英国の多くのサブカルチャーにおいて愛されてきたフレッドペリー。スポーツウェアをストリートに落とし込んだサブカルチャー、カジュアルズ。80年代の英国社会において大きな影響力を持ったサッチャー政権。前回の記事では、ブランド、サブカルチャー、社会情勢についてみてきたが、今回の記事は、これらがどのようにクロスオーバーしていったのか、そして、80年代に起きたこの現象が、90年代初頭、そして現代に、どのような影響力を持ったのか、紹介したい。
サッチャー政権は自由競争を促進させるため、規制緩和と民営化を進め、福祉国家を解体した。それにより労働者階級では失業者が続出した。労働者階級から生まれたカジュアルズは、虐げられた環境で、何を感じ、考え、行動したのだろうか。そして、なぜサッカーとファッションに熱狂したのだろう。
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『i-D』のデクラン・ヒギンス(Declan Higgins)は「サッチャーの政策によって、道はゴミだらけで、電力供給が安定せず停電が頻繁に起こるほどの影響を英国全土に及ぼしたが、特に労働者階級への打撃が大きかった。しかし、同じ労働者階級のカジュアルズは、金がなくとも、身なりを大切にした。高級な服を買っていた者もいたが、正規に買った製品ではなかったかもしれない。ただ、彼らは貯蓄し服を買う行為自体に誇りを持っていた。服は彼らの結束を示すものだったからだ」と話す。
ICA(ロンドンの現代美術館)のコミュニケーション部の主任として、またロンドン芸術大学での講師やフリーランスのライターや編集を務めるダリオシュ・ハジ=ナジャフィ(Daryoush Haj-Najafi)は、次のように語った。「カジュアルズとサッチャーの関わりは2つある。ひとつは、カジュアルズのカルチャーは物質主義であること。80年代初めのスパンダー・バレエやデュラン・デュランのようなバンドは、パンクが掲げた反物質主義を否定した。同じように、カジュアルズは、どこか虚無的(ニヒリスティック)かつ快楽主義的だった。資本主義を否定し、ストライキを起こし闘っていた多くの労働者階級に対し、カジュアルズは人生全般において楽しもうとした。つまり、カジュアルズのニヒリズムは、労働者階級としての革命を目指すよりも、洗練されたヨーロッパの豊かさに憧れ、幻想のなかで生きることに魅力を感じてユースカルチャーに想いを馳せたのだ。結局、英国では労働者による革命は生まれず、労働組合は力を失い、仕事は激減した。
もうひとつ、カジュアルズは外国文化に興味を持った。当時は右派へと傾倒していったスキンヘッズが愛国を訴えた。カジュアルズはイギリスは世界一ではない、とスキンヘッズのマインドを否定した。英国のブランドも着ていたし、中には右派も大勢いたが、外国に興味を持ち、そこから他人と違う要素を見出そうとした」
サッチャー政権下で労働者階級が仕事を失っていくなか、それと直接闘うのではなく、サッチャーが掲げる物質的な裕福さを求める訴えに呼応するかのように、伝統的な労働者階級としての美徳を拒絶した。そして、他のヨーロッパ諸国の生活に憧れ、それをファッションで具現化していった。階級は生涯変えられないが、身なりはすぐに変えられる。その象徴が高価なスポーツウェアであった。
ダリオシュはさらに続ける。「政府から与えられた公営住宅に住み、父親や祖父と同じ工場で働き、いずれ結婚する、という労働者階級にとって当たり前の生活からカジュアルズは脱却した。その手段として、物質主義的に他の世界を見つめた。そこで工場の劣悪な環境で働かなくてもいい、公営住宅に住む必要もない、と考え始めた。90年代の日本もそうだろうが、左派は終身雇用制度を肯定した。それに対して、カジュアルズはアルマーニや数千ポンドもするストーンアイランドのジャケットを着る生活もあると気づいた。住む場所や職を決められた人生よりも、そちらに自由を見出した」
カジュアルズが傾倒したもうひとつのカルチャーがサッカーだ。サッチャーによって労働者階級の職業や尊厳、アイデンティティーが破壊されたが、唯一残ったのがサッカーだった。労働者階級、そしてカジュアルズにとって、サッカーは欠かせない娯楽であった。当時のサッカーシーンを取り巻く環境を、UK版『GQ STYLE』でエディターを務めるディーン・キシック(Dean Kissick)に聞いた。「当時のサッカーは、労働者階級のものと考えられていた。階級が明確に分かれていたのも影響していただろう。それを示すように、デイビット・ベッカムやスティーヴン・ジェラード、ウェイン・ルーニーのように、ほぼすべての人気選手は労働者階級出身。もし違う階級出身だったら話題になるくらいだ。また、80年代のサッカー文化が労働者階級のスポーツだったためか、悲惨な事件も招いた。〈ヘイゼルの悲劇〉や〈ヒルズボロの悲劇〉のような大事件があり、たくさんの人が亡くなり、フーリガンが責任を問われるような暗い時代でもあった」
1989年に起こったヒルズボロの悲劇に触れておくと、FAカップの準決勝、リバプール対ノッティンガム・フォレスト戦で、警備に当たっていた警察官が、すでにスタンドが満員だったにもかかわらず、入場の規制を怠った結果、テラスにいたサポーターがすし詰めになって窒息、もしくはピッチになだれ込んだ。結果、96人のサポーターが死亡した。明らかに警察の過失だったが、当時、彼らはそれを、悪名高いフーリガンのせいだ、と主張し続けた。事件から20年以上が経ち、ようやく責任は警察にあると判明した。このようなサッカーを取り巻く環境がいっぺんしたのが、1992年。この年に始まったプレミアリーグは、すべての試合がテレビ放送されるようになり、その放映権で多額の収入を得た。そして現在では、サッカーは労働者階級だけ、その地元の人々だけのものではなくなった。マンチェスターやリバプール、ニューカッスルなど、北部の大都市のチームは労働者階級のファンベースがあり、町にも大きな影響を与えているが、階級や地域を飛び越え、あらゆるバックグラウンドの人々がスタジアムに集まり、さらには観光客も多く見かけるようになった。
そんな労働者階級のためのスポーツだったサッカーが、テニスに始まり、モッズを始めとする音楽と結びついたサブカルチャーに愛されたフレッドペリーと、どのように結びついていったのだろうか。もちろん豊富なカラーリングのポロシャツを展開していたため、地元のサッカーチームのアイコン・カラーのポロシャツが手に入った、という理由もあるが、決定的要因はカジュアルズだった。
ディーンは「カジュアルズが求めていたのは、より文化的で高級に見えるようなスタイルだった。だからこそ、伝統的なブランドのアイテムを気に入っていたのだろう。当時のフレッドペリーは、恐らくテニスと関連づけられていたはずで、より高齢向けで裕福な中流階級の服というイメージがあった。決してサッカーブランドではなかったが、カジュアルズはフレッドペリーを自分たちのものにした 」と話す。
ダリオシュは「フレッドペリーは、スリムフィットなフォルム、新しさの象徴として、モッズにとって不可欠なアイテムだった。Tシャツが下着と見なされていた50年代は、ポロシャツも同様に、今でいうクロップトップのような過激なスタイルで街を歩くようなものだった。しかし、フレッドペリーがそれを普及させ、イギリスの若者文化に浸透させた。その後、60年代後半になるとモッズはスキンヘッズになり、ジャマイカなど黒人の文化を取り入れた。同時にジャマイカ人は、クラークスの靴やカンゴールの帽子など、イギリスのブランドを好んで着ていたため、フレッドペリーも自然と受け入れられた。フレッドペリーは、労働者階級にルーツがあると同時に洗練されたスタイルで憧れの対象、という相反する要素がある。白人や黒人を問わずあらゆる人種、モッズやカジュアルズなど様々なユースカルチャーに受け入れられてきた。そんなフレッドペリーはサッカーファンのカジュアルズにとって非常に重要なブランドにもなった。その理由は、常に音楽やユースカルチャーと結びつき、他よりも少しだけ高価で良いもの、というイメージを保ってきたからだ」
カジュアルズは、サッカーとフレッドペリーを結びつけ、さらには、ストリートでスポーツウェアを着るスタイルを一般化させた。このムーブメントが、80年代後半に起きた、アシッドハウスとレイブカルチャーに繋がっていく。『ボーイズ・オウン(Boy’s Own)』のような、アシッドハウスとサッカーとファッションをテーマにしたファンジンも存在し、それを証明する。
デクランによると「90年代といえばアシッドハウス。個人的には、マンチェスターのハシエンダというクラブが印象に残っている。また、『ボーイズ・オウン』などのファンジンは、カジュアルズのカルチャーとアシッドハウスのムーブメント、テラス文化とナイトクラブのダンスフロアを結びつけた。テラスで試合を観ていた若者が、土曜にはナイトクラブでエクスタシーを飲み、アシッドハウスを聴いて踊っていた」
ダリオシュによると、「カジュアルズは70年代から80年代に根付いた文化で、80年代後半と90年代のスポーツウェアの流行のもととなった。ただ、カジュアルズとアシッドハウスは厳密にはイコールではない。確かに、『ボーイズ・オウン』のようなファンジンでは、テラスのスラングや、発展しつつあったカジュアルズのサブカルチャーなどに加えて、アシッドハウスも掲載していたが、これはどちらかというとアシッドハウスをフューチャーしたことで著名だ。それにアシッドハウスとレイブが生まれた80年代後半から90年代にかけて、カジュアルズのスタイルは衰退していた。88年に爆発的に広まったレイブが、カジュアルズの文化を衰退させたといっても良いだろう。またエクスタシーが終わらせたともいえる。しかし、レイブやアシッドハウス以前に、カジュアルズがスポーツウェアをストリートに落とし込み、それが90年代のこれらの文化に影響を与えたことは間違いない」そうだ。
90年代前半の英国のファッションは、レイブカルチャーに代表されるように、カラフルでオーバーサイズのスポーツウェアがトレンドとなっていた。また、ヒップホップ、スケートボード、スノースポーツの台頭などが合わさり、スポーツウェアが、より欠かせないアイテムとなっていく。しかし、これまで見てきたように、英国では、モッズがフレッドペリーを愛用し、カジュアルズがフレッドペリーをサッカー文化に根付かせ、さらにはジャージーやスニーカーなどのスポーツウェアをストリートに落とし込んだ経緯があってこそ、90年代のスポーツスタイルのさらなる飛躍に繋がっていったのである。
サッチャー政権下で虐げられた労働者階級。その中でサッカーとファッションが融合したサブカルチャーのムーブメント、カジュアルズが生まれた。カジュアルズは、旧来の労働者階級の生活を拒絶し、ヨーロッパへの憧れを元に、スポーツウェアを着ることで、旧態依然とした生活から脱却する、という意思を示し続けた。この意思表示の象徴が、スポーツウェアを街で着ることであり、そのファッションが一般化し、アシッドハウスやレイブカルチャーを中心とした、90年代のスポーツスタイルへの流行へと繋がっていった。
現在の英国では、カジュアルズが夢見た世界が現実になったかのように、階級の概念が希薄になりつつあるようだ。しかし、経済状況は悪化し、さらにそれが、移民問題と結びつき、その結果、英国はEUを脱退した。
英国の現状についてディーンは語る。「90年代後半か00年代前半にかけて、労働者階級や上流階級が以前よりもずっと縮小し、国全体が中流階級になった。当時の大統領だったトニー・ブレアが、『われわれはみな中流階級だ』と述べた通りだと思う。仕事や社会の性質も変化し、かつて、労働者階級は重工業や工場など、特定の仕事と紐づけられていたが、現在の英国では、そのような仕事がほとんど存在しない。そして今では、国で最も裕福で権力があったロンドンに住む上流階級よりも、おそらく、中流階級の労働力で成立する金融業界や不動産業界で働く人々の方が裕福だろう。つまり、上流階級も滅びつつある。ただ階級による問題が軽減されたいっぽうで、新たな問題も噴出している。それが移民の問題だ。かつて労働者階級がそうだったように、実際には問題は起きていないが、雇用の減少、不景気による給与の減額など、社会におけるあらゆる問題の責任を、かつての労働者階級にそうしたように、移民に押し付けてしまっているのを感じている」
現在の英国ファッションシーンについて、ダリオシュはこう分析する。「ここ5年の大きな流れとして、中産階級が労働者階級のような格好をするようになった。裕福な家庭の若者が、ストリートの若者のようなタフな格好を好むようになった。ただ、労働者階級がストリートウェアを着るのは、喧嘩に巻き込まれないよう、自分を強く見せるためだ。暴力沙汰に巻き込まれないよう、自分のイメージをつくりあげなければならなかった。富裕層は自分の身を守るために服を選ぶ必要がないにも関わらず、ストリートファッションを好むという奇妙な現象が起きている。今の大衆文化において、富裕層の若者は裕福に見られるのを嫌がる傾向にあるのだろう」
今季、フレットペリーとコラボレーションを発表したパレスの専属ライダー、ブロンディ・マッコイが手がけるテムズ・ロンドンも、カジュアルズを彷彿とさせるようなアイテムをリリースする。パレスはアンブロに始まり、リーボック、アディダスと次々とコラボレーションを実現させている。確かに、現代のストリートスタイルは、カジュアルズを根底にした90年代初頭のスポーツスタイルに回帰しているのだろう。フレッドペリーは、それを具現化するために、モノクロームテニスというカプセルコレクションで、当時のスタイルやロゴをベースに、再解釈し展開する。
カジュアルズが旧来の労働者階級を拒絶し、新たな時代への憧れを模索し、その精神性をファッションに求めたように、その良し悪しはさておき、ファッションは時代を映す鏡だ、と度々評される。英国のEU脱退、トランプ大統領のアメリカ・ファーストなど、グローバル化に反してナショナリズム的な思想が蔓延している時代において、フレッドペリーが打ち出す90年代のスポーツスタイルは、まるで、ベルリンの壁が崩壊しグローバル化が加速した90年代に、何か想いを馳せているかのようだ。
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