反基地非暴力闘争の発火点 伊江島の親子反戦地主 平安山良有さんと良尚さんの証言

伊江島は、沖縄本島の本部半島の西方約9キロ位置する周囲22キロほどの小さな島だが、戦時中は「東洋一」と謳われた日本軍の飛行場が建設され、それを奪おうと上陸した米軍との6日間の戦闘で、住民約1500人を含む4700人以上が犠牲となった。戦後は米軍によって強制的に土地を接収され、現在も島の34%の土地が返還されずに軍用地として使われている。戦中は日本軍の、戦後は米軍の基地があるために、島民は殺され、傷つけられ、脅かされてきた。

米軍基地への土地提供を拒み契約を拒否する地主がいる。「反戦地主」と呼ばれる人たちだ。1955年の米軍の接収に抗った伊江島の反戦地主たちの非暴力の闘いは、やがて沖縄全島の人々を奮い立たせ、島ぐるみ闘争へと発展した。
沖縄戦と土地闘争の生き証人であり、現在も反戦地主として闘い続ける平安山良有さん(84歳)と、息子で反戦地主の良尚さん(53歳)にインタビューした。沖縄の反基地非暴力闘争の出発点となった島で土に生きる者たち──その誇りと思想が、現在も確かに息づいている

Videos by VICE

父・平安山良有(へんざんりょうゆう)、1931年生まれ

平安山さんの子供のころはどんな夢をみていましたか? 大人になったら何になりたいとか。

夢というか、まぁ軍国主義の教育でしたから、国民学校高等科を卒業すると海軍に志願していただろうな、とは思うんですけど。隣近所の兄さんたちもみんな志願していましたので。……いま考えると大変な時代でしたよ。

沖縄戦(1945年)のときはおいくつでしたか?

まだ、13じゃないですか。

国民学校高等科1年ですね。4月16日に伊江島に米軍が上陸、5日後の21日までに全島が占領されます。当時のことで覚えていることはありますか?

空襲はその年の3月からありました。そのころから捕虜になるまで、ずっと壕住まいでした。昼は焼けたアダン* の跡で過ごして、夜は壕に戻って寝ていました。壕では私の家族が7名と、別の家に住んでいたおばあさんが一緒でした。近くにガマ** が3つぐらいありましたので、そこには親戚のおじさんたちがいて、食事は一緒でした。

* タコノキ科の常緑小高木で、海岸によく見られる。果実はパイナップルに似ており、ヤシガニが好んで食べる。何本もの気根(地面から上に露出した根)が幹を支えるため、防風林や防潮林、砂防林としても利用される。沖縄では古くからその葉で筵(むしろ)や茣蓙(ござ)、座布団、草履をつくった。かつては漂白した葉で編んだアダン葉帽(沖縄産パナマ帽)が欧米に高値で輸出されていたが、戦後に廃れてしまった。

** 沖縄各地に見られる自然洞窟(鍾乳洞)。沖縄戦時は住民の避難壕、日本軍の陣地壕や野戦病院壕として使われた。住民を追い出す、食糧を奪う、泣いている乳児の殺害を命じる、米軍への投降を許さないなど、ガマを舞台に日本軍による住民虐待が行なわれた。また、読谷村のチビチリガマ、伊江島のアハシャガマなどでは住民の「集団自決」が起きた。

そのときは何を食べていましたか?

ほとんどコメですね。日本の軍の食糧があちこちの家の納屋に山積みされていましたので、おじさんたちがとってきて。あとは米軍の乾燥ポテトが海から流れてくるので、空襲のない夜に拾ってきて食べました。城山(ぐすくやま)* の麓の、いまの中学校のあたり** の壕にいた人たちは飲み水もなかったようですけど、うちはおじさんたちが夜に汲んできましたので、水も食糧もまぁなんとか。

* 伊江島の中央近くにある岩山(標高172メートル)。村外からは「塔頭(たっちゅう)」の名で親しまれている。沖縄本島や東シナ海海上からよく見えるため、古くから近海を航行する船の目印にされてきた。沖縄戦時には米軍の激しい艦砲射撃により山の形が変わり、岩肌がすべて剝き出しになった。


** 城山の北西の麓にある伊江国民学校(現・伊江中学校)の高台を日本軍は「学校高地」と、米軍は「Government House Hill」と呼んだ。4月18日から20日(伊江島上陸3日目から5日目)にかけて、この高台をめぐって激しい攻防が行なわれ、日米両軍に多くの死傷者を出した。このとき、救護班として活動していた島出身の20代の女性たちが敵戦車への爆雷攻撃に参加し死亡している。

捕虜になったときのことを話していただけますか?

上陸を知ったときもあんまり怖いとは思っていなかったんですけど、捕虜になるのは怖かったですね。男は殺されて女の人は強姦されると聞かされていましたから。捕虜になった日はよく覚えていませんが、たしか4月の終わりぐらいだったと思います。「平安山の家族はどこにいるのか!」と同じ部落のおじさんが大きな声で呼ぶのでおやじが行くと、もうみんな捕虜になっていると言われました。ついていったら捕虜になりました。海に棄てられるという噂もありましたが、私たちは慶良間諸島の渡嘉敷島に連れていかれました* 。伊江島を出たその日は座間味村の阿嘉島まで行って、渡嘉敷に着いたのは次の日でした。海が荒くて大変でした。

* 伊江島占領後の1945年5月、米軍は伊江村民の約1700人を渡嘉敷島に、約400人を慶留間島に移送し強制収容した。渡嘉敷島は3月28日以降、米軍の占領下にあったが、日本兵も渡嘉敷村民も生き残った者は飢えに耐えながら山中に潜んでいた。日本兵は米軍に対しゲリラ戦を展開していたが、一方で村民を殺害してもいた。また、渡嘉敷島に連れてこられた伊江村の青年たち(男性1人と女性3人、一説には男性1人と女性5人)が米軍の要請で投降を呼びかけに山中に入り、日本兵に殺害されている。そして終戦から8日後の8月23日、日本軍部隊が投降、5カ月にわたった渡嘉敷島での戦闘が終結する。伊江村民が渡嘉敷村の民家に収容されていたため、彼らが帰島するまで2000人近い渡嘉敷村民は家のないところでの暮らしを余儀なくされた。米軍が引き揚げたあとは食糧の配給もなく伊江村民も渡嘉敷村民も過酷な生活を強いられた。慶留間島と渡嘉敷島には伊江村民収容地跡記念碑が建てられている。

渡嘉敷島での生活はいかがでしたか?

私たちが連れていかれたときには、渡嘉敷の人たちは山に避難していて、村にいませんでした。私たち伊江島の人間が家に住みつきましたから、渡嘉敷の人には本当に迷惑をかけました。渡嘉敷には約1年いました。終戦までは米軍がいたので配給がありましたが、米軍が渡嘉敷を撤収して翌年の正月あたりなると食べ物がなくて、もうソテツも食べました* 。食べたこともない草も食べました。

* ソテツは種子に有毒物質のサイカシンが高濃度で含まれているため、食用にするときには水に晒して毒を除くか、加熱して毒を分解しなければならい。毒抜きが十分でないと中毒になる。沖縄では大正末から昭和初期、沖縄戦時などにソテツを食糧にして飢えをしのいだが、中毒や栄養失調で死者も出た。これを「ソテツ地獄」という。

戦争が終わったことをどうやって知りましたか?

渡嘉敷にいるときに日本兵が壕から出てきたのを見て、それで終戦を知りました。一緒に渡嘉敷に行った仲間と、「戦争が続いていたら僕たちも来年あたりは兵隊になっていたんだろうなぁ」とか冗談を言ったものです。実際そうだったと思いますよ。その後、私と姉と妹の3名は今帰仁(なきじん)に移りました。家族みんなで行くつもりでしたが船に荷物を乗せられなかったので、おやじと母と妹ふたりはあとから来ました。今帰仁でも1年ほど暮らしましたが、アダンの葉っぱで筵(むしろ)をつくって芋と交換できたので、ひもじい思いをすることはなかったです。

ご家族や親戚に戦死された方はいますか?

腹違いの兄さんが防衛隊* で亡くなりました。

* 陸軍防衛召集規則により召集された沖縄住民を中心とする部隊。満17歳から45歳までの男子に軍人の資格を与え、兵力に加えた。1944年10月から45年3月にかけて召集し、沖縄戦末期には根こそぎ動員した。2万数千人が召集され、そのうち約1万3000人が戦死。

伊江島に戻ってからの暮らしはどうでしたか?

1947年3月の初めごろに帰りました。伊江島には戦時中に多くの県民を徴用して日本軍と國場組がつくった飛行場がふたつありましたけど、2年ぶりに島に帰ったら、米軍が新たに飛行場をつくっていて、3つになっていました。最初はマタ原(またばる)で集団生活しました。真謝* に移動してからは死に物狂いで畑を耕して芋を植えました。伊江島に帰ってからもはじめのうちはソテツを食べました。渡嘉敷に比べて伊江島はソテツが豊富でしたから、澱粉をとったりして、渡嘉敷とは違った生活ができました。半年たったら芋が獲れました。それからいろんな作物をつくって生活ができるようになりました。

* 伊江村の行政区のひとつで島の西側に位置する。土地の強制接収、逮捕、畑への放火、演習弾やパラシュートなどの民家や畑への落下、銃撃、爆音──といった米軍の暴力的統治に対して、真謝区民は陳情活動や立入禁止区域に入っての耕作など非暴力で抵抗。本土復帰後は、軍用地の継続使用を正当化しようとする日本政府との闘いになった。長年の闘争の結果、収用されていた多くの土地の返還に成功したが、経済的締め付けや切り崩し工作により反戦地主の数は激減した。

戦前に持っていた土地や家はどうなりましたか?

米軍に接収されました。私たち真謝の人間はマタ原から移動してからも自分たちの屋敷には行けませんでした。土地を接収されて、戦前の屋敷には行けないということで1956年、いまのところに移動しました。

米軍は平安山さんたちの土地をどうやって奪いましたか?

いわゆる「銃剣とブルドーザー」* ですね。最初に銃剣を持った兵隊が脅しにきて、あとからブルドーザーでならしていくんです。

* 米軍の暴力的な土地接収を表す言葉。米兵は小銃に着剣して武装し、立ち退きに抵抗する住民を脅して、家財道具を持ち出す時間も与えないほど強制的に、ブルドーザーで家屋を破壊し、耕作地を削りとっていった。このような接収は1953年の土地収用令公布後、真和志村(現那覇市)銘刈と安謝、小禄村(現那覇市)具志、伊江村真謝、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜などで強行された。

1955年6月、平安山さんは接収された土地で農作業をしていて米軍に逮捕されています。

そのとき農耕をしていたのは、現在、ハリアーパッド* があるあたりです。いまみたいに平坦ではなく、起伏のある土地でした。演習をしないときには演習場内で農耕することを米軍は認めていました。しかし、本来やらないはずの土曜日曜に演習をやるようになって、畑に入ることができなくなってしまったんです。その日は朝から集団で農耕をしていて、午後、武装兵がやってきて80名ぐらいが拘束され、そのなかから働き盛りの人間ばかり32名が逮捕されました。飛行機で嘉手納に連行されて、翌日、コザ警察署で行われた即決軍事裁判で懲役3カ月、執行猶予1年になりました。すぐに伊江島に帰るように言われましたが、帰らずに那覇に行って、自分たちが不当に逮捕されたことを街頭で演説しました。判決が下った日には伊江島から妻たちや子供たちも来まして、みんなで行進をして実情を訴えました。でもそれからが大変で、米軍がガソリンをまいてサトウキビ畑なんかも焼いてしまって、もう農耕できるような状態じゃなかったです。

* 垂直離着陸機ハリアーの離着陸場。1989年10月、伊江島補助飛行場に完成。これは当初、国頭村阿波の北部訓練場に建設予定だったが建設に反対する村民が訓練場に侵入し海兵隊と衝突(1987年1月)、予定地は伊江島に変更された。伊江村当局は見返り事業などを条件に受け入れを表明、反戦地主を中心とした抗議集会が行なわれたが建設は強行された。米海兵隊所属のハリアーは、95年12月から96年1月にかけて鳥島射爆撃場(久米島)に劣化ウラン弾を1520発誤射、2008年には鳥島射爆撃場の区域外に250キロ爆弾を誤って投下。また、77年に嘉手納沖合、90年に伊平屋島沖、94年に粟国島近海、95年に鳥島近海、99年に嘉手納で墜落事故を起こしている。

逮捕のときは銃で脅されましたか?

小銃の肩に当てるところ(銃床)で腰を叩かれました。

怖かったですか?

怖いとは感じなかったんじゃないかな。土地をとられると農民は生きる術がないわけですから、怖いとか怖くないとか、それどころではなかったような気がしますね。

photo by 亀山亮

米軍は沖縄のほかの地域でも、伊江島と同じやり方で土地接収をしたんでしょうか。

みんな同じようなやり方だったと思います。伊佐浜の接収* を実際に見たんですけど、武装した兵隊がいましたから。ただ伊佐浜は本島なので支援もあったんです。伊江島は離島で、当時は小さな船しかなかったので、ほとんど誰も支援に来ませんでした。支援したい気持ちはあっても、米軍が怖くて来れなかったんです。また人民党でさえ、手を出せないような事情** がありました。

* 1954年12月、米軍は宜野湾村伊佐浜の住民に立ち退きを勧告、翌55年3月11日に再度勧告したが住民と支援者は座り込みで対抗した。米軍は武装兵とブルドーザーを出動させて約3万坪の土地を強制接収し、逮捕者や負傷者が続出した。さらに7月19日、武装兵に守られたブルドーザーにより家屋が取り壊され、32戸136人が住む家を失った。


** 1954年10月7日、米軍は、土地接収反対の旗頭的存在だった瀬長亀次郎ら沖縄人民党員40余人を逮捕。弁護士不在の裁判で、瀬長に懲役2年の実刑判決を下し、沖縄刑務所へ収監した。翌55年3月11日、約300人の米兵が3隻の大型上陸用舟艇で伊江島に上陸。12日に真謝で測量を開始、農民に暴行を加え逮捕。13日から14日にかけて農民に銃剣を突きつけ、ブルドーザーで13戸の家屋と畑を潰し、火を放った。

乞食行進* について話していただけますか?

* 武装した米軍に土地と家を奪われた伊江島真謝の農民が、窮状を沖縄全島の人々に訴えるために起こした行動。真謝では栄養失調のため死者も出ていた。1955年7月、那覇の琉球政府前を徒歩で出発、糸満へと南下したのち北上、中部を通って最北端の辺戸まで歩き、翌56年2月まで続いた。そこでは農民歌人の野里竹松が弾く三線に合わせて「陳情口説(ちんじょくどぅち)」が歌われた。沖縄本島を縦断しながらの訴えは各地で理解と共感を呼び、やがて島ぐるみ闘争(沖縄全住民をあげた反基地運動)へと繋がっていった。

実情を訴えるための手段です。琉銀* の株の51%をアメリカが持っていた時代です。新聞社も米軍に睨まれるようなことは書きません。ですから伊江島で何が起きているのかを伝えるために、各集落、市町村をまわって訴えなければなりませんでした。実情を報告して、麦藁帽子にお金を入れてもらいました。そのとき初めてカンパという言葉を知ったんです。私は乞食行進では石川(現・うるま市石川)に行きました。

* 琉球銀行。1948年5月、米軍占領下の沖縄で米国軍政府布令によって設立された特殊銀行(特別な法律に基づき設立された政府系金融機関)で、現在の株式会社琉球銀行の前身にあたる。設立当初の業務内容は、米国軍政府資金の預託機能や一般銀行業務のほか、通貨発行権、金融機関の監督統制権、加盟銀行に対する援助、不動産債券の発行権など、中央銀行的な役割が大きかった

阿波根昌鴻* さんが撮られた写真で知りましたが、爆弾を解体していてふたりの男性が亡くなっています**

* 1903年3月3日生まれ。沖縄本島上本部村(現本部町)出身。25年、移民としてキューバ、ペルーに渡ったが34年に帰国、伊江島に住む。45年、沖縄戦で19歳のひとり息子を失う。敗戦後、米軍占領下の伊江島の土地闘争では常に先頭に立ち、本土復帰後も一貫して一反戦地主として闘う。84年、福祉と平和の村づくりを目指した憩いの場「わびあいの里」、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を建設。著書に『米軍と農民 -沖縄県伊江島-』、『人間の住んでいる島 沖縄・伊江島土地闘争の記録』(写真集)、『命こそ宝 沖縄反戦の心』がある。2002年3月21日死去。


** 1959年9月6日、石川清鑑さん(28歳)と比嘉良得さん(38歳)が、演習で投下された爆弾を解体し、火薬を取り出す作業中に爆死した。ふたりは55年に農業をするための土地を接収されながらも米軍との契約を拒否、スクラップを売って暮らしていた。

スクラップ(屑鉄)にして売るため、1トン爆弾を解体しているときに爆発して亡くなったんです。スクラップは当時にしてはカネになりましたから、ほとんどの人がやっていました。私もやりました。解体して切断して、那覇に持っていって売るんです。スクラップは伸ばすと鉄筋になるんですよ。

亡くなったおふたりはお友だちでしたか。

そうです。私よりひとつ下の人と10ぐらい上の人でした。その後、甥っ子が草刈りをしているときに、演習弾に直撃されて亡くなりました* 。米軍機が低空飛行で10キロぐらいの爆弾(反跳爆弾)を投下する演習をやっていて、ふつうは地面で1回跳ねて海に落ちるんですけど、それが当たって即死でした。草刈りをしていたのは演習場の外だったんですけど、翌日には米軍が現場をブルドーザーでならして、演習場のなかだったように偽装しました。当時は法律もなく、米軍のやりたい放題です。補償も何もありませんでした。

* 1961年2月1日、平安山良福さん(20歳)は、山羊の飼料にする草を刈っているところに演習弾の直撃を受けて即死。現場は演習場の外で、コンクリート製の杭を打った境界線から約70メートル離れていた。しかし、米軍は現場の偽装工作を行なったうえ、本件を自損行為であったとして、賠償請求に応じなかった。

息子さんの良尚さんが、5歳ぐらいのときに初めて運動の現場を見たとおっしゃっていました。

私たち親ふたりが抗議に行くので、良尚とその下の末っ子も連れていったんです。まだ学校にあがっていませんでしたから。米軍が慶良間からホークミサイルを伊江島に持ってきましたので、ぜったいに陸揚げさせないということで、飛行場で村民大会がありました。そのときも一緒だったと思いますね。

敗戦後、アメリカによる統治時代から1972年の本土復帰、現在に至るまで、長きにわたって土地闘争を続けてこられました。平安山たちを分断させるために米軍や日本政府はどんなことをやりましたか。

米軍は、地主が土地の提供を拒んで契約をしないと地料を払わないんです。地料といっても大した金額ではなかったんですが、そのころは収入源がほかにありませんから、生きていくために契約する人もいました。
本土復帰後は相手が、米軍から日本政府に変わりました。防衛施設局の人間が酒や刺身を買って地主の家をまわって、飲みながら契約をもちかけることもあったようです。うちにも来ましたけど、品物は持ってこなかったですね。「あんたが契約しないと、隣の畑の人が困るんじゃないか」などと言ったり、いろんなことで脅かしがありました。
真謝はほとんどの人が契約していませんでしたが、いちばん大変だったのが10年前払い* です。10年分の強制使用料を1回で払って、1カ年の収入として所得税がかかったので、残るカネはなかったです。それでたくさんの地主が契約に追い込まれました。そして残ったのが私たちなんです。

* 1987年、駐留軍用地特措法により、軍用地を米軍に提供する契約をした地主(軍用地主)には「土地使用料」が国から1年ごとに支払われ、契約拒否したけれども強制使用された地主(反戦地主)には「土地の損失補償金」(土地使用料と同単価)が10年分一括して前払いされることになった。しかし、前払いにともなう10年分の中間利息を控除した実質7年分程度の金額しか支払われない。一方、土地使用料は年払いで、しかも毎年数%値上がりしているため、10年間の合計受取額は、初年の固定額で計算される反戦地主より軍用地主のほうがはるかに多い。また、反戦地主は1年だけは収入が激増するため、累進課税で所得税、住民税の負担が重くなる。さらに、損失補償金を受け取ると、その土地は担保価値がないものとみなされるため、土地を担保にローンを組むこともできなくなる。

それでも続けてこられた原動力はなんですか?

戦争が、だんだんと怖くなったのかな。子や孫たちに私たちのような経験をさせてはいけないという意識が強くなっていきました。それが原動力だと思います。私たちが子供のときは「欲しがりません勝つまでは」という標語があって、毎日のように学校で言われていました。本当に日本は物がなかったですよ。地下足袋だってすぐには買えなくて、底のゴムを持っていかないと売ってもらえなかったですから。学校で教えられるのは戦争のことだけでした。だから沖縄の教職員は、二度と教え子を戦争に送らないという考えがあるんです。公選で行政主席になられた屋良朝苗* (やらちょうびょう)先生なんかもそうでした。本土の方は沖縄の戦争のことを本当に知らなすぎると思いますね。

* 1902年12月13日生まれ。沖縄県中頭郡読谷村瀬名波出身。沖縄と台湾で教職に就く。戦後、46年に沖縄に引き揚げ、以後、知念高等学校校長、50年に沖縄群島政府文教部長、52年に沖縄教職員会会長を歴任するなど、米軍統治下の沖縄で教育復興に尽力する。56年、全沖縄土地を守る協議会会長(事務局長は阿波根昌鴻)。60年、沖縄県祖国復帰協議会会長。68年、初の琉球政府主席公選(それまでは米国民政府任命)に「即時無条件全面返還」を掲げて当選。本土復帰までその職にあり、返還闘争が激化するなか、米民政府や佐藤栄作首相と困難な折衝を重ねる。復帰後は沖縄県知事を2期務める。97年2月14日死去。
photo by 亀山亮

戦争がなかったらどういう人生だったと思いますか。

考えたことないですね。もう生まれたときから戦争ですから。私は昭和6年、1931年生まれなんです。その年に満州事変が始まったでしょう。そして1年生のとき(1937年)に支那事変が始まりました。4年生のとき(1941年)に大東亜戦争があって、1945年で終わったわけですよね。防空演習は1年生のときからありましたよ。いまの芳魂之塔* のあるところは松林でした。口と鼻を手で押さえて、先生のあとをついて松林のなかを歩きました。あのころは戦争よりほかは考えたこともなかったはずです。

* かつての激戦地「学校高地(伊江村西江前)」の一画に、1951年4月に建立された慰霊塔(2002年3月建て替え)。伊江島の戦闘で犠牲になった住民と守備隊将兵の遺骨が納められ、戦没者の刻銘板には4278人の名前が刻まれている(2015年現在)。毎年4月21日(伊江島での地上戦が終わった日)に平和祈願祭が行なわれている。

若者、お孫さんの世代に言っておきたいことはありますか。

平和について勉強して、戦争をしない国をつくってもらいたいと思います。いまの政府がやっていることは安保法制も機密保護法も、戦前に近づいていくような気がしてならないですよ。これらをみんなが許していったら大変なことになるなぁと思います。そして憲法9条、これはもう絶対に守っていかないと。いままで70年も戦争をしないでこられたのも憲法9条があったからだと思います。基地があるから守られるということはないと思うんです。この伊江島がそうでした。伊江島の戦闘は本当に厳しかったですよ。城山には陣地がありましたので山の形が変わるほど攻撃されて、木が1本もなくなったんですから。

息子・平安山良尚(へんざんよしひさ)、1961年生まれ

伊江島でもまだ不発弾* が出ますか。

* 1948年8月6日、米軍が伊江島の川平新波止場で沖縄戦時の不発弾や未使用の弾薬を戦車揚陸艇(LCT1141)に積み込み、海洋投棄のため運び出す作業をしていたところ、荷崩れを起こし爆発。夏休み中だったこと、民間の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたことなどが重なり、死者106人、負傷者73人、8家屋が全焼する大惨事となった。また、89年4月には伊江村東江上で草刈り機が不発弾に触れ爆発、1人が死亡している。

出ますよ。不発弾処理のために避難することもあります。少し前にも、村の堆肥センターの整備工事をしている現場で不発弾が発見されました。まだまだ埋っている状態ですから、処理には莫大な時間もお金もかかるし、果たしてこれで戦争が終わったと言えるのかなと思います。

伊江島の米軍基地は、いまどうなっていますか?

占領当初は村内の土地の64%が米軍に接収されましたが、その後、徐々に返還されて現在は34%前後になっています。本土復帰後に私たち反戦地主に対して虫喰い返還といった嫌がらせがありまして、現在に至っています。島には米軍の伊江島補助飛行場があり、当初は空軍が使っていましたが、現在は普天間基地所属の海兵隊の分遣隊が使用しています。91年にハリアーが、2012年にオスプレイが配備されました。

虫喰い返還とは?

私たちのような反戦地主は、いまでは十数名まで減りましたが、かつては伊江村全体と言ってもいいぐらいの人数がいました。反戦地主を契約に追い込むために、そのなかからリーダー的な人たちの土地を返還したんです。地図を見るとわかりやすいんですが、軍用地のなかで虫喰い状態に返還されている*

* 反戦地主に所有権がある軍用地のうち、戦争で境界が不明確になったままですぐには使えない土地や、フェンスに囲まれていたり道路が通じていなかったりして現実的には使用できない土地を返還して損失補償金を得られなくするなど、反戦地主を経済的に圧迫する事例がみられた。またその際、反戦地主の土地だけではなく、隣接している軍用地契約をしている地主の土地も併せて返還し、地主間の対立を煽るなどして、反戦地主を切り崩していった

切り崩しのために、闘争を牽引する人の土地を返還する。

そういうことです。

お父さんの良有さんが闘っている姿を子供のころから見てこられたんでしょうか。

そうですね。おやじも強いですけど、亡くなったおふくろのほうが強かったです。1967年に団結道場* を建設するとき、起工式(12月6日)の最中に米軍のシャボ(ホイルローダー)が突っ込んできたんです。その様子を記者さんが写真に撮っていましたのでフィルムを抜かれたら大変だと、おふくろがカメラを持って走って逃げたんです。自分が5歳ぐらいだから、おふくろは30前後でした。保育士なんていない時代ですから、親と一緒に農作業に行ったり、反対運動に連れまわされたりしたもんです。

* 伊江島土地を守る会(1961年結成)が真謝の米軍演習場入り口前につくった闘争小屋。演習と土地収用、ベトナムへの侵略に抗議し、青年の平和教育の場とするのが目的。67年12月、団結道場の建設を決定。建設実行委員長には平安山良有さん(当時36歳)が選ばれた。米軍からさまざまな妨害を受けながらも70年5月に建設を始め、9月完成。団結道場の前面(演習場側)には、米軍に対する訴えが大書されている。路線バス「団結道場前」下車。

当時の反対運動は荒れていましたか?

そんなことはないですね。集まって三線を弾いて、自分たちがつくった歌をうたったりして、ここは自分たちの土地だと訴えました。

団結道場。「他国民に与えた不幸は必ず自国民に返ってくる 再び戦争の犠牲になるな!殺し合いではなく助け合う人間、奪い合いではなく譲り合う人間、瞞し合いではなく教え合う人間、 そういう人間が平和を作る」photo by 亀山亮

幼少から反対運動に接してこられて、現在のような考えになったのはいつごろですか?

小学校に入ってからは友達と遊ぶようになって、活動にはあんまり参加しなくなりました。ただ、反対運動をやっている琉大生とかがうちに泊まっていましたから、彼らの影響も少しはあったと思います。伊江島の歴史を知ったのは大学に入ってからです。茨城の大学で学生運動みたいなことをやって、出会った人に伊江島の出だと言ったら、「伊江島は反戦平和運動が凄いですよね」と言われました。その人は伊江島出身じゃないのに島の歴史に詳しかったんです。それから阿波根昌鴻さんや瀬長亀次郎* さんの文献を読んだりして、少しずつ理解していきました。当時は写真集** なんかもいろいろ出ていましたし。

* 1907年6月10日生まれ。沖縄県島尻郡豊見城村(現豊見城市)出身。2年間の兵役を務めたのち、32年に丹那トンネル労働争議を指導し治安維持法違反で検挙、懲役3年の刑で服役。その後、中国で軍務に就き、軍隊内で反戦活動を行なう。戦後、沖縄人民党結成に参加、書記長と委員長を務め、米占領政策への激しい批判を展開。52年、初の琉球立法院議員総選挙では最高得票数で当選するが、就任式で米軍への宣誓を拒否。54年、米軍による沖縄人民党弾圧事件で懲役2年の刑で服役。56年、那覇市長選挙に当選するが翌年の米軍布令により追放、被選挙権を剥奪される。70年の国政参加選挙で衆議院議員に当選し、以後7期連続当選する。本土復帰後の73年、日本共産党に合流し、中央副委員長となる。2001年10月5日死去。


** 伊江島の農民による土地闘争を記録した写真集に『沖縄 100万の叫び』(68年/嬉野京子)、『人間の住んでいる島』(82年/阿波根昌鴻)などがある。

良尚さんの世代は生まれたときから基地があって、米軍と隣り合わせの生活ですね。

小さいころから米兵を見て育ちました。悪いことすると両親から「アメリカー来るよ!」と言って脅されたものです。小学校はバス通学でしたが、バス停で待っているときに米兵からチョコレートを貰う子供もいました。トラックやジープから投げてよこすんです。私がいつも使うバス停には米軍車輛が通らなかったので羨ましかったですね。
怖いこともありましたよ。パラシュート降下訓練で、米軍が着地点に目印でスモークを焚くんですが、いたずらでとって逃げる子もいて、ジープで追いかけられてました。
私たちが小学生のころまでは、いまのように畑になっていなくて、松の木なんかもたくさん生えていました。降下したけどパラシュートが木に引っかかって困っている米兵がいると、登って外してあげたこともあります。子供なので身軽でしたから。そうすると、お礼に10セントや5セントをくれるんですよ。

本土復帰前ですね。10セントで何が買えましたか?

アンパンが2個買えました。怖かったことと楽しかったことが両極端でした。おふくろから聞いた話ですが、私の弟が小さいころ、落ちてきたパラシュートが被さって、びっくりして呼吸困難になり顔が真っ黒になったそうです。弟は27歳のとき心筋梗塞で亡くなりました。PTSDみたいな症状があったのかなと、いまでも思っているんですが……。

ベトナム戦争当時の記憶はありますか?

私は61年生まれですから北爆開始(65年)が4歳、サイゴン陥落(75年)が14歳ぐらいです。小学生のころ、ベトナム人の兵隊をよく見ました。当時の子供なのでベトナムといえばベトコンだと思っていましたから、「おい、ベトコンか?」なんて聞いたもんです。「違う。アメリカ人だ」と答えてましたが。いまは使われてない中飛行場でパラシュート降下訓練をやっていました。

お父さんの良有さんからスクラップ拾いの話を聞きましたが、良尚さんが子供のころもやりましたか?

やりましたよ。そのころには牛がいたんで、小学校高学年になると土日は草刈りに連れていかれました。草を刈っていて見つけることがあるんです。7キロぐらい模擬爆弾を拾うと25セントになりました。大金持ちになったような気がしたものです。スクラップ拾いが目的の人たちは落ちたのを見てすぐに拾いに行くんですが、私たちはたまたま見つけたら拾う感じですね。

物心ついてから、米兵が起こした事件の記憶はありますか?

女子中学生の全裸殺人事件が米軍の通信隊基地の裏側の道で発生しましたが、お宮入り(未解決)でした。亡くなった方は私の2つ上の3年生だったんです。途中で急に捜査をしなくなったので、米軍が絡んでいたんじゃないかと噂になりました。米兵の犯罪は揉み消しが多いんです。
隣の兄さんは信号弾で手首を撃たれました* 。ところが日本政府が裁判権を放棄してしまって、撃った米兵は罰金刑にしかならなかった。ほかにもいろんな事件があるんです。戦争が終わってずいぶんたっても、占領地では被害が出ています。

* 1974年7月10日、米軍の演習終了後、草刈りのために演習場に入った真謝区の山城安次さん(20歳)を米兵がジープで追いかけ、至近距離から発煙信号弾で狙撃、山城さんは左手首を骨折した。米国は当初、米兵が「公務外」であるため第一次裁判権を日本に渡すと通知したが、のちに「公務中」に転換。日米合同委員会で裁判権をめぐり争われたが、日本政府は75年5月6日、「問題を遷延させるのは日米間の友好上好ましくない」などの理由で米国の要求に従い裁判権を放棄。そのため被害補償はなされなかった。

犯罪以外に、これはおかしいということはありますか?

例えば、自動車税がYナンバー* は安いんです。3ナンバーの乗用車でも5万ぐらいのが、1万9千円ぐらいです。同じ沖縄の道を走っているのに、こんなデタラメな話があるって思います。高速も後払いですし。伊江島に来るフェリーも、一般の車と違って順番を待たずに載れるんです。どうせ現金払いじゃないんだから、いちばん最後に載せればいいのに。せめて載せるときに車内を点検するよう、船舶の職員に言っています。爆発物を積んでいるかもしれないですからね。武装して防弾チョッキを着てフェリーに乗る兵隊もいるんです。異様な感じがして、自分たちは戦争している国にいるのかなぁと思いますよ。

* 在日米軍関係者の私有車輛のうち日本国内で調達した車輛を示し、ナンバープレートにアルファベットの「Y」が記されている。米国から運び込まれた車輛には「E」、オートバイや軽自動車などは「A」となっている。自動車税が日本国民の2割に免除されるなど不公平な点も指摘されている。また、基地の外で交通事故を起こしたとき、日本の警察だけではなく在日米軍の憲兵隊も検分に立ち会う。事故が公務中であったことが米軍により「証明」された場合、加害者軍人の身柄は米軍に引き渡さなければならず、日本側は裁判権を公使できなくなる(日米地位協定第17条)。公務中の米兵が起こした事故による民間人への補償は、日本政府が支払ったうえで米政府に通知し、最終的に補償額の75%を米側、25%を日本側が負担する。(同協定第18条)。

最近、米軍は伊江島でどんな訓練をやっていますか?

オスプレイが配備されてから監視をしています。夜に野戦訓練をやっているのを車を停めて見ていて照明弾をあげられたことがあります。怖くなって逃げましたよ。オスプレイから降下して、人質を奪還する訓練だったと思います。わーわー声をあげて、倉庫のなかから空砲の銃撃音が聞こえました。あと、オスプレイは夜間にタッチ・アンド・ゴーという離発着訓練をやっています。3トンぐらいのコンクリートのブロックを吊り下げて。

騒音被害以外に、実生活でオスプレイによる被害や悪影響はありますか?

知り合いの酪農家のところで、その方は乳牛をやられているんですが、母牛と子牛合わせて4、5頭が死んだり、予定日でもないのに3、4頭が一度に産まれたり、そういうことが配備後すぐにありました。うちは肉牛を飼っていますが、正常分娩の20日前に胎盤剥離の状態で出てしまった。これまでなかったことです。オスプレイが発する低周波の影響じゃないかと考えています。

photo by 亀山亮

平安山さんの家は親子2代の反戦地主ですが、これまででいちばんキツかった体験はなんですか?

小中学校のころ、うちが基地に反対しているのは知られているので、「なんで反対するんだ」とか「お金が貰えるからいいんじゃないのか」とか言う友達がいました。「関係ないだろう」とは言ったんですが……。まぁ、真謝は全体が反対でしたから、さほど言われたわけでもないんですが。

いまは反戦地主が10軒ですか。少ないですね。

そうですね。でも、わかってもらえるんじゃないかと思います。少しの声でも誰かが守っていれば、国会前の安保法制反対デモのように、また辺野古の新基地反対運動のように、日本全国規模の闘いになっていくと信じています。

反戦地主をやめない理由はなんですか。

人間が人間を殺したらダメじゃないですかね。人間には口があるんだから話し合いでどうにかできるんじゃないかと思います。戦争をする国はいつか滅びるでしょう。戦争から生まれるものはなく、失うだけです。生産のための土地を、人を殺したり破壊したりする訓練には貸さない。それがおやじたちからの信念です。たとえ伊江島の反戦地主が自分ひとりになっても頑張ります。

お父さんの良有さんから、戦争体験を聞いていますか?

戦時中の話は、本土の方々が両親を取材されているときに横にいて耳にしたぐらいですね。向き合っての話はないです。

今日お聞きしたようなことを、お子さんに話されていますか?

話してないですね。去年20歳になった娘に「選挙では戦争に反対する人に投票しろよ」とは言っています。憲法9条を壊すと、また昔の昭和10年代の政治になっていくんじゃないかなと思います。沖縄のほとんどの人たちが基地に反対して翁長知事を選んだのに、政府はその主張に対して聞く耳を持たない。日本が本当に民主主義の国であれば、私たち一般市民の声を聞いて汲みあげるのが政治家の役割です。若い人たちには、政治に参加しましょう、と訴えたい。選挙に行かないのは間違いです。市民の声を無視する政治家を落選させるためにも投票に行きましょう。安倍総理の言っていることはまるでわからないです。憲法学者までが憲法違反だと言っている安保法案の成立をどうして強行できるのか。道理に反していると思います。ほんとに沖縄で言う、わじわじしますよ。

その言葉、沖縄に来て覚えました。

まったく、はらわたが煮えくり返るというかね。