UFOオカルト伝説の謎‬ ‬‬‬03.エーリッヒ・フォン・デニケンの未来の記憶

エーリッヒ・フォン・デニケン Erich von Däniken via Wikimedia Commons

世界で最も売れたオカルト本

日本で最も売れたオカルト本といえば、五島勉『ノストラダムスの大予言』である。1973年に出版された、その書は瞬く間にベストセラーとなり、日本の70年代オカルトブームを牽引する存在として君臨し続けた。そのなかで人類滅亡の年とされていた1999年までに、そのシリーズは、10巻刊行され、累計600万部を売り上げている。

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1995年阪神大震災の年に、宗教団体のオウム真理教が、朝の通勤ラッシュの地下鉄内で猛毒サリンガスをばら撒いた、地下鉄サリン事件が起こった。その背景にも『ノストラダムスの大予言』の影響があった。つまり、彼らは、1999年の人類滅亡を自作自演しようと画策していた、とされている。売れるオカルト本の影響力の大きさには驚くばかりだ。

そして、世界的なオカルトブームにおいて、エポックメイキング的な大ヒットとなったのが、エーリッヒ・フォン・デニケン(Erich von Däniken)の『未来の記憶(Erinnerungen an die Zukunft / Chariots of the Gods?)』(早川書房のちに角川文庫/1969年)である。この本は、古代に宇宙人が地球に来ていた、と主張する内容で、デニケンの著作シリーズは、世界の32ヶ国語で累計6500万部ものセールスを記録している。

デニケンの人気は根強く、2003年には彼の著作をもとにしたテーマパーク〈ミステリーパーク(Mystery Park )〉が、スイスのインターラーケンに建設されたこともあった(06年に閉館し、現在は〈Jungfrau Park〉と改名して夏季だけ営業中)。また、デニケンのアイディアは、90年代には、イギリスの作家グラハム・ハンコック(Graham Hancock)の大ベストセラー『神々の指紋』に焼き直され、リドリー・スコット(Ridley Scott)の映画『プロメテウス(Prometheus/2012年)』にも大きな影響を及ぼしている。

前回まででも触れてきたように、UFO神話は、第二次大戦後のアメリカから始まったもので、常に政府の陰謀論的なストーリーと絡み合い、壮大なスケールに膨張していった。それに対して、デニケンが主張する古代宇宙飛行士説(ancient astronaut theory)が、ヨーロッパから広まったのも面白い。

お馴染みのナスカの地上絵にしろ、イースターのモアイ像にしろ、それをつくったのが宇宙人だったらどうだろう。確かに、デニケンの論証は、幼稚で論理的でないものも多く、専門家たちから批判の対象とされてきた。それでも、宇宙人や宇宙船が飛来した痕跡を、古代文明より探し出すのは、誰にでもわかる明解さをもっていたのは確かだ。だからこそ、デニケンが世界的に広く受け入れらたのだろう。

JungfrauPark, New Inspiration AG, Switzerland

アマチュア考古学者がUFOと出会うとき

エーリッヒ・フォン・デニケンは、1935年にスイスで生まれ、ホテルの雇われ支配人をしていた。彼は、すでに古代宇宙飛行士説を唱えていたロバート・シャルロー(Robert Charroux)、ルイス・ポーヴェル(Louis Pauwels)やジャック・ヴェルジェ(Jacques Bergier)といったフランスの作家たちから多大な影響を受け、1968年に『未来の記憶』を出版し、69年に英訳が出ると、すぐに世界的なベストセラーとなった。

デニケンが素晴らしかったのは、その仮説が正しいかどうかより、エジプトのピラミッドくらいしかイメージできなかった古代文明について、世界中にある様々な情報をあらためて呼び起こしたことにあった。あらゆる古代文明が、デニケンのお陰で、宇宙人存在の物証として再発見され、オカルティックな輝きに満ちたものになったのだ。

そんな古代の遺物には、もちろん、縄文時代の遮光器土偶も含まれる。デニケンにかかれば、縄文時代に宇宙人は来ていたことになる。実際、世界ではデニケンの著作を通じて、初めて日本について、あるいは、縄文、土偶などの存在を知った人もいただろう。同様に、日本人にとっても、デニケンによる宇宙人の痕跡探しの旅は、小難しい歴史的背景を抜きに、古代の神秘的な遺跡や異物への興味を掻き立てるものになった。

デニケンの『未来の記憶』をあらためて読むと、確かに突っ込みどころ満載であるが、冒頭の「この本を書くには勇気が要った」という言葉からは、彼の自信が感じられ、好感が持てる。科学者や考古学者の保守的な態度に対して、攻撃的な姿勢を貫くのは、アマチュアならではだが、そこがまた面白い。

最初の原稿が完成したとき、作家としては素人であったため、いくつもの出版社に断られ、友人からはプロの監修をつけて発表するよう勧められたという。結局、編集を担当したウィルヘルム・ロジャーズドルフ(Völkischer Beobachter)、ナチス関連の著作で知られるウッズ・ウッターマン(Utz Utermann)と同一人物がリライトし、初版6000部で出版されたが、瞬く間に話題の書となり、ドイツ語の書籍では珍しく、各国語に翻訳され世界的な大ベストセラーとなった。

その英語版が出版されたのが、まさにアポロが月面到達を果たした、1969年。人類が宇宙に進出したからこそ、一般読者は、過去に宇宙人が地球を訪れたのかもしれない、と想像できるようになった。宇宙の天体の膨大な数を考えれば、その中に知的生命体が存在する可能性は十分にある。これまでに宇宙人が地球に来ていない、と誰が断言できるであろうか。デニケンの本が世界中で広く読まれたのは、宇宙時代が到来したタイミングで、地球の古代文明とUFOが結びついたからだろう。

さらに、『未来の記憶』を開くと、次々に世界中にある宇宙人の遺跡と思われる実例が、列挙されていくことに驚かされる。論証はどうあれ、デニケンの語りのスピードがまったく鈍らないのは、彼自身が現地に赴いているからだろう。

1970年には、この著作の映画版『Chariots of the Gods? (宇宙人は地球にいた)』(1974)も製作された。その圧倒的な熱量に、誰もが圧倒されたのである。ところで、そんなエネルギッシュなデニケンだが、この本の執筆のため、世界を旅する目的で、ホテルの金を12年間で13万ドル (約1300万円)も横領していたことが発覚した。68年、ドイツ語初版を出版した年に、懲役3年半と罰金を求刑された。罰金は最初の本の印税で払ったが、次の著書『宇宙人の謎 人類を創った神々(Gods from Outer Space)』は刑務所で書いたというから驚きだ。出所後、彼のインタビューは『プレイボーイ』(1974年8月号)に掲載され、早速、時の人となっている。75年には昭和オカルトブーム真っ只中の日本を訪れるなど、そのふてぶてしさはコンタクティの元祖アダムスキーを彷彿とさせる。

ナスカの地上絵 Nazca Lines, Nazca, Peru via Wikimedia Commons
イースター島のモアイ像 Photo taken by Ian Sewell, July, 2006. Ahu Tongariki on Easter Island. via Wikimedia Commons
パカル王の石棺 Image by Madman2001 via Wikimedia Commons

UFOブームと古代遺跡の謎

足早にデニケンの著作を覗いてみよう。

ナスカの地上絵は、南米ペルーのアンデス山脈と太平洋に挟まれた約60キロに及ぶ広大なナスカ台地にある。乾燥地帯で植物は生えず、日光で赤く酸化した細かい石が敷き詰められた大地を、一段深く掘って、黄白色の土砂を露出させることで描かれている。有名なハチドリで全長96メートル、その他、コンドル、イグアナ、シャチ、サル、クモのような動物、植物、幾何学模様のほか、さらに数キロに及ぶ膨大な数の直線がある。
動植物の地上絵は、上空からみて初めて認識できるもので、1939年、考古学者のポール・コソック(Paul Koso)が飛行機から発見した。その後、彼のアシスタントであったマリア・ライヒェ(Maria Reiche)が研究と保護に尽力し、1994年にユネスコの世界遺産に登録されている。作画技法については拡大法などが考えられる。もちろん、デニケンは、これらについて、宇宙人のための滑走路以外には考えられないと断言する。

イースター島は、ポリネシア諸島の東端、南米チリから3800キロも離れている絶海の孤島。周囲58キロ、佐渡島の4分の1の広さに、大きさ約3~5メートル、重さ数十トンの巨大なモアイ像が多数鎮座している。その数は1000体近いといわれるが、ほとんどは崩壊して岩塊となっているか、つくりかけのまま、石切り場に残された。最大20メートル、重さ90トンのモアイ像もある。
1947年、冒険家で考古学者のトール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)が、インカ時代の船を模したコンティキ号で、ペルーからイースター島に渡り、インカ帝国の巨石文化が同島に伝搬したことを実証した。現在では、歴史的な調査によって、10世紀頃にモアイ造りが始まったことがわかっている。しかし、島民同士の争いにより、西洋人と接触する18世紀以前に同島の文化そのものが滅んでしまったという。それでも、海岸線にずらりと並んだモアイ像の強烈な存在感には、圧倒されずにはいられない。デニケンは、この巨石像を、誰がどうやって運んだのか、と捲し立て、古代宇宙人飛来説の有力な証拠ではないか、とした。

ピリ・レイス(Piri Reis)の地図とは、1929年、イスタンブールのトプカプ宮殿で発見された、オスマン帝国海軍のピリ・レイスが作成したとされる、羊皮紙に描かれた2枚の地図だ。そのうちの1枚は1513年に作成されたとあるが、アメリカ大陸や南極大陸が、詳細に記載されていたともいう。地図にみられる海岸線の微妙な歪みについて、地図研究家アーリントン・マラリー(Arlington Mallery)は、エジプトのカイロ上空から撮影したとき地形と一致しているという驚きの発表をしている。
また、地図にある南極大陸については、地球物理学者チャールズ・ハプグッド(Charles Hapgood)が、氷に覆われる以前のずっと古い地図の写しであろう、と主張したことから、現在も議論が続いている。この地図は、超高空を飛ぶ飛行機、もしくは宇宙船によって作成されたものだろう、とデニケンは諸手をあげて絶賛する。

デニケンの勢いは、まだ続く。メキシコのパレンケの遺跡に残された浮き彫りは、宇宙船を操縦している宇宙飛行士のようにみえないか。サハラのタッシリ・ナジェールにある高さ6メートルの岩壁画〈マルス神〉は、宇宙ヘルメットを被っているようではないか。青森県亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶は、宇宙服を着た宇宙人以外の何者でもない、とまくしたてる。確かに、そう見えなくもない。だが、世界中から実例をかき集め、まるで人類は宇宙人の助けなしに文明を築けなかった、といわんばかりだ。そんなデニケンの論証の幼稚さに、科学者や考古学者からの厳しい批判が向けられてきたのも事実だ。

世界的なオカルトブームが吹き荒れた70年代、物質文明批判や公害問題、べトナム戦争反対運動などが巻き起こり、米ソ冷戦下で第三次世界大戦勃発による人類滅亡さえも危惧されていた。古代に飛来したであろうUFOが現代になって再び目撃されるようになったのは、人類が直面する危機を警告し、新たな叡智を授けに来たのではないか、とも考えられた。

そういう意味では、デニケンの古代宇宙飛行士は、人類の歴史そのものに、オカルティックな視点から大きな転換を迫ったものであった。デニケンのおかげで、ともすると朽ち果て、忘れ去られてしまったかもしれない古代遺跡を宇宙人と関係づけ、再発見することができたのは事実だろう。わたしたちのオカルティックな審美眼が鍛えられ、あらゆる世界の謎に対して心を開き、様々な想像力を巡らすことが、可能となったのではないだろうか。

そんなデニケンは、いまも健在だ。2010年に始まったアメリカのヒストリーチャンネルのドキュメンタリー番組シリーズ『Ancient Aliens』に監修役として登場している。近年のデニケン再評価について、『The Cult of Alien Gods: H.P.Lovecraft and Extraterrestrial Pop Culture』などの著書で知られるジェイソン・コラヴィート(Jason Colvito)は、「どうしてこんなに多くの人々が、宇宙人が地球の古代人のもとに来訪していた、と信じているのだろうか?」とコメントしている。ネットの時代になり、人々は、また新たな神話を求めているということだろうか?

次回は、再びアメリカのUFO神話の時代に舞い戻ってみたい。