英国発のサブカルチャーに触れるとき、〈階級社会〉と〈時事政治〉を、踏まえなければならない。社会情勢、時代背景のなかで、虐げられてきた労働者階級のティーンエイジャーによって、音楽やファッションが具現化されてきたからだ。
そして、階級や人種の垣根を超え、ほぼ全てのサブカルチャーにおいてアイコニックな存在となったフレッドペリー。なぜ白人にも黒人にも愛されてきたのか。上流階級をはじめ、モッズやスキンズなど多様なサブカルチャーに受け入れられるのか。
ファッション誌『i-D』、UK版『GQ STYLE』などに携わるエディターの証言を交え、英国文化とフレッドペリーのカプセルコレクション〈モノクロームテニス〉が打ち出す90’sミックススタイルを解明するために、〈カジュアルズ〉に焦点をあて、全2回で紹介していきたい。
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まずは、フレッドペリーの歩みをおさらい。1909年生まれのフレデリック・ジョン・ペリー(Frederick John Perry)は、1928年、卓球で世界チャンピオンの座についたのち、テニスに転向すると、1934年ウィンブルドンで優勝する。その後、グランドスラムを達成するが、テニス界の階級構造に苛まれた。紡績業に従事する労働者階級出身という生い立ちからであった。
1940年代後半、引退したのち、自らのブランド〈フレッドペリー〉を立ち上げると状況が好転する。ウィンブルドンのシンボルである月桂樹をモチーフにしたロゴマークの使用が許可されたのだ。テニスが上流階級のためのスポーツだ、と疑わない紳士気取りな人々の執拗な偏見に挑戦し続けた結果、勝ち取ったものであった。
これを機に、フレッドペリーはテニスウェアだけではなく、世界中のストリートシーンに受け入れられるべく歩み始める。まず着手したのがリストバンド。その後、世界中のストリートファッションのアイコンとなったポロシャツをリリースする。最大の特徴はスリムフィットなフォルム。これが50年代後半に生まれたモッズに愛された。彼らのスタイルは細身が基本。そんなスタイルにぴったりとハマったのだ。また、目の詰まった鹿の子素材を採用したため、一晩中踊っても型崩れしないタフなつくりも人気を博した理由だった。
60年代後半に登場した〈スキンヘッズ〉は、ブーツとデニム、プレイシーズ(サスペンダー)に、フレッドペリーのポロシャツをセレクトした。彼らはモッズから派生した労働者階級によるサブカルチャーで、サッカーをこよなく愛していた。この頃になると、それぞれの地元のチームカラーに合わせて選べるほど、豊富なカラーバリエーションのポロシャツを展開していた。
70年代後半は、多くのムーブメントが生まれたパンクシーンでは、労働者階級の若者が結成したThe Buzzcocks、Sham69などがフレッドペリーを愛用した。また、映画『さらば青春の光(Quadrophenia)』が公開され盛り上がるネオモッズのアイコンともなった。マンチェスターでモッズの系譜から生まれ、ノーザンソウルに傾倒し、サッカー観戦を楽しむ、その名も〈ペリー・ボーイズ〉からも当然愛される。1979年のペリー・ボーイズのトレンドは、のちの〈カジュアルズ〉起源説へと繋がる。詳細は後述するが、カジュアルズは、70年代後半から90年代初頭に起こった、スポーツウェアを中心としたスタイルの一大ムーブメントだ。
80年代初頭には、2トーン・スカの擡頭により、スキンヘッズのスタイルを踏襲し、ポークパイ・ハット、スーツ、ローファーにフレッドペリーというスタイルが流行する。The Specialsは、労働者階級の白人と黒人からなるバンドであったが、彼らは揃ってポロシャツを愛用していた。
80年台後半から90年代初頭には、アシッドハウス、レイブカルチャーといったユースカルチャーが生まれる。その後、英国では、大きなサブカルチャーのムーブメントは生まれていない。しかし、フレッドペリーは、その後のブリティッシュ・ポップ、2000年以降のラフ・シモンズとのコラボレーションなどでもわかるように、メジャーシーンとの結びつきやモード界とのコラボレーションを通じて、より多くの人々を魅了し続けるブランドへと成長していく。
そんなブランドが今季より打ち出すモノクロームテニス。90’sスポーツスタイルを掲げるこのカプセルコレクションを読み解くために、70年代後半に生まれ、80年代に最盛期を迎え、90年代のアシッドハウス、レイブカルチャーに大きな影響を与えた、カジュアルズのカルチャーを詳しくみていきたい。
70年代後半に生まれた〈カジュアルズ〉。サッカーファンのファッションが、英国全土に広がり、脚光を浴びムーブメントとなった。そのスタイルの特徴は、トラックスーツ(ジャージー)やナイロンジャケット、スウェット、スニーカー、キャップなど、スポーツウェアを中心としたスタイルだ。今でこそ、街でスポーツウェアを着用するのは一般的だが、フレッドペリーのポロシャツを除いては、英国でスポーツウェアがファッションとしてフューチャーされたことはなかった。このカルチャーについて、UK版『GQ STYLE』でエディターを務めるディーン・キシック(Dean Kissick)は、「カジュアルズが普通と違うのは、ほとんどのサッカーファンは、チームカラーやユニフォームを身に着けているが、カジュアルズは誰よりもハードコアなファンなのに、公式ユニフォームも着ない。どのチームを応援していようが、みんな似たような格好をしているのが特徴だ」と語る。
また、『i-D』のデクラン・ヒギンス(Declan Higgins)は「テラス(ゴール裏のベンチや椅子がない立ち見エリア)文化とも密接な関係がある。2000年代後半、僕が育った地域では、カジュアルズの大きなムーブメントがあった。14歳の頃、友達はみんなストーンアイランドやリーバイスのジーンズ、スタンスミス、リーボック、CPカンパニー、フレッドペリーのポロシャツなどを買っていた。バーバリーやアクアスキュータムもとても人気があった。音楽はジョイ・ディヴィジョン、オアシスやデヴィッド・ボウイなどを聞いていた」と自身の体験を交えて話してくれた。
ICA(ロンドンの現代美術館)のコミュニケーション部主任であり、ロンドン芸術大学講師、フリーランスのライターや編集も手がけるダリオシュ・ハジ=ナジャフィ(Daryoush Haj-Najafi)はこう語る。「イギリス社会は非常に階級を重んじる。70年代のサッカーシーンは労働者階級のためのスポーツだった。工場従業員などの若者が多かったが、とても貧しかったわけではない。そもそもサッカーはお金のかかる趣味で、多くのカジュアルズはヨーロッパ各地に観戦に行くだけの余裕があった。ただ、犯罪者だったり、喧嘩っ早く、警察から隠れて喧嘩をしようとしていた連中もいた。そんな彼らが警察に怪しまれないようなスタイルをしたのが始まりだ。また、諸説あるが、当時流行っていたグラムロックやスキンヘッズ、ヒッピー・カルチャーへの反発もあった。特にサッカーを愛していたスキンヘッズは、すでに警察に目をつけられ、スタジアムに入れなかったからこそ、カジュアルズはブーツやデニムパンツではなく、トレーナーズ(スニーカー)を履き、スポーツウェアを着ていた。ただ、ユースカルチャーは、基本的に既存のスタイルに対抗する。カジュアルズ、スキンヘッズだけじゃない。モッズもパンクも、主流なスタイルを拒絶し生まれた。70年代前半に、街中でスポーツウェアを着るのは、とても特殊でアウトサイダーだった。爆発的に広めたのがカジュアルズだった」
しかし、ダリオシュの話で奇妙なのは、当時はスキンヘッズとカジュアルズ、どちらにも愛されたフレッドペリーの存在だ。また、カジュアルズのカルチャーを理解するうえで、男性ならではの美学も理解しておく必要があるという。
「抑圧的な労働者階級では、『この仕事をしろ』『決して大物にはなれない』と教えこまれる。すると道は2つしか残されていない。知性を身につけて労働者階級から脱するか、犯罪者になるかのどちらかだ。これはヒップホップ・カルチャーと全く同じ。さらにカジュアルズに女性はいない。僕が十代のころ『今夜、女の子をナンパできなかったら喧嘩する』というほど、みんな喧嘩を楽しんでいた。また、〈女性的でない〉という理由で、ヒップホップなら〈ファッション好き〉でも構わない、とされるのも同様だ。英国の80年代にも同じような現象が起き、サッカーにまつわるものや、タフさを押し出したものなら、〈ファッション好き〉でもいいとされたのがカジュアルズだった。今では性差別だ、と言われるかもしれないが、男性のファッションとは長年そういうものだった。わかりやすい例がボディバッグだ。今ではボディバッグを持つ男性は大勢いるが、以前は誰も持とうとしなかった。〈犯罪者が持つもの〉〈銃を入れるもの〉というイメージになった途端、みんなボディバッグを欲しがり始めた。そもそも男性は昔から反体制的なレベル・スタイル(rebel style)で、自分をタフに見せようとしてきた」
ただ、ここでハッキリさせておきたいのは、カジュアルズとフーリガンとチャヴの違いだ。どれもフットボールに纏わる言葉であるが、それぞれ異なる意味を持つ。フーリガンとは、サッカー場で喧嘩や暴動を起こす人々を指す。チャヴとは90年代後半以降、カジュアルズのファッションを真似た人々を指していたが、現在では、労働者階級の中でも、さらにアンダークラスを指す言葉として変化している。そして、カジュアルズは、あくまでストリートファッションのスタイルを指すものだ。同じ英国のサッカーファン、という意味では同じだが、その立ち振る舞いと行為、立場によってわかれる。
カジュアルズとチャヴの違いについて、ダリオシュは説明してくれた。「カジュアルズはチャヴが嫌いだった。チャヴはとても悪い言葉で、階級差別用語だ。ただ、この言葉をつくったのは同じ労働者階級の連中だ。90年代始め、カジュアルズはバーバリーを着ていた。90年代後半から00年代初頭にかけて登場したチャヴは、カジュアルズの格好を真似た。チャヴは、とても貧しい人が多く、ほとんどが生活保護を受けていて、いわゆる〈アンダークラス(underclass)〉の人々。カジュアルズは金持ちに見えるようにブランド物を身にまとい、ファッションへの理解がある、と思われようとした。20~30年後に中産階級の人々がこのスタイルを真似ると、パンクのように『嫌われるのを承知であえて着る』とチャヴを面白がっていたものもいた。カジュアルズはその服を愛していたが、最近、このスタイルのリバイバルで、人々はそれをタブーとして扱った。数年前にチャヴのようにトラックスーツやバーバリーのキャップを着れば、周りの人を怒らせた。でもカジュアルズが最初に着た時は、自分が洗練されている、と示そうとしていた。この2つは全くの別物だ」
また、カジュアルズとフーリガンの違いをディーンに尋ねた。「フーリガニズムとは、争うこと。試合会場で他のチームを応援するライバルギャングたちと喧嘩するのがフーリガニズムだ。それよりも、カジュアルズにとっては服装や生き方が重要だ。ただ、確かに両者はオーバーラップしていて、カジュアルズの中にフーリガンもいるし、フーリガンの中にもカジュアルズがいる」。当たり前だが明確な違いが英国内では認識されているのがわかる。
カジュアルズの発祥地域については、マンチェスターとリバプールという2つの説がある。マンチェスター近くのクルー(Crewe)という町で育ったデクランは「マンチェスターから電車で20分の町に住んでいたため、ペリー・ボーイズと育ったような思いを抱いていた。ペリー・ボーイズは、1979年頃に生まれたスタイルで、主にマンチェスター・ユナイテッドのファンだ。彼らは自己表現のためのファッションやスタイルを大切にし、髪型はウェッジ・カットで、ヨーロッパの風変わりなスポーツウェアにスタンスミスをあわせていた。なかでもフレッドペリーのポロシャツは、ペリー・ボーイズのシンボルだった。土曜の試合が終わった後、そのままナイトクラブに行ける格好だね。試合で他のファンと喧嘩していたけれど、個人的にはそれほど暴力的だとは思わず、それよりも外見の方を気にかけていた印象がある」。ペリー・ボーイズから派生して、カジュアルズが生まれたというのがマンチェスター説である。
一方で、リバプールのサッカーファンから、この文化が始まったとする声もある。当時のサッカーシーンで最強を誇ったリバプールFCが、ヨーロッパのチャンピオンシップに出場していので、チームに同行してヨーロッパ中を旅行し、各地で様々なスポーツウェアを買い漁り、ときには盗みを働きスタイルを確立したとするのがリバプール発祥説である。
いずれにせよ、70年代後半にイングランド北西部のサッカーファンのあいだで、カジュアルズは生まれた。
カジュアルズの変遷については、10代の頃、中国系のスーパーマーケットで出会った同僚からサッカーファンの趣味嗜好を聞かされ、そこからファッションにのめり込んでいったというダリオシュの話が面白い。
「70年代によく着られていたのは、フレッドペリー、セルジオ・タッキーニ、ラコステ、バーバリーだった。当時バーバリーは今よりも安価で、ラコステの方がずっと高価だった。メディアで、あまり紹介されていないブランドなどを掘り、知識を競うのも、メンズ・カルチャーの特徴だ。また、60~70年代にかけて、技術を売りにしたスニーカーも増えた。男性は衣服の技術を重視することも理解しなければいけない。80年代になると、イタリアで技術力を駆使したストーンアイランドが登場し、アルマーニジーンズにも注目が集まった。しかし、イングランド北部では、90年代前半になっても、そういったブランドを取り扱うショップは、ほとんどなかった。彼らは出身地、地元の住民、階級を愛すると同時に、知識欲が刺激される海外への憧れを抱いていた。カジュアルズのスタイルは、メンズのファッションカルチャーを体現しながら、時とともにそのスタイルを変化させストリートに広まったんだ」
ここまではカジュアルズについてみてきたが、ここで、70年代後半から90年代初頭の英国の社会情勢へと話を移したい。カジュアルズがなぜ、高級志向のファッションを求めたのか、そして音楽ではなく、サッカーでありファッションだったのか。社会情勢の中で労働者階級が、何を感じカジュアルズを体現していたのかを探りたい。
カジュアルズが生まれた時代の英国社会とは、79年から90年まで首相を勤めた、マーガレット・サッチャーによる政治政策について検証する必要がある。サッチャー政権がとった緊縮財政は、多くの労働者階級にとっては厳しいものとなった。
それまでの英国では、充実した社会保障制度が労働者階級を救っていた。1945年、第二次世界大戦が終戦を迎え、戦勝国となった英国では、第一次世界大戦後の貧困社会へ戻ることを危惧していた。戦争から帰還した兵士が、平和と仕事を求め、クレメント・アトリーを支持し、労働組合が基盤となる労働党が政権を獲得した。アトリー政権は社会主義路線にのっとり、充実した社会保障制度を導入する。国民保険サービスにより医療費が無料となり、庭付きの公共住宅を安い家賃で供給し、住環境を改善した。また、炭鉱、鉄道、ガス、水道、電力を国有化することで、労働者階級の人々に安定した職を提供した。
これに対してサッチャーは、小さな政府を目指し、自由競争を促進した。規制緩和と民営化を進め、福祉国家の解体を進めた。当時の英国の労働者階級は、何世代も同じような職業に就くのが誇りとなり、アイデンティティーにおいて大きな役割を果たしていた。しかし、そんな職種が民営化に伴い、次々に廃止された。労働組合は各地でストライキを実行するも、〈鉄の女〉の愛称で知られるサッチャーは断じてこれに屈せず、最も力を持っていたとされる炭鉱の労働組合を完全に牛耳っていく。そのため、1983年に184あった炭鉱が、94年の民営化時には15にまで減少していたほどだった。
この社会状況についてディーンは、「労働者階級にとっては、とても厳しい時代だった。労働組合は労働者を支援していたが、サッチャーによって叩きのめされた。彼女は労働者階級の人々の権利を奪い、厳しい状況で暮らす人々を支援するための政府の給付金を削減した。サッチャーは今でも労働者階級の大半や、政治的に左寄りの人たちから嫌われているが、北部では突出して憎悪の対象となっている。しかし、個人的に彼女の政策は、どちらかといえば成功したと考えている。国民は望んでいなかったと思うが、政治が変わり、その遺産は今でも残っていると感じる。それに、海外の多くの政治家がサッチャーを尊敬しており、彼女のアイデアの多くを信じているのも知っている。彼女は今でも憎悪の対象であり、右寄りの人にとってはヒーローなのだ」と述べる。
マーガレット・サッチャーによる政策の良し悪しはさておき、サッチャー政権によって労働者階級が苦しい立場に追い込まれたのは事実である。炭鉱産業や繊維工業など、労働者階級が従事していた業種は衰退し、労働組合と労働党の関係性が悪化した。労働者階級の文化やアイデンティティーの全てが崩壊するなかで、唯一残されたのがサッカー文化だったのだ。
ここまでみてきたように、人種や階級、はたまた様々なサブカルチャーから支持されてきたフレッドペリー。そして、カジュアルズによって広まったスポーツウェアの文化。それが生まれた時代に行われたマーガレット・サッチャーの緊縮財政。
次回は、サッチャリズムによって、カジュアルズがどう変化したのか、そして、サッカー文化がどのような発展を遂げたのか。また、英国は90年代へ向けて、どのような変遷を辿るのかなど、フレッドペリー、カジュアルズ、サッチャリズムがどのように絡み合い、90年代を迎えるのかを紹介する。
そして、カジュアルズが広めたスポーツウェアと、90年代のスポーツスタイルとの関係を紐解きたい。
サッチャー政権下の労働者階級〈カジュアルズ〉とフレッドペリー 02はこちら
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