「彼は本当にすばらしい人間だった。俺たちの損失は計り知れない」。そう語るのは、コロンビアのもうひとつの伝説的メタルバンドMASACREのフロントマン、アレックス・オケンド(Alex Oquendo)だ。「彼はコロンビアのロックファンにとって父親のような存在だったし、スペイン語でメタルを歌った第一人者だ。コロンビアは今、ひとりの詩人を失い、ロックファンたちのために、南米の人々のために、そして人間の権利と自由のために矢面に立って闘ってくれた男を失った。彼の死がこの街、この国にもたらす意味の大きさを、人々は毎日話題にしている。彼の銅像、彼に捧げるモニュメントを建造しようという話も出ているくらいだ。彼を記念する巨大な何かが必要なんだ」「みんなの人生が物語なんだ」。ラミレスは1986年にこんな言葉を記している。そうだとすれば彼の物語とは、ふたつの街…スラム街と中産階級地域を跨いだ物語である。ビクトル・ガビリア(Victor Gaviria)監督による映画『Rodrigo D: No Futuro』(1990)で描かれているように、エスコバルがもたらした死とニヒリズムは、思わぬ副産物を生んだ。それは西洋世界の音楽から生まれたカウンター・カルチャーである。コロンビアの歴史におけるいかなる反乱とも違い、それはロック、パンク、そしてヘヴィメタルによって武装されたいち大ムーブメントだった。そのムーブメントの戦士たちは、郊外や丘の斜面に広がるスラム街で不満を抱きながら暮らす若者たち。彼らは時代の狂気にさらされて苦しみ、自ら武器をもって社会に立ち向かったのだ。
そのうちのひとりがフアネス(Juanes)こと、フアン・アリスティサバル・バスケス(Juan Aristizábal Vásquez)だ。彼は、現在世界でもっとも人気のあるラテンアーティストのひとりである。シャキーラ(Shakira)と同じく、フアネスは、コロンビアから世界に羽ばたいたポップ・スターの第一世代であり、同国の苦闘をメインストリームに知らしめる役割を果たした。そのキャリアはわずか17年だが、既に『Time』誌の〈世界でもっとも影響力のある100人〉に選出され、グラミー賞を22回も獲得している。国連でもパフォーマンスした。KRAKENとは違い、フアネスの音楽は非常にポピュラーであり、誰でもいち度は耳にした経験があるはずだ。「僕がKRAKENの音楽に触れたのは1986年のこと。14歳のときでした」。フアネスはそう語る。「その頃までにKRAKENはファーストシングルをリリースしていて、そこには『Todo hombre es una historia』と『Muere Libre』が収録されていました。この2曲は僕の人生の道筋を決定づけた曲であり、さらにそれがメデジンの音楽的ムーブメントの始まりでした。当時のメデジンは、行政とマフィアの凄惨な諍いの真っ最中でした。エルキン・ラミレスの強さとアーティストとしての資質、そして当初から彼と活動をともにしていたみんなが、僕だけでなく、僕の世代の多くの人間にとってのインスピレーション源なのです」
「当時、メタルは労働者階級のための音楽だと思われていた」。そう語るのは同じくベレン出身のSARGATANASというバンドのロマン・ゴンザレス(Roman Gonzalez)。「裕福な階級、中流階級の連中はメタルを聴く権利を認められていなかった。裕福なメタルファンなんて、完全に〈カスポソ(casposo)〉(「フケ」の意。勘違い人間を意味するスラング)だった。エルキンは男前だったし裕福だったが、同時にがむしゃらに働く男だったんだ。先見性もあって、全てのルールを壊して、音楽をプロフェッショナルのレベルで演奏していた。当時のメデジンの連中はそれが理解できなかった。ヤツらの考えは古くて、エルキンとは観ている時代が全然違ったんだよ」パブロ・エスコバルはロッカーだった、との主張もある。彼の権力が頂点に達すると、THE ROLLING STONES、REO SPEEDWAGON、サマンサ・フォックス(Samantha Fox)らを自らの邸宅に呼んで演奏させた、と噂されているが、それらを裏付ける証拠はない。エスコバルは犯罪行為と並行して、慈善家としても活動し、街に多額の寄付をした。彼の慈善活動のひとつである〈メデジン・シン・トゥグリオス(スラムのないメデジン)〉は、公共事業の常連スポンサーだった。1983年にはレコード輸入会社であるJIV社のラウル・ベラスケス(Raúl Velásquez)を支援し、メデジンで初めての大規模なロックコンサートをラ・マカレナ闘牛場(La Plaza del Toros La Macarena)で開催させた。出演者のなかにはフロリダ州タンパ出身のメタルバンドARGUSもいた。ラ・マカレナは1万5000人を収容する闘牛場だが、1985年3月23日には、凄まじい暴動の舞台になった。ARGUSのコロンビアにおける成功に突き動かされ、JIV社とラジオ・ベラクルス(Radio Veracruz)はバンドコンテストを企画。地元バンドのSPOOL、GLÖSTTER GLADIATTOR、DANGER、MIERDA、EXCALIBUR、PARABELLUM(当時はMENTES LOCAS名義)、LASSER、そしてKRAKENらに、国内のレコードレーベル〈コディスコス(Codiscos)〉との契約を争わせた。このイベントは、米国スタジアム・ロックイベントに多大な影響を受け、開催された。コンサートが始まると、ソフトロック・バンドのSPOOLはどうにも振るわなかった。32℃という猛暑にあてられたしまったのか、SPOOLの演奏する商業ロック・バラードは、激烈な不評を買った。彼らのステージは徹底的に叩かれた。アリーナからは石や砂が投げつけられ、観衆からは「カスパ! カスパ!(勘違い野郎の意)」というブーイングが飛び、バンドは最後まで演奏できなかった。次のGLÖSTTER GLADIATTORとDANGERも観客を落ち着かせるのに苦労したが、GLÖSTTER GLADIATTORは、まごうことなきカリスマ性で、そして、DANGERは彼らの貧しい出自をもって、どうにか観衆の心を惹きつけた。しかし、ウルトラメタルバンドのMIERDAは、その「クソッ(shit)」という意味を持つバンド名にたがわず、会場をクソみたいな状態に陥れた。ヴォーカルのオスワルド・オルドニェス・カルモナ(Oswaldo Ordoñez Carmona)は血まみれになり、オーディエンスをけしかけたのだ。反キリスト教のスローガンを吐き続け、「全てのものを地にたたきつけろ」と命じた。「俺を十字架に磔てくれ!」「悪魔は我々と共にいる!」と彼は叫んだ。
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MIERDA
コンサートは、メタルバンド、EXCALIBURへの投石で再開した。このバンドがそんな目に遭わなければならなかったのは、ひとえに彼らがプレイしていたのがウルトラメタルではなかったからだ。EXCALIBURはすぐにステージから追いやられ、観衆からは「PARABELLUM! PARABELLUM!(ラテン語で〈戦への準備〉の意)」という歓声が飛んでいた。ローマ時代を彷彿とさせる倒錯した雰囲気に満ちた会場で、観衆が待っていたのはブエノスアイレス郊外出身のバンドで、当時、もっとも過激なグループであったPARABELLUMだった。バンドの暴力的なサウンドは文字通り〈戦闘準備令〉であり、「Guerra」「Monopolio y Sexo」「666 Engendro」など、彼らの楽曲は、暴動の導火線だった。もともと〈バンド同士の戦い〉だったのが、もはや〈ファン同士の戦い〉へと変貌していた。
EXCALIBURやSPOOLに投げつけられていた石は、スタンド席に向けて投げられるようになっていた。そしてLASSERのセット中にスタンドで〈ホモ野郎のように踊っていた男〉が最後の決定打となった。パンクス、メタルヘッズ、ロッカーを巻き込んだ階級闘争、派閥間闘争が勃発したのだ。暴動を鎮圧するために派遣された警察隊は、まったく何の役にも立たず、応援を要請された消防隊は、アリーナをまるで共同温泉のように水浸しにしてしまった。地元の新聞『El Espectador』の記者は「醜聞だ」と書き立て、この事件を麻薬常用者の「乱痴気騒ぎと変わらない」と評し、改装したばかりの会場のトイレをめちゃくちゃにしたことを非難した。暴動は鎮圧されたが、結局、KRAKENは演奏できなかった。KRAKENの若きフロントマン、エルキン・ラミレスはバックステージに座り、静かにひとりの時間を過ごしていたようだ。そんな彼の信念から生まれる唯一無二の行動は、生涯にわたって続いた。あの日、PARABELLUMのフロントマンだったラモン・レストレポ(Ramón Restrepo)は当時の状況をこう振り返る。「音楽における急進主義の状況はよくわかっていた。あのバンド・コンテストで、アンダーグラウンドのメタレロ(メタルミュージック、メタルファン)は、商業音楽に反抗していた。そしてあの〈ジョレンテの花瓶〉(=コロンビア独立運動のきっかけとなる事件)のごとく、PARABELLUMほどヘヴィなサウンドを奏でられないバンドへの不満が噴出したんだ。ギターのカルロス・マリオ・“ラ・ブルーハ”(Carlos Mario “La Bruja”)もいってたよ。『PARABELLUMは、状況に油を注ごうとはしなかった。自分たちの音楽を演奏しただけだ』とね。俺たちはただ自分たちの音楽をプレイしただけだ。そしてエルキンは、それらの試練にどう対処すべきかわかっていた。違いというのは生来の多様性から生まれるもので、最終的にはその違いが、分離のなかにおいて団結するパワーを教えてくれる。それこそが人生に必要なんだ。エルキンは詩人であり、戦士だ。紳士であり、教養のある男として、あのジャンルにおいて特別な人間だった。もし嫌なことがあるのならば迎合するな、だけど常に敬意を払え。彼が実践していたように」コンテストの結末はうやむやにされたが、結局、1音も発しなかったKRAKENが勝利した。というのも、オーガナイザーのひとりであるカルロス・アコスタ(Carlos Acosta)がKRAKENの新マネージャーに就任し、コディスコとの契約を取り付けたのだ。KRAKEN は、1986に2曲入りのEPを2枚リリースし、1987年には伝説の『Kraken I』でアルバムデビューを果たした。ちなみにコンサートの暴動事件問題は、その後沈静化したが、事件を報道した新聞社のオフィスは爆破され、全焼した。
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「残念ながら1980年代後半に麻薬戦争が始まった」。MALEFICARUMというバンドのマリオ・アポンテ(Mario Aponte)は、当時このように書いている。「多くの戦士たちが経済的な必要に迫られて音楽から足を洗い、〈シカリオス(sicarios:殺し屋)〉の部隊に加入した。たくさんの知り合いが殺されたし、車両爆破に巻き込まれて死亡した。私たちはそれでも、危険な地域で開催されるパルチェやコンサートに足を運んだ。私たちは何も恐れていなかったし、おそらく、これこそが音楽へと注がれる魔法だったのだろう。何も恐れを知らないパワーだ。シカリオスはコンサート会場周辺にいて、私たちを襲われたりもしたが、そんなの関係なく活動を続けていた。こうして私たちは90年代を迎える…」1985年から93年にかけて、コロンビアはたびたび地獄絵図の様相を呈した。85年には首都ボゴタで未曽有の襲撃事件が発生した。〈コロンビア最高裁占拠事件〉だ。武装組織〈M-19〉 のゲリラ35人が最高裁判所兼法務省ビル(正義宮殿)に押し入り、100人以上の人質を取り、21人の最高裁判事のうち11人を殺害した。メデジンでは、パブロ・エスコバルによる、敵対者を標的にした、容赦ない殺人や爆撃が激化した。彼は、10代のシカリオスやプロの殺し屋を雇い、命令を実行させたのだ。コロンビア政府がエスコバルを米国に引き渡す、と脅すと、彼は、警察や政治家、ジャーナリストをターゲットに定めた。1989年までにメデジンは名だたる〈マフィア街〉になった。大統領選の候補者であったルイス・カルロス・ガラン(Luis Carlos Galán)は殺害された。また、別の政治家抹殺を企て、アビアンカ航空201便の爆破事件も発生した。さらに、コロンビア・アンデス地方のバレ・デル・カウカ(Valle del Cauca)で結成されたカリ・カルテル(Cali Cartel)が、コカイン取引の支配権をめぐり、エスコバルと抗争を始めた。しかし、コロンビア国内がいくら荒れていようとも、音楽シーンの成長は止まらなかった。メデジンから始まったムーブメントの規模は数倍にも膨れ上がり、MASACREやASTAROTH、NEKROMANTIE、BLASFEMIA、REENCARNATIÓNなどのバンドが登場。さらにボゴタからはNEUROSIS、DARKNESS、LA PESTILENCIA、カリからはKRÖNÖSとINQUISITIONなどが生まれ、それ以外の地方でもたくさんのバンドが結成された。様々なコンサートが開催され、マウリシオ〈ブル・メタル〉モントヤ(Mauricio “Bull Metal” Montoya)がDJを務めるメタル専門ラジオ番組〈ラ・コティーナ・イエッロ(La Cortina Hierro:鉄のカーテン)は、何万人ものリスナーを抱えていた。これらの盛り上がりによってシーンは大きく賑わい、1990年になると、コロンビアのメタルは、誰にも抑えられない勢いを誇り、シーンのオリジネイターたちは、向かうところ敵なしだった、なかでもKRAKENは、アンダーグラウンドシーンから抜け出した。1987年にはメデジンのカルロス・ビエコ・アンフィシアター(Carlos Vieco Amphitheater)でパンクスに襲撃されたりもしたが、自らのの音楽を携えて真摯なライブ活動を続けていた。
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MASACRE
ウルトラメタルバンドのREENCARNATIÓNのメンバー、ビクトル・ラウル・ハラミジョ(Víctor Raúl Jaramillo)、別名ピオリン(Piolin)は、彼らのサウンドとKRAKENのサウンドとの違いを回想する。「正直いって俺は、KRAKENの曲を3曲くらいしか知らないし、エルキンとまともな会話を交わした記憶もない。エルキンと俺は別に仲が良かったわけではないんだ。ただ俺は、彼の音楽や確固たる姿勢、KRAKENの音楽をできるかぎり多くのリスナーに届けようとする不屈の努力はすごいと思っている。人間の営みを超えた、真の創造物と向き合っているかのようだった」1989年8月、ボゴタ近郊ソアチャ(Soacha)の集会で、自由党の政治家、ルイス・カルロス・ガランが1万人の観衆の前で暗殺された事件により、コロンビアの希望は打ち砕かれた。ガランは、ドラッグ・カルテルに宣戦布告し、カルテル側は、ガランが当選したら終わりだ、とわかっていた。この暗殺は、20世紀有数のドラマティックな事件だった。ガランは、支持者たちに囲まれながら壇上を歩いている最中、公衆の面前で狙撃されたのだ。事件の24時間後、KRAKENは、ガラン追悼の意を込めたコンサートを開催した。ラミレスはステージに立ち、「平和、敬意、そして自由」の名のもとに、1分間の黙とうを促した。コンサート会場は4年前、KRAKENが演奏できなかった、あの〈ラ・マカレナ闘牛場〉だった。その3カ月後、KRAKENは2枚目のアルバム『Kraken II』をリリースした。このアルバムは、技巧的なハードロックがたっぷり堪能できる作品だ。音楽的にKRAKENは、他のバンドとはいっ線を画していた。サウンドはより複雑に、より進歩し、キーボードも多用されていた。それはまるで〈ラテン版QUEENSRYCHE〉のようだった。アルバム収録曲「Vestido de Cristal」は、コロンビアの若者向けラジオ番組で激しい議論の的になったが、それでも彼らはスターダムを駆け上がり、1990年にはベネズエラのポリエドロ・アリーナ(Poliedro)でも、2万の観衆を相手に演奏した。誰も彼らを「傲慢だ」となじらなかった。
TENEBRARUMのギタリスト、ダビド・リベラ(David Rivera)は、現状をこのように分析する。「俺がいいたいのは……、パブロ・エスコバルは国全体の不名誉、という事実だ。エスコバルは人気者のヒーローでも、その類でもなかった。ただの犯罪者だ。みんな、金稼ぎのためにコロンビアを利用しているんだ。明らかに、メデジンのメタル史は暴力の影響を受けた。でもメタルシーンだけじゃなくて、全国民がそうだ。パブロ・エスコバルを中心に据えてメタルの発展を語るなんて無理だ」南米メタルは、1985年から1993年のあいだに世界中のファンを惹きつけた。西洋のミュージシャンたち…たとえばブラックメタルバンドMAYHEMのメンバー、オイスタイン〈ユーロニモス〉オーシェト(Øystein “Euronymous” Aarseth)も、リアルに禍々しいサウンドを鳴らすコロンビアのバンドに、当然のようにハマった。ノルウェーのブラックメタルの先駆者たちが、いくら〈邪悪〉を自称しようと、結局、彼らはスカンジナビアのユートピアに火をつける中流階級の若者たちなのだ。その〈邪悪〉さも、コロンビアのリアルな日常と比較してしまうと大きく色褪せてしまう。そんな環境だからこそ、見せかけではなく、想像もできないようなサウンドや歌詞が生まれたのだ。たとえばMASACREは、ぞっとするような、示唆に富むタイトルで有名なバンドだ。デモ盤の『Colombia: Imperio del Terror(コロンビア、恐怖の帝国)』や『Cáncer de Nuestros Días(現代の癌)』、ミニLPの『Ola de Violencia(暴力の波)』。これらのタイトルには、強い意志のもと、彼らの生きた時代が反映されている。