特殊潜航艇・蛟龍隊の生き残り、岡田明さんの戦争

「優れた新兵器ができた。必死の覚悟でそれに志願する者は◯、このまま教程を修了して航空機に搭乗したい者はX、どちらでもいい者は△をつけなさい」と。僕は◯ではあきたらず、五重丸をつけました。そして兵舎に戻ってから、愛国心が足りないと言って、Xをつけた同期の者を皆で殴りました。
15.12.17

蛟龍は本土決戦の切り札として期待された5人乗りの特殊潜航艇で、終戦直前の昭和20(1945)年5月28日に正式採用されている。攻撃手段は体当たりではなく魚雷だが、生還の可能性が極めて低いことから事実上の「特攻兵器」といえる。そして搭乗員の多くは、戦況悪化後に大量採用・短期養成された予科練出身者だった。その生き残りのひとりが、大日本帝国崩壊前夜を回想する。

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岡田明さんは、大正15(1926)年9月23日生まれ、東大阪市出身。現在91歳。5人きょうだいの長男で、下は弟と妹が2人ずつ。八尾中学3年のとき、公務員だった父親の転勤にともない、家族7人揃って鳥取に引っ越し、岡田さんは鳥取第1中学に3年2学期から転入する。文学少年だった岡田さんは中学校を卒業したら松江高校の文科に進学したいと考えていた。ところが、物理と化学が苦手で受験勉強に嫌気がさしてしまう。そのことが、やがて岡田少年の進路を暗く冷たい海へと誘うのだった。

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松江高校の受験は諦めましたが、かといって、ほかの生徒のように海軍兵学校* や陸軍士官学校、高等商船学校などに行くつもりはありませんでした。4年生のときの身体検査で肺に陰があるのがわかり要注意と言われていたんです。それで進路に迷っていましたが、5年生(旧制)の2学期、思い切って予科練** に応募しました。飛行機乗りになる夢があったんです。それでも躊躇はありました。というのも、予科練を志望するのは中学までしか行けない人が多かったんです。僕は進学クラスにいて、自分で言うのは憚られますが、英語は常に一番の成績でした。頭がよくないから予科練に行ったように思われたくなかったんですね。

体のこともありますから、おそらく滑るだろうと思っていましたが受かってしまい、昭和18(1943)年12月1日、第13期甲種飛行予科練習生として三重海軍航空隊奈良分遣隊に入りました。奈良分遣隊がある山辺郡丹波市町には、もともと天理教の信者のための寮がたくさんあったんです。それらを接収した兵舎に僕らは収容されました。そのときの印象は、全国から不良中学生が集まったような感じでね、本当にびっくりしました。イジメられたりはしませんでしたが。
入隊すると適正検査があり、操縦班と偵察班に分けられます。誰もがそうでしたが、僕も操縦をやりたかった。しかし検査の結果が思わしくなかったでしょう、偵察班になってしまいました。それからは、一般学科のほか、飛行兵になるための無線電信(モールス信号)などの授業、そしてマット体操や駆け足などの体育に明け暮れました。僕は無線電信の成績が良くて分隊250人中、1番か2番でした。分隊対抗で送受信の競争があるんですが、いつも代表に選ばれていました。体育は、小柄で体力もない人はかわいそうでしたよ。昭和18年当時の予科練は中学3年を修了した者から志願できます。僕が志願したのは5年生のときでしたが、なかには浪人した人や、代用教員をやっていたような人もいる。3つも4つも年齢が違う練習生が同じ訓練をやらされるわけですから、どうしても弱い者に負荷がかかってしまいます。
僕は英語が好きだったので、入隊するときにコンサイス英和辞典を持ち込んでいました。勉学に未練があったのかもしれません。ところが、寝ているあいだに誰かが僕のコンサイスを剃刀で切っちゃったんです。やった人は敵性語に愛着がある僕が嫌いだったのでしょう。そんなこともありました。
予科練に入ると罰直という制裁を初めて体験しました。分隊のなかの誰かがしくじると連帯責任を問われて総員罰直が待っています。全員を並ばせて、脚開け、歯を食いしばれ、バーン! と片っ端から拳骨で殴っていくんです。これは日常茶飯事でした。もっと酷いのはバッタです。大東亜戦争完遂棒、軍人精神注入棒などと墨で書かれた野球のバットのような木の棒で尻を強打する。悪いことをしてなくても定期的にやられました。訓練が終わって疲れ果てて夜やっと寝静まったころ、総員起こしの号令がかかります。みんな起きて寝具を片付け、ひとりずつ尻を叩かれるんです。
制裁を行なうのは下士官です。その多くが高等小学校ぐらいしか出ていない、水兵から成り上がった実戦経験のある人たちです。海軍に入って3年間任務を遂行すると善行章という逆V字型の記章が与えられ、以後3年ごとに追加されます。彼らは皆、善行賞の持ち主で、古参になると2、3本付けている。軍隊しか知らないような人たちなんです。一方、予科練の僕らは半年で下士官になります。そんな妬みが暴力を生む。僕らは10代で、汚い世の中の縮図を体験しました。軍隊とはそういう社会なんです。これは、いまの若い人たちにも絶対に覚えておいてほしいです。
奈良分遣隊にいるときに一度だけ空襲を体験しました。空襲警報が鳴って退避命令が出たとき、僕の靴が見当たらなかったんです。みんな退避したのに僕だけおろおろしていると、下士官がやってきて殴られ、2メートル近く吹っ飛ばされました。敵機の姿は見えず、被害はありませんでしたが。
そんなある日、講堂に集合がかかり、教員の下士官連中は外に出され、僕ら練習生が残されました。紙が配られたあと、壇上の司令官が言いました。「優れた新兵器ができた。必死の覚悟でそれに志願する者は◯、このまま教程を修了して航空機に搭乗したい者はX、どちらでもいい者は△をつけなさい」と。僕は◯ではあきたらず、五重丸をつけました。そして兵舎に戻ってから、愛国心が足りないと言って、Xをつけた同期の者を皆で殴りました。あのころ僕らは悪かったんです。
あとで教員から「五重丸などつけたのは貴様だけだ」と冷やかされましたけど、見直すような思いがあったんでしょうか、それから僕に対する態度が少し変わりました。彼は僕ら志願者がどうなるのかを知っていたのか、「鬼が島に行くんだぞ」と言いました。そのときまで僕らは、自分たちが搭乗するのは途轍もなく優れた飛行機だろうと思っていました。

その後、岡田さんは、横須賀にあった海軍通信学校、野比実習所で無線通信に関する教育と訓練を受けたのち、瀬戸内海の呉港外にある倉橋島の大浦崎の第一特別基地隊に赴く。そこは特殊潜航艇の訓練基地だった。特殊潜航艇は甲標的と呼ばれ、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で初めて5隻が実戦に投入。全隻未帰還となり、1隻は座礁して拿捕された。岡田さんが着任した太平洋戦争末期には最新鋭の甲標的丁型(蛟龍)が同基地に多数配備されていた。蛟龍がそれまでの特殊潜航艇と大きく異なる点は、動力のモーターのための発電用エンジンを搭載し、航続距離を延ばしたことだった。

横須賀海軍工廠にて建造途中で終戦を迎えた蛟龍。全長約26メートル。艦首の上下2つの穴は魚雷発射管。昭和20(1945)年9月、米軍撮影

僕がいた分隊から倉橋島に行ったのは3人ぐらいだったと記憶してます。島には真珠湾攻撃の九軍神* をはじめ、特殊潜航艇で出撃して亡くなった方々の遺品がありました。鬼が島とは聞いていましたが、まさか特殊潜航艇の基地だとは、予想だにしませんでした。えらいところに来たな、と思いましたね。

真珠湾のころの特殊潜航艇は2人乗りでしたが、僕らが乗る蛟龍は、艇長1名、艇付が4名の5人乗りです。艇長になるのは予備学生* か兵学校出身の士官。艇付は僕らのような予科練からの志願者で、航海、機械、電気、電信の担当に分かれます。僕は電信でしたが、操縦の訓練は全員が受けなければなりませんでした。転輪羅針儀(ジャイロコンパス)があっても進路を保持するのが難しくて、たびたび教員に樫の棒で頭を叩かれました。

蛟龍の外殻の厚さは約1センチでした。1ミリで10メートルの水圧に耐えられるそうです。計算上は100メートル潜ったら水圧で潰れる危険がありますが、訓練で水深100メートルの海底に沈座したことがあります。びくともしませんでしたね。
それまでの特殊潜航艇に比べて航続距離が延びたとはいえ、蛟龍が単独航行できる距離は知れてますから、小型の波号潜水艦* に載せて攻撃目標の近くまで行き、そこから切り離され単独航行でさらに目標に近づく。潜航艇の前部には魚雷を2本積んでいます。それを発射したら母艦に戻って魚雷を再充填し、攻撃を繰り返す。でも、現実的には戻れる可能性はゼロに等しいですよ。酷い兵器を考え出したものです。生還が極めて難しい任務のため僕らは、飛行機乗りになって鈴鹿航空隊や三重航空隊に行った予科練の同期よりも1階級上になりました。僕ら特殊潜航艇の搭乗員は上等飛行兵曹になりましたが、彼らは一等飛行兵曹で終わりです。まぁ、海軍の下士官の階級なんてつまらない話ですが。

蛟龍にはトイレがないんです。それが最大の欠陥ですよね。僕は小便が近いので本当に困りました。海中に航行するときは艇内が冷えますから余計に尿意を催します。どうしても我慢できなくなると前方に這っていって、艇首のあたりで用を足すんです。艇内には神棚が祀ってありましたが、そんなものよりトイレがあったほうがよかったですよ。
水が入ってきたらおしまいですから初めて潜ったときは怖かったけど、そういうものだと思っていました。僕が島にいるあいだに事故はありませんでしたが、練習艇が沈没して乗っていた全員が亡くなった事故の話を聞かされたことがあります。引き揚げて艇体を切断すると、中から血が混じった海水が流れ出たそうです。
倉橋島に来てからも制裁は相変わらず酷かったですね。倉橋島には拓殖大学の空手部出身の甲板士官がいました。本来、甲板士官は風紀の取り締まりを担当するのですが、彼は喧嘩っ早い男で兵学校出の士官を殴ったためにお茶をひいて* 、同期が中尉になってもずっと少尉のままでした。その男に僕らはずいぶん殴られました。落ち度がなくても難癖をつけて殴るんです。空手の有段者の鉄拳ですからね、痛かったですよ。また、僕らを殴るのは上官だけとは限りませんでした。予科練出身ではない、下から叩き上げた同じ階級の者から制裁を受けることもよくありました。

訓練と制裁の毎日のなかで、岡田さんたち末端の兵隊の楽しみは、食べることと休むことぐらいだった。

予科練のころも庶民が口にできないようなものを食べていましたが、それでも主食は麦飯でした。これが倉橋島に移ってからは白米になりました。当時の海軍では、ふつうの水兵さんは麦飯でしたが、死亡率の高い飛行機乗りと潜水艦乗りは白米だったんです。お酒の配給もありました。未成年でしたが、小食器にお酒を注いで飲んでました。それに潜航艇の搭乗員は潜るたびに搭乗糧食として、シロップやチョコレート、パイナップルの缶詰など、栄養価の高い食べ物を支給されました。実施部隊に配属されて、そういう面では少しは楽になったんですよ。
あとは半舷上陸* が楽しみといえば楽しみでした。土曜日から呉に上陸し、専用の下宿屋に一泊するんです。いつ死ぬかわからないということで、僕のお母さんが来てくれて、一晩一緒に寝たことがあります。戦争中に鳥取からひとりで呉の下宿まで来てくれたのは本当に思い出深いですね。

岡田さんが倉橋島の蛟龍の訓練基地に配属されて数カ月後の昭和20(1945)年8月6日、広島に原爆が投下される。

キノコ雲は遠くに見えたけども、爆心地から離れているため爆風は届かず、音も聞こえませんでした。
翌7日に転属命令を受けました。私は1階級下の部下を3人引率し、前日に見たキノコ雲が何なのかわからないまま、汽車で長崎に向かいました。どこを走っているときだったか定かではありませんが、途中でなぜか車窓に目隠しの黒い幕が下ろされたのを記憶しています。
今度の転属先は、長崎湾の香焼島にある特殊潜航艇の基地です。ところが、いざ着任してみると、僕が乗るはずだった蛟龍の1号艇は修理中で陸揚げされていました。艇長の姿もありません。なんだかおかしな話ですよ。これでは出撃どころか訓練だってできません。それからは暇で、ただ殴られる日々です。
そして9日、今度は長崎に原爆が落とされました。至近距離ではありませんでしたが、雷光のようなものが見えたあと、爆風を受けました。突然のことでわけがわからないまま、僕は陸揚げされたままの1号艇の中に逃げ込み、ハッチを閉めてしばらくじっとしていました。外が静まったので出てみると、近くの造船所から吹き飛ばされたガラスの破片や瓦礫が一面に散らばって、なんとも形容のし難い状況でした。

昭和20(1945)年8月9日、原爆投下の約15分後の午前11時17分ごろ、爆心地から南西9.4キロの香焼島にある川南造船所から撮影されたキノコ雲。(松田弘道撮影、長崎原爆資料館所蔵)

僕らのような下士官には情報が入らず、新聞も読ませてもらえなかったので、当時の報道にあった新型爆弾という言葉さえ知りませんでした。広島と長崎に落とされたのが原子爆弾だと知ったのは戦後になってからです。
原爆投下から2、3日たって、長崎にいた海軍は佐世保鎮守府に近い大村航空隊に集結しました。そうやって集めるぐらいですから、上層部は戦争に負けることを知っていたんでしょう。戦況を知らない僕は、まさか負けるとは思っていませんでした。そして8月15日、玉音放送を聞きました。聞いたときはね、涙は出てこなかったですよ。また学校に行けるな、と思いました。本当にあのときはそう思った。もちろん愛国心はありましたけど、まだ子供ですから、その程度の認識でした。そうして出撃することなく、足掛け2年の僕の軍隊生活は終わりました。同期のひとりは潜水艦で沖縄まで行ったものの、そこから蛟龍で出撃する機会がなく、生きて帰ってきました。
除隊するときに1000円と、全国の鉄道をただで乗れる証明書を貰いました。あとから兵学校出の士官候補生に「なんぼ貰った?」と聞いたら、彼らは500円でした。僕は何か記念になるものをと思い、蛟龍のバロメーター(気圧計)を貰って帰りましたが、もうどこかに行っちゃいましたね。

呉海軍工廠のドックで建造途中に終戦を迎え、放置された蛟龍。昭和21(1946)年2月、米軍撮影

戦後、僕が大阪商科大学予科在学中に京都に行って、倉橋島で最初に乗った蛟龍の艇長と偶然会ったことがあるんです。立命館大学に復学されて友達と酒を飲んでおられました。先に気づいてこちらから挨拶をしましたが、愛想がなかったです、全然(笑)。僕は懐かしかったけど、向こうはそう思わなかったのかな。僕の姿を見て、つらかった戦争の記憶が呼び覚まされたのかもしれませんね。