アルツァフ
ステパナケルトの道に刺さったままの不発弾。2020年10月。PHOTO: RIS MESSINIS/AFP VIA GETTY IMAGES
「私の家族は去年、(アルツァフ内の)シュシー地区にある家や土地を追われて難民になりました。1988年、アルメニア人の虐殺が起きたバクーから逃れて難民になったので、難民生活は2度目です」と証言するのは、アルメニアの首都エレバンのサロ・サリアン。サロはシュシー地区の地質博物館の元館長だ。「心理的には、永遠に外科手術を受けているような感じですね。痛みに慣れてしまったし、もう恐れも感じない。マゾヒスティックな状態です」「息子は戦闘で片脚を失いました。今はスイスの病院で治療を受けています。それでも私たちは幸運なほうです。一生家族に会えないひとたちが何千人もいますから」「戦争の前から、差し迫った危険をひしひしと感じていました。だけど私たちは、隣人であるアゼルバイジャン人を憎むことなく子どもたちを育てました。街は、私たちの文化であるアルメニア文化を反映しています。美術館も、教会も、軍も。心の中では神を信じていますが、今は信仰を保つのが難しい」「国際社会に国として承認されれば、私たちの安全が強力に保証されたはずです。どうして承認してもらえないのでしょうか」「心理的には、永遠に外科手術を受けているような感じですね。痛みに慣れてしまったし、もう恐れも感じない。マゾヒスティックな状態です」
コソボ
「コソボが独立を宣言した2008年、私は全寮制のインターナショナルスクールにいました。この独立がどんな意味をもつかを、同級生に説明したのを覚えています。ユーゴスラビアや分離独立した共和国について、そしてさまざまな民族的な側面などを教えました」と語るのは、プリシュティナのヴァロン・ゾーザだ。「2008年に発表されるまで、コソボの国旗なんて誰も見たことがなかった。自然発生的なものではなかったんです。当時はパスポートもありませんでした。あったのは国連が発行した旅行用の証明書だけ。国境でのトラブルは絶えませんでした」「コソボ人としてのアイデンティティは、内戦によって生じたさまざまな問題に対処するための中立的な解決策として、私たちに押し付けられたという感じでした。2008年当時は、コソボのナショナリズムを確立するために多額の資金が費やされましたが、今では文化的なイベントで国旗が掲げられることもありません。民族ごとに、それぞれ自分たちの旗を使っています。コソボ人としてのアイデンティティに愛着はありません。私自身もアルバニア人。ユーゴスラビア時代にアルバニア人が迫害されていたこともあり、そう感じます」「コソボのパスポートでは、スペインのビザは取得できない。キプロスも、ギリシャも、ロシアもそうです。私たちの書類は、多くの国で正式なものとみなしてもらえない。私たちは、新型コロナのパンデミック下でみんなが感じていることを、常に感じているんです。自分たちの国に閉じ込められている、と」「国内では、国際的な承認を得るためのプロセスはお金も時間もかかる、と主張する党派もあります。スペインのような国に、我々を承認してもらうよう働きかけることは不可能です。アルバニアと合併するか、2国を連邦化する必要がある。でもそれはそれで、バルカン諸国にとっては大きな問題となります。中立的な解決策であっても、独立を実現するための道を探さないと」「スペインのような国に、我々を承認してもらうよう働きかけることは不可能です。アルバニアと合併するか、2国を連邦化する必要がある」
アブハジア
2020年8月、アブハジア西部の都市ガグラで日光浴を楽しむ観光客。新型コロナウイルス感染拡大に伴うロシア人観光客の入国規制が解除されたあとの光景だ。PHOTO: DMITRY FEOKTISTOV\TASS VIA GETTY IMAGES
「私たちの生活は、将来がどうなるか予想もつかず、不安定です。たとえば、私の世代が定年退職をする頃には、アブハジアの年金しかもらえません。金額は、ひと月たったの8ユーロ(約1050円)。でも現在定年となる世代はロシアの年金をおよそ120ユーロ(約1万5600円)ももらえているんです。私が定年を迎えるころには、それもなくなっているでしょう」と教えてくれたのは、首都スフミに暮らすアリオナ・クヴィチコだ。「国として承認されていないということは、ここでリアルなビジネスを展開することはほぼ不可能だということ。インフラや通信、輸送システムの発展も望めません。アブハジアに正式に出入りするには、ロシアのソチ国際空港を通るしかないんです。スフミの空港も海港もすべて閉鎖されているので。30年ずっとこうです」「若者は大半が出ていっています。私は、私しか頼れない年配の身内がいるので、ここに留まっています。でもそれは、ここでの暮らしに満足しているからではありません」「交流があるのはロシアだけです。ロシアが私たちを守ってくれています。でも、アブハジアはジョージアの軍事行動によって独立を宣言することになったんです。ジョージア軍の戦車が進攻してきたから、生きるか死ぬかの問題でした。それ以前は、ジョージアとの連邦化に期待していましたが、私たちの指導者はそれを実現することができなかった」「私たちの社会は非常に保守的ですが、北コーカサスほど厳格ではありません。ナイトクラブはありませんが、時には地元のグループが小規模なコンサートを開催したりしています。男性なら、ホテルのバーなどに行って楽しむこともできます。女性はできませんが」「男性なら、ホテルのバーなどに行って楽しむこともできます。女性はできませんが」
南オセチア
ツヒンヴァリの道に掲げられている、ロシアによる南オセチア独立承認10周年を祝した横断幕。PHOTO: VALERY SHARIFULIN\TASS VIA GETTY IMAGES
2008年、北京オリンピックの開会に世界が湧いていた頃、ロシアとジョージアは南オセチアをめぐって衝突。その結果、ロシアが南オセチアとアブハジアの独立を正式に承認するに至った。現在でも南オセチアは、その小さな面積ながら、ロシアと欧米諸国の代理戦争を象徴する地となっている。「私が育った社会を、外部のひとが想像するのは非常に難しいと思います。私は1990年代の最初の紛争のさなかに生まれ、戦闘によってもたらされた荒廃の中育ちました。10年間は電気、ガス、お湯もほぼ使えませんでした。でも幼い頃はとても幸せで、楽しかった。ひととひととの関係性が社会を支えていたからです」と語るのは、南オセチアの首都、ツヒンヴァリ出身のアクシャル・サナコイェフだ。「遅くまで営業しているレストランもいくつかありますが、基本的には0時を回る前に街じゅうが眠ってしまいます」
トランスニストリア
2020年、モルドバ大統領選にて投票するトランスニストリアの有権者。PHOTO: PIERRE CROM/GETTY IMAGES
現在、トランスニストリアは密輸業者の楽園と化している。兵器から密造タバコ、アルコールまで、何十億ドル相当の物品が、黒海に近いこの地の、抜け穴だらけの国境を行き来している。その取引で私腹を肥やしているのは税関職員、政府関係者、そして地元の商人たちである。「〈未承認国家〉というステータスに惹かれてやってくる、旅行に慣れたひとたちもいますが、多くのひとがトランスニストリアには来るのを恐れています。ここには公式な大使館はありませんし、政府のサイトに記載された渡航に関する警告を見て恐怖を感じるんでしょう」と語るのは、トランスニストリアの首都ティラスポリのアンドレイ・スモレンスキーだ。「それに追従するか反抗するかはそのひと次第ですね。反抗するひとたちや、冒険心旺盛なひとたちは、現地で戦争が行われていない限り、政府がどんなメッセージを発していようと無視してやってきます」「でも、ここでの生活はまったく普通です。現代世界に生きるティーンエイジャーたちはみんなインターネットに夢中だけど、トランスニストリアも例外じゃありません。みんな席について自分のスマートフォンばかり見て、仮想空間に入り込んでいる。お互い会話もありません」「若者の多くがロシア国籍を取得していて、母語としてロシア語を喋っています。だから、学校を卒業したらロシアに移るひとが多いんです」「この共和国が生まれたとき、僕の両親は警察に勤めていて、沿ドニエストル共和国の建国を公然と支援していました。そんな環境で育ったので、僕も共和国を支持しています」「現代世界に生きるティーンエイジャーたちはみんなインターネットに夢中だけど、トランスニストリアも例外じゃありません。みんな席について自分のスマートフォンばかり見て、仮想空間に入り込んでいる。お互い会話もありません」
ドネツク人民共和国・ルハンスク人民共和国
ドネツクの国境で新型コロナの規制にかかわる必要書類に記入しているひと。PHOTO: VALENTIN SPRINCHAK\TASS VIA GETTY IMAGES
「すべての始まりは、ウクライナの大統領(ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ:2014年2月に大統領解任)がフランス、ドイツ、米国から提出された書類全部にサインをしていたことです。でもドネツクに暮らす私たちは、彼らがキエフで行おうとしていたことを望んでなかった」と語るのは、ドネスク在住のオレグ・アンティポフ。FCシャフタール・ドネツクの元報道官だ。「2014年4月、スラヴャンスクで戦闘がありました。AK-47で武装した反乱軍側の兵士は数人だけ。でもウクライナ政府は軍を総動員して彼らを制圧した。すると突然ドネスクのひとたちが自発的に町に集まって、反乱軍に支援をし始めたんです。そこで初めて、独立に向けた団結と意欲が生まれました」「その後、ウクライナは自国民である私たちに対して対テロ作戦の決行を発表し、民間人に対して発砲をし始めました。恐怖で私たちを屈服させようとしたんです。決定的に空気を変えた転換点でした」「独立の是非を問う住民投票のあと、軍のヘリコプターがドネツク市まで飛んできました。私たち民間人の命が、本当に狙われることになった。内戦状態になったことを実感しました」「爆弾が落ち、次の爆弾が落ちてくる間の時間は、いつも大体30〜40秒。最悪だったのは、それを待つ時間です。1年にも感じました。でもだんだん慣れるんです。飼っている猫も慣れました。最初は空爆が始まるとシェルターまでついてきたんですが、数週間経つと、気にしてないふうに私たちを見るだけでした」「飼っている猫も慣れました。最初は空爆が始まるとシェルターまでついてきたんですが、数週間経つと、気にしてないふうに私たちを見るだけでした」