8月8日、沖縄県の翁長雄志知事が膵臓がんで死去。67歳だった。保守派だった翁長氏が辺野古新基地建設を推し進める政府と対立するようになるきっかけは、第一次安倍政権だった2007年、高校の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」の軍強制に関する記述が削除されたことだった。集団自決とは何か──。16歳のときに渡嘉敷島でこの惨劇を体験した金城重明さんの証言を紹介する。
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金城重明さんは1929年生まれ、沖縄県渡嘉敷島渡嘉敷村字阿波連出身。現在89歳。金城さんは1935年より小学6年間を字阿波連の学校に通い、その後、字渡嘉敷の国民学校高等科(2年間)に徒歩40分かけて通った。海軍に入りたくて勉学に励んだ金城さんだったが、腎臓を患って軍人への進路を諦めた。 1944年9月、日本陸軍の海上挺身戦隊と海上挺身基地大隊が慶良間諸島に配備された。海上挺進戦隊の任務は、艇首に炸薬を搭載した小型のベニヤ製モーターボートで沖縄本島に向かう米軍艦船に特攻することだった。島々は特攻艇の秘密基地となった。
慶良間諸島では、1945年3月26日に座間味島と慶留間島で、28日に私が住んでいた渡嘉敷島で集団自決が起こりました。渡嘉敷では320余名、これに座間味と慶留間を合わせると610余名の人たちが集団自決を遂げました。 私たちは集団自決とは言わないで、「強制集団死」という言葉を使うのですが……。 米軍が渡嘉敷に上陸したのは3月27日ですけども、そのまえに空襲と艦砲射撃で島のすべてが焼き払われて、毒蛇のハブ1匹いなかったですね。 27日の夕暮れ時に私たちは阿波連を出て、豪雨のなか、夜間ずっと道を探しながら歩き続けました。歩いたこともないところですから、大勢が一緒に固まって山をあがっていき、28日の夜明けまえに島の北部、日本軍のにわかづくりの陣地近くに着きました。私の家族は両親と兄、私、弟、妹の6名です。ときどき艦砲射撃がありましたし何が起こるかわかりませんから、非常に緊張していました。ここで最期を遂げるかもしれないという予感がありました。 夜が明けて2〜3時間たったころ、軍の命令で私たち住民は恩納河原という窪地に移動し、一箇所に集められました。さほど広くはない場所です。住民を保護する意図もあったでしょうが、最終的に保護できない状況になったら、自決を想定していたのではないかと思います。小さい子供たちは泣いているし、みんな不安そうにしていました。 すると渡嘉敷の村長が「天皇陛下万歳」と三唱し、住民もそれに倣って三唱しました。当時、戦地における天皇陛下万歳は、天皇のために命を捧げることを意味します。「自決」という言葉を使わなくても、村長による自決の命令に等しいのです。そして村長も軍に命令されていたわけですね。村長の独断だった、軍は命令しなかったという人がいますが、村長は軍からの連絡がなければ、住民を死に追いやるはずがありません。 死ななければならないことはわかっていましたが、私はまだ16歳になったばかりでしたから、実際にどうしたらいいのかわかりません。それで少し高いところから大人たちの様子を見ていました。 役場の職員が手榴弾を配りました。正確な数はわかりませんが、20〜30個だったと思います。少なかったので、すべての家族に行き渡ったわけではありません。うちの家族にはありませんでした。しかも、実際に爆発した手榴弾は少なかった。
渡嘉敷島の集団自決における軍命の有無については諸説あるが、軍命があったとする説を補強する事実のひとつに、この手榴弾の住民への提供が挙げられる。家永三郎・元東京教育大学教授が起こした第三次教科書訴訟第一審(1984〜1989)において、金城さんは次の証言を行なっている。 〈実は、当時の役場の担当者に電話で確認をとりましたら、集団自決が起こるだいたい数日まえですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍のたぶん兵器軍曹と言っていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持ってきて、手榴弾をもう手渡していたようです。1人に2個ずつ、それはなぜ2個かと申しますと、敵の捕虜になる危険性が生じたときには、1個は敵に投げ込んで、あと1個で死になさいと。ですから、やはり集団自決は最初から日本軍との関わりで予想されていたことがわかるわけです。さらに集団自決の現場では、それに追加されて、もう少し多く手榴弾が配られていると〉
そして異常現象が起こりました。渡嘉敷村の阿波連の集落の区長さんが、家族に手をかけた……。区長さんは木の枝をへし折って小さな枝を取り除いて、棍棒のようにして持ちました。何をするのだろうと思ったら、自分の妻子に棒きれを振るいだした。殺しているんです。あぁこれか、と思いました。
──「これか」とは?
ここで玉砕するんだな、と。あのころの私は「自決」という言葉を知りませんでした。自分もこういうふうにしなければいけないと悟ってショックでした。
── 自決が始まったとき、止める人はいませんでしたか?
止める人はいなかった。捕虜になるのは不名誉なことだと考えていましたから。当時は命の尊さ、命の重さは教えられていない。それが日本の軍国主義教育なんですよ。
── 区長さんが使った木の枝の長さや太さを憶えていますか? 野球のバットと比べると。
もっと長くて細かったです。すると以心伝心というか、住民たちが木切れで叩いたり、鎌で頚動脈を切ったりして……どんどん自決が広がっていきました。私は兄とふたりで大声を出しながら、母と妹、弟に手をかけました。頭部に石をぶつけることもして。母に手をかけたときは、やはり……泣きました。父もそこで死にましたが、最期の状況はわかりません。弟は満6歳。3月でしたから。まだ学校にあがっていません。妹は4月から4年生です。母は40代で、父は50代です。 兄は19歳、私は16歳になったばかりでした。
── お母さんは覚悟されていたのでしょうか?
覚悟はしています。泣いていましたけどね。周囲には「殺してくれ!」と死の手伝いを呼んでいる人もいました。兄と私は血気盛んな少年でしたから、ほかの人にも手を貸していくわけです。最後には自分たちも死ぬ覚悟で、兄に「僕を先に殺ってくれ」と相談までしていました。……していたんですけども、生き延びてしまった。 ひとりの少年が現れて「米軍に斬り込もう」と言いました。じゃ、そうしよう。どうせ死ぬなら自ら命を絶つよりは、ひとりでも多くの米兵を殺そう。皇民化教育で徹底的に洗脳されていましたから、彼らに危害を加えるのがお国のためだと決意しました。私たちが歩きだすと、小学校6年生の女の子が3名ついてきました。「お前たち、女の子じゃないか。ダメだ」と言っても聞かないので、グループになって自決の場を出たんです。 ショッキングなことがありました。てっきり死んだものだと思っていた村長以下、大勢の住民が生きていたんです。彼らの姿を見た私は、米兵を殺して自分たちも死ぬ決意をしていたのに、また生き延びてしまった。 その後も空爆が続いていましたので発見されないように山にこもりました。食べ物がありませんから、海に降りては海産物や漂着した米軍の食糧を拾ったりして生き延びました。避難生活に入ってどのぐらい日がたったかわかりませんが、あるとき、食糧を調達しに行った先で私は米兵に遭遇し、両手を挙げて降参しました。10名近く若者たちが男子も女子も捕らえられ、米軍の水陸両用トラックに乗せられて収容所に護送されました。トラックが海に降りたときは、沈められるのかと不安になりました。渡嘉敷港から上陸して収容所に入れられて、そこで8月15日を迎えました。敗戦のニュースを聞いてね、そのときの心境は、ああ、よかったと。日本軍が残酷なことしたのを知っていましたから。
── 捕虜になるとき、殺されると思いませんでしたか?
そのまえにも米軍と遭遇したことがあって、そのときに彼らがわれわれ非戦闘員の安全を保障するのを知りました。鬼畜米英ではなかったんですね。
── お父さんはどんな方でしたか?
おとなしい人でした。視力が弱かったので、昼間は自分で歩けますが、夜間の移動は不自由していました。
── 金城さんはご両親のどちらに似ていましたか?
母のほうによく似ているんじゃないですかね。兄は父に似てました。
── お母さんはどんな方でしたか?
……はっきりものを言う人で、しかもやさしさがあって。父にも母にもあんまり怒られた覚えはないですね。
── 戦争が激しくなるまえの島の生活について聞かせてください。楽しいこともありましたか?
豚とヤギを飼っていて、ヤギに草を与えるのが楽しみでした。午後はヤギの草刈りで忙しいんですよ。草を刈るときはハブに気をつけなきゃなんない。とぐろを巻いていました。あとは、海に行ってですね、潜ってサザエを捕ったり。これは草刈りよりも少し楽しかったです。サザエは実は食べて、殻は売ればお金になります。 あのころ、島での生活は裸足でした。戦時中、沖縄戦が始まるまえに那覇に行ったことがあるんです。船を降りて那覇の街を裸足で歩いていて交番に引っ張られました。それで地下足袋を履いた。そういう時代でした。
── 当時、人は死んだらどうなると思っていましたか?
うーん……そうねぇ。命は捨てるもので、死んだ先にどうなるとか考えなかったですね。喜んで死ぬだけです、天皇の臣民としては。戦争中、人間の命は虫けら以下です。虫けらのほうが殺されないで生きていた……。 死後のことは、戦後になってキリスト教に入ってから教えられました。死に向かって生きるということは一人ひとりの課題です。クリスチャンは永遠の命を目指して、希望をもって向こうに行っちゃうわけですよ。信じてお任せする。これが我々の信仰です。
── 1945年3月28日の体験について、戦後にお兄さんと話をされましたか?
そのことには触れなかった、お互い……。2009年に兄は亡くなりました。もう歳でね。
── 島で集団自決のことはタブーで、いまでも皆さん話さないそうですね。
話はしないですね。僕はタブー視していないけど、お互い触れないことにしています。あんまり言いたくないけど、命令をした村長は生き延びました。彼は島の人じゃなく他町村の出身で、軍人あがりでした。
── お子さん、お孫さんは何人いらっしゃいますか?
3名です。孫は6名かな。
── 今日お聞きしたようなことをお子さんやお孫さんにも話されてますか?
あまり話さないですけど、たまには。大きい孫もいるし。でも、事実を聞かされたほうはショックでしょうね。でも、私が話すことは、生き延びた人間の務めだと思うんです。戦争は、神に対しても人民に対してもいちばん残酷な行為、そして最大の罪です。二度とそんな戦争をしてはいけない。これは自分への戒めでもあるし、ほかの人たちへの警告でもあるわけです。
金城重明(きんじょう・しげあき)
1929年生まれ、沖縄県渡嘉敷島出身。55年、青山学院大学文学部キリスト教学科卒業。60年、ユニオン神学大学(ニューヨーク)修士課程卒業。日本キリスト教団糸満教会(55~58)並びに同首里教会牧師(60~75)。沖縄キリスト教短期大学創設(57)以来、94年3月定年まで、講師・教授として教鞭をとる。著書に『「集団自決」を心に刻んで─沖縄キリスト者の絶望からの精神史』などがある。