国士舘大学応援団にみる 〈昭和〉根性論

昭和の美徳は、今や過去の話。賛美された価値観が、批判の的となっている。その象徴的な一例が、大学の応援団。思わず笑みが出てしまうほどの数々のエピソードを聞いた。その伝説は、人間にとって本当に〈悪〉なのだろうか。

「ヤクザ40~50人にさらわれた」「先輩の命令で電車を止めた」「殴られすぎて木刀が折れた」

これは、劇画や任侠映画の世界の話ではない。男が過剰に男らしかった昭和のころ、大学応援団で実際にあった話だ。

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平成も残すところ半年を切り、いよいよ昭和が遠のいていく。戦後の焼け野原から高度経済成長期を経て、バブル崩壊後の長期に渡る経済停滞。昭和~平成にかけて、世の中はめまぐるしく変わった。学校教育では、ブラック部活の実態がクローズアップされ、死亡者が出るほどの体罰や長時間練習は撲滅されつつあるが、いまだにパワハラや熱中症による死亡事故などが絶えない。部活における根性論や精神論が蔓延しはじめたのは、1964年の夏季東京オリンピックに遡る。1961年に組織された東京オリンピック選手強化委員会では、選手教育の方針として〈根性づくり〉が打ち出された。そして高度経済成長下、国の再建、復興のシンボルとされたオリンピックの精神性は、学校教育や一般社会に流通する。『巨人の星』や『アタックNo.1』といったスポ根漫画に代表される〈努力や根性が何物にも勝る〉という非科学的な思想は、このころ、大衆に広く受け入れられた。

「劇画のような、日本特有の非合理的ともいえる精神論の世界を地でいったのが、昭和の応援団です」と語るのは『伝説の応援団CHRONICLE』(出版ワークス)の著者であり、応援団事情に詳しいフリーライターの加藤明典。大学応援団は、1903年に開始された野球の早慶戦にともない結成された。早稲田大学と慶応義塾大学の応援団による応援合戦は、第二次大戦後、早慶戦の復活に伴い再開。他大学にも応援団が組織され、神宮球場は連日、超満員になるほど盛り上がった。各校が、独特の型を披露するリーダー、団旗を持つ旗手、太鼓を打ち鳴らす鼓手など、趣向を凝らして大学スポーツに華を添えた。そして1975年には、マンガ『嗚呼!!花の応援団』(どおくまん、双葉社)が連載を開始し、応援団の人気は絶頂を迎える。当時、昭和の後期は学園紛争後、キャンパスに平穏が戻った時代だ。〈大学のレジャーランド化〉とマスコミに揶揄されたように、就職までのモラトリアムを過ごす学生たちで華やいだ。その一方、応援団員などの硬派学生は、大学の部室という閉鎖空間で、独特なホモソーシャルな世界を築いていた。そして、特訓による死亡者が出たり、事件が起こるほどに先鋭化する。加藤は、このころの応援団を「昭和40~50年代の大学応援団のシゴキは、想像を絶するものです。〈4年神、3年人間、2年奴隷、1年ゴミ〉という、過酷なものだったようです」と語る。「その中でも、〈泣く子も黙る蛇腹軍団〉といわれ、暴力団すら一目置いていたのが、国士舘大学応援団。昭和53年、NHKのドキュメンタリー番組(『ルポルタージュニッポン 国士舘大学応援団』,1978)で取り上げられ、国士舘流のシゴキがカメラに映されました。その過酷な特訓に、リポーター役を務めた大島渚監督が怒りをあらわにするなど、壮絶なものでした」という。当時、応援団の団長を務めたのは、前北海道議会議員の鳥越良孝(62歳)。昭和に生きた男たちは、何を思っていたのだろうか。鳥越氏に、国士舘大学応援団で何が行われていたのかを聞いた。

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北海道のご出身ということですが、どういう経緯で応援団に入部したのですか?

中学・高校と、応援団で団長をやってたんだよね。それまでにある程度、鍛えられていたから「体、イイね」と入学式のときに応援団の先輩につかまって。北海道から出てきて、新聞配達をしながら大学に通っている苦学生だったから、部活なんてできないだろうと何度も断ったんだけど。「いやいや、昼にちょこっと練習するだけだから」と言われてね。最初の一週間は、先輩が高級な寿司をおごってくれたり、クラブに連れていってくれたり。お金がなくて学ランを買えなかったんだけど、応援団の先輩が買ってくれて。「ここはいいところだな」なんて入団を決めた途端「もう、お客さんは終わりだ」と地獄が始まるわけ。

国士舘といえば、柔道で金メダリストを輩出するなど、スポーツエリート校として知られていますが、元は国家に命を投げ打つことをいとわない、〈国士〉を養成する私塾として設立されたそうですね。かつては、〈民族派学生(1960年代、学園紛争で全共闘などの左翼学生に対抗する、右派の学生。学園を守る役割を担い、空手部や応援団などの体育会系の学生に多かった)〉といわれる、右派の体育会系学生たちも少なからずいたと言われる硬派な校風ですが、そこに憧れがあったのですか?

昔は、フォークソングを歌ってるような〈ナンパ〉か〈バンカラ〉しかいなかったから。入学前から、国士舘の校風は自分に合っていると思っていて、入学式で応援団が着ている学ラン、蛇腹(ジャバラ。海軍服をモチーフにした、前合わせがジッパー仕様なのが特徴の学ラン。応援団などの体育会学生は、普段から着用して街に出ることも多く、〈蛇腹軍団〉といわれた)を間近で見て、「カッコいいな」と思った。応援団に入ると先輩に相談したら、「そこだけはやめておけ」と止められたのだけど。

〈地獄〉とおっしゃいましたが、どんな練習をしていましたか?

体力づくりの基礎鍛錬で、片手にひとつずつ、5キロくらいの大っきな石を持たされて2~3時間も手を振ったり、〈鳩ぽっぽ〉という、「ぽっぽっぽ~」と『鳩ぽっぽ』を歌いながら、長いと3時間も4時間も腕立て伏せをする訓練が国士舘にはある。そのあいだ、腹から声を出さなくちゃいけない。それが上手くできないと、先輩から容赦なく腹や背中を蹴られてね。1時間以上のうさぎ飛びや、10~20キロ走らされたり。スニーカーとかじゃない、革靴でだよ。

応援団といえば、声出しが基本かと思うのですが。声出しは何時間くらい、練習するのですか?

5~8時間、1キロ先くらい遠くで聞こえるまで。応援団は、声を腹から出して響かせられないとダメ。最初は喉から声を出してしまうから喉が枯れて、血が出ちゃう。学校近くの公園で練習してるから、他の学生とか、屋台のおでん屋のオヤジが聞いてて言うわけだよ。「今年はダメだな、声が通ってねえな」とかさ。「冗談じゃねえ!こっちは、おでん買ってんだぞ!」って。悔しかったねえ。

上級生を膝の上に乗せて、空気椅子の状態で数時間耐え続ける〈電気イス〉、上級生を抱えて猛ダッシュする〈だっこ〉など、応援団の特訓には「運動部を応援する」という、本来の目的からすると、非合理的なものが多かったようですね。当時、どのようなスケジュールで訓練をしていたのですか。

昼の12時に授業が終わったら、夕方までみっちり練習。野球部の試合前なんかは、朝9時から夜の6時くらいまでぶっ通しで。その間、授業はひとつも出られなかった。毎週火水曜日は、神宮球場に野球部の応援に駆けつけて野球部が負けると「応援が足りない」と負けた数だけ神宮球場の外周をうさぎ跳びや走らされて。たとえば、5対0で負けたら、5周回る。神宮球場は1周、700~800メートルはあるんじゃないのかな。

応援団の応援が足りないから負けたということですか?

そう、だから負けたと。当時、国士舘は野球の東都1部リーグに上がったばかりで弱くて。〈実力の東都〉には、東洋、専修、駒澤と強豪校がわんさかいてね。駒澤には〈駒澤三羽ガラス〉と呼ばれた、中畑清、平田薫、二宮至のスター選手がいて、彼らがバカスカホームランを打つもんだから10対0で負けたこともある。午後3時頃に試合が終わって7時くらいまでうさぎ跳びとランニングで、冗談じゃなく、血の小便が出るんだよ。理不尽だよね。野球部が強ければ、応援しなくたって勝てるわけだし。でも、上級生の命令は絶対だから。2年生になると少し楽になるけど、1年生は地獄だね。先輩の靴磨きや身の回りの世話をしなくてはならないから「何か買ってこい」って言われたら、飲み食いを全部用意して。タバコを先輩が吸うときは、口にくわえるタイミングを計ってすぐに火を出す。マッチを擦るときも、硫黄のにおいがしないように背中側で擦ってね。「電車を止めろ!」と言われて、体を張って止めている団員もいた。

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電車を止めたのですか?

「タバコ買ってくるから、ちょっと止めてろ」なんていわれて、命令された後輩団員が必死で電車が動かないようにして。「〈吊り輪〉、やれや」って、各駅の新百合ヶ丘~新宿駅間(22駅)、吊革にぶら下げられたり、木刀が折れるほど殴られたりね。木刀って折れるんだよ、アレ。全身がミミズ腫れになるほど、木刀で〈ヤキ〉入れられて。足、背中あたりに「気合い入れてこい」って、後ろからバーン!と思いっきり。

大ケガを負わなかったのですか?

不思議とケガはしないんだよ。気合い入ってて、常に極度の緊張状態だったから。

〈ヤキ〉はイジメとは、また違うのでしょうか?

〈ヤキ〉〈シゴキ〉は、連帯責任でみんなにやるから、イジメとは違う。ひとりでも練習を休んだり、ひと言でも応援を間違えたら全員がヤキ入れられる。「なんで休んでんだ?ヤキだ!」と。なんでオレらがヤキ入れられるんだ、とは思ってたけど。

そのような過酷な練習を通して、部員は辞めなかったのですか?

新入部員は50人くらいいたんだけど、1か月で10人、2か月で20人、3か月で30人辞め。7月に夏合宿があるんだけど、20人くらい参加して、オレともうひとりだけが残って、みんな夜中に脱走しちゃった。約2週間の合宿では、朝5時から10キロのジョギングに始まり、鳩ぽっぽ、声出し、腕振りなどを夜6時半まで。昼間は、炎天下のコンクリートの上を裸足で走らされるから、足の皮なんか全部むけちゃって。でも、1番キツイのは合宿中、寝かせてもらえないことだね。上級生が夜中に見張っていて、そのあいだ、下級生は寝られない。まず、夜6時半に練習が終わると毎日、合宿所で大宴会があって、酒を一気飲みしたり、歌ったり踊ったりして宴会を盛り上げて、それが2時間くらい続く。そこから、夜9時から11時まで、2時間の正座の時間が始まる。これが、かなりキツイ。そのあとに「寝ずの番だ」と上級生が2時間ずつくらい交代して、朝まで寝ないように下級生を見張っている。その間、腕立て伏せや腹筋をさせられたり、歴代の先輩500人くらいの名前の暗記や、1日の反省文を書かされたり。それで、もうフラフラだから、トイレに行ったときや洗濯しているときに、寝込んで。3日目の早朝、洗濯中に気絶するように寝てたら、4年生が「後輩たちはどこ行った!?」と。夜中に脱走して、みんないなくなってた。合宿所は軽井沢のスキー場だから、夜中に何もない原っぱかきわけて、軽井沢の山を下って逃げたんだからなあ。20キロあるんだよ。3人いた2年生まで、脱走しちゃって。

そこまで追い詰められた、極限状態の合宿から何を得られたのでしょうか?

ひとつひとつ、苦難を耐えていくと、人って強くなるでしょ。地獄の合宿を耐えて、一気にたくましくなった実感があった。勝利したような気持ちで、かなり力がついたね。大学でも「あいつは、応援団の合宿に耐えた」と誰もが認めてくれて。卒業してからも、先輩や後輩にいまだに言われるよね。「鳥越は耐えた」と。

なぜ、耐えられたと思いますか?

なんでだろうなあ。故郷に帰って、親に心配かけられなかったし。応援団を辞めるってことは〈学校を辞める〉ことだったから。

脱走した部員はそのあと、どうなるのでしょうか?

北海道から沖縄、全国どこに逃げようと先輩が追いかけてきて、「人間辞めるか? 学校辞めるか?」と連れ戻される。今だと親が出てくるだろうけど、当時は大学中退は困るから、親も一緒になって「お願いします。連れて帰ってください」と連れ戻させようとしてね。

動画は1984年に制作された、明治大学応援団のドキュメンタリー『ある青春 明治大学応援団』(TBS)

なるほど。1970年代の応援団は、テレビや雑誌で取り上げられて持ち上げられたり、100人規模の団員を抱える学校も少なくなかったと聞きます。周囲から、自分たちは注目されていたと思いましたか?

当時、応援団は世間からも注目の的で、テレビが取材に来たり、CMに出させてもらったり(国士舘大学応援団は、女優の十朱幸代が出演する魔法瓶のCMや、歌手の応援で『NHK紅白歌合戦』に出演した)。4年生のときなんか、応援団で買った運転手付きのグロリア(日産)が支給されるから、1年生をふたり指名して運転手にして、皇居に参拝に行ったり、運動部の応援にいってね。正月の箱根駅伝のとき、1区・2区・3区…と、団長と幹部が車からパッと降りて選手に「ご苦労さんです!」って挨拶してから、エールを切るわけ。他大学では、右翼の街宣車に乗って応援にやってくる応援団なんかもあって、大いに駅伝を盛り上げて。でも本来、応援団は〈大学の規範になる〉ことが目的でね。「応援団は紳士たれ」といって、制服はビシッと襟を立てて、下着も靴も、常に清潔を心がけなくてはいけなかった。学生の手本であるから、冬には我々は日陰を歩いて、日なたは他の学生に譲って。同時に、メチャクチャなことはできない、ということでもあるのだけど。

実際には、喧嘩や抗争などがあったのですか?

「売ってきた喧嘩は買え」と先輩からは言われてた。大学2年生のときに、ヤクザ者だって知らなくて、オレだけ事務所に40~50人に引っ張られちゃって。街でちょっといざこざがあって「テメエ、ふざけんな!こっちこい」「わかった、いってやらあ」なんていったら、本物で。事務所のなかに国士舘出身の先輩の知り合いがいて「もう、いいから帰れ」って帰らされた。最初はこっちもたくさんいたんだけど、後ろ見たらみんないなくなってた(笑)。応援団は、大学の看板を背負ってたから引けなくて。

大学の顔として、襟を立てなくてはいけないだけに、引き下がれないプレッシャーもあったのですね。当時、大学進学率が上がり、学校に遊びにくるような学生が増えたと聞きますが、そのように硬派を貫いた学生は、女子学生からモテたのではないでしょうか?

他大学との野球の試合時に〈蛇腹の応援団〉を見にくる、他校のチア部とかもいたよ。でも、「あの子、カワイイからナンパしてこいや」と先輩に命令されたり、理不尽なこともあった。1年生のときなんか、こっちは坊主頭なんだからモテるわけがない。でも「土下座して頼んでこい」と成功するまで先輩に言われてね。自分が4年生になったとき、練習は厳しくしたけど「電車止めろ」とか、「ナンパしてこい」とか、理不尽なことはしなかったね。応援団長になったら、こういうのは変えようと思っていたから。応援団は、理不尽に厳しいだけじゃダメで。お金がなくてご飯を食べられなかったら先輩が、「お前、苦学生でよく頑張ってるな」と食べさせてくれたり、遊びに連れていってくれたり。

厳しいだけではない、優しさや面倒見の良さが、応援団にはあったのですね。

死亡事故が起こってしまった大学とかもあったけど、国士舘応援団は誰かが練習中に倒れてたら、しっかり助けてた。熱中症になったら、川に連れてって水をかけたり、酒を飲ませ過ぎて無理そうだったら、喉に手を突っ込んで吐かせたり。でも、世間が応援団の活動を認めてくれないところもあった。他校で、団旗の下をくぐったくぐらないで、野球の試合中に応援団同士が抗争を始めてしまって、野球連盟から応援団が追放されたり。4年生のとき、NHKが国士舘に取材に来たんだけど、彼らは初めからこちらを潰す気でね。リポーターで来た大島渚が「とんでもない大学」だ、と色眼鏡で見てて。自分は朝から酒飲んで、女たらしでどうしようもないのに。そんな人に批判的に来られて「こんなものは変わらなければいけない」って総括されたけど、オレは絶対に負けない、これは<正義>だって思ってた。

応援団というだけで、色眼鏡で見られるようなことはありましたか?

「応援団なんてけしからん」とかアレルギーを持ってる人も多いんじゃないかな。君も、本当はそう思っているんじゃないのか?

いえ、そんなことは…。

右翼的だとか、〈民族派学生〉というけど、当時はそれが当たり前だったの。戦後、日本は一度牙を抜かれて、そこからみんなで立ち上がろうと頑張って、経済を建て直していって。昭和は、一生懸命頑張れば何でもできるって時代。経済が良くなっていって暗い話がなくて、誰もが夢を持てたけど、裕福じゃない人間は過酷だった。僕は新聞配達とは別に、キャバレーやクラブでバイトして学費を稼いだ。朝2時に起きて、2時半から新聞配達。帰ってきて、朝6時から昼まで土方の仕事。応援団の練習のあと、夕方5時半から新聞配達して、そのあとにクラブのボーイ。毎日、就寝時間は2時間か3時間くらいだった。それで、お金を貯めて奨学金を返済して。3年生のとき、東京に出てきた大学1年の弟を亡くした。弟も新聞奨学生だったけど、あるとき、風邪をこじらせて死んじゃった。風邪をひいて「つらいから、明日は休ませてほしい」といったんだけど「新聞配達に来い」とね。次の日に下宿で倒れて危篤になり、そのまま病院で死んだ。お金があれば、新聞配達をしなくてもよかった。弟が死んだのは、貧しかったからなのか、体力がなかったからなのか。それから、僕は〈人生は戦い〉だと思うようになったの。

なるほど。昭和は、右肩上がりの経済成長を続けて夢や希望があった一方、ご兄弟を亡くされた原因である貧困がすぐ近くにあったのですね。

それが、卒業後に政治の道に進もうと思った原点。貧困を無くして、新聞配達をしているような人間を誰かが守らなくちゃいけない。

応援団の出身者には、起業家になる方や政治の道を進む方も少なくないと聞きます。応援団リーダーとしての経験が、社会で生かされたと思いますか?

あるとは思うけど、卒業後はイチからやり直す気持ちで政治家の秘書になった。応援団の出身者には、4年間耐えて幹部になって、天下を取ったと勘違いして、社会に出てしまう人もたくさんいる。国士舘では、応援団の言うことは学校だって聞いてくれたから。でも普通、世の中はそんなの相手にしてくれないよね。結局、社会に順応できなくなって、ダメになってしまう人もいて。はじめて秘書についた先生が「これからは、社会人1年生なんだから、謙虚にしなきゃダメだぞ」と言ってくれた。おかげで、政治家秘書の修業時代を乗り越えられた。起業家の道を進んで成功した人も、謙虚に一兵卒になる切り替えができた人だと思う。

過酷な練習に耐え、組織で偉くなるとそのままの気持ちで社会に出てしまう人もいるのですね。振り返って、応援団はどういうものだったと思いますか?

シゴキは別格だった。空手部や柔道部のように、型を覚えるとかじゃなく、いつ終わるかわからない、鳩ぽっぽなんかを延々やらされるわけだから。ただ、「ダメだ!」って言われて、同じことを繰り返して。でも本来、〈自分に厳しく、強く鍛える〉という、国士舘大学応援団の教えは間違っていないと思う。応援団のときも、政治の道に進んだ今もその気持ちは一緒で。襟を立てて、常に〈誰かに見られている〉と意識を持たなきゃいけない。

それでは、ご自身の経験を経て、若い世代に残したいことはありますか?

強くなってほしい、という気持ちはあるね。女性は強いけど、今の男はちょっと弱いと感じるな。部活の練習でも、ある程度はプレッシャーをかけないと勝てない。のびのびとやってるだけじゃ、ダメ。それは、社会でもそう。甘やかし過ぎても、厳し過ぎても、人は育たない。今後は若い人を鍛えて、世の中に貢献できる人材を育てたいね。礼儀正しく、精神的に強く、肉体的にもたくましく、親を思う気持ちと、社会と国を思う気持ちを持つようにね。

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1969年に発売されたレコード『大学応援団学生歌』。日本大学や中央大学、国士舘大学などの学生歌が録音されている

兄弟を亡くしたとき、鳥越氏は応援団の練習中だった。〈人生は戦い〉だという鳥越氏の人生訓は、精神論に通じる昭和のメンタリティを彷彿とさせる。しかし、貧困で過酷な生活を送っている者に、誰も手を差し伸べてくれる人がいないのならば、己の肉体や精神鍛錬に向かわざるを得なくなる心境は、理解ができる。インタビューが終わり、帰り際に鳥越氏に「人生の戦いに勝ったと思いますか?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。

「まだ、これから。最終的に人生に勝つか負けるかは、自分の気持ち次第だろうね」