『THIS IS BOSTON, NOT L.A.』から35年 THE PROLETARIAT復活

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『THIS IS BOSTON, NOT L.A.』から35年 THE PROLETARIAT復活

現在のシーンにも多大な影響を与えたハードコア・コンピレーションの金字塔『This is Boston, Not LA』。その中でも異質な存在感を放っていたのがTHE PROLETARIAT。周辺のバンドが右翼化・メタル化していく中で、彼らは独自の世界を築き上げていた。あれから35年。ファーストアルバムの再発と共にバンドも復活。フロントマンのリチャード•ブラウンに話を訊いた。

激しい暴力、ストレートエッジ思想の過激化により、80年代前半のボストン・ハードコアシーンは、ある意味、右翼的だったのかもしれない。しかしそのようなシーンのなかでも、THE PROLETARIATというバンドは、異質な存在であり、良くも悪くも人目を惹いていた。現在のシーンにも多大な影響を与えたコンピレーション・アルバム『This is Boston, Not LA』にも参加していたが、他のハードコア・バンドとまったく異なっていたのは、まずそのサウンド。バンドから生み出される金属的な不協和音は、MINOR THREATというより、GANG OF FOURやWIREなどに近かった。

更にサウンド以上に目立っていたのが、社会的意識の強い左翼的なアプローチだった。メンバーはパンクキッズから〈共産主義のクソ野郎〉といつも罵られていた。もちろん、そんなよそ者扱いのバンドであっても、すべての歌詞を覚えているような、忠実なファンもいた。ヴォーカルのリチャード•ブラウン(Richard Brown)は、「俺たちは米国を毛嫌いしちゃいない」とキッズたちに説明し、納得させるのに多大な労力を費やしたそうだ。

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また、メンバーたちはストレートエッジ・シーンにも関係していなかった。その事実が、他のバンドとのさらなる不和をもたらした。ストレートエッジは、MINOR THREATのシンプルな拘りから始まったのかもしれない。しかしボストンのそれは、新たな地点へと辿り着いていた。スティーヴン・ブラッシュ(Steven Blush)は、著書『アメリカン・ハードコア(American Hardcore)』で、それを見事に表現している。「ボストンは、ストレートエッジ執行人生誕の地だった。ロック史上初めて、クソ聖が、客の手からビールを叩き落とし始めたのだ。その愚行がボストン・ハードコアによって始まった」

周りのバンドたちは、アルコールの悪影響について、親のバカさ加減について歌うのに必死だった。それを横目にTHE PROLETARIATは、マクロレベルの政治を語っていた。ブラウンの歌詞は詩的であると同時に、政治色も濃かった。

「バラ色の社会を描き/子供たちに与える/彼らは程なく放棄する」「たとえ片方が勝利を主張しようと/どんな戦争でも両者が負け犬だ/利益を分けながら、次のタネを仕掛ける」「『言論の自由』 は、何を主張するかで変わる/ファイルに名前を載せる気はあるか? ブラックリストまでどれくらいだ?」

私はブラウンに電話した。思いやりがあり、心優しいブラウンは、現在郵便局に勤めている。2016年の秋、サクラメントの〈S.S. RECORDS〉は、THE PROLETARIATが1983年にリリースしたデビューアルバム『Soma Holiday』を再発した。更にPROLETARIATは再結成し、ツアーも敢行した。彼らは30年振りにステージに立ったのだ。

オリジナルメンバーでは演奏するのは、1984年以来ですよね。再結成はいかがですか?

去年の4月か5月あたりからリハーサルを始めたんだけど、最初の何回かはバツも悪かったし、少し緊張していた。だけど、すぐに自分の役割に入り込めたよ。3、4回目のリハーサルのときには、「いやこれ、マジで疲れるな。これほど難しかったっけ?」なんて感じだった。耳鳴りもするし。

THE PROLETARIATは、当時のボストン・ハードコアシーンのなかで、かなり異端な存在でしたが、当時のシーンは、あなたにとってどうでしたか?

どちらかというと俺たちは、ボストン・ハードコアシーンの端っこにいた。MISSIONS OF BURMAなんかと同じ系列だね。でも、シーンのキッズに、俺たちをリスペクトしてくれるヤツらはいた。特に俺たちを好んではいなかったけれど、嫌ってもいなかった。SSDのアル•バーリー(Al Barlie)が、よく俺たちをライブにブッキングしてくれた。いち度、彼に訊いたんだ。「なんで俺たちを誘うんだ? お前らのシーンのほとんどは、それほど俺たちを評価してないだろう?」。彼は、「続けて4つも5つも、ハードコアバンドを聴いていられない。何か他のサウンドで気分転換する必要がある」といった。俺たちは、場違いにならない程度のポジションで、ちょうどいい気分転換になるようなバンドだったんだろう。

THE PROLETARIATのような左翼傾向のバンドは、ボストンのハードコアシーンにはいませんでした。どのような経緯で政治に関心を持ったんですか?

当時、俺たちはみんな大学生だった。俺は歴史を専攻していたんだ。米国の歴史から、ラテン・アメリカの歴史、ソ連の歴史も学んだ。バンドのアイデアは、そこから生まれている。俺は、西に存在する不平等やら、革命やらのすべてを知った。そして、まともな世の中じゃないと気付いた。当時、貧富の差はかなり広がっていた。今は更に酷いけど、当時、米ソがあらゆる場所に鼻を突っ込んでいたんだ。みんながあちこちの国を、もしくはそのいち部を奪おうとしていた。まるでチェスのようにね。中南米の国々は、いわばチェスの〈ポーン〉だった。すべてに裏があって、非常にいかがわしかった。THE PROLETARIAT結成以前、俺たちは、GANG OF FOURやTHE CLASHなんかが好きだったんだけど、彼らには政治的な傾向があっただろ? だから俺たちもそっちへ傾いた。ボストンシーンのヤツらは、俺たちのそんなスタイルが大嫌いだった。俺たちの音楽を毛嫌いするヤツらもたくさんいた。それに多くのバンドは、右翼的傾向があったからね。特にDYSや、F.U.’S…まあ、彼らは冗談だったのかもしれないけれど、あとはSSDとか。彼らは右翼扱いされてた。だから、彼らとのあいだには、溝のようなものが常にあったのは確かだ。

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あなたたちは、様々なシーンから注目されていましたし、リスペクトもされていましが、あからさまな嫌がらせがあったそうですね。

〈THRASHER MAGAZINE〉のジェイク•フェルプス(Jake Phelps)と、その取り巻きは、俺たちを嫌っていたね。俺たちの顔にマイクをぶつけたり…特にベースのピーター(・ベヴィラクア:Peter Bevilacqua)が、バック・コーラスをしているときにね。俺たちのセットリストを奪ったりもした。なぜ彼らが俺たちをそれほど嫌っていたのか、まったくわからない。しかもそれはずっと続いたんだ。連中から、いちばんクソみたいな嫌がらせを受けたライブは、ギャラリー・イースト(Gallery East)で、MINOR THREATとSSDとやったライブだ。あれはしんどかったね。観客のほとんどは、俺たちを気に入っていたんだけど、ひと握りのヤツらのせいで、俺たちは悲惨な目に遭った。俺たちの演奏中にヤツらは騒ぎを起こしたんだ。そいつらが観たかったのはSSDとMINOR THREATで、俺たちが邪魔だったのはわかってた。けれどそいつらは、俺たちがFLIPPERの前座をしてライブにも来たんだ。どう考えても、やつらのお気に入りのバンドではないだろう。そして、そこでも騒ぎを起こした。ジェイクは、俺たちをずっと嫌っていて、俺たちも、ヤツがずっと嫌いだ。だけど、俺たちを毛嫌いしていたキッズたちが慕っていたバンドは最終的に、みんなメタルに流れた。そしたら俺たちは、ボストンで数少ないパンクバンドになった。結局キッズたちも俺たちを好きになり始めたんだ。

ボストンでは過激なストレートエッジ思想が生まれていましたが、あなた方はどのようにそれを掻い潜ったのですか? ファンの手からビールを叩き落とすほど、自分本位な連中と関わるのは大変そうですが。

俺たちはストレートエッジじゃなかった。俺たちは誰に対しても、どうしろとか、どう考えろとか、指図したくなかったんだ。ただ、対話を始めたかっただけだ。「俺たちはこう考える。あなたはどう考える?」ってね。そんなスタイルを好む連中にとっては、とてもありがたかっただろう。だけど、理解できない連中は、俺たちを憎んだ。彼らは、元々何かに参加したかったもんだから、シーンに捕らわれてしまったんだ。そのシーンには、キッズを捕らえやすい、強烈な個性があった。そして、常にネガティブだった。いつも、破壊とクソみたいに単純な暴力があった。しかし、俺たちは暴力的ではなかった。反暴力主義だった。いわば、平和主義者とかヒッピーみたいなもんだったのかもしれない。でも、そんなもんは当時のシーンに必要なかった。ハードコア・バンドが演奏をしているとき、ステージ前は気違い沙汰だったけど、俺たちのときには、女の子が立っていた。ピットがそれほど暴力的ではなかったからさ。俺たちと観客は、ギブ・アンド・テイクの関係に近かった。なにかしら指図したり、強制したりせず、すべてはありのままだったんだ。

Photo by Brigit Collins, courtesy of S.S. Records

たいていのハードコアバンドのメッセージは、とてもシンプルでした。ライブに来ている観客に、THE PROLETALIATの政治的歌詞を誤解されたりしませんでしたか?

あるとき、ガキが俺のところへ来て、「PROLETALIATか。ああ、ナチス野郎だよな」といった。「いや、まったく逆だ。100%真逆だ」と答えた。すると彼は、「お前らは、貧困層が俺たちの負担になっていると歌っている」なんて突っかかってきたんだ。あまりにも俺たちの歌詞の内容とかけ離れていた。俺たちは、階級闘争について歌っていたんだ。昔から続いている問題だ。俺たちは人種差別には反対だし、戦争にも反対だ。そうはいっても「俺の国だ。『右』でなければ『悪』だ」という誤解が、当時のシーンには蔓延していた。すべてがおかしかったんだ。

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この国を変えるべく、発言をする自由がないわけではない。なにもせず、この国の政府が進めるすべてを、〈正しい〉なんて受け容れられない。正しくないものもあるんだ。困惑したキッズが、俺のところに来て「お前たちは政治的だ。全てを憎んでいるんだろ」といった。もしくは、「お前たちは、反米国主義だよな」とかね。俺は基本的に反米主義ではない。ただ、この国の政府が進めてきた幾つかの政策に反対していた。俺たちには、意見する権利があるはずで、それも制度だ。「Splendid War」は、戦争を支持した曲だと信じている連中がいる。違う。皮肉なんだ。〈華麗な戦争〉なんかあるもんか。この曲は、最も誤解された。今回、『Soma Holiday』の再発について報じられると、たくさんのメッセージがきた。「あの頃、一緒に話したのを覚えている? 俺は当時、非常に右翼的な音楽をたくさん聴いていた。しかし、流れに乗っかっていただけで、本当は共感していなかった。そんな中、君たちは俺に、世の中にはもっと違うものがあると教えてくれた」ってね。

アルバムのタイトル『Soma Holiday』は、オルダス・ハクスリーの小説『すばらしい新世界(Brave New World)』に登場するドラッグ〈ソーマ〉に関連していますよね? 〈ソーマ〉は、自らを快楽に向かわせるだけではなく、社会も安定させ、支配してしまうドラッグでした。どうしてこのようなタイトルをつけたのですか?

レーガンが大統領だった頃は、国全体がクスリ漬けだった。空気孔に、なにが送りこまれていたのかは知らないが、人々はただひたすら、「イエス、イエス」と頷いていた。レーガンは、大家族におけるお祖父様のような威厳をモノにしていたんだ。その一方で、貧困層を助ける様々な連邦制度を切り上げた。すべてのそういったシステムを破壊した。みんなはそれに頷くばかりで、特に初めの2年間は酷かった。あろうことにこの男は、「学校給食制度を無くす」といった。国民も「それは素晴らしい」と返した。彼は、「ケチャップが野菜だ」と主張した。「子供たちは野菜を採っているよ。ハンバーガーにケチャップがついているから」とね。レーガン政権は、中産階層からすべてを奪った。そして貧困層からも、なけなしのすべてを奪った。やつらは、すべてが欲しかったんだ。彼こそ、ベーシックな階級闘争の担い手だ。彼らはこういっていた。「私たちは、産業界の金持ちキャプテンたちが、さらに金儲けできるように進めている。そして彼らがもっと工場を建てられれば、最終的には、あなたたちにもお金が流れ落ちてくる」とね。けれど、落ちてこなかった。組合への攻撃は、航空管制官たちにまで及んだ。俺は今、郵便局で働いている。レーガン以降、ストライキは禁止されている。牢屋に閉じ込められた気分だ。今振り返れば、彼が社会に働きかけた行為は、まさしく暴力だった。狂っていたんだ。そして彼は、すべてがうまく進むための完璧な引き立て役だったんだ。

『This is Boston, Not LA』は、ハードコア・コンピレーションきっての名盤と評価されていますが、当時のシーンを正確に表していますか?

先日誰かと話していたんだけど、そのとき、訊いたんだ。「そもそも、俺たちは知られているのか?」ってね。「『Boston , Not LA』でしょ。『Boston , Not LA』は、誰でも知ってるよ」。彼はそういった。俺は、それほどのヒットした気がしないけど、いいコンピレーションだとは実感している。かなり先を見据えていたから、踏切板みたいな作品かもしれない。もう少しあとにリリースされていたら、もっと評価されただろう。当時のレーベルの連中は、「今、このシーンは賑わっているから、今のうちに出しとけ」って考えたんだろう。でも多くのバンドが始めたばかりだったから、とにかく曲が少なかった。更に収録された曲も、6〜7ヶ月後にはかなり変化していた。少なくとも俺たちのものはね。レーベル側がもう少し待っていたら、よりいいアルバムになっていただろうね。誰かがいってたんだけど、俺たちが『This is Boston, Not LA』に参加できたのは、SSDが断ったからだ、ってね。でも、それは本当の理由じゃない。俺たちは、ハードコア寄りのサウンドだったけど、同時に、ハードコアシーン以外にもファンがいたからだ。まぁ、ハードコアシーン以外で、どれだけ売れたのかは知らないけどね。

このタイトルから、ボストン勢はロサンゼルス・シーンをライバル視していた、と捉えられていましたが、そんなことはないですよね?

ちょうど最近、THE FREEZEのクリフ・ハンガー(Clif Hanger)と話した。彼はよくいっていたよ。「俺はLAに対して、怒っていたんじゃない。俺はボストンのやつらに、伝えたかったんだ。LAは、LAだ。ボストンは俺たちのシーンだ。違う道を進まなきゃいけない。ここはボストンで、LAではない」ってね。俺たちが上だというわけじゃないけれど、彼らとは違った。だから自分たちのオリジナルを見つけて、それを演奏していたんだ。