陸軍中野学校出身者42名が沖縄に渡り、秘密戦の種を蒔いた。そして引き起こされる少年兵たちの死闘、強制移住とマラリアによる大量死、スパイ容疑の住民虐殺。カメラはこれまで語られなかった沖縄戦の陰の部分に光を当てる。ドキュメンタリー映画『沖縄スパイ戦史』を監督したジャーナリスト、三上智恵と大矢英代が、本作に込めたそれぞれの思い、未来への警鐘を熱く語る。
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もともと三上監督と大矢監督は琉球朝日放送(QAB)にいらして、先輩後輩の間柄だったそうですね。
三上:私がQABにいるときに大学院生だった彼女と出会いました。ハキハキと話すし生意気なことも言う。波照間島に住み込んで映像を撮っていたと聞いたので「波照間の言葉できるの?」と尋ねたら完璧な波照間語で返されて、凄い子がいるなと思いました。QABに入った年の9月にはオスプレイ配備に反対する県民による普天間基地の全ゲート封鎖を大型台風が直撃するなかで現場リポートしたぐらいですから、群を抜いた後輩でした。
大矢:2012年に私は入社して、14年に三上さんがフリーになられたので、QABで一緒に仕事できたのは2年ぐらいです。私は記者で三上さんはキャスターだったので、ふだんのニュースの取材に同行することはありませんでしたが、自分が仕上げたリポートを視聴者に届けてくれるリレーのアンカーのような存在で、取材を受けてくれた方の思いを安心して託せる先輩でした。
フリーになって三上監督は沖縄の基地問題を扱ったドキュメンタリー映画を3作(『標的の村』、『戦場ぬ止み』、『標的の島 風かたか』)撮られています。そのうえで今回さらに『沖縄スパイ戦史』に取り組んだ動機はなんですか?
三上:それまでローカルのニュースのキャスターを19年やって、1週間の平日5日のうち3日は基地問題をトップニュースで報じてきました。それほど沖縄の人たちが基地のことで苦しんでずっと闘ってきているのに、これが全国に伝わらないという口惜しさが原点です。『標的の村』は、基地に反対している人たちの姿を通して、この国に住むすべての人に問いかける映画です。「あなたが住んでいるところが戦争の訓練の標的にされたらどうしますか?」「反対しますよね?」「お金も武器もなく、座り込むしかなかったら、あなたも一緒に座りませんか?」と。そこから訴えないと、辺野古の問題も高江の問題もわかってもらえない。なんでこの人たちは勝てないものに対してこんなに闘えるんだろう、なんでこんなに苦しいのに歌ったり踊ったりできるんだろう、なんでへこたれないんだろう──。反対運動の現場には、そんな人間の普遍的なテーマがたくさんあります。続く2作も『標的の村』のスタンスを踏襲し、3作目の『標的の島 風かたか』では、沖縄県民の強さ、しなやかさ、彼らが受け継いだ文化の豊かを描き切った自負があるんです。次の戦争に向かっているこの日本の間違った道のりをみんなに気づいてもらいたかった。でも、ある一定層の人たちしか観てくれないんですね。首根っこを摑んで頭をガクガク揺さぶり、「目を覚まして!」と叫ぶようなインパクトが過去3作に足りなかったのかもしれない。であれば次をどうするかと考えたときに、沖縄戦しかないなと思ったんです。でもこれは奥の手だから、沖縄戦でダメだったら私にはもう弾がない。そのぐらいの気持ちでこの映画に臨みました。
陸軍中野学校出身のエリート将校と沖縄の少年ゲリラ兵部隊〈護郷隊〉、波照間から西表への島民強制移住と多くの死者を出したマラリア地獄、住民虐殺事件、自衛隊の南西諸島への増強と軍隊としての本質的な問題など、この映画はとても多くを語り、濃度が高い作品になっています。全体の流れを構成するのに苦労されたのでは?
三上:出口は自衛隊による島々の要塞化の問題。これは最初から見えていました。というか、島の運命がどう変わるのか、これをわからせるために、護郷隊、戦争マラリア、住民虐殺といったファクトを配置していく。そのために取材した映像は、実はありすぎるぐらい膨大にあるんです。しかも私と彼女はそれぞれ別のパートを取材してますから、ふたりが持ち寄ったパズルのピースを取捨選択しながら有機的に組み合わせていくのが難しかったです。基本的に素材は、インタビューと資料映像の2種類です。それらを動的に面白く見せるため、私たちが手探りで取材していった過程を観客が謎解きしながら追体験できるような構成にしました。
大矢:三上さんは沖縄本島で護郷隊と住民虐殺を中心に、私は波照間島と与那国島、石垣島、あとはアメリカを取材しました。沖縄在住の三上さんが東京の編集室に来たのが今年の2月中旬、その段階で初めてふたりが撮った映像の全容がわかりました。出口はいま南西諸島が置かれている危機的状況と決まっていましたけど、そこに至る構成はその段階までわからないんです。例えば、波照間のパートが真ん中にくるのか、まえにくるのかでも大きく違ってきます。
波照間がまえにくる可能性もあった?
大矢:そうですね。完成した映画は護郷隊から入り、スパイ戦のために42人の陸軍中野学校出身者が沖縄全島に配置されたことが語られ、そのうちのひとりが波照間の島民を強制移住させた話に繫がります。ですが例えば、波照間という小さな島の事件から始めて、それを起こした人間と同じ任務を帯びた者が実は42人いたと広げていく図も描けるわけです。ただ、護郷隊から入ったほうが、中野学校出身者が目論んでいた秘密戦の全貌がよりわかりやすくなるとの判断から、いまの構成に行き着きました。
この映画の取材期間はどのぐらいですか?
三上:およそ10カ月かな。ただ、私は護郷隊の取材を始めて10年になるんです。映画の冒頭で使った護郷隊の慰霊祭の映像は2015年のものですし──。
大矢:8年ぐらいまえに私が撮った映像も入ってますし、そういうのを抜いて、約10カ月ですね。
元護郷隊の証言者が十数人出てきましたけど、そのなかで瑞慶山良光さんを主人公としてメインの語り手に選ばれたポイントは?
三上:私はこれまでの作品で、山城博治さんや島袋文子おばあといった強烈な主人公に恵まれていました。観る人の眼を奪ってしまうような存在ですね。ところが今回は、おじいちゃんたちのなかでそういう突き抜けた方がいなかった。現場に行ってもらったりができれば、その方を主人公にしたかもしれないですけど、みんな90歳手前なので基本的には座ってのインタビューになります。そのなかで良光さんは最初に会ったときから、なんていうのかな、チャーミングなんだけど不安定で傷つきやすくて……なんとかしてあげたいと思うようなタイプのおじいちゃんだったんです(笑)。あと、ポイントとしてはやはりPTSDですね。
映画では、戦後に良光さんがPTSDに苦しみ、近所の人たちからは「兵隊幽霊」と呼ばれていた事実が語られます。
三上:最初に会ったときに、PTSDの話を少し聞いたんですけど、その話はしたくなさそうだったんです。自分が精神的におかしくなって座敷牢に閉じ込められてた話って、つらくてふつうはできないですよね。でも、彼の場合はキリスト教と出会って、それを乗り越えたからなんとか話せる。面白いなと思って、取材の帰りにカメラマン(平田守)に、「この人、主人公にならないかな」と言ったら、「えっ、そう?」という反応で(笑)。2回目に行ったときにも「やっぱり私、良光さんでイケると思うんだけどな」と言ったけど、「う〜ん、ほかのおじいちゃんとの違いがわからない」と言われて。でも、ちゃんとつくりこんであげれば、ぜったい輝く人だと確信してました。いまはもう、良光さんの一挙手一投足に泣けるぐらい好きですね。
観ているうちに良光さんがだんだん好きになっていきました。
三上:めっちゃキュートなんです。頭がよくて、やさしいし、お洒落なんですよ。
元海兵隊員から少年兵を撃ったという重要な証言を得ています。アメリカでの取材を担当されたのは大矢監督でしたね。どうやって元海兵隊員まで辿り着いたんですか?
大矢:去年の5月、ちょうど私はロサンゼルスで開かれるアメリカ人の友達の結婚式に出席するのが決まっていたので、早めに渡米して沖縄戦に従軍したアメリカ兵を捜すことにしました。というのも、沖縄からの視点だけじゃなく、アメリカ兵から少年兵が闘っていたという証言がとれれば、作品により深みが増すと考えたんです。ただ、簡単にはいかないだろうなと覚悟していましたが、ロサンゼルスの沖縄県人会の人たちに相談したらすぐに見つけてくださって、2時間ぐらいかけて車で会いに行きました。
三上:そこで少年兵の写真が出てきたとき、この映画をつくれってことかなと思えたんですよ。
大矢:元海兵隊員のロバート・マーティンさんは手術を終えたばかりでしたから入院先で会いました。「沖縄戦のときに拾ったものをスクラップしてたんだ」と言ってアルバムを見せてくれ、そこに日本兵の写真や葉書にまじって、あの写真があったんです。「OKINAWA HOME GUARD Photo Found near Taira, Northern Okinawa, April,1945」と書いたメモが貼られていました。ロバートさんに聞くと「山のなかで拾った」と。びっくりして写メを撮って三上さんに送ると、「これは凄い」と言って──。
ほかにも印象深い証言者がたくさん出てきました。教員を装って波照間島に派遣された陸軍中野学校出身の工作員、山下虎雄(偽名)が一般人を日本刀で斬首したのを身振りでほのめかしたおじいちゃんも。
大矢:今回の映画のための撮影で波照間に行ったのが去年の10月でした。取材を終えて持ちかえった素材をチェックしているとき、当時を知っている島民の方の多くが「山下が日本刀をぶらさげて」「刀で脅して」と日本刀にまつわる証言をしているのに、肝心の日本刀の映像がないという話になりまして。それで三上さんとプロデューサー(橋本佳子)に捜してこいと言われたんです。「あるよあるよ。どっかにあるよ!」って。いや、ないだろうと思ったんですけど(笑)、あるとしたら山下が泊まってたあの家だなと思って、今年の1月にカメラを持って恐る恐る行きました。
三上:あのおじいちゃんが黙って首のところで手を水平に動かして刀で斬ったことを表すのを見て、これでイケるなと思いました。映像は出会いですよね。
こういうドキュメンタリーを撮るうえで戦後73年の時間の経過をどう考えていますか? 戦争体験者が亡くなっていく現実は当然ありますが。
三上:体験者が墓場まで持っていこうと思っている沖縄戦の秘話が、けっこうな数あるんです。家族や地域の人たちが苦しんでしまうような話を平気でする無神経な人はいないし、補償金の問題が絡んでいる場合もあるので、実際のことを話して人から責められるよりは黙っているほうを選びますよね。だけど、自分があと何年も生きられないと実感したころに、本当に誰にも話さなくていいのかなと思う瞬間が訪れるようです。私は幸運にも、そのタイミングに当たって貴重な話を聞きだすことができました。「誰にも話さなかったことだけど──」という話にこれまで何度も出会いました。 さらに言うと、住民虐殺の場合は加害者側にまわってしまった沖縄の人を誰も責めたくないから、その人が生きているうちは話ができない。取材していると、そういうのにあちこちで行き当たっちゃうんです。10年前に取材したときにはカメラのまえで口ごもってしまって核心を語れなかった方に今回あらためてインタビューをして証言を得ています。加害者のおじいちゃんが3年前に亡くなったのを知っていたので、いまなら話してくれると思ったんです。
この映画は被害者と加害者という明確な色づけを敢えて避けています。それが戦争と人間に対する観客の想像力の助けになっていると思いました。
三上:勧善懲悪というか単純な二項対立の作品なんて魅力がない。違う角度から照射してくれる存在が出てきたときに俄然面白くなることはありますよね。沖縄県民は無垢な人間で戦争が大嫌い、そこに鬼のような日本軍が来て、という神話みたいな構図には噓があります。だけど、そういうことにしなければやってられないキツい話もある。だから悪いことやったのは日本軍、そこに沖縄県民の関与があっても敢えて触れない。でも、事実は事実として描かないと戦争の本当の怖さが見えてこないんです。仲間内で疑心暗鬼が止まらなくなって誰でも加害者になるような。かといって、沖縄の人たちだって悪かったじゃないかと言いたいわけではまったくありません。 一方で、多くの住民虐殺を行なったとされる白石部隊(第27海軍魚雷艇隊)、そこに所属していた武下一という情報将校が、スパイリストに載って殺害対象になっていた18歳のふたりの女の子を守ろうとした。「ヨネとスミちゃんを殺す人は僕が殺すからね。あのふたりを殺したらいかん」と言って。その証言に触れたとき、俄然この人の人間性に興味がわきますよね。数日後、武下は米軍に殺されますが。
彼の最期がアメリカ軍の公文書で明らかになる。そのドライな展開が、かえって心に響きました。
三上:そうなんですよね。アメリカ軍は敗残兵を山から下ろして、降伏式をやらせて捕虜にしました。司令官の白石信治大尉も捕まりましたが、戦後に赦されて生きて帰りました。アメリカ軍は敗残兵を片っ端から殺したわけじゃないんです。でも、武下は住民を苦しめる悪い敗残兵としてアメリカ軍に目をつけられ、アジトに踏み込まれて殺された。アメリカ軍は愛楽園というハンセン病の施設に米を配給していました。その米を武下が横取りするので、困った愛楽園からの通報でアメリカ軍がアジトを暴いて武下を殺したんだろうと言われてます。アメリカ軍からも沖縄の現地の人からも憎まれた武下。だけど、中本米子さん(ヨネちゃん)に出会ってインタビューしたら、武下さんが自分を救ってくれたと言うので溜め息が出て。22、3歳で終わった士官学校出の彼の一生に思いを馳せました。
もちろん日本兵にもいろんな人がいたのは理解していたつもりですが、この映画に出てくる彼らは、これまで広く流通している沖縄戦の日本兵のイメージとは異なっています。映画では、第1護郷隊と第2護郷隊の隊長、村上治夫と岩波寿が少年兵たちから尊敬され、戦後も彼らとの交流が続き、戦死した全員の遺族のもとに通った事実が語られます。
三上:凄くちゃんとしてるんです。私がここでいっぱい喋ったら、みんなが好きになっちゃうようないいエピソードもたくさんあります。男気があって筋通すところは通す。そういう意味では、いまの日本男児にはない──。
大矢:日本軍が好きな人にも観てほしいですよね。
三上:観てほしい!
大矢:ミリタリー好きな人とか。
タイトルの「沖縄スパイ戦史」は、そういう人たちまで取り込める可能性を秘めてると思います。どなたが考えたんですか?
三上:私です。スタッフ間のメールの件名も最初から「沖縄スパイ戦史」にしてました。でも、みんなの反応が冷たかったんですよ。いったん「沖縄裏戦史」に変わって──。
大矢:ところが本編集の最終日に三上さんが「タイトルさあ」と言いだして、同席していたタイトルデザインのスタッフが「えっ!? もうCGつくっちゃったけど」と一瞬フリーズしてましたよね。「変えるの? いまから」って。
三上:「沖縄戦史」の4文字の真ん中から「裏」という字がじわっと浮かんでくるタイトルが完成してたんですけど、「そこスパイにしようか」と言ったら、「えっ!?」みたいな(笑)。
大矢:最後はみんなで投票して、僅差で「スパイ」になりました。
映画の前半では陸軍中野学校でのスパイ訓練の話が出てくるので「沖縄スパイ戦史」はそこに直結したタイトルだろうと思っていると、観ているうちに〈スパイ〉という言葉がもっと重いものになっていきます。
大矢:意味が変化していくんですよね。
三上:私たちが伝えたかったのは、スパイという言葉が持っている物凄い闇、怖さなんです。疑心暗鬼に陥った集団のなかでスパイだと疑われたら、本人がそうじゃないと証明するのは不可能ですよ。「スパイ」と言われたら終わりだと戦争体験者は身にしみてわかってるんです。
それが凄く激しく語られるシーンがありました。いま三上監督が言われたことが理屈抜きで伝わってきます。よくあそこまで撮れたと思いました。
三上:あれは私も目がテンだったんですけどね。スパイと疑われた側の人の証言を得ようと読谷の避難民のリストをしらみつぶしに当たっていたときのことです。「そういう人知りませんか?」と聞いたら「知らない」と答えたので、私はカメラを置いたんですよ。あのおじいちゃんは殺害を目撃してないけど、殺されそうになった人は見ていて、どんどん怖い話になっていった。私は「スパイじゃないという彼の言い分は正しいわけですよね?」と聞いただけなのに「感覚が全然違う。それはもう話にならん!」みたいになって。スリリングな取材でした。
護郷隊が喜如嘉(きじょか)の巡査虐殺に直接関与していたという、当時を知る方の証言がありました。そのことを護郷隊の生き残りのおじいちゃんたちに聞いてはいないんですか?
三上:そのへんはあまり突っ込まないでほしいんですけど、直接関与した人は亡くなってます。護郷隊のおじいちゃんに虐殺に関わった同じ護郷隊の人の話を聞くのは……聞かれたほうも喋りたくないでしょうし、その人を責めるみたいになるから私はやりたくないんです。「住民虐殺のことも調べてるんですよ。こんなところで虐殺があったんですね」と遠まわしに言ったことはあります。でも、それ以上は自分自身が耐えられない。なにより、あまり護郷隊の狂気みたいなところに深入りすると、映画の出口から遠くなると考えたんです。
聞くシーンがないからといって物足りないとはまったく感じませんでした。取材者としての葛藤の部分をお聞きしたかったので敢えて質問しました。
三上:少年兵たちの罪みたいなことに興味はあるんです。さきほどの巡査虐殺以外にも護郷隊の内部で起きた少年兵同士の処刑の話がありましたよね。おじいちゃんたちに直接取材すれば、いまよりハッキリとわかるとは思うんです。だけど、人生の最後に訪ねていって、そんな話をしてもらう必要はないと思いました。
映画のなかのおじいちゃんたちの話しぶりから、護郷隊にいた過去をいまでも誇りに思っているんだなと感じさせられる瞬間が何度もありました。
三上:これが微妙なんですよね。やはり罪悪感もあるんです。友達を置き去りにしたり、傷病兵を殺したのをみんな黙ってたり、住民虐殺に関わってしまったりという暗い話もある。でも、友情や、勇気を持って戦った自負もある。あるおじいちゃんは、酔って護郷隊の歌をうたうと奥さんに「その歌だけはやめて!」と言われるそうです。「いつまでも護郷隊、護郷隊って、勝った戦でもないのに。恩給ももらえないんでしょ!?」と。それでおじいちゃんはしゅんとする(笑)。
大矢監督はどうですか? 取材するうえでの葛藤は。
大矢:私の場合は撮るかどうかよりも、撮ったのに伝えきれない悩みのほうが多かったです。例えば、山下が斬首するのを実際に見た人の取材をしてるんですよ。殺されたのは波照間の人ではなかった。当時、西表には炭坑があって、台湾人の労働者がたくさんいたんです。労働は過酷で賃金が安いために逃亡者が続出して、波照間の人たちが移住しているところにも逃げてきたそうです。服もなく、頭陀袋のようなものを身につけた台湾人が「お芋をください」と言って。そのひとりを山下がスパイだと断定して日本刀で背中を突きながら森のなかへ連れていった。波照間の子供たちがついていって、山下がその台湾人を後ろから斬って殺害するところを見てしまった。それを今回初めて語ってくれた人がいて、そのシーンは使いたかったんですけど、いまの構成では流れがそっちに行ってしまうので入れられませんでした。 同じく入れられなかったのが〈挺身隊〉の話です。西表への移住命令と同時期に、波照間の少年たちを集めて挺身隊という組織がつくられました。手榴弾を2個持って、アメリカ軍が上陸するのを西表の海岸で待ち伏せる。手榴弾の1個は攻撃用、もう1個は自決用。それでも死ねなかったときに自分で首を刺して死ぬため、手作りの短刀をいつも持ち歩いていたそうです。少年たちがゲリラ戦に使われて、最後は秘密を守るために殺される。その構造は沖縄本島の護郷隊と同じです。石垣に駐留している日本軍の情報を漏らさないために自決の命令が出ていたという証言まで得ていたんですが。 ジャーナリストの仕事は伝えられたことよりも伝えられなかったことのほうが多くて、毎年机のうえに「伝えられなかった資料シリーズ」が増えていくんです。そういう悔しさはあります。三上さんの机も凄かったですよね。
三上:うるさいな(笑)。でも、伝えられなかった口惜しさが次に繫がるんだよね。
制作中にスタッフ間で大きな意見の相違はありましたか?
大矢:意見の相違はとくにありませんでしたが、敢えて沖縄のことを何も知らない人の目線を想定してプロデューサーや編集マン(鈴尾啓太)が述べてくれた意見が私たちには新鮮で、それが結果的に作品を地に足がついたものへと導いたと思います。
三上:例えば、住民虐殺だったら久米島事件や渡野喜屋事件がよく知られていているので、映画では有名なふたつの事件を出したうえで、これまで知られていなかった虐殺事件に繫ごうと考えていたんです。取材してありましたから。でも、一般的には久米島事件も渡野喜屋事件も知らないんだから、それに時間を割くよりは新事実だけに絞るべきという意見があって、いまの形になりました。
日本軍のなかに沖縄の人に対する差別意識があったからスパイだと疑い、虐殺に繫がった──。こういう説もありますけど、どうお考えですか?
三上:否定はしませんが、それはほんの一面でしかないし、それだけで語られてきた年月が長すぎました。日本軍が沖縄の人たちを殺さなきゃならなかった本当の理由は、日本軍のマニュアルの産物としてそうならざるを得なかったからだと考えています。つまり組織的な犯罪です。軍は住民を労働力として利用し、食糧も供出させました。住民同士監視させて、敵の捕虜になって秘密が漏れるよりは殺すか、武器を持たせて闘わせるしかない。軍が入ってくると住民が軍国主義に吞み込まれて、被害者だけど加害者にもなりかねないんです。その恐ろしさをしっかり伝えなければならないと考えています。沖縄の人は差別されていたから虐殺された、という説に立つと、本土の皆さんは、私たちは違うから軍隊に守ってもらえるのではと勘違いしますよね。そこは重要な違いです。
皆さんご高齢ですが、取材後に亡くなった方はいらっしゃいますか?
大矢:10月に取材させていただいて1月に亡くなった方がいます。波照間の牛馬を屠殺する兵隊7人ぐらいを自宅に泊めていたと言っていたおじいちゃんです。
三上:あれは、波照間の人たちが西表に強制移住させられた背景には軍の食糧確保もあった、という説を裏づける大事な証言。本当に撮っておいてよかった。 そして知名巡査の殺害の証言をしてくださった福地廣昭さんも7月4日に亡くなりました。沖縄の復帰や戦後の教育を牽引した大きな存在だっただけに、喪失感があります。
映画に出てくる皆さんは試写をご覧になりましたか?
三上:名護で上映会をやって、北部に住む主要な登場人物と関係者に観ていただきました。重いテーマの映画なので、インタビューに応じたのを後悔されることもあり得ます。だから観賞後、どんな表情で帰られるか、とても怖かったです。いちばん心配だった方は、にこにこ笑って帰られました。護郷隊のおじいちゃんたちはみんな「よくつくってくれた」という感じでしたけど、護郷隊の隊長だった村上さんの娘さんたちは衝撃を受けていらっしゃいました。それもつらかった。でも、本当の反応はこれからですよね。気分を害する人がいないことを祈りますが、避けられない部分はあると思うんです。
不幸な時代に翻弄されて皆さんつらい体験をされましたが、映画になって生きた証を残せたとも言えるんじゃないでしょうか。
三上:きっと良光さんはそう思ってくれているでしょう。「僕の戦争を描いてくれてありがとう」と言ってくれましたから。映画の冒頭に出てきますが、死んだ戦友の数だけ、69本の桜を咲かせるのを夢みて、良光さんはひとりで山にカンヒザクラを植えつづけています。試写会のあと、電話がかかってきて「僕はね、桜の山を立派にしてね、護郷隊のことを誰もが思い出せるように頑張るからね!」と元気に叫んでました。
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三上智恵(みかみ・ちえ)
ジャーナリスト、映画監督。1987年、アナウンサー職で毎日放送に入社。95年、琉球朝日放送の開局時に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜辺野古600日の闘い〜」、「1945〜島は戦場だった オキナワ365日〜」、「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判〜」など、沖縄の文化、自然、社会をテーマに多くのドキュメンタリー番組を制作。2010年、日本女性放送者懇談会放送ウーマン賞を受賞。12年に制作した「標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~」は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル大賞など多くの賞を受賞。劇場版『標的の村』でキネマ旬報ベスト・テン文化映画第1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭で日本映画監督協会賞・市民賞をダブル受賞。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風かたか』を劇場公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』、『女子力で読み解く基地神話』(共著)、『風かたか「標的の島」撮影記』などがある
大矢英代(おおや・はなよ)
1987年生まれ、千葉県出身。ジャーナリスト、ドキュメンタリスト、早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員。学生時代から八重山諸島の戦争被害を取材し、ドキュメンタリーを制作。2012年に琉球朝日放送入社。報道記者として米軍がらみの事件事故、米軍基地問題、自衛隊配備問題などの取材を担当する。16年制作「この道の先に〜元日本兵と沖縄戦を知らない私たちを繋ぐもの〜」でPROGRESS賞優秀賞受賞。同年制作「テロリストは僕だった〜沖縄基地建設反対に立ち上がった元米兵たち〜」でテレメンタリー年間優秀賞、ものづくりネットワーク大賞優秀賞、PROGRESS賞最優秀賞などを受賞。17年にフリー転身後は、〈戦争・軍隊と人間〉、〈米兵のPTSD〉、〈沖縄と戦争〉、〈国家と暴力〉をテーマに取材活動を続ける。共著に『市民とつくる調査報道ジャーナリズム』がある。本作が初映画監督作品。
■上映スケジュール
『沖縄スパイ戦史』
7月21日(土)より沖縄・桜坂劇場、7月28日(土)より東京・ポレポレ東中野、ほか全国順次ロードショー
三上智恵監督〈沖縄3部作〉『標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』
7月21日(土)〜7月27日(金)シネマハウス大塚