先天性無痛症家族

レティツィア・マーシリ(Letizia Marsili)は、6歳のとき、木や街灯など、目に入るもの全てに登っていた。ある日、街灯に登ると、彼女の胸に木から突き出た釘が刺さった。しかし、彼女は、痛みに泣きわめいたりせず、胸から釘を引き抜き、血まみれの穴をシャツで覆った。数日後、母親が彼女を風呂に入れるまで、誰も怪我に気づかなかった。

現在52歳になったレティツィア曰く、自転車での転倒や足首の捻挫など、事故に遭っても痛みを感じなかった経験は、数え切れないそうだ。「怪我に強いのは、自分の個性だと思っていました」

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実は、レティツィアは、〈先天性無痛症〉という遺伝子変異による疾患を抱えていた。生まれつき痛覚がない、珍しい遺伝性疾患で、熱や強い圧迫などの刺激を感じられないケースもある。2000年、レティツィアの同僚の疼痛学者が、彼女は無痛症ではないか、と疑ったのが最初だった。その後、レティツィアの家族のうち5人が同じ遺伝性疾患を持っていることが発覚した。78歳の母メアリー(Mary)、50歳の妹マリア・エレーナ(Maria Elena)、21歳と24歳の息子ルドヴィコ(Ludovico)とベルナルド(Bernardo)、17歳の姪ヴァージニア(Virginia)だ。

マーシリ家は、科学者たちに、痛みを引き起こす遺伝子の謎を解明する、またとない機会を提供した。2017年12月、英国の研究グループが、マーシリ家の遺伝子から〈ZFHX2〉という特定の突然変異体を発見した、と発表。この突然変異体によって、新たな痛みの対処法になる可能性のある薬剤の誕生が期待されている。

無痛症は遺伝するが、受け継いだ本人の知能や精神には何の影響も与えない。本人の触覚は正常で、軽く触れられたり、押されたりしても反応できる。さらに、本人の暑寒を区別する神経にも何ら影響せず、痛みだけを感じないのだ。変異体によっては、症状がより深刻化するケースもある。突然変異体の発見を報告した論文の筆頭著者であり、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの分子生物学者、ジェームズ・コックス(James Cox)博士によると、彼が過去に担当したとある無痛症の家族には、嗅覚がなかったという。

マリシリ家の嗅覚は正常で、反応は鈍いものの、痛みもわずかに感知できる。辛い食べ物や熱にも耐性があり、冬場も厚着の必要がない。レティツィア以外も、怪我に気づかなかった経験がある。コックスによると、彼女の母親は、転んで足首を骨折したさい、病院の検査で、それ以前にも足首を骨折していたことが判明した。彼女は、全く自覚していなかったという。さらに、レティツィアの息子も、医師に指摘されるまで、骨折による肘の石灰化に気づかなかった。

無痛症を引き起こす遺伝子を探すため、コックス博士は、〈エクソーム解析〉を利用した。遺伝子の配列を解析し、タンパク質やノンコーディングRNAを生成する遺伝子を分析する手法だ。マーシリ家の無痛症患者を分析し、健常な対照群と比較したところ、一家に共通する2種類の変異遺伝子が発見された。そこから、長い研究が始まった。2010年に最初の血液サンプルを採って以来、3度目にようやく変異遺伝子が発見された。遺伝子発見後、コックス博士は、感覚神経生物学者のジョン・ウッド(John Wood)教授と協力し、マウスを利用した実験で、発見した遺伝子と痛みの関係を明らかにした。

ケンブリッジ大学の遺伝医学者、ジョフ・ウッズ(Geoff Woods)教授によると、無痛症を引き起こすヒトの遺伝子は、数種類しか発見されていそうだ。同教授も無痛症の家族を研究しているが、コックス博士の研究には関わっていない。「先天的な視覚、聴覚障害の原因となる遺伝子は、それぞれ数百種ずつ発見されています」と教授。「それなのに、無痛症を引き起こす遺伝子がひと握りしか発見されていないのは奇妙です」

このタイプの遺伝子について研究する最終的な目標は、身体の痛みのメカニズムを解明し、慢性的な痛みを和らげる術を探しだすことだ。米国では、4人に1人が24時間以上続く、何らかの痛みに悩まされている。彼らのなかに、オピオイドのような鎮痛薬に対する耐性ができてしまうと、有効な代替策がないのが現状だ。

コックス博士の研究チームが発見した遺伝子は、非常に多くのタンパク質をつくる。このタンパク質に特定の機能はないものの、他の遺伝子の機能と、遺伝子発現量に影響を与える。この働きは、〈痛み調整器〉になりうる可能性がある。この特徴が研究をより困難にしているのだが、ウッド教授は今後に期待している。「コックス博士の研究によって、道が開けました」とウッド教授。「慢性痛の治療法として考えられるのは、遺伝子そのもの、もしくは、下流の遺伝子の転写をブロックすることです。このような家族はとても稀で、彼らの突然変異体も非常に貴重ですが、さらに重要なのは、痛みの制御について、全く新しい研究対象が発見された事実です」

ウッド教授は以前、無痛症の家族から発見された、2種類の変異遺伝子に関する論文を発表している。この遺伝子は、痛みを伝えるニューロンの働きや発達に作用する。「これらの遺伝子は、コックス博士が発見した遺伝子と違う面もあれば、そっくりな面もあります」と同教授。「体内でつくられた痛みを伝えるニューロンが正常に機能しないのであれば、痛みの治療法は、明らかでしょう。つまり、痛みを伝える神経細胞を破壊せずに、遺伝子の作用を逆転させるんです。いっさい痛みを感じないのは危険なので、痛みを伝えるニューロンを壊すのではなく、〈休眠状態〉にするのです」。つまり、ウッド教授が求めているのは、痛みをオフにするスイッチではなく、調節スイッチだ。痛みを伝える神経細胞の働きを鈍らせるのが目的だ。

しかし、遺伝子学上の画期的発見が、必ずしも治療法に直結するとは限らない。ウッド教授は、この遺伝子を欠損させたマウスで実験したのだが、大した成果は得られなかった。「タンパク質と遺伝子を無効化さえすればいい、と想定していたので、大きなショックを受けました」と同教授。「万能鎮痛剤の手がかりになるはずでしたが、そうはなりませんでした」

数十年前に無痛症の家族から発見された別の遺伝子にヒントを得た薬が、現在、臨床試験中だ。ウッド教授は、これらの試験に期待を寄せる。いかんせん、この突然変異体を持つのは、世界でも数家族だけらしい。「珍しいケースですが、痛みを解明する大きな手がかりです。もし、痛みを引き起こす遺伝子を無効化できたら、副作用なしで痛みを抑制できます」とウッド教授。「実現には2つの段階をクリアしなければなりません。まずは、臨床的な発見です。この遺伝子が痛みのメカニズムに深く関わっていることを証明します。次に、特定の相互作用を阻害する分子についての発見です」

ここで重要なことがある。彼らの研究の目的は、無痛状態の再現ではなく、痛みを〈オフ〉にできない人びとの痛みを軽減する方法の発見だ。痛みは身体を守ってくれるので、無痛状態を羨むべきではない、とコックス博士は主張する。

マーシリ家の面々は、偶然、幼い頃に深刻な問題に直面せずに済んだが、痛みを感じられない子どもは、しばしば危険に遭遇する。子どもたちには、自ら指先を噛みちぎってしまったり、唇、口などを傷つけてしまう恐れがある。「歩き始めの子どもは、口や歯で世界を探ります」とウッド教授。「ラジエーターに座ったり、ホットプレートに触って火傷を負うケースもあります」。ウッド教授が担当した12歳の少年は、学校で喧嘩を売ってばかりいたそうだ。「痛みを感じないからこそ、そのような行為に走るのです」

残念ながら、無痛症の患者が大怪我を負ったり、死に至るケースも珍しくない。「先天性無痛症に危険は付きものです」とウッド教授。「若くして死んでしまう男性が多いです。彼らは、過度な危険に身をさらしてしまいます。痛みによる制限がないので、何も、彼らを止められません。愚かな真似をした結果生まれた悲劇を、私たちは、何度も見てきました。転落したり、大怪我を負ったとしても、彼らは痛くないんです」

皮肉にも、痛みを感じないからこそ制限が必要だ、とウッド教授は語る。レティツィア曰く、家族は、自らの疾患を理解して以来、どんなに些細なことでも、怪我の原因になりうるもの全てに注意を払っているそうだ。「痛い思いをしなくて済むのは良いことですが、痛みを過小評価しないよう、身体の声を注意深く聞かなければいけません」とレティツィア。

シエナ大学の海洋生態毒物学の研究者であるレティツィアは、家族が〈モルモット〉として自らの症状の理解を深めると同時に、人助けもできて嬉しい、と語った。「短所を捨てて、長所だけを謳歌することもできる、とみんな知るべきです」