『海は燃えている』② ジャンフランコ・ロージ監督の映画観

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『海は燃えている』② ジャンフランコ・ロージ監督の映画観

『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島』で、国際社会が抱える移民・難民問題を改めてわれわれに提示したジャンフランコ・ロージ監督。彼が撮らえ、表現する、アフリカからの移民、難民たちの欧州移住の窓口になったランペドゥーサ島の現実は、日々、新天地を求めて移民、難民が世界中から訪れる、ここ日本の現実と何ら変わらない。

海は燃えている~イタリア最南端の小さな島』(Fuocoammare, 2016)で、国際社会が抱える移民・難民問題を改めてわれわれに提示したジャンフランコ・ロージ監督。彼が撮らえ、表現する、アフリカからの移民、難民たちの欧州移住の窓口になったランペドゥーサ島の現実は、日々、新天地を求めて移民、難民が世界中から訪れる、ここ日本の現実と何ら変わらない。そんな当たり前の現実を、イタリアから遠く離れたわれわれ日本人にまで「What is your position?」と迫る作品を完成させたロージ監督の創造性は特異だ。国連大使でも人権団体構成員でもない、いちアーティストである監督の創造性が、なぜ、世界中の映画ファンの琴線に触れるのだろう。

作品のなかで、移民、難民がスクリーンに登場する時間は、上映時間の半分にも満たない。果たしてこの作品を、世間が評するとおり、移民・難民問題ドキュメンタリー映画として捉えるのべきなのだろうか。その是非を確かめるべく、ロージ監督の映画観を探った。

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より以下のインタビューでは、移民・難民問題の現状にはほとんど言及しておりませんので、こちらのインタビューも合わせてお読みください。

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この作品は、ドキュメンタリーなんですか、映画なんですか。

作品を創るとき、ドキュメンタリーかフィクションか、とは考えません。私が作品を創るとき、常に念頭にあるのは〈シネマ〉についてです。ドキュメンタリーとフィクションの間にあるものこそ〈シネマ〉です。作品を創るうえで興味があるのは、〈真実〉と〈虚構〉の差です。

監督が考える、シネマとドキュメンタリーの違いを教えてください。

私にとってのドキュメンタリーとは、私が物語に没入する能力があるか、事象の本質を見極められるか、真実が垣間見える瞬間をどれだけ発見できるかにかかっています。しかし、私がカメラをセットすれば、事象は変化します。カメラが、事象に干渉しないわけありません。カメラが回っていれば、被写体もカメラが回っているなりの反応をします。それなのに、ほとんどのドキュメンタリー風シネマは、誰かが問題を提起し、誰かが説明する。それは視覚的論文であり、シネマではありません。私が創りたいのは論文でなく、詩的作品であり、オーディエンスに解釈の余地を残した〈シネマ〉です。同じ詩でも、解釈は受手によって全く違います。だから、この作品を観たみなさんが、自らのポジションについて意識していただければ幸いです。

登場人物が状況を説明するシーンがあります。監督の意図に反していないんですか。

必要だと直観したからです。医師のシーンについて説明しますと、彼は自ら状況の説明を始めました。彼は、移民、難民問題を意識している人間の象徴であり、オーディエンスに、人の死に向き合ったらどうすべきかを問いかける存在でもあります。確かに、彼が説明するシーンはドキュメンタリー的ではありますが、あのシーンは作品にとって必要不可欠です。彼の説明があるからこそ、オーディエンスは移民、難民の皆さんがおかれた状況を理解できるんです。そして、医師の説明を境に、物語は静かに終わりに向かいます。そこからは、死を悼む物語になります。

撮影では三脚を利用する機会が多いようですが、それはどうしてですか。

三脚を使うのは、出来るだけ事象に介入したくないからです。オーディエンスの皆さんに視点を持ってもらいたいんです。私がカメラを抱えて動けば、皆さんは、誰かが撮影しているんだろうな、と直観します。でも、現実はそんなものではありませんし、誰も、一つの対象にそこまで集中したりもしません。ですから、何よりも重要なのは被写体との距離です。被写体を撮らえるカメラのポジションは、数え切れないほどありますが、正しいポジションはひとつしかありません。そのポジションを見つけたら、カメラをそこに据え、目の前の現実を撮影します。

たったひとつの正しいポジションをどうやって見つけるんですか。

それについて考えたことはありません。ただただ純粋になるだけです。カメラのポジションが決まったら、絶対に動かしません。被写体もそう。一度決めたら、被写体から離れません。

ワンカットが長尺になる理由を教えてください。

上下360度のすべてはフレームに収まりませんから、撮れるのは現実の断片に過ぎません。たくさんの事象を撮り逃してしまいますから、作品としては、フレームに収まらない事象も表現しなければなりません。ですから、完全な瞬間を表現できるよう、編集すべきです。そうするには、カットそれぞれに物語がなければいけない。だから私は、長いカットが好きなんです。ワンカットに物語があってこそ〈シネマ〉ですから、編集で切り刻むのはあまり好きではありません。サムエル少年のシーンにしても、物語性のあるワンカットしか採用しませんでした。採用するカットをなぜ選ぶか、それは、そのカットで撮らえた現実が非常に力強いからです。現実が現実を離れ、様々な解釈が可能になるような瞬間、それこそ、メタファー足りうる現実です。撮らえられた以上の〈何か〉を語らない映像はシネマとは呼べません。

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メタファーを表現するさいに、画の美しさにこだわるのはどうしてですか。

シネマとしての然るべき構図は踏まえているはずですが、画の美しさを意識したことはありません。カメラをセットするのにも、画角を決めるのにも全く時間をかけません。画が美しいか否かよりも、その場の雰囲気、自らの感情を常に優先させています。目の前で起きている事象を撮らえようと前のめりになってしまいますからね。あえていうと、物語性だけは意識しています。カットのなかで物語が起きているから美しいのではないでしょうか。美しいだけのカットでは何も面白くありません。そこで何かが起きていなければ意味がないんです。さらに、前のカット、次のカットとの連続性も重要です。それは音楽に似ています。連続する音符と音符には、何らかの関係がなければいけない。この作品でも、必ず、登場人物には何らかの関係性があり、全員に共通する雰囲気があります。だから、編集に時間はかかりませんでした。作品を完成させるのに必要な要素は、登場人物に内在していますから、私は編集のさい、まず、目を閉じて、何を撮影したかを思い出します。撮影素材を改めて見直したりもしません。記憶を編集するんです。この作品も、2ヶ月で編集を終えました。自ら撮影しない監督は、何を撮影したか把握していないことも多く、編集に1年以上要したりします。

非常に印象的なランドスケープが随所に差し込まれます。何を暗示しているのですか。

ランペドゥーサ島を描くだけでなく、精神的空間としての同島を変えたかったので、現実離れした景観を挟みました。ランペドゥーサ島といえば〈夏〉ですから、あえて〈冬〉に撮影しました。冬の光は、夏に比べて曖昧で、護られているかのような印象があります。光は物語に大きく影響します。登場人物といっても過言ではないでしょう。ギリシャ悲劇の女性コーラスと同じような効果を作品にもたらします。物語を大きく変えはしないけれど、進展を後押ししてくれます。雲もそうですね。雲があれば、影や露出について悩まずにすみます。

夜の景観を挟んだのも同じ理由です。移民、難民の皆さんを夜の帳に包んで護りたい、との想いもありました。私は、精神的空間としてのランペドゥーサ島をメタファーにしたかったんです。島民の皆さんが観ても、これがランペドゥーサ島なの、と驚くような島として描きたかった。島民の皆さんからは、なんでわかりやすい観光地を撮らないのか、と不思議がられました。いつも天気が悪い島みたいじゃないか、と咎められもしました。

なぜ、そこまでしてランペドゥーサ島のイメージを変えたかったのですか。

ランペドゥーサ島を、世界情勢、なかでも移民、難民をとりまく状況のメタファーにしたかったんです。東京、ニューヨーク、ヘルシンキ、シドニー、各地で問題になっている移民、難民問題のメタファーにしたかったんです。この問題に普遍性をもたせたかったんです。普遍性をもたせるには、古典的なキャラクターが必要です。この作品の登場人物は、過去や日常的儀礼と非常に強い繋がりがあります。サムエレは、自らの内に普遍的な言語を秘めていますから、世界中のみんなが共感できるキャラクターです。

キャラクターに普遍性をもとめたのに、ランペドゥーサ島という特別なロケーションを選んだのはどうしてですか。

方程式どおりに創るわけではありませんから、わかりません。直観です。私にとって映画は、理詰めで創るものではなく、こころで創るモノです。学生時代、幸運にも、彫刻家のルイーズ・ブルジョワ(Louis Bourgeois)に会う機会がありました。たくさんのオブジェが置いてある彼女のスタジオを訪ねると、大きな作業机の上に粘土があり、彼女はそれを指して、私の作品は全てここにある、といいました。ちょうどその頃、私は彫刻家を目指していましたが、どうしていいのかわからず悩んでいました。何日も、何週間も、粘土を手にして迷っていたんです。そうするうちに、ある日、突然ビジョンが観えたんです。そのとき、彼女の発言の意味がわかりました。アーティストたるもの、自らの内にあるすべてを作品に注入しなければならなりません。自らの内に何もなければ、作品など創れません。直観を捉えられなければ、シネマは創れません。

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私のシネマ創りは、場所との出会いから始まります。この作品でしたら、ランペドゥーサ島です。そこには3~4千もの島民がいますから、全員には会えませんでした。そんななか、私は、被写体にふさわしい6人の島民に出会いました。そのみんなが映画のだいじな要素ですから、最後まで、徹底的に彼らに向き合います。そうすると、ランペドゥーサには島民が6人しかいないかのような印象をオーディエンスに与えます。その結果、6人それぞれが、然るべき普遍的な象徴的キャラクターにならなければなりません。ひとことも喋らないDJは、われわれの感情を象徴しています。彼が最後に登場するシーンの表情を観れば、彼の内にある強い感情がわかるはずです。言葉で表現できないけれど、間違いなく何らかの感情が存在しています。

同じBGMで繋がった、その直前のカットは、作品のなかでもひときわ宗教的です。差し障りのない程度に説明していただけますか。

イタリア南部の、死を悼む慣習です。BGMは、出エジプトをテーマにした、ロッシーニの『エジプトのモーゼ』の《星の輝く玉座から》です。移民、難民の皆さんの現状のメタファーでもあります。

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4/15(土)より渋谷アップリンクにて公開ほか、全国順次公開中