沖縄で農業に従事していた兼城さんは妻と子供たちを連れ、満蒙開拓団* の一員として三江省(現・黒竜江省)方正県伊漢通に入植。終戦の年の7月の終わりに現地召集(根こそぎ動員)されたのち、1発の弾も撃たないままソ連軍により武装解除、シベリアに抑留される。足掛け4年もの収容所生活のあいだ片時も伊漢通で別れた妻と子供たちを忘れることはなかったが、難民となった妻子の運命はあまりに過酷なものだった。国策に翻弄され棄てられた一家の物語──兼城賢清さん(99歳)に聞いた。
MOVIE: OKINAWA 2015 – EPISODE 4 語り継ぐ者
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小さいころはどんな子でしたか?
うるま市の字仲嶺(あざなかみね)の豊原で生まれて育ちました。子供のころはですね、これといった遊びがあったわけじゃないんですが、私は小さいときから逆立ちが得意だったんです。学校の運動場をいつも逆立ちして歩いていました。私が逆立ちして歩いていると後ろから他の生徒たちも逆立ちをしてついてきたり、そんなこともありました。学校は仲喜洲尋常高等小学校(現・高江洲中学校)です。しかし、私は勉強嫌いで6年生の途中で辞めてしまいました。大人になって後悔したんですが。
うちの親父が農業をやっていましたので、6年生ぐらいから手伝いをしていました。家族で食べるぶんですが、おもにサトウキビ、それからサツマイモをつくっていました。馬を2頭、牛を1頭飼っていましたから、学校から帰ると、食わせる草を刈ったりしていました。
満蒙開拓団として派遣されたのはいつですか?
昭和16(1941)年7月です。25歳でした。
それまではどんな生活をなさってましたか?
ずっとサトウキビづくりの手伝いです。15歳から、いまの沖縄市の比屋根(ひやごん)に住んでいました。家の前が泡瀬干潟* でしたから、母は畑仕事の合間に海に行って、貝やカニなどを獲ってきて食事をつくってくれました。私も畑仕事の手を休めて、夏場は海水浴や潮干狩りなんかを楽しんでいました。いま沖で埋め立てをやっているんですが、干潟に近いところまでやられたら、こういった生物がいなくなるし、本当に困りますね。
満州に入植したときの話をお聞かせください。
新聞に載った満蒙開拓団を募集する記事には、開拓団として満州に行けば、いくらでも土地を与えられると、そんなことが書いてあったんです。私は一生農業をして生活しようと考えていました。それに結婚して小さい娘がふたりいましたから、どうせなら沖縄の狭い土地ではなく、広いところで農業をやりたいという気持ちがありました。それで満州に渡ったんです。30人ぐらいで一緒に行きましたが、私がいちばん若かったですね。まずは家族を置いて私ひとりで行って、1年後に戻って妻と娘たちを連れていきました。
最初に満州に行ったときのことをお聞きしますが、沖縄から満州までどうやって行って、道中どんなことを思っていましたか?
かかった日数は覚えていないんですが、那覇港から船で一昼夜かけて鹿児島に行って、鹿児島で一泊して、汽車で下関に行きました。下関から船で朝鮮の釜山に渡って、釜山から汽車でハルビンに。ハルビンから河船に乗って方正県の郊外の伊漢通(いかんつう)という農村地帯に着きました。
生まれて初めて船に乗ったわけですから、とても嬉しかったです。私は船酔いしないんですよ。デッキに上がって海を眺めたり陸を眺めたりして、いつまでも飽きなかったですね。汽車も初めてでした。ちょうど中国は紅葉が始まっていたんです。紅葉を見るのも初めてで、とっても珍しい感じもしたし、とてもきれいだと思いました。
伊漢通での開拓団の生活はいかがでしたか?
生活はあまりよくなかったですね。沖縄と奄美大島の出身者だけの部落で、私は水田班でしたからコメづくりをしました。1個班が20人ぐらいで、全部で11個班、そのうち水田班は3個班ありました。残りが畑をやる班で、トウモロコシや大豆、コウリャンやら、いろいろつくっていました。ところが、いざ収穫したら関東軍* に無償で供出なんですよ。私たち水田班は稲刈りをして、脱穀機で籾(もみ)を落としたものをすべて供出するんです。
兼城さんたちは何を食べていたんですか?
家族で食べるぶんだけ隠しておきました。政府に知られたら大変ですから、土に穴を掘って、穴のなかにコメも野菜も貯蔵するんです。
コメ以外の食べ物はどうしていたんですか?
自分たちで食べるぶんは畑でつくっていたんです。
無償とおっしゃいましたが、コメを供出するとき、代金はまったく支払われないんですか?
反物をもらうだけです。代金はありません。
反物をもらってもしょうがないですね。
そうなんです。着物を仕立てるわけでもないし、しまい込むだけです。
夢をもって入植されたのに、がっかりしましたか?
がっかりもするしね、自分たちがつくった穀物を自分たちの自由にできないし、出荷してもお金がもらえないから、いったいなんのために……。あのころ戦争が始まっているわけですから、戦争のための穀物をつくるために私たちは開拓団に募集されたんだなと感じました。
戦争が拡大していく予感はありましたか?
ありました。方正県の県庁から人が来て、日本は戦争に勝つんだという報告ばかりしていましたから。南方で敵の武器を分捕ったとか、そういう話ばかりするんです。戦争が始まったら、国民は勝つのを喜ぶでしょう。安心させて戦争に反対させないためにそんな報告をしたんだなと、あとから感じました。
戦況が悪くなっていると感じたのはいつごろですか?
男を全員招集したときです。女や子供たちをほったらかしにして、昭和20(1945)年7月25日に私たちは招集されました。ソ連が満州に侵攻* する少し前です。私たちは最後の招集で、佐藤という少尉が迎えにきて、門の前で家族と別れ、開拓団の同じ班から十数名がトラックに乗りました。兵舎がある佳木斯(ジャムス)というところに着いたら部隊は移動したあとで、一帯はさかんに燃えていました。燃えている倉庫から持ち出した軍服に着替えさせられ、銃を1挺ずつ与えられました。三八式歩兵銃ですね。銃を肩にかけて、部隊を捜して山のなかを行軍しました。
兼城さんが銃を手にしたのは、そのときが初めてですか?
そうです。
銃を持ったこともなかったわけですから、歩兵としての教練も受けていないのでは?
受けてないです。そんな人たちが銃を1挺ずつ担いで行軍したんですよ。大豆畑に来たら隊長が伏せなさいと言いました。そして、前方に敵がいるから撃ちなさいと。ところが私は大豆畑にかがんだまま動けなかった。敵の弾が頭の上の大豆の葉をスススッと切っていくのがわかるんですよ。頭を上げると殺られると思って、私は1発も撃てなかったんです。一緒に召集された我々の仲間に朝鮮人がいました。隊長が、その朝鮮の人を弾の飛んでくる方向へ斥候に行かせました。しばらくしてその斥候が帰ってきて、数キロ先の部落から弾が飛んでくると報告しました。そこに行ってみたら八路軍* はいなくて、部落の人たちが集まっていて歓迎されました。ごはんを腹一杯食べて、飯盒(はんごう)にも詰めて弁当にして、その部落を出ました。敵がいない部落からどうして弾が飛んできたのかはわかりませんでしたが、とにかくまた行軍しました。
山に入って、夜は雨合羽をかぶって野宿するんですよ。それで明るくなったらまた出発です。枯れ木を集めて火をつけて、飯盒でごはんを炊いて食べました。おかずはなかったです。20日間ぐらい行軍しましたが、最後まで部隊には遭えなかったですね。
歩いてまわっているうちに、いつの間にか、私たちの開拓団が住んでいる部落の近くに来ていました。隊長が、伊漢通の人は前に出なさいと言うので先頭に立って、背の高さぐらいの草をかき分けながら歩きました。ソ連の飛行機が、日本は戦争に負けたから武器を置きなさいと空から拡声器で呼びかけていました。私たちは武装解除しました。
武器を一箇所に集めて、ソ連の兵隊に監視されながら歩いて、伊漢通の本部の前まで行くと召集された者の家族がいっぱい集まっていました。伊漢通の仲間が5、6人、家族に手を引っ張られて列から離れていきました。うちの家内も私の前に来て、ここに残りなさいと言いました。ところがソ連兵に軍服の上から番号札を付けさせられていましたから、バレて銃殺されるのが怖くて、私は引き止める家族を振り払い、そのまま波止場へと歩いたんですよ。
兼城さんが行ってしまうとき、奥さんも子供たちも泣いたでしょう。
そうですね、はい。家内の話では、私のことがとても憎かったし、情けない人だと思ったそうです。しかし、引っ張られて家族に紛れ込んだ人たちのほとんどが、その後に亡くなりました。みんな私よりも体格のいい人たちでしたが、伝染病に罹ったそうです。戦後に帰ってからの話ですけど、家内が「あのとき、父ちゃんを引っ張り込んでいたら病気で死んでいたかもしれない。残らんでよかった」と言ってくれました。嬉しかったですね。私はずっと申し訳なく思っていましたから。
昭和17(1942)年にご家族を連れて伊漢通に行かれて、昭和20(1945)年に離ればなれになったわけですが、そのとき何人家族でしたか?
私が最初ひとりで満州に行っているあいだにこっちで三女が生まれていましたから5人で満州に行きました。ところが三女は満州に着いてから風邪をこじらせてしまって亡くなっているんです。満州でふたり生まれたので子供が4人。女の子ばっかりです。ですから伊漢通の本部前で別れたときは私を入れて6人家族になっていました。
奥さんと子供たちと別れて、シベリアまではどうやって行きましたか?
歩いて波止場まで行って、そこから船ですね。伊漢通の前に大きな川(松花江)が流れていて、船でハバロフスクまで行けるんです。船といっても客船じゃなくて米俵を積んだ貨物船です。こりゃ、私たちがつくったコメかもしらんなと思いながら、20人ぐらいで米俵の上に座っていきました。ハバロフスクから先は貨物列車に乗せられました。船での移動が1週間ほど、貨物列車は一昼夜ぐらいだったと思います。
捕虜になって殺されると思いませんでしたか?
殺されるとは思ってなかったんですね。
収容所では何をやらされましたか?
強制労働です。私たちの場合は煉瓦工場ですね。出来あがった煉瓦をトロッコで外に運んで、積んで。あとは貨車から石炭を降ろしたり。そういったものでした。
抑留されているあいだに亡くなった人はいましたか?
たくさん亡くなりました。私たちはいつも防寒靴のなかに草を詰めて作業に出ていました。そのぐらい寒かったんです。収容所のまわりは湿地帯でしたから長くて柔らかい葉っぱの草が生えていて、その草を刈って干してから詰めていました。毎日、作業から帰ると脱いだ防寒靴を天井から吊りさげて、下からストーブを焚いて乾かします。その靴に火がついて火災が起きたんですよ。皆、出入り口に走ったんですが、私は3段ベッドのいちばん上に寝ていたもんだから逃げ遅れて、あとから行ったら人が重なり合って倒れていました。それで諦めて食堂へ走って、通用口から外に逃げました。100名ほど亡くなりましたよ。あとで死体を外に並べましたが、真っ黒こげになっていました。私もあのまま出入り口から逃げようとしたら死んでいたかもしらんが……。
帰国できるとわかったときのことを覚えていますか?
直前まで知らなかったんですよ。ある日、ハバロフスクからずっと南のナホトカに移動になったんです。私たちを帰すための移動かなと期待したんですが、行った先にも収容所がありました。その前も3回ぐらい収容所を移っていますから、ただの移動だったかと思っていたら、4、5日たったときに帰国を知らされました。そのとき初めてわかって喜んだんです。
招集されたときからずっと家族のことばっかし考えていました。ソ連の捕虜になってシベリアに抑留されていた足かけ4年のあいだ、無事に沖縄に帰ったかな、どうなったかなということだけが頭にありました。毎日そればっかしです。
帰ったときのことをお聞かせいただけますか?
昭和23(1948)年の12月でした。ナホトカから私を含め30人ぐらいが日本の貨客船に乗せられて下関に着きました。下関から汽車で佐世保に行ったんですが、沖縄は当時、アメリカの統治下にありましたから、すぐには帰れませんでした。船で佐世保を発ったのは翌年5月の終わりになってからです。夕暮れ時だったと思うんですが、ホワイト・ビーチ* の港に着いたら、電灯がついているもんだから珍しく感じました。戦前に沖縄を出るときは電灯なんてなかったんですよ。それが道にも灯りがついている。沖縄は大都会になっているんだなという感じがしましたね。
船から上がったら米軍のトラックに乗せられて、高原(沖縄市高原)の丘の上のインヌミヤードゥイという小さい部落に行きました。沖縄の方言で「ヤードゥイ(屋取)」というのは小部落のことなんです。インヌミヤードゥイには米軍のコンセットハウス(簡易兵舎)があって** 、そこに行くと家内の弟の奥さんがひとりで迎えにきていました。その姿を見て、家内は帰ってきてないんだなと感じました。ところが帰り道に歩きながら聞くと、元気で帰ってるよと言うんです。あぁそうか、ナヘも帰ってきているかと思ったんですけど……子供たちの話はしませんでした。
奥さんのナヘさんが迎えにきていないのがおかしいですね。
そうなんです。家に帰ったら家内がひとりで座っていて、俯いて泣きじゃくっているんですよ。私は当時の苦労や子供たちのことを聞きたかったんですが、家内がいつまでも顔を上げないもんだから、そのとき感じたんです。子供たちは帰ってないんだなと……。子供たちをひとりも連れて帰れなくて申し訳ないという思いで苦しんでいるんだなと思いました。何があったかを話してくれと何度も頼みました。するとようやく顔をあげて、向こうで子供たちが亡くなったことを話すもんだから、子供たちを亡くしたのは、あんたが殺したんじゃなくて戦争が奪ったんだから、元気を出して戦争のない世の中を一緒につくろうと言ったんです。
兼城さんが捕虜になったあと、ナヘさんと子供たちに何があったんですか?
沖縄に帰ろうとしてハルビンを目指して歩いていったけれども途中で治安が悪くなって伊漢通に引き返したそうです。ところが、住んでいた家にはよそから避難してきた人たちが入り込んでいました。しかたなく地面に穴を掘って草を敷いて、木を伐ってきて穴に渡してその上に草を葺いて、そこでひと冬過ごしているんです。下のふたりの子は小さかったので、そのときに亡くなりました。冬を越したあと、家内は長女と次女を連れてハルビンに行って、そこで避難民の収容所に入ったんですが、家内と長女は病に倒れてしまいました。腸チフスに罹ったそうで、長女は回復せずに亡くなりました。ハルビンには日本人の子供をもらいに現地の人たちがたくさん集まっていました。腹を空かした子供に食べ物をあげて連れていくんです。それを見ていた次女が横になっている家内のところに来て、「お母さん、私も行きたい」と言ったそうです。家内はどうせ自分は生きて帰れないからと思って、「行きたければ行きなさい」と言って、どういう人が連れていったかも見ないまま、それっきり別れているんですね。江美子という子でしたが。
そのとき江美子さんは、おいくつでしたか?
6歳でした。
沖縄に帰ってからは、住んでいた土地に戻れたんですか?
そこには戻れないですよ、米軍に接収されているんですから。家がなくなった者のために工作隊という人たちが掘建て小屋をたくさんつくっていて、そのひとつに家内も住んでいました。そこで子供たちの話を聞きました。
戦後はどういうお仕事をされてきましたか?
小さい農業をこつこつしました。まだトラックも走ってないころ、馬と馬車を持っている友達から一緒に仕事をやろうと持ちかけられて。お金がなかったから模合* を起こして馬と馬車を買って、それで生活していました。
戦争がなかったらどういう人生を送っていたと思いますか?
戦争がなかったら沖縄で農業をして、裕福な生活はちょっと無理だと思いますが、家族みんなで安心して暮らしていたんじゃないかなと思います。だから私は、戦争だけは絶対させてはいけないということで頑張っているんです。若い人は、戦争に反対する大人になってほしいです。
沖縄は日本に復帰しました。しかし私が思うに、完全復帰になってないですよ。私たちが望んだ復帰というのは、米軍基地がなくて戦争もない、そんな世の中にしようということです。私は、アメリカがいるあいだは、いつか戦争が起こるんじゃないかなと心配しているんです。そのうえ国が辺野古に新基地をつくろうとしているでしょ。新基地がつくられると、そこも戦争の足場になってしまうんですよ。本土防衛のために沖縄が戦場になったんですが、次に戦争が起こったら以前の戦争よりひどいことになるんじゃないかなと思うんです。こりゃ、食いとめるために頑張らないといけないと思うんですね。