この記事はVICE Belgiumに掲載されたものです。
デンマーク人フォトグラファーのミッケル・ホーリック(Mikkel Hørlyck)がオーフス港でヨルゲン・ペダーセン(Jørgen Pedersen)に出会ったのは、まったくの偶然だった。ペダーセンはこの街の住民だったが、ホーリックはそこで写真を学んでいて、学校の課題の被写体を探している最中だった。
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「彼はとても力強いアクセントでこう話しかけてきた。『35ミリと50ミリのレンズを持っているね。昔は新聞カメラマンと呼んだけれど、今はフォトジャーナリストというんだろ?』」とホーリックは回想する。「すぐに引き込まれた。彼は僕の目を真っ直ぐ見つめていて、まるで一目惚れのようだった」
ホーリックはロックを聴きおしゃべりをするために、ペダーセンを自宅に招いた。ふたりはすぐに意気投合し、ホーリックは最初の課題が終わった後も彼の写真を撮り続けた。「その後の6年間、僕たちはかなり頻繁に会っていた」とホーリックはいう。「彼はとても知性的で、ユーモアがあって、身の回りの世界に興味津々だった」
ペダーセンは40年間ヘロイン依存症に苦しんでいた。1980年代、彼と兄弟のオーレ(Ole)はオランダからこの薬物を仕入れ、輸送し、販売まで行なっていた。重度の薬物使用と疾患にもかかわらず、彼は依存症患者に複数のサービスを提供するデンマークの医療制度に助けられ、なんとか生き延びてきた。
2012年、デンマークは5つの薬物使用ルーム──医師の指示のもと安全に違法薬物を摂取できる専門クリニック──を開設した。2016年の評価の結果、このプログラムによって患者は「おおむね施設に満足」していて、「滞在中に社会的に受け入れられていることを実感した」という。
ペダーセンもこのクリニックの患者のひとりだった。毎日看護師がヘロイン2回分を投与し、日常的な問題の解決を助けた。「彼には自分のアパートがあって、病気になるたびに資金援助を受けていた」とホーリックは説明する。「このプログラムの目的は、ヨルゲンのような人びとに薬物から自由になるチャンスを与えることなんだ」
残念ながら、ペダーセンの依存症はかなり重篤だった。2回の投与のほか、彼は1日に5〜10回以上注射をしていた。2021年9月、ペダーセンは肝臓がんによる合併症でこの世を去った。彼はすでに息子のオーレを依存症で亡くしていた母親よりも長生きすると決めていた。しかし、悲しいことに、彼女はペダーセンの6週間後に亡くなった。
「つらい体験だったけれど、僕たちの絆はとても強かったから、美しい体験でもあった」とホーリックは語る。「ヨルゲンと彼のお母さん、彼と36年間添い遂げた友人のビアギッテ(Birgitte)との絆と同じようにね」
さまざまな意味で、ペダーセンはずっと前に亡くなっていてもおかしくはなかった。「彼は何度も運よく死を免れてきた」とホーリックは友人の知性と適応力を振り返る。「でも、彼ひとりの力で生き延びてきたわけではない。医者や看護師、いろんな助手が長年彼を支えてきた。そのひとたちが何度も何度も彼を救ったんだ」
ヘロイン依存を抱えるひとの人生を撮ることには数々の試練がつきものだが、ホーリックはそれを直感的に乗り越えようとしてきた。「依存症はとても重かったけれど、彼はとても優しいひとだった」とホーリックは続ける。「ヨルゲンの撮影がもともと2日の予定でも、4日お願いしたこともあった」
彼の死後、ホーリックは長年撮り溜めた写真を、生前尋ねることのできなかった疑問を探るフォトシリーズ〈Jørgen, a Mystery (2016-2021)〉にまとめた。本当のペダーセンとは一体どんな人物だったのか? なぜ彼は回復することができなかったのか? 彼はどうして自身の体を破壊しながらも、必死に生にしがみついていたのか?
「彼はドラッグ研究者であり、ハイになったフロイトであり、悪魔の寵児のようでもあった」とホーリックはいう。「洗練された魂を持ち、信心深い男で、外向的で、多才で個性的なひとだった」
複数のデンマークの出版社がホーリックの作品を出版したが、それぞれがペダーセンの人生の新たな側面に焦点を当てている。そのように、ホーリックは友人の旅立ち後もその物語を生きながらえさせている。
「最初の出会いから最期まで、彼を撮ることが大好きだった」