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HISTORY OF DJ : HIP HOP ①

良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。最終章ヒップホップ編、遂にスタートです。
8.9.15

ヒップホップはDJ、ラップ、ブレイクダンス、グラフィティの4大要素から成る。――同文化について説明する文章は、大抵、そう始まる。しかし、そのような総合芸術が自然と成り立っていたのは、厳密には70年代半ば、ブロンクスのクロトナ・パークを中心とした7マイルの円内で開催されるブロック・パーティという、限られた時代の、限られた場所においてのみだった。そもそも、当時、〝ヒップホップ〟という名前はなく、同文化は〝ブレイク〟や〝ワイルド・スタイル(ミュージック)〟と呼ばれていた。ネルソン・ジョージは78年にヒップホップを初めて紹介する際、〝Bビート〟というラベルを採用している。ひとつだけはっきりと言えるのは、それは、悪政がもたらす混乱とギャングがもたらす暴力からほんのひと時でも逃れることが出来るアジールであり、ユース・カルチャーの理想郷であったからこそ、オールドスクールは神話として語り継がれ、世界中で事ある毎にリヴァイヴァルが試みられているのだ。

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実際には、ヒップホップの4大要素と言われるものは、各自、独立した歴史を持っているし、関係性も変化している。例えば、オールドスクールはDJによって先導されており、その表現はポップ・ミュージックそのものを変えたが、オリジネーターの多くは金銭的な恩恵にあずかることはなく、次第にDJはラップの後景と化していく。しかし、続く世代の中でも前衛的なDJたちが過去に囚われず新しい神話をつくりあげる。そして、重要なのは、彼らの表現はオリジネーターとは全く別もののようでいて、それは、70年代半ばのブロンクスと確かに地続きだということだ。また、恐るべきことに、ヒップホップ・DJのオリジネーターたちが持っていたポテンシャルは未だ消費し尽くされてはいない。だからこそ、オールドスクールについて考えるのは決して後ろ向きなことではなく、むしろ、未来を切り開くことに繋がるのだ。

ヒップホップの誕生日は73年8月11日だ。――同文化について説明する文章は、あるいは、そう始まる。その日、ドッジ・ハイスクールの生徒だったシンディ・キャンベルは、夏休み明けに着ていく洋服をマンハッタンで買う資金の調達のため、家族で住んでいたアパートの娯楽室でちょっとしたダンス・パーティを開催した。DJを務めたのは兄のクライヴ・キャンベル。そのウエスト・ブロンクスのモーリスハイツ地区セジウィック通り1520番に位置する平凡なアパートは、今やスミソニアン協会によって偉大な発明の地に指定されているという。何故なら、件の娯楽室こそが、ヒップホップのオリジネーターのひとりであるDJ、クール・ハークの原点だからだ。ただし、73年8月11日のバック・トゥ・スクール・ジャムは、彼の才能を地元に知らしめた点や、同文化を始めたのがディスコに入店出来ない年齢のキッズだったことを象徴している点では重要だが、クール・ハークのスタイルはそこから徐々に形成されていったと考えるのが妥当なようだ。すなわち、〝ブレイクビーツ〟の発見である。

55年、キングストンに生まれたクライヴ・キャンベルは、67年、ニューヨークへと移住。当初はジャマイカ訛りが抜けずクラスメイトから揶揄われていたが、持ち前の運動神経と体格の良さからヘラクレスの英語発音である〝ハーキュリーズ〟というニックネームで親しまれるようになった。そして、71年頃には他のブロンクスのキッズと同様にグラフィティを始め、ハーキュリーズの短縮形を使った〝クール・ハーク〟という彼のストリート・ネームが街中に溢れる。

とは言え、クライヴが何よりも夢中だったのは音楽で、クール・ハークはDJ・ネームでもあり、グラフィティをやっていたのは自分の出演の告知をするためでもあり、やがて、彼は様々なパーティに足を運ぶ内にひとつの事実に気付く。客の中でも特にダンスが上手いキッズは、壁にもたれかかって、曲のとある時間が来るまでじっとしているではないか。彼らが待っていたのは、レコードの演奏がリズム・セクションだけになる〝ブレイク〟と呼ばれるパートで、当時、流行っていたハッスルという軽いダンスに飽き足らない血気盛んなダンサーたちは、ブレイクが始まるや否やフロアに飛び出し、派手なパフォーマンスで注目を集めることに生き甲斐を見出していたのだ。しかし、それは30秒も続かない。そこで、ハークは素朴だが画期的なアイデアを思いつく。「もし、ブレイクがもっと長くなったらどうだろうか」と。彼は同じレコードのブレイクのみを交互にかけることによって時間を引き延ばすテクニックを編み出す。そして、〝メリーゴーランド〟と名付けられたその特別なブレイクを求めてダンサーたちがハークのパーティに押し寄せるようになり、彼らはいつしか、ブレイク、あるいはブロンクスの頭文字を取って〝Bボーイ〟と呼ばれるようになった。

また、ハークは曲間に自身でマイクを持ち、ローランドのテープ式エコー・チェンバーでグルーヴをつくり出していった。彼が率いる〝ハーキュローズ〟のメンバーで、ハークのDJに合わせて客を煽っていたコーク・ラ・ロックも現代的なラップのオリジネーターのひとりとされている。つまり、彼らは既存の楽曲からリズム・セクションだけを取り出して繰り返し、その上にライムを乗せるという、今やヒップホップに留まらないポップ・ミュージックの定番のフォーマットをつくり出したのだ。

しかし、忘れてはいけないのは、どんなに偉大な歴史の転換点も決して突発的に発生するわけではないということだ。例えば、クール・ハークのプレイリストにしても、レッド・アラートが「B・ボーイズの国歌」と呼んだインクレディブル・ボンゴ・バンド「アパッチ」を有名にしたのは間違いなくハークだし、83年の映画『フラッシュ・ダンス』における、僅か1分半ながら世界中でブレイクダンス・ブームが起こるきっかけとなったロック・ステディ・クルーの登場シーンでかかるジミー・キャスター・バンチ「イッツ・ジャスト・ビガン」を最初にプレイしたのも自分だとハークは語っている。一方で、ジェームス・ブラウン「ギヴ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」や、レア・アース「ゲット・レディ」といったハークの十八番は、彼が駆け出しの頃に足を運んでいた、地元の人気DJ、ジョン・ブラウンのパーティで知ったものだった。ましてや、ハークはひと晩中、メリーゴーランドをやっていたわけではなく、それは、流行りのディスコや、馴染みのファンクを普通に丸々1曲かけていく中で訪れる、取って置きの時間だった。

Incredible Bongo Band – Apache

Jimmy Castor Bunch – It’s Just Begun(『フラッシュ・ダンス』より)

あるいは、ピート・DJ・ジョーンズは69年~70年にはレコードの2枚使いをしていたと証言しているし、同じ頃、フランシス・グラッソは既にブレイクを引き延ばしていたという。また、ハークの膨大なレコード・コレクションと強力なサウンド・システムは、父親のキース・キャンベルから引き継いだもので、何より、彼のDJの根底には幼少時代にキングストンで体験した地元のサウンド=ソマーセット・レインとセレクター=キング・ジョージの記憶がある。MCがそれまでのディスコ・DJと異なっていたのもダンスホール・レゲエのトースティングの影響によるものだ。

それでも、ハークのDJは新しかった。というか、彼の表現は過去の様々な遺産をリサイクルし、ミックスする点でその後のポップ・カルチャーに先駆けていた。ハークはB・ボーイを始めとした若い世代から熱烈な支持を獲得、ホーム・パーティーからブロック・パーティへ、ブロック・パーティからディスコへと活動の舞台を広げ、やがて、今度は彼に影響を受けたDJが台頭し始める。ハークはフォーマットだけでなくムーヴメントも生んだのだ。そして、皮肉なことに、76年にはブロンクスで頂点を極めたハークは、競争が激しくなったことによって77年には時代遅れの存在として認識されるようになってしまう。そんな中、彼はクラブで喧嘩を仲裁しようとして、脇腹を刺された上に商売道具である手の平を切られる。結果、一命は取り留めたものの、療養期間に入り、前線を退く。79年にはシュガーヒル・ギャングがオリジネーターの表現を盗んでつくった「ラッパーズ・ディライト」をヒットさせることによって、ヒップホップは7マイルの円の外どころか世界中へと広がっていくが、その時、ハークの姿はなかった。しかし、彼のちょっとした、それでいて決定的なアイデアは今でもポップ・カルチャーの中で生きているのだ。

主な参考資料:
■ビル・ブルースター/フランク・ブロートン=著、島田陽子=訳『そして、みんなクレイジーになっていく』(プロデュース・センター出版局、03年)
■ジェフ・チャン=著、押野素子=訳『ヒップホップ・ジェネレーション~「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語』(リットーミュージック、07年)
■『Wax Poetic Japan No.30』掲載、ジェフ〝チェアマン〟マオ=著、早川将雄=訳「MYTHIC CRATES/KOOL HERC~ヒップホップのゴッドファーザー」(サンクチュアリ出版、13年)