若者を魅了する絶滅寸前の音楽

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若者を魅了する絶滅寸前の音楽

スマトラ島海岸沿いの田舎から出てきた中年オヤジが演奏する、絶滅寸前の音楽がたくさんの若者を魅了している。耳にこびりつくようなメロディ、クラシカルなフィンガー・ピッキング。そのスタイルは、南ランプンの伝統的な〈スグタ(segeta)〉と呼ばれるストーリー・テリングの手法にのっとっている。

イマーム・ロザーリ(Imam Rozali)は、故郷のインドネシア、南ランプンの伝統音楽を継承する最後の世代の音楽家だ。彼は、人生を演奏技術の研鑽に費やしてきた。いや、もしかしたら現世だけでなく、前世から演奏していたのかもしれない。インドネシアの首都、ジャカルタでの初パフォーマンスに集まった観衆を見たら、そんなふうに思えてきた。47歳のロザーリが立ったステージは、南ジャカルタのアート系複合施設〈PAVILIUM 28〉。そこでロザーリは、34年にわたる努力の賜物を披露した。集まった観客は20~30代が中心だった。

スマトラ島海岸沿いの田舎から出てきた中年オヤジが演奏する、絶滅寸前の音楽がたくさんの若者を魅了するのはなぜだろう? そもそも、若者たちは、ロザーリが何を歌っているか理解しているのだろうか? というのも、ロザーリは、人生、愛、死について、インドネシア語と、彼の地元のランプン語を織り交ぜて歌うのだ。

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奏でる曲は繊細で、リスナーを催眠状態に導く。耳にこびりつくようなメロディ、クラシカルなフィンガー・ピッキング。彼のスタイルは、地元の伝統的な〈スグタ(segeta)〉と呼ばれるストーリー・テリングの手法にのっとっているが、オーディエンスは、曲の美しさに酔いしれ、歌詞の細かい内容など、気にしていないようだった。そう、音楽自体がすばらしい。特に、途絶えてしまう音楽だ、と考えると、さらにその想いが強まる。

「オランダ人がやってくると、アーティストもミュージシャンも大勢殺されました」とロザーリ。「私の祖父は生き延びるため、バトゥ山の頂へ逃げ、みんなといっしょに隠れました」

Photo by Andrew Hartwig

山頂で、ロザーリの祖父は、ギター・トゥンガール(gitar tunggal:ソロギターの意)を披露し、みんなを楽しませたという。最終的に、下山が叶い、ロザーリの祖父は命を落とさずに済んだ。幼いロザーリは、祖父の膝の上に座り、ともにギターを弾いていたそうだ。

彼は、少しずつギターを習得したという。まずメロディを記憶して、こっそり祖父のギターを拝借して弾いていた。祖父が他界してからも、彼の芸術を継承しようと、ロザーリは練習を続けた。そして今、この伝統音楽の最後の演奏者になった。

しかし、音楽人類学の研究サイト〈Aural Archipelago〉の代表であるパーマー・キーン(Palmer Keen)は、それを事実だと証明するのは困難」だ、と語る。キーンは、初めてロザーリの演奏を録音し、オンライン上に曲をアップした。キーンの録音がネット上で公開される以前、誰ひとりとしてロザーリの演奏を耳にしたことがなかった。ロザーリが大きなステージで演奏できるようになったのは、キーンの録音に負うところが大きい。ロザーリが初めて出演したインドネシアのヒップスター的カルチャーフェス〈RRREC Fest〉の主催者は、キーンの推薦だけを信じて、ロザーリをブッキングした。

Photo by Andrew Hartwig

キーンは、伝統の継承者としてのロザーリの知名度上昇に貢献したものの、彼は、ロザーリが最後の演奏者だ、とする説には懐疑的だ。

「そういった説は、ある程度、話半分に聞くべきです」とキーン。「伝統音楽の演者には、〈伝統の継承者〉と自らを売り込む伝統音楽の演者がたくさんいます。とはいえ、ロザーリが暮らす地域で、プロとして演奏しているのは彼だけ、という可能性もあります」

ギター・トゥンガールのルーツは、植民地時代だ。ギターをインドネシアに持ち込んだのはポルトガルの貿易商たちだった。彼らはランプンに寄港し、クローヴ、トウガラシ、コーヒー、ナツメグなどの香辛料を扱っていた。しかし、往復の船旅には長大な時間がかかるので、たくさんのポルトガル船員たちが現地に残った。そして現地の女性と結婚し、盛大な結婚パーティーを催したのだ。

「多くのポルトガル船員が現地女性と結婚しました。そして結婚パーティーでは、ポルトガルの音楽を演奏していました。たくさんのインドネシア人が、そこでポルトガル音楽を覚えたんです」とロザーリ。

しかし、ポルトガル人ミュージシャンたちは〈ポルトガルギター〉を演奏していたが、インドネシア人たちは、短めのギターのような楽器を好み、最終的には現在のアコースティックギターに落ち着いた。音楽は、ポルトガル音楽がベースだが、様々な音楽の影響を受けている。アラブ人貿易商がランプンに上陸すると、中東の音階、音色がもたらされた。

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「アラブ人がランプンにイスラム教を持ち込んだんです」とロザーリ。「休憩のとき、アラブ音楽を地元住民に教えてくれたんです」

しかし、現在のロザーリは、融合の歴史とは真逆のアプローチをとる。ギター・トゥンガールは元来、様々な音楽スタイルや影響を取り入れながら発展してきたが、ロザーリは、彼が受け継いだギター・トゥンガールを守るため、自分の生活から、トゥンガール以外の音楽をシャットアウトしようと努めている。

「私も、私の子どもたちも、他の音楽は聴きません」と彼は断言する。「家にはテレビもラジオもないので、影響は受けていません。祖父の音楽をそのまま守りたいんです。正統性が失われたら、アイデンティティが失われるも同然ですから」

しかし、何十年ものあいだ、ロザーリの音楽への献身は、誰にも知られることがなかった。地元のイベントで演奏を依頼される機会もあったが、報酬で生活できるほどではなかった。

「演奏依頼がないかぎり演奏はしません」とロザーリ。「大体、割礼の儀式か結婚式ですね。報酬は、演奏1回につき7.40~14ドル(約800~1600円)です」

また彼は、ギター・トゥンガールを継ぐ若い世代の教育にも努めており、レッスン代を払えない子どもたちにも門戸を開いている。

「全て自腹です」とロザーリはいう。「お金がない子どもがいたら、私の所持品を売って、レッスン中のおやつ代にします」

Photo by Yudistira Dilianzia

自治体に援助を依頼したが、それは腹立たしい結果に終わった。

「ポルトガル・ギターが1本欲しくて、地元の自治体に援助をお願いしたら、話がとおったんです」。彼は回想する。「1ヶ月待ったら、南ランプンの観光課まで取りにこい、と指示されました」

「いざ行ってみたら、管理手数料185ドル(約2万円)を要求されました。私は、お金がないから、自治体にお願いしたんです。しかし、決まりだ、と取り合ってくれませんでした。そのギターはどこにあるのかもわかりません。頭にきますね」

初めての公共スペースでのパフォーマンスは、西ジャワのスカブミで開催された〈RRREC Fest〉だった。インドネシアのインディーロックシーンにおける話題のアーティストたちが集まるフェスだ。その後、ジャカルタの〈PAVILIUM 28〉に招待され、そこでも演奏した。ロザーリにとって、とても誇らしい経験だった。

「ジャカルタへ発つ前、父に報告すると、『ありがたい。ランプンを知ってもらえるんだな』と喜んでました。ランプンにも文化やアートがあるんだ、とみんなが気付くでしょうからね」

彼の2度の演奏がインドネシアの多様で伝統音楽への世間の意識を高めることにつながれば、と彼は願っている。

「私たちの音楽は、みんなを魅了するだけではなく、インドネシアのアイデンティティでもあります」とロザーリ。「先祖の文化を継承する、私たちのような存在に注目してほしいです。自分の母国なのに、私たちは、まるで、アウトサイダーのように扱われています。寂しいですよ」