまり先延ばしにすると──そのタスクを放棄して、別のタスクに移った。

精神科医──もちろん医師免許を持ったプロで、僕が信頼する相手だ──に処方された薬に依存性があるとは思わない。投薬治療に抵抗はなかったが、タスクの時間管理をしたり、アラームをかけたり、友人や上司に頼んで自分が先延ばしにしていないか確認してもらうなど、小さな工夫を試してみたい気持ちもあった。実際に効果が出るまでは、試行錯誤の連続だった。

信頼できるサポートシステムを持つことも重要だ。僕の場合は、幸運にも協力的な家族や友人に恵まれた。ADHDはいわゆる目に見える障がいではないので、最初は自分の診断結果を理解してもらうのに苦労した。しかし、彼らは徐々に、どんな些細なことにもADHDの影響があることをわかってくれるようになった。

例えば、僕は何かを閉めることを忘れがちだ。ドアや引き出しを開けっ放しにしたまま出かけてしまう。シェアハウスの親友は、さりげなく閉めることを思い出させてくれる。友人があまりにも大勢押しかけてくると、僕は混乱し、自分の部屋に引きこもってしまう。それを知った親友は、特に不審がることなく、メッセージを送ったり僕の部屋に来て確認してくれるようになった。口頭で指示を受けると意識がもうろうとしてしまうので、ミーティングのあとは同僚にキャッチアップを頼んでいる。

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それ以外にも、「去る者は日々に疎し」で、顔を合わせなくなるとどんどん疎遠になってしまう。連絡を絶ったら、避けていると誤解されるかもしれない。だからインターネットミームをシェアするなど、なんとかして連絡を保つようにしている。デート相手にメッセージを送らなかったり、電話をかけ直すのを忘れたりするせいで、恋愛にも影響がある。相手が動揺して、僕が無視したと思うのも無理はない。そのため、恋愛に関しては常に罪悪感にさいなまれる。僕が自分から連絡するときは、心からその相手に会いたいということだ。

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「3分足らずで完遂できるタスクなのか、1秒の遅れもなく今すぐ取り掛かるべきなのか、意識的に決断を下さなければならなかった」──デヴァンシュ・セイヴニア

最近は誰もがADHDの特性に当てはまるとして、それがいかに〈うっとうしい〉ものかを語る風潮がある。しかし、ADHDを一般化することと美化することは全くの別物だ。残念ながら、この世代はあらゆるものをゲートキーピング、すなわち何が本物のADHDで何が違うかを区別したがる。まずは、ADHDが比較的新しい言葉であることを理解するべきだ。ただの注意力散漫ではないという事実をわかってもらうには時間がかかることは理解しているが、だからと言ってそれを矮小化するべきではない。何かに強迫観念を抱くことと強迫性障害が異なるように、ADHDにも個人差があるのだ。

これを読んで、僕の体験に深く共感したというあなたには、ぜひ精神科医の診断を受けることをお勧めしたい。信じてほしい。自分が悩んでいるものが実は障がいだったと誰かに認めてもらうことは、大きな安心感を与えてくれる。僕の考えが浅いと感じるひともいるかもしれないが、個人的にはADHDを〈障害〉だとは思っていない。僕はこれを症候群として捉えている。なぜなら、ADHDは他の障害と違って生産性だけに影響を及ぼすもので、社会生活を完全に不可能にするわけではないからだ。ここが生産性を最優先しない優しい世界なら、そもそもADHDも成人期ADHDも存在しなかったかもしれない。

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