OKINAWA 2015 少年兵の見た戦場 古堅実吉さんの証言(完全版)

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OKINAWA 2015 少年兵の見た戦場 古堅実吉さんの証言(完全版)

「せっかく生きようと必死になっていたのに、お腹がいっぱいになったとたん、もう死んでもいいやって捨て鉢になってしまいました。『もうこれで満足だ』なんて言ってね。人間は満腹になったぐらいで理性的に考えられなくなるんだな。いま思いおこしても恐ろしいですよ」
28.8.15

古堅実吉さんは1929年7月5日生まれ、沖縄本島北端の国頭村安田(あだ)出身。1944年4月沖縄師範学校* 予科に入学し、翌1945年、15歳で鉄血勤皇隊** として防衛召集、沖縄戦に動員される。住民の4人に1人が死亡、住民の犠牲者が軍人の犠牲者を上まわったあの戦(いくさ)で、何を体験し何を思ったのか、那覇市内で古堅さんからお話を伺った。

師範学校に入られたのは、学校の先生になりたかったからですか?

当時は徹底した軍国主義教育を受けていましたので、家の事情が許せば、中学校に行って軍人の道を歩みたいなと思っていました。しかし、うちは母子家庭でしたから学費の面でそれが許されない状況でね。どうしようかと考えておったときに、師範学校は官費で出られるということで担任の先生が母を説得し、それで師範学校向けの受験勉強をすることになりました。まぁ、いちばん尊敬しているのは自分のおふくろと担任の先生でしたから、どうしても軍人でなければならんというほどのことではなかったです。

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勉強ができる子だったんですね。

当時の通信簿は甲・乙・丙・丁の4段階評価でしたが、自分では言いにくい面もあるんですけど、小学校1年から高等科2年まで全部甲でした(笑)。

師範学校に入学された1944年は太平洋戦争末期ですが、授業はふつうに行われていましたか?

1944年3月22日に沖縄守備軍(第32軍)が創設されて、沖縄にどんどん軍隊が投入されるようになった。それでも1学期は授業がみっちりありました。夏休みのあいだは親もとに帰されて、2学期が始まると授業があるのは1週間だけ。2週目からはまったくなし。連日陣地づくりに動員されました。沖縄全体を陣地化して、戦争ができる状況を構えるわけです。2学期からは生徒でありながら陣地づくりの要員みたいなものでした。
沖縄師範学校は首里城の麓、いまの沖縄県立芸術大学の場所にありました。陣地づくりにはいろんなところに行きました。最初は、いまの那覇空港の場所にあった、海軍飛行場に行きました。あとは、泊港の近くの天久の高射砲陣地、首里城の南の職名の陣地なんかをつくりました。1944年の12月ごろからずいぶん長いあいだ、首里城の真下をくぐるように沖縄守備軍の司令部壕を掘りました。
それまで沖縄には、まとまった軍隊がいなかったんです。事務担当の軍関係の人たちが若干おったぐらいのもんでね。守備軍の配置が決定され、陣地がつくられていくなかで、軍人が多くなっていきました。見たこともないような装備を目の当たりにして、凄いな、沖縄はもう安心だなと思いました。まだ、子供ですからね。その程度のことしか考えてなかったです。

10・10空襲* のときは何をされていましたか?

師範学校は全寮制ですから、1年生から上級生まで寮で規則正しい生活をしていました。10・10空襲の日は、朝食を終えて食器を洗いに食堂の外に出たところ、みんなが不審そうな顔で空を見あげて立っているんです。虫の羽音みたいなのが微かに聞こえるけど何も見えません。なんだろうと騒ぎかけたころに艦載機が見えてきて、10分ぐらいたったころに空襲が始まりました。首里は小高いので那覇(旧那覇市街)が焼けているのが見えて、大変な騒ぎでした。首里はさほど被害を受けませんでしたが。

師範学校の鉄血勤皇隊が結成されたときの状況をお聞かせください。

陣地づくりのかなりあとです。年が明けて1945年3月23日からいわゆる沖縄戦が始まりました。最初は空襲、翌日から艦砲射撃、26日に那覇沖の慶良間諸島に米軍が上陸して制圧しました。そして3月31日、友人から「那覇沖は軍艦がいっぱいだよ」と聞いてね、怖さ半分、見たさ半分で首里城に登って、木のあいだから海を覗きました。そこからは島尻の果てと沖縄本島の中部、残波岬あたりまで見渡せるんです。愕然としました。軍艦がたくさんおるとか、そんなもんじゃないんですよ。海が軍艦で埋まってね、水面が見えない。水平線が見えない。あぁ、これで袋の鼠にされたなと思いましたね。悲壮な思いにかられているその日の夕暮れどき、軍から将校が来て、師範学校の教職員、生徒がみんな集められました。うちらは首里城の北側の石垣に自分たちの壕を掘って、吉田松陰の留魂録に因んで「留魂壕」と名付けておったんですが、その留魂壕のまえで鉄血勤皇隊が結成されました。師範学校は全校あげて召集されました。

鉄血勤皇隊の編成は?

校長を頂点とする本部隊、いわゆる指揮班。どこへでも出かけていって必要な作業をする野戦築城隊。これがいちばん大きかった。そして、情報宣伝隊。これは千早隊とも呼ばれておったんですが、軍司令部が出す情報を近辺の民家などに伝えてまわる、そんな任務をもたされておりました。国民を奮い立たせるような嘘の情報ばかりでしたが。もうひとつは斬込隊。任務は名前の通りです。以上の4つに編成され、軍司令部の直属にされました。
僕は本部付きの自活班という、1年生を中心とした班に入れられました。任務は師範隊(師範鉄血勤皇隊)の食糧確保。師範学校には自分たちの農園がありましたから、そこから野菜を採ってきたり、民間地域をまわって確保してきたり。ところが本来の任務に就いたのは最初の4~5日だけでした。艦砲が激しいんです。農園まで距離がありましたから危険きわまりないということと、必要もあったんでしょう、軍司令部の発電施設に配置換えになりました。近くの井戸から冷却水を運んで発電施設に供給するのが任務です。
首里城の南側に軍司令部の入り口のひとつがあって、その近くに発電施設がありました。留魂壕があったのは首里城の北側です。留魂壕から発電施設までは700メートルぐらい。発電施設と井戸はおそらく70メートルぐらい離れていたでしょうか。二人一組で壕を飛び出すと突っ走って、大きな桶に水をいっぱい入れて棒を渡して担いでね。朝晩12時間交代で繰り返し、終わったら、あぁ、今日も生き残ったなと。毎日がそんな感じでした。
24時間、ひどい砲爆撃にさらされていました。そういう状況のなか、5月4日の真夜中、西銘武信君という同期生と桶を担いで行ったり来たりして、ようやく冷却水をためるドラム缶がいっぱいになったので休憩しようと、僕は発電機がある窪地に降りたんです。西銘君はドラム缶のそばに立っておったんだな。沖縄の5月は暑いですから、汗を拭いたりしとったんでしょう。そこに至近弾が落ちた。大変な稲光と音に続いて何かが倒れる音がして、僕は彼が立っておったところを覗いたんです。即死でした。首の根っこから肩までえぐられて、ひと言もなく……。彼をぶち抜いた破片がドラム缶を貫通して、ドラム缶には血のついた肉片がへばりついていました。同じ至近弾の破片が僕のそばにおった仲松君という友人の足の指を切り飛ばして、仲松君は歩けなくなりました……。僕はいまでも小さいでしょう。西銘君はずっと背が高かったです。水を入れた桶に棒を渡して坂を登るのに、僕が前で彼を後ろにしたら水平になる。そうやってふたりで水を運んだものでしたが。

親しい方が亡くなったのは西銘さんが最初ですか?

そのまえ、4月21日の晩、久場良雄さんという3期先輩の方が亡くなりました。久場さんとは師範学校で同じ寮でした。机を並べて、兄弟のように毎日いろいろと親切に指導をしていただいていました。そのときは用を足しにか留魂壕の外に出ておったんだね。艦砲の破片でやられて、片足が太腿でほとんど切れて、顔なども血だらけになっていた。同期生たちが軍医のところへ運んで応急手当をやってもらったんだが、ひと晩中大きな声で叫んでいました。唸りをあげ、お母さんと叫んだり。とうとう夜明けまえに力尽きて亡くなりましたがね。そのような形でみんな殺られていくのかなという恐怖の念に襲われるとともに、先輩を失った思いというのは本当にやりきれない大きなショック……それが師範隊の最初の犠牲者でした……………沖縄戦で亡くなった人々の思い出……亡くなって、きちっとした最期の見届けがあるような関係ならば、悲しいという気持ちがこみあげてくるんですが、もうひとつ違った形で、一生涯ついてまわるような思い出があるんです。
軍司令部は敗退して5月27日に首里から沖縄本島南端の摩文仁に移っていきます。師範隊は軍司令部直属ですから27日の晩に首里を出発しました。歩けない者は残していくように上から指示がありましたから、足をやられて動けなくなった仲松君を置いていくのかと忍びない思いで準備をしているときに、連れていってくれと本人に懇願されて、皆で担いでいくことになったんです。上に黙っての行動ですから担架を借りられず、両肩をふたり、両脚をふたり、4人で担いで摩文仁に向かいました。
翌日、農道を歩いているとモンペを履いたお母さんが倒れていました。モンペはパンパンに腫れていました。そして、お母さんのうえを赤ちゃんがせわしなく這いまわっていました。乳飲み子というのは2~3時間おっぱいをあげないと泣きだすでしょ。お母さんが腐敗して膨れるぐらい時間がたっているんだから、お腹が空いてたまらなくて這いまわっているんだ。我々は立ち止まったまま、誰ひとり言葉ひとつない。出る言葉がないんですよ。みんな思いはひとつだったと思うんです。あぁ、この赤ちゃん、なんとかならんもんかな──。しかし、自分たちの気持ちだけで勝手なことができる状況じゃなかった。我々は、そのままひと言もなしに立ち去りました。戦が終わって70年になるでしょ。毎年3月になると、あの地獄のような月日が今年もまわってきたなと感じ、真っ先にあの赤ちゃんのことを思いおこすんです。あの赤ちゃんも艦砲にやられたのかな。力尽きてそこで死んでしまったのかな。誰かがそこを通って拾いあげてくれて戦後を生きのびる……そうならなかったかな……。70年、間繰り返し考えてみてもね、ちっとも結論が出ないんです。
摩文仁に着いたものの食糧が何もなかった。海岸の岩陰に隠れていて、夕方になると飛び出して、近くの畑からサトウキビを引っこ抜いてきて汁を吸って、そうやって3週間近く生きのびました。夕方6時ごろだったか、毎日決まった時間帯、艦砲がほとんど来なくて静かになるんです。うちらは「海の夕飯時だよ」と冗談を言ったりしよったんだけど、きっとアメリカの艦隊の夕食の時間だったんでしょう。
6月17日の夕方も岩陰を飛び出してサトウキビを刈って、担いで戻る途中、4年生ぐらいの女の子と、背丈がその子のお腹ぐらいしかない男の子に会いました。姉と弟だったんでしょう。ふたりは頭を抱えて泣いていました。弾がどんどん飛んでくるところで突っ立って泣いているわけさ。僕が驚いて「どうしたんか?」と聞くと女の子が何も言わずに右後ろを指差しました。そこにお母さんらしき人が倒れている。おそらく、死んだ直後だったんだね。子供ですから、お母さんが殺られて、どうしていいのかわからなくて立っておったんでしょう。その子たちを近くの大きな岩の根っこに連れていきました。そこが安全だと思いましたから「動くなよ」と言い聞かせて、サトウキビを何本か分け与えて、僕はいつも自分が隠れている海岸の岩陰に戻りました。僕がサトウキビを担いで帰るのを待っている人たちもおるわけだから。次の日、キビ採りに行くときにその子たちのところに寄るつもりだった。ところが翌18日は早朝から散々攻撃されて、一歩も外に出られなかった。そして19日、早朝に師範隊本部へ送った伝令が朝に帰ってきて、18日に師範隊に解散命令が出たことを聞かされ、敵中突破して北部に残っている友軍と合流せよという指示を受けました。3~4人ずつに分かれて、19日の晩の9時ごろから東海岸づたいに北方を目指す段取りになったんです。それでとうとう子供たちのことを見届けることができなくなってしまった。米兵などがふたりを見つけてくれて、生き残る道につながらなかったかな。ふたりとも艦砲に殺られてしまったのかな……。お母さんの死体のうえを這っていた赤ちゃんへの思いと同じような思いが、いつまでも繰り返して、自分を責めるんですよ。なぜ助けなかったかと。助けることができる状況にまったくないのに……。なぜ手を差しのべることをしなかったか。できなかったか。いまでも自分の気持ちに辻褄を合わすことができないんです。そういう深刻な思いが、ずっと繰り返して、いまでもありますね。

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6月19日の晩、出発の段取りをしているときに、師範学校の野田貞雄校長先生と井口さんという配属将校* 、古波蔵さんという最上級生の3人が、うちらがいる岩陰にひょっこり入ってきました。北部へ移動するまえに寄ってくださったんです。うちらの班長は秦四津生さんという先生でしたが、校長先生は班長としばらく話したあと、あらためてうちら生徒に向きなおって、左手に亡くなった人たちの名簿を持ちながら、すでに百十数人の命を失ったことを苦しそうに話されました。そして「軍名に従うべくもなかった。こうなると思えば、せめて君たちだけでも親もとに帰しておくんだった」とおっしゃった。当時、軍命というのは天皇陛下の命令と同じです。天皇陛下は神様でした。神様に嫌味を言うとか、立ち向かうというのは絶対に許されない。校長先生は最後の土壇場で後悔の念を心の底から絞り出すようにおっしゃったんです。配属将校も黙って聞いていました。さらに「たくさんの若者が命を落とした。これからの沖縄は君たちが背負って立つんだ」「死ぬなよ。絶対死んじゃいかん」と強調されました。まだ子供ですから意味がよくわかりませんでしたが、生きることを許された思いがありました。本当の気持ちは死にたくないわけです。なんとか生きのびたいんだ。校長先生の言葉のおかげで、生きたいっていうことは、けっしてめめしいことではないと思うことができました。それが、強行突破する強い気持ちにつながったと思うんですよ。
校長先生たちは、ひと足先に岩陰を出ていかれました。途中、他の生徒たちも一緒になって海岸線を歩いているところに艦砲が飛んできて、亡くなったそうです。配属将校の井口さんが生き残って、校長先生の最期を報告されています。弾が落ちたあと、先生たちの姿がなくなっておったと。直撃を受けたんですね。それが6月21日。
いま摩文仁には沖縄師範健児の塔という慰霊塔がありますが、教職員と生徒合わせて309人の犠牲者の名前が刻まれています。6月19日の晩に校長先生は百十何人とおっしゃいましたが、その3倍近い人が亡くなりました。

その後、古堅さんたちはどうなりましたか?

班長の先生と僕、それから同期生と上級生がひとりずつの4人で岩陰を出ました。20日の深夜1時過ぎだったと思います。昼間は敵に発見されるから夜中の少しの時間帯しか動けない。21日の夜中近くに、島尻にある具志頭の手前に着きました。南部の海岸は絶壁が多く険しいので、腰まで海に浸かったり泳いだりしながら移動してきましたが、具志頭まで来たら長い浜が見えて、やっと砂のうえを歩けるんだなぁと思いました。ところが、なぜか戻ってくる人たちがかなりいるんです。様子がおかしいので聞いたら、浜の薮のなかに米軍の狙撃兵が隠れていて、みんな途中で殺られておるって言うわけさ。わざわざ殺されに行くようなもんだと。この道しかないと思い込んで東海岸づたいに歩いてきたのに遮られてしまった。70年たちましたが、あのとき味わったような絶望感は人生に二度とないですね。もうひとり上級生が加わり5人になって、岩のあるところまで引き返し、隠れて様子をみることにしました。もう誰も何も言葉が出ませんでした。米軍が近くまでボートで来て、「出てこい!」「出てこい!」と言っている。「明日、この海岸を爆破します」と脅しもかけてくる。僕は、夜明けまえに突破するしかないと班長の先生にせがみました。ところが、先生はがっくりきちゃって返事ひとつできない。みんな横になったっきり知恵を出しあう元気もない。僕は沖縄本島の北のはずれの出身です。小高いところに登ったら、天気のいい日は鹿児島県の与論島が見えました。「僕の家のところまで行ったら、クリ舟で与論島に渡って、鹿児島だって逃げられるよ」と励ましましたがダメで、僕は疲れ果てて寝てしまいました。それが21日の晩。
22日の夕方、うちらは海面すれすれをうろうろしていました。崖の上には米兵の銃の先が見えていました。なんとか突破しようと海岸線を歩いていたら、思わぬものにぶつかったんですよ。波打ち際近くに、真新しいパンや缶詰、チョコレートなんかのお菓子がいっぱい散らかっている。3~4日何も食べてなくてお腹がぺこぺこでしたが、僕はとっさに毒入りだと思いました。殺す餌だ。食べちゃいかんと思ったわけさ。ところが、上級生のひとりがパンを食べだした。やがて見ていた僕らも食べはじめ、それからはもうたらふく食べましたね。そこには書類を入れた手提げ金庫がいくつも散らかっていました。日本紙幣が風に吹かれてふらふわ舞っている。日本刀や銃剣が打ち捨てられている。死に場所に臨むにあたって、すべてを手放したんでしょう。そんななかで食べに食べて、残ったパンなんかをポケットに詰められるだけ詰めて歩きだしました。せっかく生きようと必死になっていたのに、お腹がいっぱいになったとたん、もう死んでもいいやって捨て鉢になってしまいました。「もうこれで満足だ」なんて言ってね。人間は満腹になったぐらいで理性的に考えられなくなるんだな。いま思いおこしても恐ろしいですよ。
上級生ふたりが先頭、次が班長の先生、その後ろが僕の同級生、最後が僕の順番でしばらく歩きました。岸壁の角まで来たとたん、前が止まって動かなくなった。どうしたんだろうと思って見たら、角を曲がったところで、数人の米兵に銃を突きつけられているんです。それで捕虜にされました。そこは海岸から崖の上への抜け穴があるところで、捕まった住民や軍人がたくさん集められていました。もし、日が暮れて真っ暗になっていたら、出会い頭に撃ち殺されていたでしょう。そういう偶然のなかで、艦砲ぬ喰ぇー残さー* になったわけです。この言葉はあなたが沖縄にいるあいだ、あちこちで聞かれると思いますよ(笑)。

捕虜になったとき、助かったと思いましたか?

いいえ。なにしろ、我々のころの小学校1年生の国語読本は「サイタ サイタ サクラガサイタ ススメ ススメ ヘイタイススメ」ですから。軍国主義を徹底して教え込まれて育った世代です。戦に負けて捕虜になるなんてことは絶対に許さん。捕虜になったら鼻をちょん切られ、耳を落とされて殺される。女性は強姦されて殺される。殺されない者は奴隷にされる──。そんな類いの怖い話の頂点の言葉を集めて叩き込まれたものです。ですから、米軍の捕虜にされて生き残るなどという期待は、捕まった瞬間にはまったくなかった。思いは、いつどこで殺されるか、それだけです。陸にあがると戦車が2台おりました。見たこともないような長い戦車砲が動いているのを見て、この戦車砲で殺るんだなと思いました。トラックに乗せられると、このトラックで運んで一箇所に集めて、戦車砲をぶっ放して殺すんだなと思いました。
トラックでしばらく行って暗くなったころ、具志頭の野っ原の仮収容所に着きました。仮収容所に入れられて数時間たったらまた移動しますが、トラックに乗せられるときに民間人か軍人か仕分けをされました。うちらは布の戦闘帽、半袖半ズボンの夏用の軍服を着ておったので、まだ、ひげも生えないような子供でしたが軍人の姿です。有無を言わさず捕まった軍人たちのトラックに乗せられました。次に連れていかれたところが現在の嘉手納飛行場、当時は屋良飛行場と呼んでいました。翌日そこを出て、今度は金武の屋嘉捕虜収容所に入れられました。

屋嘉捕虜収容所には10日ほどいましたが、5~6日たったころ、どこか外国に移されるらしいという噂が広まって、皆ずいぶん動揺したもんです。連れていかれて奴隷にされるか殺されるか。僕は金網の下の砂地を掘って逃げようと真剣に考えていました。ところが、金網を越えようとした人が3~4人殺されたんです。金網は二重に張り巡らされていて、ひとつ越えても次を越えるまえに見つかってしまった。僕は脱走なんてできっこないと諦めました。

7月3日、古堅さんたちは嘉手納沖で輸送船に乗せられ、甲板で海水のシャワーを浴びたあと、裸のまま、セメントの臭いが充満した船倉に降ろされた。目的地に着くまで床もベッドも窓さえもない船倉で暮らすことを告げられるが、行き先はわからない。そうして古堅さんは丸裸で閉じ込められたまま、16歳の誕生日を迎える。
「セメントの粉なんて海水で流せるのに、それさえしない。裸にしたままパンツ一枚与えない。家畜同然の扱いです」と古堅さんは船内での生活を振り返る。食事は朝晩2回、大きなバケツに入れたご飯とおかずが別々に船倉に降ろされる。古堅さんがいた区画には30人ほどが入れられており、最年少だった古堅さんともうひとりが食事を配分する係にされた。「食器も与えられなかったので、先にご飯を手によそって、その上からおかずを乗せました。おかずから配ったら汁が垂れるでしょ。まぁ、白いご飯は美味しかったよ。お腹空かせて痩せこけていましたから」
船倉には水を入れたバケツとバケツで代用した便器、そのふたつしかない。3日に1回、甲板に上がって海水のシャワーを浴びるのを許されていたが、そのとき以外は蒸し暑い船倉で過ごすほかなかった。船倉にたまっていたセメントの粉が出航から2~3日たったころには、人間の汗ですっかり洗い流されてしまった。過酷な扱いに失望したのか、甲板から海に飛び込んで、ひとりが自殺したという。
7月20日、船は目的地に着いた。そこは真珠湾だった。古堅さんたちはハワイの収容所で8月15日を迎える。

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収容所の近くに、収容所を管理する米兵の宿舎がありました。15日の昼、米兵が宿舎で大声を出したり、物を叩いたり、壁を蹴ったり、どんちゃん騒ぎを始めたんです。我々はみんな驚いて金網の近くまで行って覗いておった。なんで騒いでいるのか知らないけど、喜びを表現した騒ぎだということだけは見てわかりました。1時間ぐらいして2世の通訳が来て、日本が降伏したことを聞かされました。あぁ、これで戦は終わったんだと思いましたね。生きられるんだと初めて思いました。安堵というか、心を許すような気持ちになりました。

無条件降伏を知らされたときの日本人捕虜の反応はどうでしたか?

あまり話す人もなく、静かにしていました。みんな同じ気持ちだったんじゃないかと思います。沖縄戦でさ、日本は鉄砲の数も手榴弾の数も十分にないような、そういう軍隊だったでしょ。米軍が持っている火力の比較になるようなものじゃない。散々叩かれて、県土が燃え尽きるまでやられている。日本が勝つなんて針の先ほども思っていなかったわけですから、降伏したという事実に対してね、残念だとかそういう気持ちはまったくなかった。涙を流したり、悔しがってどうこうしたり、そんなことはまったくなかったな。

古堅さんたちは翌1946年10月末に貨客船でハワイをあとにし、浦賀から米軍のLST(戦車揚陸艦)に乗り換え、11月9日、沖縄は中城の浜に降り立った。

僕は沖縄戦が終わってしばらくのあいだ、「幸いにも助かった」と言ったりしていました。ところがあるとき、そんなことを言ったら、亡くなった人々は運が悪くて命を落としたということになってしまうと気づいたんです。遺族の皆さんに「あなたの息子さんは運が悪くて亡くなりました」と、こんなことが言えますか。個人の運の良さとか悪さとかに結びつけるような筋合いのものではないんだな。こんな戦を引き起こして、人の命を奪うようなことをしでかした者の責任を追及していかないと、亡くなった人々が浮かばれないですよ。

もし戦争がなかったら、どんな人生を送っていたと思いますか?

軍人になりたいという思いがなくはなかったんだが、師範学校を出て教員になれるんだったら本望だという思いもありました。僻地から出ていって、新しい環境のもとで皆と一緒に勉強できることに大きな喜びと希望を抱いていましたから。ですが、戦がなければという仮定で話すというのは、なかなか難しい問題ではあるんだな。戦がなければ、神国日本、天皇陛下万歳の世の中がそのまま続いていたということになるからね。沖縄戦がなくって、日本があの15年侵略戦争を反省して、世界に誇れる平和憲法を作って、そういう形で現れてくる戦後の世の中で、どんな人生を歩むかという問いに答えるとすれば、将来を背負って立つ子供たちの養育のために頑張る教員になっておったんじゃないか、そういうふうに思います。

若い世代に言っておきたいことはありますか?

世の中がただならぬ状況に置かれている、そういうときにあるだけに、黙っておってはいかんよ。立ちあがらないということは、我慢するということでしかない。我慢したらどうなっていくかが問われているときに、我慢のならないことを我慢しちゃいかん。憲法をないがしろにし、米軍を頼りに戦争で物事の決着をつけるような、いま安倍政権がやろうとしていることに対し、我慢してそれを許してしまっていいのか。国民規模で立ちあがって、勇気をもって悪いものを払いのける。こういう役割を果たせる若者になってほしい。日本国憲法の真髄をしっかり受けとめて、間違いのない人生を歩みつづけてほしい。そんな若い人たちの歩みこそが、間違いのない日本をつくる道になると思います。

脚注①師範学校:国民学校(初等科6年、高等科2年)の教員を養成する官立の教育機関で全国に設けられていた。1944年当時、師範学校には予科(2年)と本科(3年)が置かれ、予科は国民学校高等科卒業者、本科は中学校もしくは高等女学校卒業者、師範学校予科修了者が対象。師範学校は、官費で授業料をまかなわれ、全寮制で生活も保障されたため、成績優秀でも経済的に恵まれない家庭の子供を多く救済した

脚注②鉄血勤皇隊:沖縄戦で防衛召集により戦闘に動員された日本軍史上初の14~17歳の学徒隊。沖縄県下12校の生徒によって編成され、多くの死傷者を出した

脚注③10・10空襲:1944年10月10日に南西諸島の広い範囲で米海軍機動部隊が行った大規模な空襲。日本軍艦船などに大損害を与えるとともに焼夷弾による無差別攻撃で那覇市街の9割が焼失

脚注④配属将校:軍事教練を行うため、学校に配属された陸軍現役将校

脚注⑤艦砲ぬ喰ぇー残さー:艦砲射撃の食い残しの意。物量に勝る米軍による地形が変わるほどの激しい艦砲射撃に見舞われながらも沖縄戦を生き残った人のこという。おもに自らを、悲しみや亡くなった人々への後ろめたさなど、さまざまな感情を込めてそう呼ぶ。同名の島唄があり70年代にヒットしている。作詞・作曲者の比嘉恒敏は1973年、米兵の飲酒運転による交通事故に巻き込まれ死亡