死亡した生き物の皮を剥ぎ詰め物をして、生きているときの外形を再現するはく製師の仕事。何のために、誰のために、はく製はあるのか。展示・標本用につくられるのが一般的だが、亡くなったペットを慈しむために、はく製を希望する者も多い。かつて海外では狩猟で獲った生き物をトロフィがわりに、はく製にする文化もあったようだ。死が日常から遠ざけられている現代では、はく製は残酷なものだ、と考える人も少なくない。
「バカな仕事ですよ」と長谷川さんは言う。東京・経堂に工房を構えるはく製師は、昭和7年生まれの86歳。これまでこしらえてきた愛らしいはく製たちに囲まれ、我が子のように愛情を注ぎながら穏やかに暮らす。「バカな仕事」の真意を読み取るのは難しい。ただ50年以上はく製と向き合い、誰よりも〈はく製とは何か〉を自問自答してきたのではないだろうか。そんな職人の、人生のおしゃべり、そして、はく製製作の現場から見据える死生観をうかがった。
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01.日本人の心は殺生を嫌う。
はく製が部屋中に埋め尽くされていますね。ご自宅が作業場なのですか。
奥に6帖ひと間の仕事部屋がありまして、そこですべてを製作しています。保存用の冷凍庫も2つありまして、むかしは家に置き切れないので外にも4~5個置いていました。
どのはく製も、まるで生きているように見えるのが印象的です。
一般の商売どころのはく製は、狸にしろ雉にしろ、型に合わせてつくるものが多いんです。もちろんそれも、はく製ははく製。でも生き物には個別の大きさがありますからね。私は丁寧にサイズを測って、その子に合ったポーズつくらなくちゃいけないと思っていました。
今もまだ現役なのですか。
いや、そろそろ区切りをつけようと思っています。むかしと比べて狩猟家も、かなり少なくなりました。みんな年をとって70~80代。銃を返納しています。
若い狩猟家はいませんか。
若いかたには銃を持たせなくなってしまったんです。事故だとか悪用されることもあるからでしょうけど、それよりも日本人の心は殺生を嫌う。その嫌われかたが銃のほうにも影響しているみたい。
なぜ、むかしは狩猟が盛んだったのでしょう。
裕福な時代ではなかったので食料になるというのがひとつ。あとは、野生動物は何でもそうですけど、病気を運ぶんです。増えすぎると国内中大変。だから国も狩猟を奨励して、銃を持たせたんです。
なるほど。そういう理由なんですね。
でも、その後だんだんと政府のほうで抑えるようになるんですね。世の中の風潮も、銃なんてとんでもないというような。
日本人の道徳観、あるいは殺生を嫌う仏教の影響でしょうか。
それはわかりません。例えば、お祭りで私がはく製を持っていくと、年配の奥さまたちは、かわいそうだという見方をされます。
かわいそう、とはどういった意味で。
殺生されたもの、という意味合いでしょう。鶏でも豚でもみなさん肉を食べていますけど、それとは別の意味でね、あえて殺生をしていると捉えられているわけです。日本の奥さまたちの心は、それだけ優しくできているんですね。
死を感じさせるものに嫌悪感があるのかもしれません。
野生の動物が増えすぎると、病気をもった動物や渡り鳥から菌が移るのが早いんです。以前も鶏や豚の疫がありました。海外から生命にかかわるような菌が九州に入ってきたと思ったら、1年くらいで北海道まで広がっている。その度、何万という数が殺されています。菌が猛威を振るっているのが、今の状態だと思います。
たしかに鳥インフルエンザなど、最近は動物、鳥の疫病のニュースが多いですね。
今は狩猟家が少ないですから、北海道で駆除活動しているのは自衛隊です。熊にしても鹿にしても。病気が流行ると、利用している肉類は、すぐに影響を受けるわけですからね。
考えさせられる問題ですね。
たしかに狩猟は殺生ではあります。ただ、そこには意味があると、みなさんの頭の片隅に置いてほしいなと思っています。
02.生い立ち~早川の父の教え。
長谷川さんの生い立ちを聞かせてください。昭和7年、北海道の厚真町生まれ。実のお父さんは満州で戦死されていますね。
はい。私は農家の長男でしたが、昭和15年に父親が戦死したことで母1人では農家が厳しくなり、新しい仕事を求めて鵡川町に引っ越しました。その頃、大東亜戦争が始まりました。
疎開中に、P-51ムスタングが頭上をかすめるほど接近されたそうですね。
そのときは人生終わりかな、と思いました。低空まで降下してきましてね。幸い機銃はされませんでした。私は子供で怖さを知らないものですから、飛行機見たさに防空壕から飛び出して、覗きにいったものです。先生に大変叱られました。
ヤンチャというか無鉄砲というか。
当時、飛行機なんて見たことがないですから。どんな形をしているのかなと。いわゆる好奇心です。
長谷川さんの探求心は、その当時から始まっていたのですね。
どうなんでしょう。私が影響を受けたのは、早川の父。指導がよかったんですよ。
お母さんが再婚され、2人目のお父さんですね。
はい。平清盛の末孫である早川家の人物でした。父のお父さんは明治初期の総裁の第一書記をやっていたかたで、その後、外交官をやっておられたのでイギリスの滞在が長かったそうです。
教育は厳しかったですか。
いえ、厳しさはまったく。人生はこういう道を歩んだほうがいい、とかですね。あと、イギリスの狩猟雑誌が家に山積みに置いてあったんです。ページを開くと、はく製の写真が出てくる。おかげで、学校の教科書よりも、そっちに惹かれましてね。
はく製との出会いですね。
私が関心を持っている様子を察知したんでしょうね。早川の父がカナダで教わってきたとかで、はく製をつくりだしたんです。天井から、ぶら下がった雉やら鴨やらに心まで奪われて、気が付いたらこの道だって。小学6年生の頃です。
将来を決めるのが早いですね。
はい。その後、札幌の毛皮工場に弟子入りさせてもらったんです。皮なめしの仕事です。お客さまが持ってきた動物の皮を、なめし皮に仕上げていくわけです。小さいイタチから、大きい熊に至るまで。1度に40~50枚ずつ、月に2~3回なめしていきます。これが冬の仕事。そして夏になると太鼓の張替え。牛の皮を利用するんですけど、これがまた大変。皮を張るのも力仕事ですよ。
はく製づくりを学びながらですか。
つくりかたの本は読んでいました。橋本太郎さんの本とかですね。
自分でつくるための下準備はしていたんですね。
なめしは、はく製の基礎なんです。だから無駄になりませんでした。毛皮工場は、15~20歳までいたのかな。ただね、社会の動きが変化するのがわかるんです。時代が変わって、毛皮の利用がなくなってくる。外国から化学繊維がどんどん入るようになったんです。今後はこの道では難しいな、と肌で感じ退職しました。
その後は、どうされたんでしょうか。
早川の父は、米兵相手によく狩猟の案内をしていました。なぜか父は案内しても料金をとらないんですけどね。米軍の司令官がよく狩猟に来ていまして、多いときはジープ20~30台でうちにやってきましたよ。その手伝いをしているうちに千歳空港でレストランをやっている通訳のかたから手伝ってくれないか、と誘われ、そのレストランで7年間勤めました。その社長は極東国際軍事裁判の通訳をされたかたでしたね。
お客さんは米兵でしたか。
そうですね。そういえばある日、猟犬が雉をくわえてきたので、基礎的な知識ではく製をこしらえて、それをレストランのカウンターに飾ったんです。
独学で製作されたのですか。
独学という意味合いが通るでしょう。私のつくりかたは、他と違っていたんです。本に載っているやりかたも把握していましたが、こんなものじゃいけないと。自分なりに……。今となれば古いやりかたではありますが、実物の形に木毛を巻いて形を整えて細かいところまでいき渡るような仕組みをつくったんです。でもそれが……1週間~10日もしないうちに盗まれてしまって。米兵の誰か持ち去ったのかもしれません。
それは災難でしたね。
いえ、むしろそのときに自信を持ったんです。この道でいけると。
初めてつくった雉のはく製で。
そう。それなりに手をかけて、歩いているポーズをつくりました。父のアメリカのはく製雑誌を読んでいるうちに、頭のなかにイメージが沸いてきて、私でもできるかなと。本に載っているものよりは、少し上手につくってやろうと。だから、それが盗まれたことで、はく製づくりが与えられた道のように感じました。
では、いよいよ独立ですか。
いえ、27歳で身体を壊してしまって。それでレストランを退職して、今度は苫小牧に出たんです。コーヒー豆の卸しを始めました。そこで多少小遣いになるくらい稼ぎながら、空いている時間で魚のはく製を製作し始めました。
魚のはく製とは珍しいですね。
そしたら寝る暇もない。でも奇妙ですねぇ、すごく具合が悪かったのに、寝る暇もないのに元気になってきて。店の壁に魚のはく製をぶら下げたら、苫小牧新聞が目にしたのか、記事にしてもらったんです。
魚のはく製をつくっている面白い職人がいると。
はい。それで紹介されたら、今度は室蘭放送局から出演依頼がきまして。そこでも人生のおしゃべりをさせてもらいました。
魚のはく製は、つくりかたが異なるのですか。
処理の仕方がね。劇薬のホルマリンを使わなくちゃいけない。大きいカジキの頭部を4~5匹つくったときは閉口したな。皮を剥いで肉を取り出すのに1匹1週間かかるんですよ。お客さんにしたら宝物ですから、ヘタな扱いはできないでしょう。でも1番お金になったのは、サチという魚でした。
北海道でたくさん獲れる魚ですよね。
ところがね、意外と獲れない。産卵のときに数匹獲れるかどうか。1日5匹かかれば御の字だったな。でも漁師がくれるんですよ。それは無駄なく利用させてもらいました。
03.技術を誰かに伝えたいという気持ちはない。
東京にこられたきっかけは何ですか。
結婚がきっかけです。鵡川町で寝泊まりしていたとき、お世話になっていたかたが何かしら私を気に入ってしまったんです。いい人が親戚にいないかと探してくれたみたい。偶然にも縁が結ばれて、東京に出ました。33歳の頃です。
そして、ここ経堂に住むわけですね。
はく製の仕事に専念したんですよ。最初の頃は、お手伝いで伊勢海老のようなものをつくりながら、時間のあるときに自分用の魚のはく製をつくっていました。
魚のはく製は長谷川さんの得意分野となったんですね。
それはあります。沖縄のほうで獲れるきれいな魚を仕入れて。そのうち狩猟家のかたと縁ができまして、鳥のはく製もやるようになりました。(経堂)近辺でも何百人も狩猟家がおられましたから。東京都だけでも30~40万人はいたはずです。銃砲店のようなところに、はく製を置かせてもらうと、噂が口伝えで広がりまして。それからは忙しかったです。東京に来てから休む時間なんてなかったんですよ。寝ずに仕事をしました。1人でようやってきたなと思いますよね。
スタッフやお弟子さんなどはとらなかったんですか。
使う意思もありませんでした。他のはく製師さんはお手伝いがいたでしょう。趣味でやっているなら別ですが、仕事となると、なかなか1人だと大変ですから。
なぜお弟子さんをとらなかったんでしょう。
私はね、はく製づくりを商売だと思ったことがないんです。殺生させられた生き物をどうにか活かしてやりたいという気持ちが第一。そうでなければこの仕事は第三者に、とてもオススメできません。趣味でやるなら自由ですよ。本でも何でも貸しましたし、口で教えるくらいならよくありました。大学生さんなど、よくこられました。
弟子にしてくれと。
そういうかたもおりました。でも私は言うんです。「まず本をご覧になって、自分でできるかどうか先に判断してください。わからないことがありましたら、いくらでも口でおしゃべりしますよ」と。
はく製づくりを生業にするのは難しいのでしょうか。
この仕事1本で人生やっていくのは難しいです。こんなバカな仕事といったら失礼ですけど、将来続いていけるのかわからんでしょう。こんな苦労しなくたっていいですよと。
今は、はく製師は少なくなっていると聞きます。
扱いが難しいんですよ。商売に結び付くまでの技術が整えば、道はあるかもしれませんが、その過程で断念するようでは意味がありません。第2の生命を動物に与える、と強い気持ちでおつくりになれば、意味があるでしょうけれど、なかなかそこまで持っていくのが大変です。
50 年以上やってきた技術を、若い世代に伝えたいと考えませんでしたか。
私は子供に恵まれませんでしたが、もし、いたらとしたらこの仕事を継いで欲しかったと思います。ただ、第三者に継いでほしいとは一切考えませんでした。私は、はく製づくりをバカな仕事と言っちゃうんですけどね。他に大事な、宝になるようなことがあるんじゃないかと。実際、ほとんどのかたが途中で断念しています。私がおしゃべりしたかたで、1人のかただけは趣味でやり始めたらしいと噂を聞きましたけどね。
人生をかけて、真剣にはく製に向き合うかたには出会えませんでしたか。
はい。自分でつくってみたと持ってこられるかたはおられなかった。そこまでいけば、言葉のかけかたも違ってきたかもしれませんが。
04.日本とイギリスのはく製の違い。
私は、はく製の日本の技術では世界に追いつかないような気がするんです。
どの辺りがですか。
基礎的なところから違うと思います。構図、ポーズ、つくりかた、どれも外国のものと相違がでてくるんです。
外国のはく製のほうが生き生きとしている?
はい。ですから、日本の博物館に行っても、外国製が多いように感じました。
なぜ、日本は追いつけないのでしょうか。
これは難しい問題です。元来、日本人はきれい好きなんです。ここが、どうもはく製とはマッチしないような気がするんだよなぁ。
具体的にお願いしいます。
この仕事自体、きれいなものではないんですよ。遺体に直接触れて、それを丁寧に扱うのは、日本人にとって抵抗感があるんじゃないでしょうか。
狩猟の本場、イギリスなどはどうなのでしょう。
イギリス人のはく製師が実際にご自身でつくっているかというと、違う場合も多いと思うんです。特にご商売用のはく製は、外国のかたに基礎的なことをやらせて、最終的に自分たちが形を整えていることが多いのではないかなと。表向きは私がつくったと言いますけどね。
彼らは、なめしの作業までしていないのですか。
あくまでも、これは私の感じかたですけどね。でも、彼らは野生をよく見ているし、目は肥えているんですね。
一方で、1人の人間がイチから仕上げていくのが日本。
日本人には器用さ、きれいさ、マナーが、心のなかにあるんです。でもそれでは、なかなか追いついていかないんですね。私も1人ですべてを形づくらないといけない、そういう気持ちで今まで頑張ってきました。
長谷川さんは、トータルでどのくらいのはく製をつくったのですか。
約2万点はできたのかな。お客さまから預かった数が1番多かったときは1000点ほどありました。
では1年、2年待ちなども。
そこまではいかないですね。次の年になると、また新しい皮が入ってきますから。寝ないで、強引に仕事をしましたよ。手先は慣れてくるんです。自分でもびっくりするくらいにね。だから、手先の怪我だけはしないように気を付けました。刃物や劇薬を使ったりしますからね。
職人とは、技術と早さの両方が必要なんですね。
それでなければだめです。早いからといって、おかしくなるかというと決してそんなことはない。むしろ、そのときのほうがスムースにきれいに仕上がる。手先というのは奇妙ですよ。だから、休んでいて仕事を再開すると大変です。
やり続けることが大事。
はい。雑なようで丁寧。誰かに教わったわけじゃないですけど、むしろ自分の手にね、教えられたような感じです。
05.はく製に愛情を注いでこそ。
ところで、人間のはく製をつくった経験はありますか。
国内にある、と話を伺っていますけど、見たことはありません。見てみたいとは思います。とあるテレビ局から、亡くなられた赤ちゃんをはく製にしてもらえないか、というお話を頂いたことはあります。でもお断りしました。
なぜですか。
それだけの技術と知識が、そのときの私にはなかったです。その子をはく製にする自信というか。
倫理観も働きますか。
それもひとつあります。他の保存方法もあるじゃないですか。ホルマリン漬けにするとか。
はく製づくりに対して、長谷川さんもどこか抵抗感を持っていたりするのでしょうか。
抵抗がまったくないといったら嘘になります。子供の頃、早川の父は、手負いの野生の動物の心臓の止め方なども教えてくれました。10代のときにこの作業を目の当たりにするのは、気持ちのうえではつらかったです。だからこそ、私はその動物を活かしていかなければと頭が働きました。はく製づくりで自分自身を中和してきたところもあるんです。
供養の意味も込められているんですね。
はい。せめて元の姿に戻してやりたいと。ただ、中の肉を取り出すためには皮膚に傷をつけなくてはいけません。ここにも抵抗を感じましたね。
はく製師は、生命の生死について正面から向き合わなくてはいけないんですね。
今振り返るとバカな仕事をしたのかな、と思ったりもします。けれども、残されたはく製たちを見ると、お宝だ、と今は思っております。私は、お客さまから預かったもの以外は、はく製を売ったことがないんです。すべて家の中にいます。でも、遊ばせているのももったいないし、少しは経済に役立ってほしいのでレンタルを始めましたけど。
はく製になって生き返るじゃないですけど、そんなファンタジーも感じます。
そう言って頂けるとありがたいですね。最終的にどの程度残ってくれるかはわかりません。100年もったら、それなりの意味もあるのかなと。低温管理すれば持つかもしれません。それにしても、随分と付き合いが長いはく製が多いこと。この子はね(と隣の狸のはく製を撫でる)、交通事故で命を落としたところを頂いてきたんです。
長谷川さんに愛情があふれているので、どのはく製も幸せそうに見えますよ。
はい。この子を活かしてあげたいなという気持ちです。目ひとつにしてもね、義眼ですけど心を込めて。たとえば、猫の目は商売どころでは再現できないんです。だから自分で色を加えながらつくっているんです。ただ、それでもペットのはく製を望むお客さんには満足してもらえないことも多いんですよ。
お客さんの想いが強過ぎてですか。
アメリカやドイツに注文して、近い目の色をつくってもらうんですけど、それでもなかなか気に入ってもらえない。そうなると、受けられなくなってしまいます。
ペットの死後、はく製を望むかたは多いですね。
最近はその子に合う冷凍庫をお買いになって保存されればよいです、とお話しします。すると、結構実践されるかたも多いんです。
冷凍保存をして、その先どうなさるのでしょう。
お飼いになった方が亡くなったときは、一緒に火葬するわけです。それまでの間、いつでも触れられます。
そう考えると、生き物の死生観もむかしと変わってきていますね。
そのへんは、ご本人の気持ちですから私にはわかりません。ペットへの愛情も、正直言えば行き過ぎだと思うこともあります。
ご自身は、動物とどう接せられていますか。
ひとつの生命として区別がないんですよ。虫に関しては、それなりの扱いをしてしまうこともありますが、声かけとしては「今まで元気に生きてきたんだな。ありがとう」という気持ちです。転がっている羽根1枚でも拾ってきて何かに利用したり。生きていたものですから無駄はいけません。
そのへんは、はく製づくりを通して築き上げられた価値観でしょうね。
そうですね。あとは、もしかしたら早川の父の影響もあるかもしれません。獣医でしたから。
長谷川さんを育んだ幼少期とは、もう何もかも時代が違います。今の世の中をどう感じますか。
今の時代はね、幸せ過ぎるの。新しいものが次から次へと生まれてくるので、逆に大変な時代だなと。私はバカだから、あえて見て見ぬふりして、むかしの生き方そのものを、ただ長引かせて人生を送っているんです。
隠遁生活のような。
食べ物にしても贅沢は避けています。何しろ、無駄はいけません。野生動物、あるいは鳥にしてもそうですけど、むかし狩猟家から頂戴したものが、まだ冷蔵庫に眠っているんです。それがなくなるまで利用しています。まだ包丁くらい持てますからね。
子供の頃の暮らしがベースとしてあるのでしょうか。
きっとあります。だからできるのかもしれないですね。
今はある意味、娯楽がないのでしょうか。買い物しか楽しみを見いだせなくなっているともいえます。
それも、それなりに身に付けばいいですけど、どれも飽きられたり、捨てらたり。えらい時代だなと感じます。
子供の頃を思い出すことはありますか。
ありますよ。寝るときも鵡川町にいた頃を思い出したりして、心を休めて人生を送っています。