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江盛バイバルのエモエモ講座AMERICAN FOOTBALLが語るバンド史

イリノイ州シャンペーン・アーバナにある学校に通っていた3人のキッズたち。パッとしなかったバンド時代に、思いがけず「傑作」を産み出し、解散から15年経った今、世界中でチケットがソールドアウトしている状況をAMERICAN FOOTBALLが自ら語る。彼らの瑞々しい物語。

こんにちは、江盛です。まだまだエモってますか? 最近はレコードをDIGっていないので、全然エモれていない江森ですが、先日DIGってエモれている友人に久々に会いました。そしたらば、なんですって、90年代インディー〜オルタナ系、バブルしちゃってるっていうじゃないですか。価格高騰ですって。ちっと前には、「こりゃキュート!ターンテーブルにちょっかい出す子猫ちゃん映像!!」の常連だったのに、今じゃハフハフ嗅ぐくらいの人気者なんですって。ああ〜、あんとき売らなきゃよかった。

そしてもちろんその流れにもエモあり。「エモ、リバイバルでバブル。江盛バイバルでバブる」ですね。そんな現在の状況をあらわすのにピッタリなのが、やっぱAMERICAN FOOTBALL。唯一のアルバムである『American Football』が世に出たとき、既にこのバンドはいませんでした。やったライヴも数えるほど。ここ日本ではもちろん、本国アメリカでも、動いているAMERICAN FOOTBALLを観たことがある人は、よっぽどのオタクか、地元出身者か、友だちくらいだったハズですよ。しかし、こういうことってあるんですね。確かに素晴らしいアルバムだったのです。したらジワジワ来ました。時間をかけてジワジワは広がりました。もちろん、インターネットってのもデカかったんですが、「こんなにもジワジワは染みるのか〜!!」ってなくらい、全世界に新たなE-BOY、E-GIRLを誕生させ、濡らしまくったわけです。要するにAMERICAN FOOTBALLは、その間に起こったスクリーモやら、ピコリーモやら、ピッコリーモやら、ピンコリーモやらをも殴打しちゃったんです。むーん、泉ピン子勃ちリーモの方が強そうなのにねぇ。

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ギター、ヴォーカルを務めるマイク・キンセラ(Mike Kinsella)、ギタリストのスティーヴ・ホルムス(Steve Holmes)、ドラマーのスティーヴ・ラモス(Steve Lamos)の3人は、こんな状況になるなんて、想像もしなかったそうです。でしょうね、だって本当にただの大学生だったんだから。再結成なんてのもまったく考えてなかった。でしょうね、復活のベテランMY BLOODY VALENTINEもJESUS & MARY CHAINもPIXIESも聴く側だったんだから。でもこの度、「やらなきゃイカン!」モードになったのは、ファンの力によるもの。マイク・キンセラもみなさんのお気持ちがわかったんでしょう。「ああ、俺もスミス、観たかったしなぁ」なんて。

これは、本人たちが語ったAMERICAN FOOTBALLの物語です。イリノイ州シャンペーン・アーバナにある学校に通っていた3人のキッズたちが、パッとしなかったバンド時代に、思いがけず「傑作」を産み出し、解散から15年経った今、世界中でチケットがソールドアウトしている状況を語ります。

AMERICAN FOOTBALL結成まで:1989 – 1995

AMERICAN FOOTBALLの始まりは、イリノイ州シカゴ郊外の小さな田舎町ウィーリング。マイク・キンセラとスティーヴ・ホルムスは様々なバンドでプレイし、スティーヴ・ラモスはイリノイ州バッファローグローブで、父親と一緒のポルカ・バンドでホルンを吹いていた。

スティーヴ・ホルムス(ギター 以下、ホルムス):マイク・キンセラを知ったのは、高校1年のとき。昼休みに高校の講堂で、あいつがいたバンド、CAP’N JAZZ* のライヴを観たんだ。その頃はまだギターなんて弾いてなかったけど、あのバンドがきっかけで、音楽をやりたくなった。そして、CAP’N JAZZや他のバンドを観に、郊外にある小さなライヴハウスやVFWホール** に通うようになったんだ。15歳のときに最初のギターを手に入れて、その1週間後にはバンドを組んだ。SCREECHING WEASEL*** のライヴを見た直後に友だちと盛り上がって始めたんだけど、もちろん、まだギターは弾けなかった。

スティーヴ・ラモス(ドラムス/トランペット 以下、ラモス):4歳の頃から音楽のレッスンは受けていたんだけど、20歳になるまでドラムは叩いたこともなかった。7歳で、ヴァイオリンも弾けたし、トランペットも吹いてた。子供の頃から、親父と一緒にポルカダンスの伴奏をするバンドでプレイしてたんだ。大学2年からイリノイ大学のシャンペーン校に通うようになったんだけど、堅苦しい音楽を演奏するのがもう嫌になってね。CAP’N JAZZやBRAID* みたいなバンドを観ているうちに、自分もそのシーンに入りたくなった。最初はベースから始めたんだけど、うまくいかなかったからやめて、ドラムを始めた。すごく楽しかったね。『ジャズドラマーになるためのハウツー』なんかも参考に、独学でドラムを練習してたんだ。

マイク・キンセラ(ギター/ヴォーカル 以下、キンセラ):前に、ラモスが何かのバンドでドラムをプレイするのを観たんだけど、その1年後くらいに、で叩いてるのを観てブッ飛ばされたよ! マジですごい演奏だったんだ。バンドにはヴォーカルがいなかったから、「ヴォーカルやらしてくれない?」って訊いたんだ。それで一緒に演奏するようになった。

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ラモス:THE ONE UP DOWNSTAIRS* で6ヶ月くらい一緒にプレイしてたけど、結局、解散した。その1年くらい前に、当時、俺がやってたバンドでジャムったこたがあったから、スティーヴ・ホルムスのことは知ってたんだ。そのときは、一緒にやろう、とはならなかったけど、最終的に、ホルムスが「マイクとオマエと一緒にプレイしたい」って電話してきたんだ。確か、1996年の暮れか、1997年の頭。そこからホルムスが加わった。

ホルムス:THE ONE UP DOWNSTAIRSが解散しなければ、AMERICAN FOOTBALLは生まれなかったんだ。THE ONE UP DOWNSTAIRSは、大きな可能性を秘めたマジでクールなバンドだった。彼らはシングル3曲をレコーディングしてたけど、出す前に解散した。それで俺はマイクとラモスと一緒にプレイ出来るようになった。なんでか覚えてないんだけど、AMERICAN FOOTBALLでは、「マイクがギターとヴォーカルをやる」って3人で決めたんだ。マイクはめちゃくちゃギターが上手いのに、一度もバンドでギターをやったことがなかった。CAP’N JAZZではドラム。俺は速弾きしながら歌えなかったから、マイクがヴォーカルもやることになったんだ。

キンセラ:AMERICAN FOOTBALLは、いま考えると、THE ONE UP DOWNSTAIRSよりも前に始まってたのかも知れない。だって俺とホルムスは大学中もずっと一緒に住んでいたし、一緒にプレイすることもあったからね。AMERICAN FOOTBALLは、俺たちが通っていたイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の学生寮『タフト・ホール』で、既にスタートしていたのかもね。

名作『American Football』までの道のりと解散:1995 – 1997

1995年、AMERICAN FOOTBALLは本格的に曲作りを始めた。基本的には、マイク・キンセラとスティーヴ・ホルムスがギターを弾きながらパーツをつくり、当時アーバナに住んでいたスティーヴ・ラモスの家に持ち込んで曲にした。その曲を磨き上げ、世間に広める重要な役割を担ったのが、イリノイ州ダンビルを中心に盛り上がったDIYシーンの中心人物で、POLYVINYL RECORDS* の創設者であるマット・ランスフォード(Matt Lunsford)だ。当時、彼はシャンペーンに移り住んだばかりであった。

マット・ランスフォード(以下、ランスフォード):CAP’N JAZZを知ったのは、高校のとき。当時はイリノイ州ダンビルに住んでた。小さな田舎町だから、友達のためにライヴを企画したり、かなりクールなDIYシーンがあったんだ。CAP’N JAZZは、音源が好きだったから、地元でプレイしてもらいたくてオファーしたんだ。そしたらBRAIDも一緒に来てくれた。まだみんな若くて、10代のガキだった。それでもイリノイ州内で積極的にライヴをやってたね。CAP’N JAZZの解散後、マイクはシャンペーンの大学に通いだしてAMERICAN FOOTBALLが始まったんだ。

キンセラ:3人で始めたとはいえ、いつもその辺に転がってた楽器で演奏していたから、やるたんびに音が違ったんだ。大学4年のとき、俺はホルムスと、もう1人、別の友だちと一緒に暮らしていた。そいつがギターを持ってたんだけど、ヘタクソだったんだ。だんだん弾かなくなって、ギターは放ったらかされてた。だから俺がそのギターを弾くようになった。大学を卒業する頃には、完全に俺のモノになってたね(笑)。ホルムスは、ギターと小さいギターアンプを持っていて、ベースは誰かから借りてた。そのとき手にした楽器によってバンドの音が変わるんだ。唯一変わらなかったのは、ラモスのドラムセットとトランペットだった。

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ホルムス:自分の楽器も持たずに活動するなんて本当に馬鹿げてるだろ。マイクは、何一つ機材を持っていなかった。ギターとベースはラモスからのだし、アンプは友だちの。練習するかしないかは、機材が揃うか否かにかかっていた。作曲は、リフ、曲の骨格をマイクか俺がつくって、一緒にギターアレンジした。ヴォーカル・マイクも音響機材なかったから、歌詞は後回し。ヴォーカルは、楽器の音で掻き消されるんだから、歌っても仕方なかった。だから作曲の段階で歌詞はつけてなかったんだ。3人しかいないから、それぞれの楽器が、サウンドやアレンジに大きな影響をあたえる。特に、ドラムにはこだわっていたから、あの時代に活動してた他のパンクバンドとは決定的に違ったんだ。それにトランペットの音も、オーガニックな空気感を出していた。ラモスは、ヴォーカルの音を確認するためにメロディーラインを吹いていたんだけど、それがよかったから、トランペットを活かしたんだ。機材がなかったからか、成り行きでそうなったのかは憶えてないけれど、曲によって楽器を持ち替えるようになった。管楽器を入れたりもした。マイクは、ギターとベースを持ち替えたりしてたけど、彼がドラムで俺がキーボード、なんてのもあった。

ラモス:3人とも他のバンドと違うサウンドを目指してた。周りの連中は、DISCHORD RECORDSからリリースされたハードコアに傾倒してたけど、俺たちはちがった。BRAIDや他のエモバンドみたいな音でもない。それが嫌いだったわけじゃない。実際好きだった。もちろん今も好きだけど、俺たちは、ラウドで攻撃的な音より、ポストロック寄りで、ジャズみたいにしたかったんだ。

ホルムス:すごく意識的に、ポスト・ハードコア、エモなんかに影響をされたサウンドにならないようにした。大学1年の頃に聴いた音楽が、AMERICAN FOOTBALLに多大な影響を与えたんだ。ニック・ドレイク(Nick Drake)、RED HOUSE PAINTERS、エリオット・スミス(Eliot Smith)、CODEINE、THE SEA AND CAKE、THE SMITHSとモリッシー(Morrissey)、SLOWDIVE、MY BLOODY VALENTINE、CAN、スティーヴ・ライヒ(Steve Reich)なんかだ。マイクはいつも、スロウでサッドでアンビエントでビューチフルなメロディーの音楽が好きだった。俺は、アイツからの影響がデカかったけれど、TORTOISEやSLINTみたいなポスト・ロックからも影響を受けた。ラモスは、WEATHER REPORT、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)みたいな、ジャズやフュージョンの要素をバンドに取り入れようとした。THE BEATLESやBEACH BOYS、そしてあまり知られていない60年代のバンドとか、それを真似た90年代のバンドも大好きだった。

キンセラ:ライヴも始めたんだけど、俺たちはとにかく無名だった。BRAIDは、年間250本もライヴして人気バンドになった。彼らのライヴは、客がパンパンに入ってたけど、俺たちは、その半分ってとこだったし、POLYVINYLも、まだ殆ど知られてなかった。THE PROMISE RINGは、ビッグになった。ミュージックビデオがMTVで流れてた。ビックリした。BRAIDとTHE PROMISE RINGは例外だ。俺たちは音楽で食えるなんて想像もしてなかった。

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ホルムス:ライヴは全部で10本、客は20〜30人もいなかった、なんてことよく書かれるけど、そんなこともない。確かにツアーらしいツアーはやってないけど、ライブは25〜30回はしたかな。中西部や東海岸のカレッジを回った。BRAID、RAINER MARIA* 、LOW** なんかのオープニング・アクトもやったから、ある程度の客の前でやってたんだ。ニューヨーク大学でTHE PROMISE RINGのオープニングをやったけど、500人くらいいた。活動停止する前は、自分たちでライヴを企画してた。アルバム制作の直前に、シカゴの老舗クラブ「ファイアサイド」でやったライヴが最後だったはずだけど、100人以上のキッズがいた気がする。

キンセラ:マット・ランスフォードは、THE ONE UP DOWNSTAIRS のレコーディングもさせてくれた。解散するのがわかっていたんだろうね。そして今度は、「なぁ、AMERICAN FOOTBALLとして作品を残さないのか?」って。それで「ああ、レコーディングができる」って喜んだ。それから4、5日で仕上げたんだ。

ホルムス:それまでやったバンドでは、コンピレーション以外でレコードをリリースしたことがなかった。だから、初のEP* が完成したときはホントに興奮した。大学4年生になって初めて学校に行った日にEPのコピーが手元に届いたんだ。「やったぞ!」って。ミュージシャンとして作品をリリースするのは、俺にとって重要だったんだ。

ラモス:アルバムを録音する前に、AMERICAN FOOTBALLの解散は決まっていたんだ。アルバム一曲目の「Never Meant」を録り終えた瞬間をハッキリ覚えてる。「二度とこんなにうまくプレイできない」と確信したんだ。実はこの曲、そんなに好きじゃない。嫌いじゃないけど、お気に入りではない。ライヴでは「Stay Home」や「Honestly」の方がプレイしていて楽しい。だけど、あのとき録音した「Never Meant」は、すごく特別なんだ。

ホルムス:大学を卒業した週に、アルバムをレコーディングした。「Never Meant」がカタチなったときは、めちゃくちゃ嬉しかった。すごくいい出来な気がした。アルバムの制作はとても順調に進んだんで、2、3テイクでほとんどの曲を録り終えたはずだ。音の厚みを出すために、ギターの本数を増やしたりはした。マイクがベースを弾いた2曲を除いて、ベースも入ってない。アルバム全体の流れは、すごく良かった。一般的にアルバム全9曲は少ないかも知れないけど、俺たちは「もうこれで十分だ」って気分だった。実は、「The 7’s」* も、アルバムに収録する予定だったんだけど、きちんと仕上げる時間がなかったんだ。どのみち、この曲はアルバムにフィットしなかったから入れなかった。すべての作業を1週間で終えて、マスターテープをマットに渡したあと、バンドは解散したんだ。解散のアナウンス、レコ発ツアー、他のバンドのサポートツアーもしなかった。今思えば、すごくパンクでインディーっぽい。アルバムは、もう実在すらしないバンドの記録だったんだから。俺たち3人はバンドを再結成するまで、二度と一緒にプレイするつもりなんてなかった。

キンセラ:アルバムのレコーディングはあまり楽しくなかった。3人の間にわだかまりがあったんだろう。ラモスは、ある曲で、俺の弾いたベースが気に入らなかったみたいで、結局ヤツがベースを録り直したんだ。アルバムにはそのテイクが使われている。俺は、「どうせ解散するんだし、どうでもいい」って諦めてた。

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ホルムス:バンドの解散はまったく騒ぎにならなかった。俺たちは、ちょっとライヴした程度のバンドだったから。俺には借金があったから、働かないといけなかった。もちろん楽しかったし、子供ができたら話してやるだろうけど、先に進まないといけなかった。AMERICAN FOOTBALLは「プロジェクト」以外の何物でもなかったんだ。インディー・バンドなんて大したことないけど、俺たちはそのレベルにすらなれる気もしてなかった。

キンセラ:「バンドを続けたい」って気持ちもあったけど、実際、続けたところで長続きはしなかったはずだ。俺とホルムスは、ずっと近くに住んでるから、「もし俺たちがバンドを続けてたら、どうなっていたと思う?」 「お前、客に45分もギターのチューニングを見せる気か?」ってな会話を交わしたりもする。バンドを続けたところで、食えなかっただろうし、未来なんてなかったんだ。

ランスフォード:AMERICAN FOOTBALLのアルバムを聴いたときは、マジで興奮した。今まで誰もやったことがないような、マジで最高の作品だった。あいつらが影響を受けてきたバンド、今までにプレイしたすべての音楽がアルバムに集約されてた。POLYVINYL RECORDSとしては、バンドが解散しても「このアルバムは特別なものになる」という確信があった。

イリノイ州 アーバナ ウエスト・ハイストリート 704:あの家

唯一のフルアルバム『American Football』のジャケット写真に使われた家は、バンドの代名詞になった。家の写真は殆どのグッズに使われており、また再結成ツアーのバックドロップに使用されたのも記憶に新しい。面白いことに、メンバーの誰一人としてあそこに住んだことはないそうだ。今、あの家で暮らす住民には鬱陶しい限りであろうが、ここはエモ/インディー・ファンたちの聖地になったのだ。ネルシャツにスキニージーンズに身を包んだファンたちが、クリス・ストロング(Chris Strong:ジャケット写真を撮影したフォトグラファー)による象徴的な1枚を再現しようと試みる姿は、もはや当たり前の光景である。

ラモス:あの家には入ったこともない。俺にはホントに無関係なんだ(笑)。バンドの非公認カメラマンだったクリス・ストロングが、あそこに住んでいた。正直ジャケット写真を見たときは、DON CABALLERO* の『What Burns Never Returns』のパクリに見えた。あの家が聖地になったのは奇妙だけど、今、こうして帰ってきて、振り返ったときに見える家の表情が好きなんだ。あの家に神のご加護があらんことを(笑)。

クリス・ストロング(Chris Strong):1998年から1999年まで、大学4年の1年間をあそこで暮らしたんだ。共通の知人を介して、マイクは知ってた。ローカルの音楽シーンに詳しい連中の間で、彼はちょっとした有名人だったんだ。AMERICAN FOOTBALLと初めて仕事をしたのは、プレス用のアーティスト写真撮影。確か初ライヴのために写真が必要だったんだ。アルバムのアートワークについては、いつ彼らと話をしたのか覚えてないけど、恐らく最初の撮影のときだったはずだ。ジャケット写真の撮影にはそんなに時間をかけなかった。この写真がアルバムの雰囲気に合うと思って提案したら、OKが出たんだ。

ランスフォード:俺たちはデザインに関して何も考えてなかった。俺とダーシー(Darcie Lunsford:POLYVINYLの共同創設者で、マット・ランスフォードの妻)とバンドメンバーの誰かとあの家に行って、クリス・ストロングとミーティングをした。クリスが撮影したすべての写真をチェックして、プリント用フィルムを用意して、アートワークを印刷したのもあの家だ。

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ホルムス:あのアートワークは偶然だった。あそこは、たまたまクリスの家だ。アイツは何十枚も家の写真を撮っていた。どうやってアートワークを選んだのかは覚えてない。アートワークにはあまり気を使ってなかったんだ。だけど、アルバムがプレスされてからジャケット写真がアルバムのイメージを決定したのも事実だ。2014年のピグマリオン・フェスティバル* に出る前に車であの家を通ったら、ファンが写真を撮っていた。1ブロック手前には、俺たちが一緒に暮らして、曲を書いた家があるっていうのに!

キンセラ:今日、俺のマネージャーがあの家の前で撮った写真を送ってきたよ! 俺はジャケットの写真が好きだなんだ。クリスは素晴らしい写真家だ。ジャケットの写真を見ると、多くの人が抱くイメージを少しは理解できる。今、俺たちのバンドを象徴するのは、あの家だけなんだ。リリースから15年たった今でも、グッズのデザインに使われてる。俺たちにとって、あそこは音楽以外で、唯一誇れるものかも知れない。実は、バンドグッズのデザインについて、こんなメールを送ったことがある。「あの家はもうウンザリだ! クソみたいなデザインだ! どうしてどのグッズも同じ写真がプリントされてるんだ?」ってね(笑)。でも、ファンがあの家に惹かれる理由はそこなんだ。あの家だけなんだ。ちなみに、1998年から、俺たちのアーティスト写真もずっと同じものを使ってる。その間に俺たちはメタボになった(笑)。

遅れてきたファン そして再結成

バンドの解散から15年、マイク、ホルムス、ラモスの3人はそれぞれ別の道を歩んできた。マイクは、RAINER MARIAのツアーをサポートをきっかけに、ソロ・プロジェクトとしてOWENをスタートさせ、ミュージシャンとしての成功を収めた。AMERICAN FOOTBALLの解散後、ホルムスとラモスは同じバンドでプレイしていたが、彼らは音楽とは別のキャリアを選択した。ホルムスはコンピュータサイエンスの学位を活かし、ITのフィールドで活躍。一方、ラモスはコロラド州に引っ越し、現在はコロラド大学ボルダー校で教鞭を執っている。リリース以降、彼らのアルバムは世界中でじわじわとファンを獲得したが、彼らは、そのアルバムをひっさげてツアーに出る、などとは夢にも見ていなかったようだ。

ランスフォード:彼らのアルバムは「ゆでガエル理論」* みたいなもんだ。リリースからゆっくり、じわじわ人気になって、15年も経ったんだ。

ホルムス:自宅で、AMERICAN FOOTBALLの初ライヴの音源を見つけたんだ。「The 7’s」もそれに入ってた。そのファイルをマイクとマットに送った。POLYVINYLのウェブサイトで、無料配信でもしたら面白いんじゃないかとひらめいてね。案の定、マットは俺の提案に食いついてきて、「ライヴ音源のフルバージョンを送ってくれ!」とせがんだんだ。リリース15周年だったから、その中でも最高の15曲を選ぶことにした(実際、デラックス盤に追加収録されてるいのは10曲)。そうこうしてたら、デラックス盤の再発が決まって、俺がライナーノーツを書く羽目になった。最初はメンバー全員で書くはずだったけど、ラモスとマイクは俺が書いたものを読んで、「もう十分だろ」って、逃げやがったんだ。バンドをやってた頃に撮った写真も何枚か提供したよ。LP盤のレコードスリーブとリイシューされたジャケットの裏表紙に使われてるのは、俺の写真だよ。

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ラモス:少額の収入が記載された小切手を毎年受け取ってる。少額とはいえ、バンドをやってた頃は、そんなに稼げるなんて思ってもみなかった。今でもあのアルバムが売れてることに驚いてるんだ。だって今は、なんでも違法ダウンロードできる時代だ。6、7年前、ある学生が俺のところに来て、「知ってますか?『Never Meant』がLast.fmで250万回も再生されてるんですよ」って教えてくれたんだ。「本当かよ?なんでこんなことになってるんだ」って驚いたね。

ランスフォード:デラックス盤をPOLYVINYLのサイトで発売開始したら、アクセスが多過ぎてサーバーがダウンした。それまで、バンドは再結成をする予定はなかった。俺たちは毎年、再結成するように勧めてたんだけど、アイツらは首を縦に振らなかった。だけど、サーバーの件があって、やっとファンたちの気持ちに気づき始めたんだろう。3人は、ようやくライヴするのを決心してくれたんだ。再結成ライヴに駆けつけたファンの多さには本当にビックリした。世界中からファンが来たんだ。そのおかげで、バンドもクオリティの高い演奏をした。まるで解散せずに、15年間ずっとプレイし続けてきたみたいだった。「ファンにとってのAMERICAN FOOTBALLという存在」を、俺もバンドメンバーもようやく理解したんだ。

ホルムス:アルバムが売れ続けてたのは、マイクがOWENとしてプレイしているからで、ヤツのファンがAMERICAN FOOTBALLのアルバムを買ってるからだ、って勘違いしてた。アルバムが再発されるまで、そんなに人気があるなんて知らなかったんだ。俺たちがPOLYVINYLのサーバーをダウンさせるなんて! 2年前に、「ワールド・ツアーでライブ30本」なんていわれても、「お前、頭大丈夫か?」って返してたろうな。でも今じゃ、世界中の音楽フェスでプレイして、世界中でチケットがソールドアウトしてる。この事実には笑うしかない。有名バンドの話だろ? 俺たちのストーリーは映画みたいだ。実際、他のバンドもよく再結成してるけど、俺たちはバンドといえるような代物じゃなかった。バンドというより、学校の自由研究みたいだった。だって昔は、スキューバ(Schuba’s Tavarn:シカゴのライヴバー)ですらチケットが余ってたんだから。

ラモス:サーバーがダウンしたときは、「一体何が起こったんだ?」って感じだった。再結成にはずっと反対してたんだけど、あの事件があって初めて、「AMERICAN FOOTBALLは、俺たちの想像以上に特別な存在なのかも」って気付いたんだ。ニューヨークのウェブスターホールでのライヴが完売したのにはビックリした。金曜日のチケットは、発売開始から30秒で完売した。それで運営側から、「追加公演しますか?」と聞かれたから、俺たちは「もちろん!」って即答した。土曜日のチケットも3分で完売した。その後、彼らは3日目の公演もブッキングしたがった。とんでもないことになっていると確信したね。

ランスフォード:どうしてあのレコードが特別か? 明確な答えがあるとしたら、「今聴いても、サウンドがユニークで、オリジナル」だからかな。収録されている曲はエモーショナルで、リリックも全体の雰囲気にすごくマッチしてる。AMERICAN FOOTBALLは、当時の他のバンドと比較すると控えめなサウンドだった。「攻撃性」「激しさ」より「芸術性」を大切にしてた。そこが、他のバンドと決定的に違ったところだ。リスナーもこのバンドにリアルな「なにか」を感じたんだろう。

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キンセラ:バンドにはセオリーがあった。「若いリスナーに語りかける」ってこと。思春期や多感な年頃の子たちが、俺たちのターゲットだった。あの頃、周りの連中もバンドでプレイしてたけど、みんな理想と現実のギャップに困惑してた。もちろん「お前らってクソみたいな音楽やってんな」ってバカにされたりもした(笑)。いま起こっている現象はこういうことだろう。10年前に俺らのアルバムを聴いて、気に入ってくれたキッズたちが大人になり、ブログとかを書く。今、彼らは影響力のあるポジションにいる。当時のリスナーはもう30代になっていて、今、俺たちのアルバムを聴いても10代の頃のような感情は蘇らないだろうけど、彼らにとって何か特別なものがあるんじゃないかな。個人的には、THE SUNDAYS* なんかの作品と比べると、俺たちの作品は大したことない。だけど、多くのリスナーが俺たちのアルバムを重要な1枚だと認識してる。…とはいうものの、リリース当初は誰も気にかけなかった(笑)。RADIOHEADの『OKコンピューター』のようにリリース直後から、「音楽に革命をもたらした」なんて作品ではなかった。誰も見向きもしなかった。だけど、そのとき聴いてくれた何人かのキッズたちが影響力を持つようになったんだ。そのおかげこのアルバムは世に広まった。本当にスゴい。

帰郷:イリノイ州 シャンペーン・アーバナ

2014年8月、シカゴのビートキッチン(Beat Kitchen)で行われたシークレットライヴでウォーミングアップを済ませたAMERICAN FOOTBALLは、2014年9月28日、ピグマリオン・フェスティバルで公式にバンド活動を再開した。1999年4月3日以来初だ。「カムバック」よりも「再誕」という言葉がふさわしい。彼らは、もうライヴで8分間もチューニングをするようなキッズではなかった。以前とは比べられないほど、バンドとしての一体感を増し、音も洗練されていた。殆どのオーディエンスにとって、彼らの楽曲をライヴで聴くのは初めてだった。バンドメンバーを含めたスタッフ全員が、決して実現するとは考えていなかった。再結成ツアーを成功させるため、AMERICAN FOOTBALLはマイク・キンセラの従兄弟である、ネイト・キンセラ(Nate Kinsella)* をベースプレーヤーとして迎え入れた。

ラモス:俺たちも望んでいたように、ツアーはシャンペーンから始めることにした。俺はそれまで一度も屋外でプレイしたことがなかったから、恐怖とともに高揚感も感じた。それに、ステージもすごくデカかったから、ちょっとビビった。

キンセラ:出演を決めたのは、単純に、ピグマリオン・フェスティバルが好きだったからだ。快適な時間を過ごした。昔からの顔馴染みとも会えたし、楽しかった。それで、「ニューヨークでも1本くらいならやるか」って。「いや、2本やろう!」とか「ニューヨークでやるなら、スペクタクルな仕上がりにしなきゃ」って話が進んだ。ニューヨーク公演がソールドアウトしたなんて、クレイジーだ。でも、「練習してる」って自信もあったし、「もう2、3本ライヴを増やしてもいいんじゃないか」なんて、ちょっと調子に乗ったんだ(笑)。もし俺たちが、ニューヨークで1500人の客を相手に、90年代のセットをそのままプレイしたら、ビール瓶が飛んできたハズだ。だから、ギターのチューニングを2分短縮した(笑)。

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ホルムス:再結成して初めてのシャンペーンでのライヴは、俺にとっては10年ぶりのステージだった。しかも、2000人もオーディエンスがいて、みんな声を出して歌ってた。すごくクールな光景だった。俺みたいな音楽バカばっかり集まってたんだ(笑)。俺自身も、あのオーディエンスの中にいるような感覚だった。そういえば、俺もDRIVE LIKE JEHU* の再結成ライヴで、彼らの曲を歌ったよ(笑)。

キンセラ:もし2年前に質問されてたら、「CAP’N JAZZの方がビッグだったし、カルト的な人気もあった」と答えていたけど、今はホントにわからない。俺はOWENとしても1000曲くらい書いてるから、なんで人々が、「マイク・キンセラ=AMERICAN FOOTBALLの12曲(EPの3曲+アルバムの9曲)」と定義するのかがわからない。多分、単純にAMERICAN FOOTBALLの12曲の方がよく聴かれているからかな。実際、数値化するのは難しいだろうけどね。デラックス盤のリイシューと再結成ツアーを経て、少なくともセールス上では、『American Football』が俺のキャリアで最も売れたアルバムになった。でもやはりクオリティーは、OWENとしての作品の方が確実に高い。『American Football』にはたくさん納得いかないところがあるしね。今すぐ「AMERICAN FOOTBALLより素晴らしいOWENの12曲」を選ぶこともできる。実際、俺はソングライターとして成長し、もっと思慮深くなった。俺のキャリアをレコード棚に例えるなら、AMERICAN FOOTBALLは、仕切り板よりは価値がある。だって、シンガーソングライターとしてのキャリアをスタートさせてくれたんだからね。

脚注①CAP’N JAZZ:マイク・キンセラにとって最初のバンド。メンバーには彼の兄であるティム・キンセラも在籍。このバンドから、JOAN OF ARC、THE PROISE RING、GHOSTS AND VODKA、OWLS、MAKE BELIEVEなどが派生した。CAP’N JAZZでマイクはドラムを担当。

脚注②VFWホール:退役軍人記念ホール。

脚注③SCREECHING WEASEL:1986年結成のシカゴ産ポップパンクバンド。

脚注④BRAID:1993年結成。ポストハードコア〜エモ・シーンの代表的バンド。現在も活動中。

脚注⑤THE ONE UP DOWNSTAIRS:メンバーは、スティーヴ・ラモスとマイク・キンセラ、そしてのちにVERY SECRETARYを結成するデヴィッド・ジョンソン(David Johnson)とアレン・ジョンソン(Allen Johnson)。

脚注⑥POLYVINYL RECORDS:シャンペーンを拠点とするインディペンデント・レーベル。今やアメリカを代表するレーベルに成長。現在の主な所属アーティストは、DEERHOOF、OF MONTREAL、XIU XIU、マイクによるOWEN、マイクの兄ティムによるJOAN OF ARC、そして日本のトクマルシューゴなど。