壁崩壊が生んだベルリン・テクノシーン

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壁崩壊が生んだベルリン・テクノシーン

ベルリンの壁崩壊から25周年を記念し英語版出版が決まった『Der Klang der Famillie (The Sound of the Family)』の著者フェリックス・デンク氏へのインタビューを通して、壁崩壊とその後の不法占拠カルチャーが産み出した90年代ベルリンの独特なテクノシーンに迫る。

1989年11月9日に東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊してから25年。ベルリンでは、壁があった場所に15kmにわたり8000個近くの光る風船を並べ、夜に空に放つイベント<Lichtgrenze>(光の境界)が行われ、街をあげてこの日を祝った。

ベルリンと言えば、テクノカルチャーを思い浮かべる人も多いだろう。実際、街に数多く存在するクラブには、著名なDJやミュージシャンらが集結し、週末になると世界中の若者たちが踊りに来る、そんな街だ。現在も発展を続けるベルリン・テクノシーンはそもそも、壁が崩壊してから数年間、廃墟と化した街の中で若者たちが育んだカルチャーだった。

出現した「空き地」

1989年11月にベルリンの壁が崩壊したとき、東ベルリン側にあった建物や土地の多くは放棄されることになった。旧ドイツ航空省の向かいに位置するかつて変電所だった場所、廃墟となった旅行代理店や石鹸工場など、若者たちにとっては、遊びたいだけ遊べる空き地が、突如出現したようなものだった。もちろん、法律上は違法だが、そういった突拍子もない場所に新しいクラブが次々とオープン。壁が崩壊してから初めの3年間は、政府や警察のコントロールが行き届かなかったため、実質上やりたい放題だったのだという。

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まだ小さなシーンではあったが、当時の西ベルリンにはすでに、アメリカからデトロイトテクノが流れ込んで来ていた。まさに新時代の幕開けに相応しい、インダストリアルでエネルギッシュなテクノサウンドに魅了された東西の若者たちは、廃墟の中で結集し、新たなパーティーシーンを作り上げていった。Tresorのクラブ創始者ディミトリ・ヘーゲマン(Dimitri Hegemann)氏により「東西ベルリン融合の賛歌」と称され、Tresorレーベルの最初のレコードとしてもリリースされたX-101の『Sonic Destroyer』(1991年)や、1993年にベルリンで生まれたユニットおよびレーベルBasic Channelの『Phylyps Trak II/II』(1994年)などが、当時の代表曲として挙げられるだろう。

1990年10月3日の再統一に先駆けて、既にテクノが東西ドイツを統合していたのだ。

今年11月壁崩壊25周年を記念して、ベルリン・テクノの誕生から10年間に活動したシーンのパイオニア約150人へのインタビューをまとめた書籍『Der Klang der Famillie』(英語タイトル『The Sound of the Family』2012年)の英語版が刊行された。著者はジャーナリストのフェリックス・デンク(Felix Denk)氏と、DJ兼ジャーナリストのスヴェン・フォン・テュレン(Sven von Thülen)氏だ。DJ、クラブオーナー、音楽プロデューサー、バウンサーなど、関係者の目線で書かれた言葉から、当時のシーンの雰囲気が伝わってくる。そこではテクノへの情熱が、性別やセクシュアリティ、人種、政治観といった区分けをなくし、人々を結合させるムードがあったというのが、何より印象的だった。

当時のシーン関係者へのインタビュー

デンク氏に、ダンスミュージック史におけるこの時代の意義について話を聞いた。

ベルリンの壁崩壊25周年に合わせて、本書の英語版が出版されましたね。壁崩壊は、ベルリン・テクノにとってどのような意味があったと思いますか?

壁の崩壊前にも、ベルリンにアヴァンギャルドなシーンはありましたが、ロックが主流で。壁が崩壊すると、若者たちは、廃墟となった発電所、倉庫、地下鉄の駅といった場所でダンスミュージックをかけて、パーティーを行うようになりました。以前であれば、不法侵入によって撃たれる恐れもあった場所でダンスするというのは、開放的だったのでしょうね。東ベルリンから入ってきた若者たちは、結構ハードな音楽を求める傾向が強くあったようにも思います。ヴォーカルやピアノの音などは、もはや必要とされなかったのです。

では、テクノは実際のドイツ再統一前にベルリンを統一したと?

ひとつ確かなのは、Tresor(脚注①)が多くの人々を結束させたことです。壁がなくなってからも、東西ドイツの間で対立があるのは明らかでした。そういった状況の中でTresorは、東西の人が共同で運営していました。人々は新しいムーヴメントや可能性を感じて、音楽とパーティーに魅了されていたので、さほど大きな問題ではありませんでした。もちろん全てが円滑にいっていたわけではありませんが、社会一般に比べれば、ずっと上手くいっていたでしょう。テクノは東西ドイツによる共同事業であり、双方にとって全く対等なプロジェクトだったのです。

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インタビュー回答者の一人が興味深いコメントをしていますね「DJというよりもむしろ、パーティーの場所こそがスターだった」と。このコメントについて、どう思われますか?

例えばTresorのような場所は、かつてUnderground Resistance(脚注②)がデトロイトで結成された時のように、少なくともベルリンの人にとっては、アンチメインストリームな場所であるべきだと考えていたようです。実際、硬質なサウンドはコンクリート打ちっぱなしの地下貯蔵庫に見事にハマって、独特な音響と雰囲気を産み出しました。URがTresorで初のギグを行った後、91~92年にリリースされたレコードを聴けば、彼らのサウンドがよりハードになっているのが分かるでしょう。真偽の程は分かりませんが、ベルリンの人々は、Tresorでの経験がURのサウンドに影響を与えたと感じたようです。

シーンを広めるのにゲイ・コミュニティが一役買ったと書かれていますが、これはシカゴのハウスシーンと同様の動きですね。

特にTresorの前身であるクラブUFO(脚注③)の発展において、ゲイ・コミュニティの動きは重要でした。ゲイの人々は、人同士の繋がりを大切にしますし、ディスコやナイトクラブは彼らが集うのに格好の場所だったのでしょう。今では考えられないような変わった人々が、当時はクラブで交流し合っていました。たとえば、ゲイのフーリガンがたくさんいたのもこの時代です。

インタビューに回答している多くの女性は、黎明期のテクノクラブは他のシーンと違って性差別もなく、解放の場だったと述べていますね。なぜでしょうか?

テクノシーンが生まれる前は、週末に踊りに行くような場所はあまりなかったので、ダンス自体を楽しむというカルチャーが育ったのだと思います。初期のレイヴシーンでは、みんなカラフルなファッションに身を包んで子供っぽい感じでしたが、テクノが盛んになってからは、ナンパ目的で踊りに行く雰囲気も廃れて。みんな次第にエクスタシーに夢中になっていきました。もちろん、セックスは盛んに行われていましたが。

本書においてRobert Hood(脚注④)が、「ベルリンは、テクノを『幻想的なエレクトロニックサウンド』から、より『現実と繋がったサウンド』へと変化させたと述べていますね。テクノシーンと政治の関係性についてはどう思いますか?

単純に答えるのは難しいですね。たしかにテクノは開放的だったけれども、政治的だったとは必ずしも言えないと思います。実際多くの人は、政治的だったと思っていないようですし。80年代には、左派の政治思想がどんどん思弁的になっていた頃です。頭で考えるよりも、心で感じることの良さを伝えることは出来たかもしれませんね。

当時の人々は、建物の権利所有や営利目的でクラブを運営することはありませんでした。あえて政治的な声明を打ち出すこともなかったです。政治的な主張をすることよりも、抑圧から人々を開放することの方ががむしろ重要だったと考えていたのでしょう。

UKのレイヴシーンと同様に、明確な政治的声明はなくとも、ムーヴメント自体が政治的な意味合いを持つ、というのはあると思います。例えば、建物を所有しないというのは、かなり急進的な姿勢だと思いますが。

そうですね、昨今のベルリンでの家賃の急騰ぶりを考えればその通りです。ただ、誰が言ったのか覚えていませんが、当時は建物を購入するというアイデアすら、思い浮かばなかったそうです。不動産屋や企業家のような発想はなく、ただその建物を使ってパーティーがしたかっただけというか。そういった点では「急進的」かもしれませんね。

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今日のベルリンから、当時のテクノシーンのような新しいシーンが生まれ得るでしょうか?

ベルリンは劇的に変化しました。今のベルリンは、当時とはまったくの別世界です。中心街にはブランド店が建ち並び、最も高級なエリアの一つになりました。また当時は、クラブがオープンしたかと思ったらすぐに潰れてしまうような一過性のものでしたが、既に10年目を迎えたBerghain(脚注⑤)を例にとっても、長いスパンで運営していくのがスタンダードになってきました。シーンを生んだ人の中には、現在のクラブシーンからは歓迎されない人もいますし、当時のようなテクノシーンの再来を望んでいる人は、少ないのかもしれません。ただ、1992年で留まっていないというのはよいことです。誰しも先に進まなければならないのですから。

この先のベルリン・ダンスミュージックシーン

現在のベルリンでは、クラブシーンの商業化が進んでいる。当時のように、若者たちによる自発的なムーヴメントは二度と起こりえないかもしれない。だがアンダーグラウンドにあったテクノスピリットが今もしっかりと受け継がれているのは確かだろう。BerghainやTresorなど、ベルリンを代表するクラブのオーナーのほとんどは、当時のシーンを経験している。またベルリンの有名クラブでレジデントを務めるDJの多くは80年代、90年代前半からキャリアを積み重ねてきたベテランばかり。25年の間には社会情勢や政治など様々な要素が変化し世代交代もあったが、彼らが築いた礎が今日の独特なカルチャーを形作っていることは確かだ。

Berghainでは、11月8日から10日にかけて壁崩壊25周年を記念するパーティーが行われた。『Der Klang der Familie』の著者でありDJのスヴェン・フォン・テュレンや、テクノ黎明期からベルリンを見続けてきたレジデントのボリス(Boris)やタマ・スモ(Tama Sumo)といった、この日を飾るに相応しいDJ陣がプレイし、生粋のベルリナーも移民も観光客も含め、年齢、性別、国籍問わず、そこに集った全員がテクノとダンスミュージックを通して一つになっていた。アンダーグラウンドスピリットの名残なのか、ベルリンのクラブで撮影は厳しく取り締まられている。エントランスのボディチェックでカメラを没収されたり、iPhoneやスマホでさえ必ずシャッター部分に保護シールを貼られるという徹底ぶり。写真で中の様子をお見せしたかったが、ここは彼らに従おう。

テクノシーン黎明期のアンダーグラウンドシーンを知る人の中には、商業化された今のベルリンに、以前のような独特な魅力はないと言う人もいる。だが、音楽性も客層もより多様化したダンスフロアでは、未だ見ぬ新たなムーヴメントが起こる可能性は多分にある。抑圧からの解放された今を生きる人々の間から、何が現れて来るだろう。今後もその現場を見つめ続けたい。

Translated & Edited by Rieko Matsui