〈脳神話〉からの脱却を目指して

マサチューセッツ工科大学の生物学者、アラン・ジャザノフ教授は、脳が過大評価されている現状に警鐘を鳴らす。全てが脳のひとり芝居であり、脳は舞台に立つ唯一の俳優だと広く考えられているが、実際は多くの俳優が舞台袖で待機している。出番待ちの俳優たちを知らなければ、われわれは脳の本当の機能を理解できない。
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translated by Ai Nakayama
Tokyo, JP
〈脳神話〉からの脱却を目指して

「真に重要な意味をもつ自分の全てが脳の産物であり、事実上、〈自分=脳〉であることは可能なのか?」。これは、新刊『The Biological Mind: How Brain, Body, and Environment Collaborate to Make Us Who We Are』の冒頭で、マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)のベテラン生物学者、アラン・ジャザノフ(Alan Jasanoff)教授が投げかけた問いだ。

われわれ人間にとって、そしてわれわれのアイデンティティにおいて重要な全てが、頭蓋骨内の1.3キロ程度の器官に収められているというコンセプトは、魅力的だ。脳はよく、人間の感情や個性を司る管制塔と呼ばれる。意識、精神疾患、行動研究においては、脳が主要な研究対象だ。

しかし昨今、脳の自律性が過大評価されている、とシャザノフ教授は異論を唱える。われわれは、教授がいうところの〈脳神話〉にとらわれている、というのだ。全てが脳のひとり芝居であり、脳は舞台に立つ唯一の俳優だと広く考えられているが、実際は多くの俳優が舞台袖で待機している。出番待ちの俳優たちを知らなければ、われわれは脳の本当の機能を理解できない。

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もちろん、あらゆる点において脳が重要な役割を担っているのは間違いないが、脳も他と同じくひとつの器官である、という事実をわれわれは忘れがちだ、と教授。脳も、同じ生物学的法則と生理的プロセスに従っており、程度にかかわらず、外部からの影響を受けているのだ。

2018年3月中旬、新刊の出版にあたって、どうすれば適切に脳を評価できるのか、ジャザノフ教授に話を聞いた。

〈脳神話〉とは?

私の造語です。脳についてのステレオタイプ的言説を指す言葉として使用しています。脳は、実体よりも高性能で、未知で、自己完結的で、魂に近いものとして扱われがちです。

脳神話が顕著なのは、例えば脳の絵です。脳をテーマにした書籍の大半は、表紙に、発光する半透明の脳が描かれています。全ての書籍、とはいわないまでも、大体そうです。それは世間が脳と結びつけがちな、驚異の念、畏怖の表象の典型です。脳は、超自然的なモノのように扱われています。私からすれば、それは非生物学的な脳のとらえかたです。もちろん、魅力的なアイデアではありますが、それこそが、脳の働きや、脳を有することと魂を有することの違いについての理解が歪んでしまっている理由だと考えます。

私たちは脳と他の器官をどう区別しているのでしょう。つまるところ、〈脳=魂の在処〉と考えることの、何が危険なのでしょう。

私たちは、脳を器官として捉えない傾向にあります。みんな、身体のいち部というよりは、むしろ、コンピューターであるかのように理解しているんです。〈脳=コンピューター〉という例えはおなじみなので、ほぼ全員が、何らかのかたちで知っているでしょう。それと密接に関連しているのは、脳の複雑さは人智を超える、という定説です。人間が脳を理解する日は来ない、とする主張もたくさんあります。脳こそ、既知の宇宙でもっとも複雑なモノなのです。

脳の実に複雑な特質と、コンピューターに例えられることが相まって、まるで、脳が身体のいち部分ではないかのように、私たちは信じ込んでしまいます。生物学では説明できないし、自然のものでもない、と。それが、私が呼ぶところの〈脳体二元論〉につながります。かつての〈実体二元論〉に近いんですが、その現代版です。

脳は身体をコントロールしているともされています。〈脳は身体の管制塔〉というフレーズを聞いたことがある人も多いでしょう。もちろん、その言葉には、多分に真実も含まれています。しかしそれだと、脳が身体を、単一方向、つまり、トップダウン的にコントロールしているようなイメージを植え付けてしまいます。本当は、脳と身体とのあいだには、双方向的な作用がたくさんあるんです。身体も、そして環境も脳をコントロールしています。

このようなステレオタイプがどうして危険か。もちろん、そういった考えかたがまったくの間違いなわけではありません。しかし、それらがひとくくりにされ、極端な言説になると、脳の機能についての私たちの理解が限定されてしまうのです。〈管制塔〉のステレオタイプは、おそらくもっとも厄介でしょう。周辺環境が人間に及ぼす影響に鈍感になってしまいますからね。また、人間の行動についての理解も阻害します。私たちが、人間の脳を神秘的で万能だと判断すればするほど、そして私たちが自分自身を、脳機能だけで定義すればするほど、私たちをたらしめる、脳以外の数々の要因に無頓着になってしまいます。

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私たちは、感情の発露も脳の管理下にあると考えがちです。私たちの抱く感情に変化を与える、感覚的、環境的影響とは、例えば何ですか?

意識をもつ私たちには、自己管理感覚が備わっており、そのなかには感情の管理感覚も含まれます。しかし実際、私たちの行動や感情は全て、脳の外、もっといえば身体の外からの影響を受けています。いくら私たちが脳は管制塔だと考えていても、脳と身体内外からのあらゆる影響、必然的で観測可能な関係性があるのです。

周辺環境からの刺激とは、例えば光、温度、色などです。そういった要素が私たちの気分、情動的意思決定に影響します。おそらく、いちばん有名なのは〈季節性感情障害(Seasonal Affective Disorder)〉と呼ばれる症状でしょう。日照不足の寒冷地の冬に発症しやすいうつ病の1種です。

また、暑いと攻撃的になる現象もあります。周辺環境の気温が数度上がるだけで、攻撃性のレベルも上がるという傾向があるんです。『The Science』誌に掲載されたメタ分析はすばらしく、様々な例が挙げられています。私が驚いたのは、警察官が射撃訓練で、気温が低いときより高いときのほうが多く発砲するという報告です。

私たちは、常に感覚を受容しています。みんな、「自分の管理はできているんだから、このデータに従って行動すればいいんだ」という感覚システムを想像しがちですが、実際、私たちは目、耳、口、肌が受容する感覚に大きく左右されます。

空腹の裁判官がより厳しい判決を下すことを明らかにした研究もありましたね。

いかにも、裁判官は昼食後により軽い判決を言い渡す傾向にある、とした有名な研究です。暮らしのなかには、私たちの言動に影響を与えるものがたくさんあるんです。身体がちょっと痛いだけで不機嫌になることもあります。深く考えなくても、それらの多くは当たり前だし、直観的に理解できますよね。機嫌が良いときは、きっと死刑判決を下したい気分にもならないでしょう。

教授の説は、精神疾患などについての理解にはどうあてはめられますか? 現代では、精神疾患ははっきりと生物学的に定義されており、脳やその機能障害がベースとなっています。

脳の病気としての精神疾患を再定義しようとする大きな動きがあります。意義深い活動です。多くの患者が、治療を求めるさいに大きな文化的障壁に直面していますから。こうやって精神疾患を新たなかたちで提示することが、状況の改善につながります。別の観点からいえば、精神疾患を脳の病気と同一視することは誤解を招きやすく、場合によっては有害ですらあります。

ひとつは医学的な観点、治療の観点からの話です。精神疾患を脳の病気とみなしている患者は、脳に直接作用を及ぼすと考えられる治療を受けることが多いんです。たとえ、それが必ずしも正しい選択でなかったとしてもです。この20年で、より行動療法に近い治療から、薬物療法へとシフトしてきています。

ふたつめは、自分は精神疾患を患っているのではなく、脳がおかしくなっているだけだ、と信じている患者です。彼らは自らの不具合を、社会的療法で治せるものではなく、むしろ生来のもの、不変のものだ、と考えてしまう。ひと昔前の精神疾患のとらえかたですね。自分が世間でどう見られるかについても、そうやって考えます。もし自分の脳に疾患があるなら、みんなから距離を置かれてしまうはずだ、なぜなら、みんなが私を、欠陥があり危険だとみなすから、と。

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精神疾患を脳の病気のひとつに限定した見方をすると、さらに大きな問題があります。それは精神疾患そのものの定義に関係した問題です。精神疾患は文化を通して、数多くの医師や利害関係者が話し合って決めた総意を通して定義されます。その定義は、実に文化的な産物なんです。今からわずか60年ほど前には、同性愛も精神疾患のひとつとみなされていました。だからといって同性愛は脳の病気ではありませんよね。国ごとに、精神疾患の定義も違います。だからといってそれぞれの国の精神疾患が、全て別の脳の病気なわけではありませんし、かの国の脳の病気が、この国にないわけでもありません。もちろん、脳機能と精神疾患に関連性がない、とはいいません。しかし、精神疾患をただ単純に脳の病気と呼ぶのは、実に還元主義的だと思います。

もしうつ病や精神疾患が単なる脳の病気であれば、発達期の子どもたちの貧困などといった問題に立ち向かう人びとを手助けするための社会的プログラムを立ち上げても、意味がないということになってしまいますね。

その通りです。精神疾患の定義にも原因にも、より広範な、社会的事象が関与しているんです。この社会では、集団ごとに、精神疾患の疫学データも異なっています。さかのぼること20世紀初頭、1930年代に発表された研究結果に、注目すべきものがあります。都市部での誕生や成長と、統合失調症には関連性があるという結果が出たのです。また、個々人の外部で起こり、メンタルヘルスに影響するとされる事象を明確に示す関連性は、これ以外にもまだあります。

意識の研究はどうですか? 一般的に、意識は神経科学の最後のフロンティアとみなされ、意識が脳内のどこでどう発生するかが研究されています。しかし教授の説では、意識を脳のみで研究するのは間違っているということでしょうか。

私は神経科学者で、脳機能を研究することに人生のほとんどを捧げてきました。だから、間違っていません。意識の構成要素や、他の認知/行動機能を脳に求めることは、間違っているとは思いません。

とはいえ、身体や環境的文脈から完全に独立した脳機能は皆無だと私は断言します。脳がなければ意識は生まれません。意識が依拠するのは主に脳でしょう。しかし、私たちが意識する対象は、全て、とはいいませんがほとんど全てが、脳外部にあるものです。身体機能を意識するときはもちろん身体に、周囲の出来事を意識するときは、受容する感覚に頼っています。これらは、脳が孤立して機能しているわけではないと示す例です。

さらにいうと、人間の高度な認知機能には、身体や周辺環境にかなり頼っているものもあります。例えば、人間の身体のかたちは、私たちの認知に影響しています。いわゆる〈身体化された認知〉です。例を挙げると、有名なヴァイオリニストであり、作曲家でもあったパガニーニ(Paganini)は、関節が異常にやわらかく、3本の指がそれぞれありえない方向に曲がったといいます。だからこそ、誰にもできない弾きかたでヴァイオリンを弾けて、それが、彼の作曲にも影響したんです。彼は、自分にしか弾けない曲を書きました。彼の精神、あるいは作曲時の彼の脳、精神の活動は、彼の身体の産物なんです。

自分の死後に〈自分〉を残す手段として脳を保存しておくというテクノロジーの構想についてはどう思いますか? 最近では、脳の全てを余すところなく保存し、のちにどこかにデータをアップロードして自分が再びこの世界に存在できるようにする、と標榜するスタートアップ企業も登場しています。脳と身体が離れたときに存在する〈自分〉は、〈自分〉なのでしょうか。

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脳の永久保存や、死去したばかりの対象者の脳を保存するサービスを謳う企業はいくつかあります。彼らが目指しているのは、脳をスキャンし、デジタル環境にアップロードすること、あるいは技術的に可能になったら、脳を若返らせ、新しい身体に移植することも検討されています。

そもそも現段階において、この構想は実に不確かです。脳を保存するテクノロジーはまだないし、すぐに登場する様子もありません。ただ、このサービスにお金を払おうとする人びとがいる事実が、まさに〈脳神話〉の力を示す証拠です。

たとえ、誰かが技術的障壁を全て乗り越え、実際に脳を適切に保存し、分析し、機器につないだりシミュレーションを実行できるようになったとしても、そこに現れる〈自分〉は、元の〈自分〉とは別物です。脳と脳内の生理機能が全てアップロードされたとしても、身体とつながっていた脳とは、得る経験がまったく違うんです。それは、感情や、外部からの感覚刺激の受容のしかたが、脳だけではなく、外部からの刺激と脳とのつながりに依拠しているからです。

シミュレーションを丁寧に行えば、その問題も埋め合わせできるかもしれませんが、いずれにせよ脳を、身体や周辺環境のなかで相互に作用するシステムとしてシミュレーションしなくてはならないでしょう。もし、アップロードされた脳に、今の私たちと同じような思考、感情を経験させたいなら、脳の周辺環境、少なくともそのなかの主要な要素を、併せてアップロードしなければいけません。自分と似たような環境で育った、本物の脳を有する本物の人間がいれば、コンピューター内の脳だけのシミュレーションより、前者のほうが自分に近い、と感じるはずです。

脳は、私たちの思考、感情、価値、目標を決定づける拡張されたシステムの一部であると考えれば、そこから学びを得られます。保存することが特別で価値があるのは、モノとしての脳だけではなく、文脈、すなわち環境、身体、脳、全てなのです。

This article originally appeared on VICE US.