1944年8月21日、800余名の学童を含む約1800名を乗せ、長崎へ向けて那覇港を出航した疎開船対馬丸は、翌22日夜、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により撃沈。およそ1500名が犠牲となった。生き残った学童はわずか59名で、国民学校4年生だった平良啓子さん(当時9歳)はそのひとりだ。
戦後、平良さんは19歳で臨時教員として教壇に立ち、通信教育で資格を取ったのち、39年間の長きにわたり、教え子たちに平和の大切さを訴え続けた。
現在80歳の平良さんは対馬丸事件の証言活動に奔走する一方で、毎週月曜日、オスプレイも離発着可能なヘリパッドを建設中の国頭郡東村高江に通い、座り込みによる抵抗を続けている。
しかし、現政権は憲法違反との強い批判を受けながらも安保法案を成立させ、さらに沖縄県との「対話」を打ち切り辺野古に新基地建設を強行しようとしている。沖縄戦から70年、対馬丸事件から71年──歴史を繰り返さないため、平良啓子さんの証言をここに掲載する。
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前提の話をするならば、1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのをなんとしても沖縄で食いとめたい。沖縄にたくさんの兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、まずは戦力にならない女子供を疎開させたほうがいいんじゃないか。女子供10万人のうち8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう──そういう計画のもと、私たちは疎開させられることになったようです。
そんなことを私たち子供は知りませんから、本土(やまと)へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました。
母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けばふたりに会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、ほとんど面影がないんです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。
私の家族は6人で、母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。6年生の兄はとても行きたがって、「行くんだ、行くんだ」とみんなに言い、自分で申し込みをしてしまいました。三高女(沖縄県立第三高等女学校)に行っていた17歳の姉が、8月ですから、夏休みで帰省していました。東京にいる兄の婚約者もいて、ついでだから一緒に疎開船に乗っていって、そのまま向こうで結婚する話になっていました。祖母と三高女の姉、6年生の兄、私、そして兄の許嫁(いいなずけ)の新しいお姉さんも加わり、うちからは5人が疎開することになったんです。
あとは、父の弟がお隣に住んでいまして、そこの子が、私の従妹(いとこ)にあたるわけですが、時子といいました。母は私に「時子に一緒に行こうなんて言っちゃいけないよ。家族が別なんだからね」と釘を刺していました。私が疎開することを知ったら、時子が一緒に行きたいと言いだすのはわかりきっていました。私は「一緒に行かんね」と言わなかったですよ。でも、噂で聞きつけて、「啓子もおばあちゃんも行くんでしょ。私も行かせて」と、時子は両親に駄々こねて泣きわめいたそうです。時子の両親は猛反対で、のちに防衛隊に入るお父さんも家にいましたから、「啓子とお前は家族じゃないから行くな」と止めたらしいのですが、時子が聞かないので、「勝手にすればいい」ということになったそうです。
村の人口は600人ぐらいだったそうですが、そのうち40人が出ていきました。田舎の山の奥からですよ。安全な場所かもしれないのに、どうして本土に疎開するのか、不安を感じた人もいたようです。
40人は夕方6時過ぎに村を出て、松明(たいまつ)をかざしながら細い山道を西に向かって歩きました。いまの奥間ビーチ(国頭村鏡地の海水浴場)のほうの港が船着場で、そこからポンポン船で那覇に行きました。時子は、にこにこ笑ってついてきました。
うちは母と1年生の妹と4歳の弟の3人が残りました。私たちが山道を歩きはじめるときに母が「来年の3月にはきっと会えるから、辛抱するんだよ!」と大きな声で言い、「さようなら」と言って別れたのをいまでも覚えています。あんなに行きたがっていた6年生の兄は「僕、お母さんにもう一度会いたい」と言って、山道の途中でおとなしくなってしまいました。鏡地(かがんじ)の浜から艀(はしけ)に乗るとき、兄は山のほうに向かって「僕、お母さんにもういっぺん会いたい」って言うんです。「男の人が何度もお母さんに会いたいって、あんたなんね?」と言って私は笑ったんですけど。そうして那覇に行き、8月21日には対馬丸に乗ることになったんです。
那覇市は国民学校3年生以上の生徒を対象に募集したそうです。親たちはみんな心配ですよね。行くも地獄、残るも地獄でしたから。先生たちはあちこちまわって疎開する子供たちを集めたようです。那覇市内の国民学校生をかき集めた約800人、一般疎開者約800人、その他、与那原とか南風原の人たちと私たちを合わせて、一説によると1661人が対馬丸に乗りました。8月21日午後6時35分、対馬丸を含む5隻が那覇港を出ました。対馬丸と暁空丸、和浦丸が疎開船で、蓮(駆逐艦)と宇治(砲艦)が護衛艦でした。対馬丸だけでも疎開者と船員や兵隊を合わせると1800人ぐらいが乗っていたそうです。疎開船3隻を合わせると何千人になりますね。
対馬丸は客船ではなく貨物船でしたから、船倉の棚みたいなところに押し込められて、ひしめき合ってひと晩過ごしました。那覇市内の学童疎開者には引率の先生と世話をするおばさんが1人ずつついていたそうです。私たちは一般疎開者ですから、赤ちゃんを連れている人もいれば、おじいさん、おばあさんもいました。そうして学童疎開者と一般疎開者が一緒になって、対馬丸に乗り込んでいたわけです。
翌22日の夕方、8月ですから船倉は蒸し暑くて、うちの祖母と親戚のおばあちゃんと私と時子の4人は、涼みを求めて甲板に出ていました。この親戚のおばあちゃんは絶対に行きたくないと言っていたのを村の区長さんたちが、息子に会えるんだからと強く説得したんです。おばあちゃんには横浜の大学で教授をしている優秀なひとり息子がいましたから。おばあちゃんは甲板で、ぶつぶつ文句を言っていました。「私ね、生きて帰れんよ。太平洋にこぼされに行くところなんだ」と。怖いこと言わんでよ、と私は思いました。そして日暮れ時、とうとう沖縄の島が見えなくなりました。だんだん寂しくなってきて、時子とふたりで「来なければよかったね」「お母さんに会いたくなったさ」と小さな声で言葉を交わしました。
寂しい気持ちを振り払うように時子とふたり、大きな煙突のまわりを走って鬼ごっこをしていると、6年の兄が船底から上がってきて、「おーい! みんな集まってるんだよ。早く下りてこい」と大きな声で呼ぶんです。なんだろうと思いながら、ふと見たら、対馬丸以外の4隻の姿が見えません。あとで聞いた話ですが、敵の潜水艦らしきものに追跡されているのを察知して4隻は逃げたそうです。対馬丸は大正時代につくられた古い船で速く走れなかったから、うっちゃられたんですよ。それを船員たちは知っていたかもしれないけど、私たちにはわかりませんでした。船底に下りると、みんなは救命胴衣を着て集まっていました。私たちも救命胴衣を身につけると兵隊さんがやってきて、「甲板に上がれ!」と言いました。揺られながら縄梯子を駆けあがりました。
船首の近くには那覇市内の学童と先生、世話をするおばさんたちが集まって、後ろのほうには私たち一般疎開者が集まりました。甲板に上がらないで、船倉に残っている人もいるようでした。甲板で子供たちが騒ぐのを先生たちが一生懸命鎮めようとしていました。そこに3人ほどの兵隊が駆けつけて、みんなの前で大きな声で言いました。「今晩は危ない!」と。次に注意事項を4つ。「1つ、お喋りをしてはいけない」「2つ、鼻紙を海に投げてはいけない。サトウキビをかじっている者がいるが、カスを海に投げてはいけない」「3つ、赤ん坊や泣く子供を連れている者、気分の悪い者は船底へ戻ること」「4つ、引率の教員は今晩、寝ずに子供たちを見張ること」──兵隊たちはそれだけ言って消えました。いろいろ言われて不安になっていると、三高女の姉が、6年生の兄と私と時子の3人を船縁に呼んで言いました。「もしも今晩この船が、アメリカの潜水艦の魚雷を食らったら、飛び込んで100メートル向こうまで泳いで逃げられる?」と。姉は何か知っていたんじゃないですかね。6年の兄は「たった100メートルだろ。僕、このぐらい簡単」と言いました。私は「飛び込みはできるけど、波の荒い海では泳いだことないから怖い」と言いました。時子も同じです。私たちは安波川(あはがわ)の川辺で生まれ育ったので、小さいころから深い水に飛び込んだり潜ったりして遊んでいました。ですから4年生までにはだいぶ泳げたんですよ。でも、そのときは台風15号が発生していて波がとても荒かったんです。その後、私たちは船倉に戻り、疲れもあっていつの間にか熟睡してしまいました。私はおばあちゃん子でしたから、おばあちゃんに抱かれて、ぐうすか寝ていた8月22日の夜、事件が起きたんです。
記録によると午後10時12分、ボーンと音がして、目が覚めたときにはもう体が水に浮いていました。波は荒かったです。対馬丸は燃えて、左側の船首近くにいた那覇の学童の子たちの大きな声が夜の海に響いていました。「お母ちゃん助けて!」「兵隊さん助けて!」「先生どこ行ったの!」と。まさに慟哭です。
私は「お姉ちゃん!」「おばあちゃん!」と一生懸命捜しましたが、さっきまで一緒だった身内が誰もいないんです。ひとりぼっちになってしまいました。そこらじゅうで子供が泣いていました。あとで聞いたことですが、重油で目や鼻をやられて息を引きとった子供がたくさんいたそうです。私は顔についた重油を剝ぎとりながら、泣きたい気持ちを抑えて、ぷかぷか浮いていました。そこに大波が来て、空の醤油樽が飛び出してきました。醤油樽を引き寄せて、絶対に離すものかと摑んでいると、まわりに死体が寄ってくるんです。「子供の頭が割れた」と泣いているお母さんがいました。目の前に丸い物がたくさん浮いているものですから、驚いて捕まえたらカボチャでした。食糧用に積まれていたのでしょう。子供たちの死体もカボチャもごちゃごちゃになって浮いて、波で寄ってくるんです。横では6年ぐらいの男の子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と泣きながら、母親の死体を引っ張っています。遠くの子供たちの声が静かになったと思ったら、みんな死体になって浮いています。子供をたくさん乗せたボートが、沈む対馬丸から押し出されるのが見えました。私もあれに乗っていれば生きられただろうにと思い、悲しくなりましたが、「来年の3月にきっと会えるから、辛抱するんだよ」と言った母の言葉を信じ、お母さんに会うまで死なないと思いなおしました。さっきのボートが転覆して、子供たちが海に散って流されていきました。対馬丸のマストを、子供を背負ったお母さんたちが「兵隊さん助けて、兵隊さん助けて」と大声で叫びながらよじ登っていくのが見えましたが、船がぐらぐらぐらっと揺れてお母さんと子供たちは海に落ちて流されていきました。傾いて燃えている対馬丸のうえを子供たちが「怖いよ!」「怖い! 怖い!」と叫びながら逃げ惑っていました。大人が子供たちを摑んで海に投げ入れている姿も見えました。
どうやって生き延びようかと思っていると、大波がぶつかってきて、女の子が私の胸にバタッと当たりました。びっくりして捕まえたら、この女の子が生きていて、なんと従妹の時子でした。「時子じゃないの!」と言うと、私のことがわかったとたん、時子が泣くんです。「怖いよ、怖いよ。どうしたらいいの、お母さん、お母さん」と大きな声で。同じ4年生でも、私と違って時子は、おとなしくて、目もぱっちりしていて、優しくて、泣き虫でもあったの。いつも私のあとについてくるような時子でしたから、「泣くのよしなさい。泣いたら物が見えないでしょ」と言って、醤油樽に向かい合って摑まっていました。励まし合って浮いてはいるけど、どこへ逃げれば生きられるのか、私たちにもわからない。ただ浮いているだけ。すると、不意打ちに大波がきて、時子が醤油樽から手を離したんです。そして、海に重なっている雑物や死体なんかのなかに、ガラガラっと時子が引きずられていきました。また波に戻されてくるんじゃないかと思って待ちながら、「時子! 時子!」と暗い夜の海の上で一生懸命捜しました。時子は白い半袖のブラウスを着ていましたから、白い物が見えるたびに時子じゃないかと捜しましたが、とうとう出てきませんでした。自分が精一杯でしたから、醤油樽を持ったまま後退りをして私は時子を捜すのをあきらめました。
やがて50メートル沖のほうから、人がざわめくのが聞こえました。あっちに生きている人がいる。あの人たちと一緒にいれば生き残れるかもしれないと思った私は、醤油樽を捨て、重なっている死体や物をかき分け、声がするほうへと泳ぎはじめました。しかし、大波には勝てず、ずるずると後ろに引きずられていきます。波に呑まれて溺れて死ぬのかなと不安がよぎったとき、安波川で男の子と泳ぎを競っていた私が考えた泳法を思い出しました。両足を横に投げてパタパタさせながら、両手は頭のほうでかいて、波がきたときに進むんです。それを繰り返して、ようやく人が集まっているところに辿り着きました。嬉しかったですね、やっと着いたんですよ。2メートルほどの竹を20本ぐらい編んだ筏(いかだ)でした。ところが、何十人かでこの筏を奪い合っているんです。強い者が弱い者を引きずり落とす。落とされた者がまた這いあがる。這いあがったらまた引きずり落とす。筏の上では死闘が繰りひろげられていました。大波のなかを泳いできて筏に片手をついて、息をふぅーっと吐いたら、流されていく男の人が私の両足を摑んで引っ張るんです。そうすれば、自分が筏に近づけると思ったんでしょう。筏から手が離れて、水のなかに引きずり込まれたとき、私は死ぬんだと思いました。でも、お母さんに会いたい気持ちが強かったから我に返って、引っ張っている男の人を両足で蹴って蹴って、蹴飛ばしたんです。男の人は手を離して流されていきました。私は泳いでいって、筏に片手をつきました。這いあがろうとしても、筏に乗っている人が邪魔をして上げてくれない。大勢の人が流されていくのが見えました。大人相手じゃどうにもならないし、いよいよ溺れて死ぬのかなと思ったけれど、やっぱり死にたくないんです。よーし! と思いました。たくさんの人が乗っているので筏は水に浸かっています。筏の上の人たちから見えないところで潜って、息が苦しくなったら頭を出す、それを繰り返しながら筏の真ん中に滑り込めば、生き残ることができるかもしれない。ずるずると引きずられていった人の空きに滑り込むことができました。竹を編んだ縄目に10本の指を突っ込んで離さない。体を小さくして俯いたまま水のなかに頭を突っ込み、苦しくなると顔を上げて「ふぅー」と息をする。そのあいだも筏の上の闘いは続いていて、落とされた人がどんどん流されていきました。
しばらくして筏の上は落ち着いて、夜が明けました。私は筏の真ん中に座り、黙って俯いていました。8月の太陽が照りつけて暑かった。筏の上には10人いて、お母さんの肩に抱かれた、歯が2本ぐらい生えかけた男の子がひとり、あとの9人はみんな女。7歳の女の子がいて、9歳の私、あとはおばあさんかおばさん、お姉さんでした。
遠くにたくさんの漂流者が集まって浮いているのが見えました。大きな渦が巻いていて、渦のこっちと向こうに漂流者が隔てられているんです。向こうに家族や時子がいるかもしれないと思いましたが、渦があるから行けません。そのとき恐ろしいものを見ました。サメです。サメが暴れて、漂流する人たちを水のなかに引きずり込んでいきました。
昼ごろ、飛行機が飛んできました。敵機が機銃で殺しにきたのかと、びくびくしながら見ていると、主翼に日の丸のマークありました。みんな大喜びで「友軍機だぁー!」と声をあげ、一生懸命に手を振りました。でも、飛行機は南へ飛んでから戻ってきて、また飛んでいってしまいました。
あとでわかったことですが、この飛行機は長崎の大村基地所属で、特攻隊の訓練の帰りでした。疎開船の安否を気遣って飛んでいたところ、漂流者が見えたので、救助船をよこすから頑張れと書いた紙を通信筒に入れて投下し、次に漁船を見つけて、遭難者がいるから助けてやってくれと書いた紙を通信筒で落とし、漁船が救助に向かって、たくさんの人を救いました。搭乗員は、救助を最後まで見届けたかったけど、飛行機の燃料が切れそうになったので、後ろ髪を引かれる思いで大村基地に戻ったそうです。そのときの搭乗員の方には戦後にお会いすることができました。夢のようでしたよ。
2日、3日、4日と漂流するうちに、筏の上の人が、10人、9人、8人、7人と減っていきました。睡魔に襲われて海に落ち、這いあがる力もなく流されてしまう。みんな眠いのを我慢するのに精一杯ですから、誰かが流されてもわからないんです。
3日たったころ、海に何かが浮いているのを見つけたおばちゃんたちが「お嬢ちゃん、食べ物かもしれないからとってきて」と言うんです。私が元気だったから言ったんでしょう。サメも見ましたし、少し怖かったけど飛び込んで、20メートルほど泳いで、浮かんでいた竹筒を脇に抱えて筏に戻りました。竹筒の栓を抜くと、なかには小豆ごはんがいっぱい詰まっていました。嬉しかったですよ。みんなで分けて食べるんですが、私には自分が多く食べたいという悪い気持ちがありました。すると、ひとりのおばあちゃんが「お嬢ちゃん、私のぶんはいいからあなたが食べなさい」と言いました。「おばあちゃん、本当にいいんですか?」と聞くと、「うん、あなたが食べなさい」、沖縄の方言で「やーが、かめー」って言うんです。「ありがとうね、おばあちゃん」と言って、おばちゃんのぶんもいただきました。
次の日、おばあちゃんが目を見開いたまま倒れて海に落ちたんです。「なんでおばあちゃん倒れるの?」と言って起こしたら、また海に落ちる。また引っ張りあげてもまた落ちる。もう、私も体力がなくなってきていました。ブラウスは破れ、日照りで皮膚がただれて、髪は抜け、もうふらふらでしたから、私ひとりではそれ以上おばあちゃんを引っ張りあげることができなかった。すると、後ろのおばちゃんたちが「おばあちゃんは死んでいるんだよ。だからもう海に下ろしなさい」と言うんですよ。私はびっくりして「生きてますよ。ほら、目を開いてます」と言ったけど、死んでるって言うんです。よく見ると、目玉は動かないし、波がかかっても瞬きもしない。私は子供でしたから、人は目を閉じて死ぬもんだと思っていました。おばあちゃんが目を見開いたまま死んだことにびっくりして、摑んだ手を離すかどうか迷ったんだけど、離さないとどうにもならないでしょ。体力がもたないんだから。離して、「おばあちゃん、ごめんなさい」と手を合わせたら、おばあちゃんは目を開いたまま、きれいな水のなかにぷるぷるぷると沈んで、また、ぷるぷるぷると浮かんできて、大波に揺られて遠くへ遠くへと流れていきました。私は手を合わせておばあちゃんを見送りました。
そのうち私のお腹がグルグル鳴って、うんちがしたくなりました。すえたごはんを食べたし、水に浸かったままでしたから。筏の端に行って、モンペの紐を解いてうんちをしたら、それをめがけて魚がいっぱいたかってきたんです。その魚を獲って食べればいい栄養になるけど、みんなふらふらで獲れる人がいません。いつも男の子と一緒に釣りをしてましたから、魚を摑むのは怖くなかったし、私なら獲れると思いました。すると、ちょうどトビウオが飛んできて、私の目の前に落ちたんです。すぐに捕まえて頭を摑んで絞めました。早く食べたいけど、うんちをしたお尻の始末をせんといかんから、「あとで一緒に食べましょう」と言って、7歳の女の子とお母さんの親子にトビウオを預けたんです。波に揺られてずっこけながらお尻の始末をしてモンペの紐を締めて、「さぁ、食べましょうか」と言ったら、魚がないんです。その親子が全部食べたんです。もう、悔しいですよ。空を眺めて、「お母さん、私の魚がない。私が獲った魚がない」と言って泣きました。「お母さん、いま私がどんな思いで海の上を流れているかわからんでしょう」と、涙をぽろぽろ流して。家に残してきた弟と妹の名前を呼んで「あんたたち、美味しい夕飯食べて、いまごろあたたかいお布団に寝てるんでしょう」と言って、いつまでも泣いていましたよ。
夜が明けました。お母さんが男の子におっぱいを吸わせていましたが、栄養を摂ってないからお乳が出ないんです。出ないから男の子が乳首を噛んで、そこから血が出て、お母さんが「痛い、痛い」と言っています。それを私は横目で見ていました。その子もとうとう飢えと寒さで亡くなって、お母さんは死体を抱いて泣いていましたが、夜が明けたら腕のなかにいたはずの死体がありません。睡魔は襲ってくるし波はどんどん被りますから、流してしまったんでしょう。とうとう筏は5人だけになりました。
私は筏の前に座らせられていました。大人たちは雲を島と見誤って、「お嬢ちゃん。あれ、島だから、あっち向けて漕げ」と言うんです。そう言われても波が強くて私の力ではどうにもならないし、流されるままにしていました。「島じゃないですよ、雲ですよ」と言っても「いや、島だ」と言って聞かないんです。
そうして流されていくうちに、あの恐ろしいサメがやってきました。怖くて、あのときは覚悟しましたね。目をつむって両手を合わせて、「天の神様、海の神様」と祈りました。この手、この足がサメの餌食になるのかと思ったら悲しくて、さすりながら祈りました。いま来るか、いま来るかとびくびくしたけど、来ないので目を開けると、サメの群は消え、それっきり現れませんでした。
6日目の夜中、耳慣れた音が聞こえました。私の家は太平洋に流れる安波川のそばにあって、母は豆腐をつくっていました。豆腐を固めるにがりに海水を使っていました。小学2年生のころからバケツを両手に持って、海水を汲んでくるのが私の仕事でした。太平洋を前に浜辺に座り、ひとりで歌をうたいながら波が打ちよせる音を聞いたものです。ズラズラズラ、ドドドドドド、ザラザラザラという音が耳に残っていました。暗い夜のなかで、懐かしい音が聞こえた気がしました。あの音は島が近づいたから聞こえるんじゃないか。そう思っていると、筏がどんどん上げ潮に乗っていきます。そして、とうとう目の前に島が突っ立って──。嬉しかったですね、あのときはもう。生きたぞ! 助かるんだ、と実感しました。筏はガラガラガラガラと浜辺にぶち当たって止まりました。ところが筏から降りようとすると足がふらついて立てません。ずっと波に揺られていましたから、やっと立っても島が揺れて歩けないんです。四つん這いになっていこうとしたら、7歳の女の子のお母さんが、黙ったまま私の背中にその子を乗せました。私は女の子をおぶったまま這っていって、安全なところに下ろしました。そして、みんなで夜明けを待ちました。
5人が上陸したのは奄美大島の西0.4キロに位置する無人島、枝手久島だった。力尽きて倒れた大人たちと7歳の女の子を残し、9歳の平良さんは水を求めてさまよった。雑草を口に押し込んで、その汁で喉を潤し、谷間に行けば水が湧く場所があることを経験上知っていた平良さんは、誰もいない島を低いほうへと歩いていき、ひとり黙々と地面を掘った。そして湧いてきた水を溜め、皆に分け与えた。しかし、そのときすでに7歳の女の子は息を引き取っていた。
その後、平良さんたちは漁船に助けられ、奄美大島の宇検村の診療所に収容された。対馬丸事件のことは箝口令が敷かれ、情報拡散を防ぐため、奄美大島に流れ着いた生存者たちはその後、島の最南端に位置する古仁屋(こにや)に集められた。そこで平良さんは故郷、安波の隣の集落、安田(あだ)出身の人の家に引き取られる。
平良さんの身内は、平良さんと三高女の姉、兄の許嫁が生き残り、祖母と6年生の兄、従妹の時子さんが亡くなった。
平良さんが安波に帰ったのは米軍が沖縄に上陸する約1カ月前、1945年の2月の終わりだった。遭難から半年が経過していた。
私が元気で帰ると、母は「啓子が帰ってきた!」と大喜びでした。でも、時子の家はお隣で、時子は私の従妹でしょ。時子のお母さんに会うのはとても苦しかったですよ。時子のお母さんに言われました。「啓子、あなたは帰ってきたね。生きて帰ってきたの? うちの時子は太平洋に置いてきたの?」。返す言葉なんてないですよ。泣いたまま家に帰って、隠れていました。そう言いたくなる気持ちもわかります。いまでも心にグサっと刺さっています。夢に出ますし、一生続くでしょう。戦争は、罪もない人たちを親も子もばらばらにして、そんな思いにさせるんです。
戦争の体験を語れと、あちこちから呼ばれます。そのために52歳で自動車の運転免許を取りました。二度と戦争をやってはいけないと言い続けないといけないから80歳を過ぎてもこうして動いていますけど、もし戦争がなければ、もう少しゆったりとした優しいおばあちゃんでいたかもしれないですね。戦争のことを思うと怒りが出て、人間性が変わってきているんですよ。国会の人たちを見るにつけ、新聞やテレビを見るにつけ、平常心ではいられないんです。こんな世の中に生きたくない。そう思っています。