築地で働くヒーロー!?築地を愛する男が語る〈築地フィッシュマーケットブルーズ〉

ターレーに乗り働く日々。築地で過ごした37年間もの空気や想いを歌う男がいる。そんな彼が、豊洲市場への移転に伴い、何を思うのか?築地で働く男の1日を追いながら、築地、豊洲、ブルースについて聞いた。

「ターレーはね、3回事故らないと、一人前になれないんだよ(笑)」

あるときは、築地のターレー乗り。あるときは、自転車で街の雑踏を疾走する小粋なおっちゃん。あるときは、築地を想い歌うブルースマン。あるときは、今回取材に同行してもらった写真家、沼田学の写真集『築地魚河岸ブルース』の表紙を飾る男。

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『築地魚河岸ブルース』より

その人物とは、御歳67、もうすぐ68歳になるMAKIさん。

「築地を撮りはじめた最初期にMAKIさんの写真を撮れて、名前のなかった築地のシリーズが、『ああ、これでいけるかも』と思った」と沼田学。彼は、MAKIさんの楽曲のタイトルから、『築地魚河岸ブルース』という写真集のタイトルを名付けた、という。

築地で働くMAKIさんの1日は、およそ深夜0時からはじまる。その時間に起床して、自宅のある西麻布から自転車で出勤。1時半には、通称〈ターレー〉と呼ばれるターレートトラックに乗り、仕事を始める。その姿は、素人目からでもわかるほど、実にサマになっている。仲卸業者の店と店の間の細っそい道をすり抜けたかと思えば、右から追い越し、左から追い越し、車線はないが左車線を走ったかと思えば、右車線を走る。とにかく道だろうが、駐車場だろうが、ショートカット、ショートカットの連続。各トラックがスーパーをはじめ、小売店の開店前に荷物を届けるために出発する朝7時半から8時半までは、時間との勝負。そうなれば、まさに腕のみせどころ。MAKIさんにターレーの運転について尋ねると、「ターレーは気合いだからな」とのこと(笑)。

続けて、上達の秘訣を聞くと「本当に、3回事故らないと、一人前になれないって言われてるんだよ(笑)。俺も2回人身やって、1回は物損。物損は、去年やっちゃって、それで、『もうターレーに乗せない』って当時、働いてた会社の社長に言われて、半年くらい台車みたいな小車で仕事してたからね。それまでターレーでやってた仕事を全部だよ。冗談じゃねぇよ」

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築地でターレーに乗り、37年間。手にはターレーによって出来た大きなタコが。
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お昼の12時を過ぎると、仕事が終了。長靴をビーサンに履き替え、ターレーを自転車に乗り換え、街に繰りだす。この日は、どっから手に入れたか、わからないが、カバンに忍ばせたパンを、場外のお気に入りだろう女性にプレゼントしてまわってから、築地を後にした。「あの子は、今日初めて名前を聞いたんだよ(笑)」

築地を抜け、新橋まで移動。自転車の運転技術は、まさにターレーのそれと瓜ふたつ。人混み、渋滞をすり抜け、信号が変わる前に誰よりも早く飛び出し、軽快に街を駆け抜ける。そのコースどりも完璧で、すらりすらりと最短コースをいく。ついていくのが精一杯なほど素早い。先を予測しながら完璧なルートをいくその姿は、ターレーに乗る習慣で身につけた特殊技能だろう、と勝手に想像させられてしまうほど。

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13時。お気に入りのビーフンを食べにランチというか夕食というか新橋へ食事へ。「俺は、いつも五目の〈汁〉っていうのを頼むんだけど、どうする? 全部のメニューを食べたけど、五目の〈汁〉が1番うまい。あと、ちまきもうまい。ちまきはふたつとって、みんなでシェアしようか? 1ヶ月くらい前までは、場内の〈やじ満〉で食べることも多かったけど、観光客が何人も並んでいて入れない。冗談じゃねぇよ」

食事が来る前に、築地で働くきっかけを尋ねてみると、意外な答えがかえってきた。「結婚してさ、29かな。それで、相手の親の目もあるし、普通に務めたんだよ。健康補助食品の会員販売。それが潰れちゃってさ。そしたらカミさんが『少し遊んでたら』って言ってくれて、すごくできた娘だからさ。でも、そのうち、やっぱり嫌な顔するじゃない。だから、サンスポで見つけて築地に面接にいったんだよ。そしたら、その会社の担当者に『明日は絶対に来てね、男と男の約束だから』ってかたい握手を求められたんだよ。俺の前に働いていたやつは、みんな、すぐに辞めちゃうか、来なかったから…。だけど、俺、結構いじめられてさ。バンドやってたから、髪長かったし」

MAKIさんの、もうひとつの顔である音楽活動について尋ねると「まだガキで、23歳くらいのときかな。郡山の開成山野球場で〈ワンステップフェスティバル〉っていうのがあって。大トリが、オノヨーコで、バックなんてすごいよ、スティーブ・ガット(Steve Gadd)とか、錚々たるメンバーで。なんで俺が出れたんだかわからないけど、ジュリーだとか、上田正樹だとか、村八分とか、日本中の錚々たるメンバーが出てたんだよ。温泉に泊まれてさ、終わると出たバンドがいっしょに夕飯食うわけ。すごい楽しかった。その頃1番衝撃を受けたのは村八分と、めんたんぴん。すごかったな」

築地で働き出したあとは、音楽活動との両立が大変そうだが、築地での仕事は、バンド活動をするうえで融通がきいたのだろうか。「最初は臨時で働いてたからさ、『じゃあ、来週で辞めます』っていうと『今度はいつ帰ってくるの?』って聞かれるから『帰って来たら連絡しますよ』って休むんじゃなくて、その度に辞めてたんだよ。だけど、音楽活動を一旦辞めたのは、39のときかな。笹塚に住んでいて、隣が第一勧銀だったんだけど、それが大きなビルになるっていうんで、騒音とか、採光の問題になる部屋の人だけを集めて、俺が交渉したわけ。そしたら、その頃、銀行が、まだバブリーだったから、揉めるのが嫌だったんだろうな。クリスマスイブの日に、俺に100万くれたんだよ。それで、気づいたらインドにいた(笑)。1989年、天皇陛下が崩御の年、ドイツの壁が崩壊したあの年だね。それで、インドにハマっちゃって、毎年行くようになって。7ヶ月働いて、5ヶ月遊びに行っちゃう。そしたら、バンドのメンバーから『MAKIはダメだ』って言われてさ。で解散よ」

インドを毎年旅するようになり、バンドは解散し、MAKIさんは、音楽活動を休止するのだが、築地での仕事は、現在も続いている。時間の都合がつく、ということもあるだろうが、あえて築地で働く理由もあったのだろうか?

「インドから帰ってきて、友達と渋谷で待ち合わせて、スクランブル交差点が渡れなくて。そのまま笹塚に帰えっちゃった。それで、仕事を探しに築地に行ったら、すごい、ホッとしたわけよ。今は、築地と自分が住んでる部屋、そのふたつの場所が、心が休まるんだよね。六本木なんか近いんだけど、遊びにいかないもん。お家が1番」

『築地フィッシュマーケットブルーズ』では、築地への愛が、余すところなく歌われている。「この曲は震災の1、2年前につくったんだけど、河岸で働いていたときに、浮かんだ曲で、Aメロからサビまで、5分くらいで、すぐできたの。ただ、3番、4番を考えるのに、半年くらいかかっちゃった。自分が歌いたいのは、築地にいるときの空気や想いなんだって、このとき改めてわかったよね」

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築地や楽曲についての話が尽きないが、食事を終えたところで、築地とともに心が休まる場所という自宅に移動することにした。自宅にお邪魔すると、まずレコードやCDの棚が目につく。インドに毎年、約10年続けて旅にいっていたMAKIさんが再び音楽活動を始めたのは、2000年代後半になってから。「前にいたバンドの、2、3人がスタジオでやってて、誘ってくれて、また始めるようになったんだ」

『築地フィッシュマーケットブルーズ』をリリースしたきっかけを尋ねると「ウエストロード・ブルースバンドって知ってる? 昔、京都に、いろんなブルースバンドがいてさ、そのなかに、上田正樹なんかもいたんだけど、その当時は、ウエストロード・ブルースバンドが1番人気だったわけ。今ブルーノートにも出てる山岸潤史とかのバンドで、そいつと塩次伸二っていうギターリストと、ホトケっていうボーカルと、松本照夫 っていうドラム、小堀正がベースで、5人でやってたの。その後に山岸が抜けてからキーボードで、りゅうちゃんって井出隆一が入ったの。そのりゅうちゃんが、何十年ぶりに、偶然、俺のライブを、金払って観にきたんだよ。そのときに、なんか、すごい気に入ってくれて、一緒にバンドをやりたいって言ってくれて、1回だけ一緒にライブもやったんだよね。そしたら、『MAKI、CDつくんないか』とかいってさ、それでつくろうよってなって。

『築地フィッシュマーケットブルーズ』は、プロモーションビデオも築地場内で撮っている。「3回くらい出しても許可が取れなくて。外人のテレビクルーだと、すぐに通るのに。じゃ、ゲリラ的にやるかってやちゃったの」

それほどまでに、思い入れのある築地市場が、豊洲へと移転する。「小池なんか、最初は、『築地も一緒に市場として残す』なんていってたんだから。それでやっぱり、築地は『排除します』だろ? 嫌なやつだなって。1回、小池がマグロのセリを見にきて、そのときに『小池頑張れ、俺たちがついてる』なんてヤツもいたのに、それがこのザマだぜ」

豊洲について尋ねると、「まだ写真でしかみてないけど、でもわかるよね。全部覆われてるから、四季が感じられないし、ただの流通センターだよね、あれじゃ。そしたら、そういう店しか残らなくなるでしょ。日本の食文化にも影響が出てくるだろうし。俺は、だいたい、どこの国でも、到着して次の朝に市場に行くんだよ。バンコクでも、どこでも、いっしょなんだけど、働いているやつも同じ匂いがする。だから、そいつらの邪魔にならないように、写真撮ってたんだよね。俺は市場で働く人たちとは、ずっと違うって思ってたんだけど、いつからか、俺は市場で働く〈側〉の人間だなって思うようになったよね」

築地で働く人々は、MAKIさんが歌う曲を聴き、何を思ったのだろうか? 「みんな仲間とかいってるけど、それほど、親しいわけじゃないから。顔見たらホッとするとか、そういうやつはいるけどね。それなのに、このCDは、手売りだけで600枚売れたんだよ。それで1番印象に残ってるのが、場外のおにぎり屋〈丸豊〉の社長が『まぁ、付きあいで買っとくか』って1枚買ってくれたんだけど、あくる日、『後10枚ないか?』っていわれたから『どうしたの』って聞いたら、『すごく、いいから、みんなに聴かせたい』って。涙が出そうになったね」

確かに、築地で働く人々のなかに、今回の移転に対して、無関心な人もいるだろう。ただ、MAKIさんの歌を聴いて心動かされた人も少なからず、いたのだろう。「移転した後に、あそこで、フリーコンサートをやる計画を立てて、1万人くらい動員して、大トリに八代亜紀を呼びたいって、コロンビア・レコードの社長をやってた中島くんに相談したんだよね。それで東京都に申請して。でも、全然通らないんだよ』

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豊洲市場が開場した現在も、まだ築地でのライブは開かれていない。いつかMAKIさんの夢が叶う日はくるのだろうか?

引越しは、築地市場の最終営業日から豊洲市場が開場する10月11日までにおこなわれた。MAKIさんに引越し作業を取材させて欲しいと切り出すと「俺さ、引越しは手伝わなくていいんだよね。俺となりちゃんってヤツ、ふたりだけはイイ、って社長に言われて、『やった』みたいな(笑)。それが、『やっぱり2日だけ出てくれる』っていわれて、後から言われて。冗談じゃねぇよ」

この日の取材は、16時まで続いた。この後、銭湯にいったあと、7時くらいにベッドに入って、30分くらい本を読んでから就寝するという。「最近、宮部みゆきに凝っちゃってさ、遅ればせながら。『名もなき毒』っていうのがあって、これ、豊洲の地下の有害物質と人間が人を傷つけて、自らが毒されていくっていう河岸の状況と一緒だって思って」

10月11日、豊洲市場が開場した。MAKIさんは、この日、家に着いたのが15時だったという。はたして、豊洲での新生活から、新たな歌が生まれるのだろうか?

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