ノーマン・ブレイクが自ら選ぶTEENAGE FANCLUBのアルバムベスト10

TEENAGE FANCLUBは、「世界で最高のバンド」、もしくは「世界で二番目に最高のバンド」だ。そのどちらかは、回答する相手による。リアム•ギャラガー(Liam Gallagher)は、後者だと断言した。もちろん彼が選んだ「世界最高バンド」はOASISであるが、NIRVANAのカート•コバーン(Kurt Cobain)は、TEENAGE FANCLUBをチャンピオンに選んでいる。いずれにしてもTEENAGE FANCLUBは世界有数のバンドだ。グラスゴー生まれのこのバンドは、多くの流行…グランジやラップメタル、ブリットポップなどとは関係なく、30年間着実に良質のギターポップ、ギターロックだけを生み続けてきた。しかしNIRVANAが『ネヴァーマインド(Nevermind)』で世界の頂点に立ったときは一緒にツアーをし、PRIMAL SCREAMやOASISと共にCREATION RECORDSを盛り上げた。更に、映画『ジャッジメント・ナイト(Judgment Night)』(1993)のサントラではDE LA SOULと共演するなど、彼らのネットワークはビックリするほど広い。

https://youtu.be/R6rxsp82OvM

21世紀に入ってからは、決して「多作バンド」とはいえない活動をしてきた彼らだが、ノーマン•ブレイク(Norman Blake)、ジェラルド•ラヴ(Gerald Love)、そしてレイモンド•マッギンリー(Raymond McGinley)の3人は、6年ぶりとなる11枚目のフルアルバム『ヒア(Here)』を提げて戻ってきてくれた。作品ペースが落ちているのは、彼らも承知だ。「歳を追うごとに、ゴールまで時間がかかるようになったよ」と、ブレイクは認めている。「今回は海外にも出向いたから、更に時間がかかった。他にもいろいろ手掛けていたしね。他のメンバーもそうだよ。でも作品が完成して、またツアーもできる。本当に嬉しいよ。この作品は近年のベストだね。まぁ、個人的な見解だし、いつも僕はそういってるんだけど(笑)」

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そしてこの度、ブレイクに「TEENAGE FANCLUBのアルバムBEST10」を自らランキングしてもらった。カナダのオンタリオ・キチナーの自宅から、彼は電話で喜んで答えてくれた。

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10.『サーティーン(Thirteen):1993年』

なぜこのアルバムが10位なんですか?

音楽的にどうのというより、当時の状況が理由かな。アルバム制作に物凄く時間がかかったんだ。今回の『ヒア』も時間はかかったんだけど、『サーティーン』は、スタジオに入り浸りだった。前作『バンドワゴネスク(Bandwagonesque)』のツアーでは、世界中のあらゆる都市で演奏した。ツアーが終わって数週間しか休みをとらず、すぐにグラスゴーのスタジオでレコーディングを始めたのがマズかった。僕たちは3〜4ヶ月経ってもなお、そのスタジオから出られなかった。80ほどの断片的なアイデアがあったんだけど、曲としてまとまらなかったんだ。最終的には、マンチェスターのスタジオに移って、そこで更に2〜3か月かけて、素材を減らして曲にした。それをまとめたのが、『サーティーン』。もちろん、これらの曲が悪いわけじゃないけど、このアルバムをつくった時期を思い返すと、心地良い時間だったとはいい難い。多大な労力を費やした気がするんだ。

当時ジェラルドはMelody Maker誌で、「ノーマンは『バンドワゴネスク』以上の作品にしようと考え過ぎていた。そして時間がかかり、アルバム自体もピュアなものからかけ離れてしまった」と発言していました。やはり、前作の成功によるプレッシャーは大きかったですか?

うん、それもあったね。だけど、僕たちは構想すら見失っていたし、単純に長い時間スタジオに居過ぎた。ジェリー(ジェラルド)のインタビューの話で、思い出したことがあるよ。僕たちはこの『サーティーン』の制作について、たくさんのインタビューを受けたんだけど、「嫌な経験だった」とか、否定的な発言をしていたんだ。そしたらレーベルスタッフに、「そんなこというな!最高だったといえ!そうだったとしても人にいうな!」って、注意されたんだよね。ちょっと正直になり過ぎていたのかもしれない。どんなアルバムでも、良いレビューをひとつやふたつ貰うと、それが雪だるま式に膨れ上がる。元のレビューが、他のレビューに引用される。だけど、僕たち自身がアルバムについて発言すると、巡り巡って、そのアルバムの受け取られ方に関わる可能性がある。最終的に僕たちはそれを学んだんだ。…という訳で、新作『ヒア』は最高の出来だよ(笑)!

ファンの多くは、「BIG STARに捧げるトリビュート作品」として、『サーティーン』というタイトル* になったと考えていますが、それは本当ですか?

* メンフィス出身のアメリカを代表するパワーポップバンドBIG STARによる同名の名曲。

アルバムに13曲入っているからだよ。けれども、僕たちがBIG STARをよく聴いていたのは確かだ。アレックス・チルトン(Alex Chilton)とは一緒に仕事もした。彼は僕たちを気に入ってくれた。どちらかというと、彼は人嫌いなんだけど、なぜか気に入られたんだよね。僕たちをみると、「若い頃を思い出す」ってね。とても仲良くなったよ。彼も、僕たちも、ビジネスについては、あまり気にしていなかった。それもあるのかな。このアルバムにBIG STARの影響があるのは確かだよ。ファンもそれに気づいていたみたいだね。当時BIG STARは、それほど有名じゃなかったんだ。Melody Maker誌で、スティーブ•サザーランド(Steve Sutherland)ってヤツに、「今、どんな曲を聴いているか」って質問されたので、「BIG STARだ」と答えると、「誰だか知らない」っていった。彼は、アレックスも、BOX TOPS* も知らなかった。 当時のBIG STARはそれくらい注目されてなかったんだよ。

* アレックス・チルトンが在籍していたバンド。1966年結成、1970年解散。

『サーティーン』のアルバムジャケットについてですが、当時GEFFEN RECORDS(脚注③)は、本当は違うジャケットにしたかったと聞いています。

* NIRVANAも在籍していたメジャー・レコード会社。当時TEENAGE FANCLUBは、本国イギリスではCREATION RECORDS、アメリカなどではGEFFEN RECORDSからリリースしていた。

GEFFENのアート担当の誰かが、「是非、この作品のジャケをやってみたい」といったんだ。僕たちは、「いいね、自由にやってよ。もちろん、どんなアイデアか確認したいから、いくつか送ってよ」って答えた。そして数ヶ月後、「13、と描かれた白いTシャツを着て、マスカラ混じりの涙を流しながら泣いている女の子の画像」が送られてきたんだ。僕たちは「やってくれてありがたいけれど、ちょっと音とは合わない」って伝えた。すると彼はロンドンにいた僕たちに、「この作品には結構なお金がかかっているんだよ」と電話をかけてきた。「誰もお金をかけてくれなんて頼んでない。君のアイデアで進めるともいっていない。思い出してくれ」って返したら、「このジャケットにしない場合、GEFFENはアルバム・プロモーションしないかもよ」という。「あのなぁ、そんなもん俺たちの知ったこっちゃない」と答えた。僕たちの気に入らないものを盾に脅そうとするんじゃないってね。でも結果的に僕たちは、ジャケに使ったモデル代と、カメラマン代と、スタジオ代の費用として、100万円支払う羽目になったんだ。

GEFFEN側のアイデア、すごいですね。

GEFFENと契約をしたのが間違いだった。おそらく彼らは、ティーンエイジャーの女の子に向けて、僕たちを売ろうとしていたんだ。ダグラス•ハート(Douglas Hart)* とつくった「The Concept」のビデオを観て欲しい。GEFFENは、女の子やMTV世代に僕たちを売ろうとしたんだけど、このビデオでは、そんなアプローチを邪魔するようにつくった。僕たちはまだ若いバンドだったけれど、僕たちの音楽は、その世代にまったくアピールしなかったんだ。

* ジーザス&メリー・チェインのメンバーであり、MY BLOODY VALENTINEやPRIMAL SCREAM、THE STONE ROSESなどのビデオも手掛けた映像ディレクター。

それで、このバスケットボールを水に浮かべたジャケにしたんですか?

そうだね、ギリギリに仕上げた。だからベストなジャケットではない。ジェフ•クーンズ(Jeff Koons)* の作品で、水の中にバスケットボールを吊るしたものがあるんだけど、その見た目が好きだったから、真似してやろうと。クーンズも同じように他の人のアイデアを盗むだろ。まぁ、結局それも『サーティーン』のマイナスイメージのひとつだね。すべての過程にうんざりしていたんだ。

* ペンシルベニア出身の現代美術家。ポップアートの貴公子と称されている。最近ではレディー・ガ・ガのジャケットも手掛けた。




9. 『The King:1991年』

このアルバムは、『バンドワゴネスク』録音中につくった。そんなに気合を入れていた訳じゃないからこの順位。ある晩、僕たちは全員酔っ払っていてね。22歳くらいだったかな。ドン•フレミング(Don Fleming)* もいてさ、みんなで、「一晩でレコードをつくろう。インプロを何曲か、あとカバーとかを入れて、編集すればいいよ」って話になった。そしてアラン•マッギー(Alan McGee)** のところへ持って行った。「限定盤として500枚だけ出したい」っていうと、「いいね、やろう!」って。なのに、CREATIONは1万枚プレスしてくれた! 今でもたまに見かけることがあるよ。アルバムはアルバムだけど、アンオフィシャルアルバムってとこかな。でも僕はこのアルバムが好きだよ。インプロをやるのが楽しかったから。その頃の僕たちは、今よりとてもオープンだった。僕たちにはもう『King 2』はつくれないよ。

* 『バンドワゴネスク』のプロデューサー。自身もB.A.L.L.、GUMBALL、VELVET MONKEYSなどのバンドで活動。

** CREATION RECORDSのオーナー。
https://youtu.be/mjdXGNjB3vc

当時、アメリカの所属レーベルであったMATADOR RECORDSとの契約を終わらせるために、『The King』を急いでつくったという噂がありますが、本当のところは?

それはウソ。元々MATADORとはファーストの『カソリック・エデュケイション(A Catholic Education)』の契約しかしていない。それまで僕たちとMATADOR RECORDSの関係は悪くなかった。それなのに、まったくの嘘で、勝手に非難され放題だったよね。その頃にはイギリスではCREATIONに所属していたし、そしてGEFFENとも契約した。もっと長くMATADORに残れたかって? うん、多分ね。それもいいアイデアだったかもしれない。でもお金が必要だったのも事実なんだ。僕たちは文無しだった。若かったし、家賃も払わなきゃいけなかった。だから契約して、お金も手にして、『バンドワゴネスク』をつくった。MATADORと次のアルバムをつくる予定は初めから無かったんだ。当時は「メジャーレーベルに身売りした」とかいわれたね。皮肉にも、その後MATADORは6億円ほどで買収された。とにかくジェラルド•コスロイ(Gerald Cosloy)* との不仲については、もう過ぎた話さ。

* MATADOR RECORDSの創始者。




8. 『英知と希望の詩(Words Of Wisdom And Hope):2002年』

これは、ジャド•フェア(Jad Fair)とのコラボレーション•アルバムですよね。

好きじゃないからランクが低いわけじゃないよ。本当に好きなアルバムだ。ある意味、最も気に入っている。ただ、まるまるTEENAGE FANCLUBのアルバムじゃないってだけ。ジャドとは、長年の知り合いだ。PASTELSのスティーブン(Steven Pastel)を通して知り合った。このアルバムをつくった頃、ジャドは泥沼の破局をしたばかりだったけど、アルバムを出して、ヨーロッパ中をツアーしていた。グラスゴーに来たときには、僕の家に泊まっていたから、とても仲良くなった。ワインを飲みながら、ボードゲームをしていたときに、ふと一緒にアルバムをつくる話になった。彼がボーカルで、僕たちがバックバンド。メンバーに連絡して、数日後にはスタジオに入っていたよ。

ジャドは、物凄い才能の持ち主だよ。楽器はなにもできないけど、インプロの技術は見事。歌詞が書かれた小さいノートを見ながら、ワンテイクでボーカルを録り終える。それでトラックは完成。そのあと僕たちが楽器を変えて、また同じようにやる。16曲を2日間でレコーディングしてアルバムが完成した。すべてインプロだよ。そのスピード感に自由を感じたね。ジャドとは今も友達だよ。昨年も一緒にニューアルバム* をつくったばかりだ。

* Jad Fair&Norman Blake による共作‎『Yes』。




7. 『シャドウズ(Shadows):2010年』

このアルバムのほとんどは、レイモンドのところで作業した。あとは、『ハウディ!(Howdy!)』でも使ったウェールズのロックフィールド•スタジオ(Rockfield Studios)。すごくいいところだよ。特に何もいう必要がないので、この順位。

その前の作品である『マン・メイド(Man-Made)』が、削ぎ落とされたシンプルな内容でしたから、私は、その反動がこの作品には存在していると感じていました。

そういわれると、その通りだね。ご指摘ありがとう。レコーディング自体は、イギリス東部のノーフォルクでもやったんだけど、THE DARKNESSって憶えてる? いい奴らだ。共通の友達を通して知り合ったんだけど、そのTHE DARKNESSのダン(Dan)が、僕たちの大ファンなんだ。彼がノーフォルクの自宅にスタジオを持っていてね、更にニック•ブライン(Nick Brine)が、そのスタジオのハウス•エンジニアになった。彼はすでに、『マン・メイド』などの僕たちの作品からTHE DARKNESSまで手掛けていたから、これ以上完璧な状況はなかった。トラックを借り、ありとあらゆる機材を積み込んで、グラスゴーから運んだのを憶えているよ。キッチンの流し台まで持参したんだから。だから、すべてを詰め込んだ作品っていうのは確かだね。僕たちの中に、「アンダーダビング(Underdubbing)」ってキーワードがあって、それをよくやるんだけど、まずレコーディング•トラックになんでもかんでも詰め込んで、盛り盛りにする。必要以上にするんだ。そしてそこから、不必要なトラックを、「アンダーダビング」で差し引いていく。『シャドウズ』は、そのアンダーダビングを十分しなかったのかもね。逆に『マン・メイド』のときは、何も持って行かなかった。ギターを4本だけ持って、シカゴまで行ったんだ。


6.『マン・メイド(Man-Made):2005年』

このアルバムは、つくるのが楽しかった。さっきもいったように、僕たちはとにかくイギリスから脱出したかった。今までアメリカでアルバムをつくった経験もなかったしね。それで、「どこに行こうか? 誰と一緒にやろうか? 」って話し合って、ジョン•マッケンタイア(John McEntire)* に連絡を取った。彼と共通の友人が何人もいたし、TORTOISEからSTEREOLABなど、彼が参加している音楽は、なんでも好きだったからね。彼も、「ぜひ!」っていってくれてさ。僕たちはギターだけ持って行った。他の機材はすべてジョンに借りてレコーディングしたんだ。ジョンの機材コレクションは凄かったよ。変わったものから、細々としたものまで、なんでも持っていた。彼は、あまりなにもいわない人。黙々とやってくれた。クリエイティブな部分は、僕たちの好きなようにやらせてくれたから、それがとても良かった。彼は録音作業に徹してくれたんだ。

* TORTOISE、THE SEA&CAKEなどのメンバーであり、プロデューサー、エンジニアとしても活躍。自身のスタジオ「SOMA」も運営している。

今作は、2セッションに分けて録った。一度目は、真夏のシカゴ。それはもう火傷するくらい、狂ったように暑かった。それからイギリスに戻って、しばらくツアーして、今度は2月にシカゴへ戻った。それはそれでまた悲惨でさ。今度は狂ったように寒い! シカゴがどれほど寒くなるか知ってるだろ? でもジョンとアルバムをつくるのは楽しい経験だった。彼はレストランのチラシをごっそり持っていてね、毎日違う場所へ食べに行った。違う環境で過ごせて良かったよ。



5.『ハウディ!(Howdy!):2000年』

このアルバムは、おかしな時期につくられた。ちょうどCREATION RECORDSが、ソニーに買収されたか、されるところでさ。アラン•マッギーが、僕たちのところにわざわざ来て、「次のアルバムをきちんと保証するから。ソニーから良い条件でアルバムを出せるようにする」といったんだ。驚いたね。そして本当に彼は、アルバム2枚分の契約をソニーと結んでくれたんだ。もうすぐCREATIONは終わるってわかっていながらね。僕たちがようやく『ハウディ!』に取り掛かり始めたとき、CREATIONはもう無くなっていた。ソニーは、「僕たちのアルバムをリリースするか、僕たちに金を払うか」を検討していたんだけど、結局彼らはリリースした。でもソニーからの2枚目のアルバムはコンピレーションになったんだよね。僕たちも少しは妥協したんだ。僕たちもあそこ居たくなかったし、向こうも本当に僕たちに居て欲しくはなかったから、コンピレーションは良い逃げ道だった。お互いがハッピーになれるように、作品を差し出したというわけ。

だから『ハウディ!』は、一緒にやりたいレーベルとの作業ではなかった。移り変わりの激しい時期につくられたんだ。このアルバムは、PINK FLOYDのデイヴ•ギルモア(Dave Gilmour)のスタジオでレコーディングした。テムズ川に浮かぶハウスボートがスタジオになっていて、機材も驚くべきものだらけだった。実に素晴らしかったよ。残念ながらデイヴには会えなかったけどね。そのあとは、ウェールズのロックフィールド•スタジオで仕上げた。ここもまた伝説的な場所だよね。HAWKWIND時代のレミー(・キルミスター:Lemmy Kilmister)が、農耕機具に座っている有名な写真…あれはロックフィールドで撮ったものだよ。このアルバムには、僕が個人的に気に入っている曲が入っている。「Dumb Dumb Dumb」だよ。僕がつくった曲なんだけど構成が好きなんだ。ドラムがちょっと遠くで鳴っててさ。

当時、このアルバムをアメリカで見つけるのは難しかった。だから私は輸入盤を買いました。

そうだろうね。ソニーはあまり僕たちのバンドに注力してなかったから。序列でいったら、かなり下の方だろうね。流通もプロモーションも、もっと上手くできたハズだ。でも、そういうもんなんだよ。僕たちは、ソニーが用意したプロデューサーも断った。自分たちでプロデュースした。その前のアルバム『ソングス・フロム・ノーザン・ブリテン(Songs From Northern Britain)』もそうだったしね。とにかく、このアルバムを世に広めるのは難しかったよ。残念ながらね。


4.『カソリック・エデュケイション(A Catholic Education):1990年』

ファースト・アルバム。グラスゴーでつくった。すべて自費でね。あと、ロッチデールにあるスウィート16(Suite 16)というピーター•フック(Peter Hook)* のスタジオも借りた。ウソじゃないよ、当時は本当にみんな金がなかったんだ。レイモンドが世話をしていた隣人が亡くなってね、その彼女が残してくれた冷蔵庫とオーブンを売り払って、スタジオ代を賄ったりもしたんだから。ほんの数日でアルバムをつくり、お金が入るようにマスター•テープも買い取った。もちろん、自分たちで保持したかったっていうのもあるけれどね。このアルバムでは、フランシス•マクドナルド(Francis Macdonald)がドラムを叩いていたんだけど、どこかイマイチだった。その後、フランシスは大学へ行くという「賢い選択」をし、僕たちはブレンダン•オヘア(Brendan O’Hare)を迎えた。スウィート16で、ブレンダンのドラムを数曲レコーディングしたんだけど、その間、THE MEMBRANES** のところに泊めてもらった。クールなバンドだったよね。とにかくいい経験だった。1000ドル以下でアルバムもつくれたしね。そう、すべて自費だよ!

* JOY DIVISION、NEW ORDERの元メンバー。

** 79年に結成された伝説的ポストパンクバンド。

完成後、このテープを、PASTELSのスティーブンにあげたんだ。スティーブンとは20歳の頃、ヨーロッパで一緒にツアーをしてから仲良くなったんだけど、そのスティーブンが、デイヴ•ベイカー(Dave Baker)という男にテープを渡したら、そのデイヴが気に入ってくれた。彼は当時、GLASS RECORDSというレーベルを持っていて、PAPERHOUSEという新しいレーベルも始めていた。そこから、僕たちのこの作品をリリースしてくれたんだ。更にまたスティーブンが、MATADORのジェラルド•コスロイにもテープを渡した。彼も気に入って、気付いたらMATADORからもリリースされていた。そしてあれよという間に、僕たちはニューヨークのニューミュージック•セミナーに出演することになったんだ。ニューヨークに着いたその晩、小さなリハーサル•スペースで演奏をした。そこで初めてYO LA TENGOとSONIC YOUTHのスティーヴ・シェリー(Steve Shelly)に会ったよ。1989年だね。そのあと僕たちは、CBGBでライブをした。雑誌で読んでた通り、伝説のままの場所だった。その旅の中でSONIC YOUTHとも一緒に過ごせたし、素晴らしい体験だったよ。

このアルバムは、当時のSONIC YOUTHばりに、ノイジーな作品になっていますね。

そうだね、そういうのばっかり聴いていたし。当時のブリティッシュ•ミュージックは違っていた。多くのバンドが、ウキウキしたドラムビートだかなんだかにハマっていた。だけど、グラスゴーはロンドンと違ったんだ。僕たちは、カルヴィン•ジョンソン(Calvin Johnson)* と仲が良かったし、オリンピアやニューヨークにも友達がいた。どちらかというとロンドンよりもそういった他の都市の人たちと交流があったんだ。ロンドンにもLOOPやMY BLOODY VALENTINEとか知り合いはいたよ。でも友好な関係にあった多くの人たちは、アメリカの方が多かったんだ。それにこのアルバムには、ニール•ヤング(Neil Young)の影響もちょっと入ってる。僕たちは、彼がすごく好きだ。インストのトラックのいくつかは、彼の影響がもろに出ているよ。

* BEAT HAPPENINGなどのメンバーであり、オリンピアのレーベルK RECORDSのオーナー。




3.『バンドワゴネスク(Bandwagonesque):1991年』

ほとんどのファンは、これがTEENAGE FANCLUBのナンバー1アルバムだと予想するでしょう。

確かにかなり成功したアルバムだった。僕たちが世界中をツアーするチャンスをくれた作品だったしね。初めて、アメリカ、オーストラリア、日本でツアーした。会場の規模もずっと大きくなった。これもまた楽しい経験だったね。このアルバムはリバープールでつくった。ほぼ僕たちの思い通りに成し遂げられたね。ドン・フレミングとレコーディングしたんだ。 GLASS RECORDS、PAPERHOUSEのデイヴ•バーカーを通じて、彼と知りあったんだ。ドンは当時GUMBALLのメンバーで、SONIC YOUTHのようなノイジーなアメリカン•オルタネイティヴポップをやっていた。僕たちもその手の音楽にハマっていた。そういうサウンドを真似しようとして、『カソリック・エデュケイション』をつくったんだからね。だけどドンは、僕たちの歌うハーモニーを聴いて、「もっと、そういうのをやった方がいい。今は、誰もそういう音をやっていない。ノイジーなギター•ポップは簡単だし、誰もがやっているけど、そんなハーモニーが歌えるバンドは、そういないよ。とりあえずやってみてよ」と勧めてくれたんだ。それがいいアドバイスになった。ドンも深く介入するタイプではなかった。ツマミを回して、昔ながらのオーソドックスなスタイルで指示を出す感じだった。結局、ドンのアドバイスによって、TEENAGE FANCLUBは大きな観客の前で演奏できるようになったんだ。

SPIN誌は『バンドワゴネスク』を、1991年のアルバム•オブ•ザ•イヤーに選出しました。NIRVANAの『ネヴァーマインド』、U2の『アクトン・ベイビー(Achtung Baby)』、そしてMY BLOODY VALENTINE『ラヴレス(Loveless)』を制したのです。驚きましたか?

最初は普通に驚いたんだ。そのレビューをしたのが、当時SPINの編集者で、ORANGE JUICEのドラマーだったスティーヴン•デイリー(Steven Daly)と知るまではね。グラスゴー出身で僕たちが最も好きなバンドだよ。彼がその編集者だと聞いて、彼が決めたのかもしれないと思った。でも違ったんだ。アメリカの音楽ライターたちが、このアルバムを気に入ってくれていた。あと僕たちは、NIRVANAともかなり仲が良かったから、GEFFENもアルバムのヒットを期待して力を入れていたんだ。『ネヴァーマインド』のヨーロッパ•ツアーも一緒に回ったしね。あれは素晴らしい経験だったよ。NIRVANAがブレイクする現象を目の前で味わえたんだから。でも僕たちは、NIRVANAがビッグになる前からの知り合いだったけどね。ライブをいくつか一緒にやって気が合うようになったんだ。確かに1991年は『ネヴァーマインド』と『ラヴレス』、そして僕たちのアルバムがリリースされた。SPINはその中から、どれかを選ばなきゃいけなかったんじゃないかな? それに風変わりなものを選びたかったのかもしれない。音楽ライターっていうものは、風変わりなものを常に好むだろ。しかもブリティッシュ•バンドは、アメリカから熱愛されがちだ。今はそうでもないけど、当時はイギリス人もアメリカに夢中だったしね。そう考えると、SPINが『バンドワゴネスク』をアルバム•オブ•ザ•イヤーにしたのも納得できる。多くの音楽ファンは、『ネヴァーマンド』じゃなくて、イラついただろうけど、世の中はそういうもんだ。僕たちじゃダメ?

人気テレビ番組「サタデー•ナイト•ライブ(Saturday Night Live)」でも演奏しましたね。いかがでしたか?

番組スタッフたちが、完璧な敬意を持って僕たちにとても優しく接してくれたのを覚えている。彼らはプロだったね。でも僕たちは何もよくわかっていなかった。子供の頃、イギリスでは放送されていない番組だったから、どんな番組なのか、まったく知らなかったんだよ。ドン•フレミングも僕たちと一緒にステージに降りていったんだけど、普通のテレビのパフォーマンスだと勘違いしていた。結局、ライブ演奏をするだけで終わりだったから良かったんだけど。生放送で演奏する醍醐味は感じた。番組のレギュラーだったマイク•マイヤーズ(Mike Myers)は、いい人だったね。「スコットランド人の親戚がいる」とかいう話をしてくれたよ。これもすごく楽しい経験だったね。

「God bless my cotton socks. I am wearing a blue shirt(僕のコットンの靴下に、神の恵みを。僕は青いシャツを着ている)」について、教えてください。

ん? 何それ?

収録曲の「Satan」を逆回転すると、そう聞こえるらしいですよ。

本当に? それは凄い。そういえばなんか聞いた気もするな。多分ドラマーのブレンダン(Brendan)だね。よくそういうのをひらめく。面白いヤツだよ。


2.『ソングス・フロム・ノーザン・ブリテン(Songs From Northern Britain):1997年』

この時点で既に僕たちは、ある程度の成功を収めていた。みんなハッピーだった。ツアーも盛況だったし、曲もたくさん書いていた。でもやはり、アルバム制作にあまり時間をかけたくなかったんだ。だからロンドンのAIRスタジオ(Associated Independent Recording Studios)でレコーディングした。ビートルズを手掛けたサー・ジョージ•マーティン(Sir George Martin)のスタジオだよ。これもいい経験だったね。常に僕たちは、できるだけグラスゴーから離れて、様々な街でレコーディングをしてきた。さっきもいったけれど、『サーティーン』によって、「グラスゴーでレコーディングをするのは良くない」と学んだんだ。毎晩家に帰れて、居心地が良過ぎるのが、大きな理由だね。アルバム制作は、ある意味「イベント」と考えたい。だからこのアルバムは、僕たちの「ロンドン・アルバム」。「I Don’t Want Control Of You」は、僕が書いた中でも、最も気に入っている曲の一つだよ。今でも楽しんで演奏している。僕が追求してきたものが到達できた曲なんだ。キーが変わるのが好きなんだよ。ミュージシャンとしても、作曲家としても、自分の理想の世界観にかなり近づけた気がするんだ。アルバム•ジャケットも、とても気に入っている。このアルバムと、シングルの写真はすべて、僕たちの友人のドナルド•ミルネ(Donald Milne)が撮った。彼とは今でも一緒に仕事をするよ。スコットランドを軽く旅しながら撮ったから、すべての写真に繋がりがあるんだ。すごく楽しかった。

このアルバムに関しては、面白い話がある。僕たちはAIRスタジオの上の階にいて、その真下ではOASISが『ビー・ヒア・ナウ(Be Here Now)』のレコーディングをしていた。ある晩、リアムがやってきて、「俺たちのアルバムを試聴して欲しい」といった。僕たちは下のスタジオに降りて、彼らの部屋に入った。そこからは大音量のノイズが聞こえていたんだけど、なんと彼らは、ライブ用のPAシステムでミキシングをしていたんだ。その上、プロデューサーのオーウェン•モリス(Owen Morris)もいた。彼もかなりの変人だよね。リアムは、部屋の後方に僕たちを座らせると、全員にビールをふるまった。そして僕たちのために、アルバムをまるまるオーウェンに流させた。リアムは興奮しながら、「聴いてよ! このうちのギタリストのソロ!」なんていいながら、ノエル(・ギャラガー:Noel Gallagher)のパートに合わせてエア•ギターを弾いていた。とても愉快な夜だったよ。その後も彼は、たくさんのビールをふるまっては、僕たちにアルバムの曲を歌って聴かせてくれたっけ。

それはちょうど彼が、あなた達を「世界で二番目に最高なバンド」と、呼んでいた頃ですよね。

そうだね、すごく嬉しかったよ。彼は僕に向かって、「いいバンドだ、いいバンドだ。世界で二番目に最高なバンドだ! 」って(笑)。素晴らしい褒め言葉だよ。リアムは、すごくいいヤツだ。

このアルバムタイトル(英国北部より捧げる歌)は、当時のブリティッシュ•ポップをコケにしているようにも聞こえますが。

そうだね、僕たちは常に外野気分だから。ロンドンのバンドじゃないからね。ブリット•ポップ•シーンは、まるっきりロンドン中心のものだった。マンチェスター出身のOASISでさえ、ロンドンに住んでいた。僕たちは、仲間外れにされている気分だった。スコットランドの独立性とはまったく関係なく…ね。だから、ただ単に面白く付けてみただけ。誰もスコットランドを、「英国北部」とは呼ばないから。ブリット•ポップと距離を置くために、そういったんだ。実際には僕たちも、多くのブリティッシュ・バンドと共通している部分はある。PULPとかそうだったね。でも、そのムーブメントの一部でなかったのは確かだ。


1.『グランプリ(Grand Prix)』:1995年』

以前にも、この作品があなたのお気に入りだっていっていました。

それはよかった。合っているね。僕にとっては最も重要なアルバムだよ。僕の奥さん、クリスティーナ(Christina)に出会ったときに、創ってたからね。僕の人生で一番重要な時期だったよ。なぜなら、今でも彼女とうまくいっているし、子供も授かった。他にも好きな理由はたくさんあるけれど、やはり一番の理由は、クリスティーナと出会ったから。彼女はカナダ人なんだけど、当時は、オックフォードのマナー・スタジオ(Manor Studios)で、ハウス•キーピングをしていた。僕たちは、そこでレコーディングをしていたんだ。当時の彼女がいたフランスから僕たちは帰ってきたんだけど、スタジオの入口でクリスティーナと初めて出会ったんだ。マナーもとてつもなく素晴らしいスタジオで、これまでにも最高のアルバムが録音されてる。僕たちは6週間滞在したよ。当時はリチャード•ブランソン(Richard Branson) *がオーナーだったね。

* イギリスの実業家。ヴァージン・グループの創設者である。

これは『サーティーン』の後につくられたから、正直いうとあまりバンドにとっては、良い時期ではなかったんだ。評価も悪くはなかったんだけど、『バンドワゴネスク』ほど、受け入れられなかった。でも、『グランプリ』は、僕たちの力を証明できた作品だ。良いものをつくれる自信はあったから、まず今までと違う方法でこのアルバムに臨んだんだ。6週間という制作期限を、自分たちで設けた。あと必要な曲…13〜14曲だけを持ち込んだ。そしてクリスティーナと恋に落ちて、彼女が僕の詩神となった。いい詩が書けたよ。僕たちの大ヒット曲のいくつかは、このアルバムに入ってる。

そういえばMelody Maker誌に『グランプリ』の素晴らしい広告が載っていましたね。

そうだったね。当時僕たちは、CREATIONに所属していたから自由にできた。アラン•マッギーは、仲のいい友達でもあったし、彼らは思いつきのアイディアにお金をかけるんだ。Melody Makerかなんかのライターが、僕たちを酷評したんだ。彼はTEENAGE FANCLUBを毛嫌いしていた。他のライターたちは、良い評価をくれたんだけどね。そこで、「どうしたらMelody Makerに中指を立てられるか?」って考えたんだ。思いついたそのアイデアにCREATIONも乗り気になったよ。Melody Makerの裏表紙にレビューの引用を10個載せた。「素晴らしいアルバム」だとか、「アルバム•オフ•ザ•イヤー」とかね。その中にヤツの「このバンドは、音楽史のゴミ箱に放り込むべきだ」とかなんとかいうやつも入れたんだ。1970年代の、猫の餌のコマーシャルを利用したんだよ。「10匹のうち、9匹の猫は、ウィスカーズ(Whiskas)を好む」っていう。僕たちは、その引用10個を並べて、「10匹のうち、9匹の猫は、TEENAGE FANCLUBを好む」って載せたんだ。広告料は30万円をほどだった。CREATIONのおかげで、素晴らしい返り討ちができたよ。