Music

私がロブ・ゾンビを愛し続ける理由

すべてのメタルファンがその冷たく黒い心にロブ・ゾンビへの愛を宿しているはずだ。

by Christopher Krovatin
19 December 2019, 7:00am

Photo by Frank Hoensch/Redferns. Getty Images.

シュールレアリストの劇作家、アントナン・アルトー(Antonin Artaud)は、自身のマニフェスト〈演劇と残酷〉( The Theatre and Cruelty, 1933)でこう述べている。「もし演劇がその必要性を再発見されたいのであれば、恋愛、犯罪、戦争、狂気のなかにあるすべてを提示しなければならない。(中略)われらが、われらの作品の中心に、著名な人物、残忍な犯罪、超人間的な献身を据えようとすべきなのもそのためだ。それらの内部で煮えたぎる力を、作品が、古い〈神話〉のボロボロになったイメージに頼らずに引き出せると示すのだ」

だから私は、ロブ・ゾンビ(Rob Zombie)が好きだ。

私はロブ・ゾンビの音楽のすべてに駆り立てられ、拳を高く突き上げたくなる。ジョック・ジャム風のリフ、フライドチキンやフランケンシュタインについて語る、精神分裂症的なめちゃくちゃな歌詞、ストリップクラブでかかりそうなリズムやコーラス。それだけじゃない。にぎやかなゴーゴーダンサーやどデカいパペットの一団を引き連れた彼のライブもすごい。性欲ほとばしる10代ホラー映画ファンの潜在意識がそのままかたちになったような、彼の映画もすごい。エド〈ビッグ・ダディ〉ロス(Ed "Big Daddy" Roth)による〈カスタム・クリープ(Kustom Kreep)〉スタイルを踏襲しつつ、〈Jumbo’s Clown Room〉の裏通り感と、甘ったるい、燃え滾る愛をブチこんだ彼のアートもすごい。私は彼のすべてを、そのすべての瞬間を愛している。

私よりも若い読者のために、まずロブ・ゾンビとは何者かを説明したい欲求もあるが、ロブ・ゾンビの美学について、私から何かを説明する必要などない。なぜならロブ・ゾンビは、伝説の怪奇スター、ロン・チェイニー(Lon Chaney)的怪奇の表現という第一義的使命から、道を踏み外したことがないからだ。彼はヘヴィメタル・ホラーの名手で、見世物小屋の帝王だ。さらに、最後のシーンで気が変わって、バート・シンプソンに似た声のブロンド女を虐殺する代わりに、その女と結婚してしまうようなB級映画の殺人鬼でもある。これだけでもう充分だろう。

ただ、私のこれまでのメタル人生でも、それでは不充分だと感じる時期があった。ロブ・ゾンビのソロ・デビューアルバム『ヘルビリー・デラックス』( Hellbilly Deluxe, 1998)から、私がメタルにハマる可能性もあっただろう。しかし、リリース当時、既にブラックメタル、デスメタル、グラインドコアなど、よりエクストリームなサブジャンルに足を突っ込んでいた私は、この作品を、自分には物足りないと判断してしまった。アンダーグラウンド・ミュージックのほうが歴史も長く、知的だ。そこには記号や心理学、「古い〈神話〉のボロボロになったイメージ」が溢れていた。そういうわけで、CELTIC FROST以上の知性が感じられない音楽は、わが家には迎え入れられることがなかった。

しかしその結果、私は退屈した。アンダーグラウンド・メタルでおなじみの分析や難解な主題は、そこかしこで使われていたし、また、反宇宙的物質のエーテルについて歌う、とあるデスメタルのカルト曲も、他の楽曲と酷似していた。私がずっと求めていたのは、〈スカム・オブ・ジ・アース (Scum of the Earth)〉のイントロ・リフの半分でもいいから興奮させてくれるリフであり、〈怪人の再来 (Return of the Phantom Stranger)〉並みに薄気味悪い雰囲気を醸し出す曲であり、〈プッシー・リカー (Pussy Liquor)〉と肩を並べるほどにイケてないベースラインだった。

そんなとき、ロブ・ゾンビのアナログ盤、アートプリント、そしてファントム・クリープのマスクひとつが収められたボックスセット発売の知らせを受け取った(現在販売中)。最初は「おいおい、ロブ・ゾンビはこういうグッズで金を稼ぐのか」と邪推した。しかしその後「いや、これ最高じゃん、ディグろう」と思い直し、それから「クソやべえ、俺ロブ・ゾンビ好きだわ。てか今までもずっと好きだったわ」と感情が推移した。そうしてわがメタル人生で初めて、私は自らの裡に、ロブ・ゾンビ作品への熱狂的ファン心理を認めたのだ。認めてしまったすがすがしさったらない。その勢いで彼を称えるこんな長文をしたためている次第である。

ロブ・ゾンビの全作品が完璧か? もちろんそんなことはない。私は毎晩、映画『ロード・オブ・セイラム』( The Lords of Salem, 2012)を観たりはしないし、『ヘルビリー・デラックス2』( Hellbilly Deluxe II, 2010)の全収録曲が私のハロウィン用プレイリストに入っているわけでもない。しかしミュージシャンたちを、彼らのそこそこの作品で評価して無為に時を過ごすなんて、つまらないアホのすることだ。そもそも、多作のアーティストの作品は、1枚のアルバムに収まらないのがおもしろいのだ。

ロブ・ゾンビは嫌いだとのたまうエクストリーム・メタル・ファンには笑わされる。アングラバンドがロブ・ゾンビを模すと、みんな昇天せんばかりによろこんでいるではないか。THE BLACK DAHLIA MURDERは、ヴァンパイアやオオカミ人間をテーマにしたメロディックなアンセムを発表しており、TRIBULATIONとGHOSTは、ハマー・フィルムのホラー映画から飛び出してきたようなマス向けシアター・メタルを制作。ACID WITCHは、70年代のB級映画の美学を拝借したが、その美学をロックンロール精神に植えつける一助となったのもロブ・ゾンビだ。それなのに、彼が、アングラ・エクストリーム・メタル界から認められていないのは、いったいどういうわけだろう。

ロブ・ゾンビの女性の描きかたは性差別的だ、という指摘がある。それは、彼のアートの多くに、エロいポーズをとった巨乳の怪物女性が登場するから。そして〈The Hideous Exhibitions of a Dedicated Gore Whore(直訳:献身的な血まみれ売女のおぞましい風体)〉などというタイトルの曲があるからだろう。しかしそこには真実がある。前者は好色男のマヌケさの具現であり、後者はこまやかな感性が表れているのだ。しかし、ロブ・ゾンビのアートを消費すればするほど見えてくるのは、何よりもまず、彼の描く女性像のパワフルさだ。

ロブ・ゾンビの映画に登場する女性たちは、『マーダー・ライド・ショー』( House of 1,000 Corpses, 2003)のベイビー・ファイアフライ(Baby Firefly)や『ロード・オブ・セイラム』の魔女たちのような圧倒的な悪役、もしくは『31 サーティワン』( 31, 2016)のチャーリー(Charlie)のような、過酷な闘いを切り抜ける生存者だ。惨殺の被害者となる女性たちでさえ、ヘマばかりする男性陣よりも存在感をもって描かれる(『マーダー・ライド・ショー』の男性主人公たちも、ガールフレンドのいうことに耳を傾けていれば生き残れたはずだ)。他監督のホラー映画では、頭がからっぽで使えないキャラとして女性が描かれることが多いが、ロブ・ゾンビ作品の女性は、全登場人物の運命を握る支配者だ。もちろん彼は女性の裸を描くのも好きだが、同時に、女性に畏敬の念を抱いている。

世間では、ロブ・ゾンビのアートは未成熟だという共通見解があるようだ。これをうるさく主張する輩は、ノイズ時代のWHITE ZONBIEを引き合いに出し、当時のロブ・ゾンビはもっと優れたミュージシャンだった、などと御託を並べるが、そいつらは、当時の彼の音楽をちゃんと聴いてはいないし、聴いていたとしても大して好きではないはずだ。何か〈ためになる〉ものを内包していてこそ成熟したアートと呼べるのであり、ホットロッドに乗ったミイラの絵には、それ以上の意味がないからガキだ、というのが彼らの主張の肝だ。

少なくとも、メインストリームが押しつけてくるかたちの〈成熟〉に、私はイカサマめいたものを感じていた。私たちは、大人になるためにはガキっぽいモノを捨てなくてはならないと教えられてきたが、その教えの核には、好きなことをしてたら周りの人に笑われる、という意識がある気がする。私がこれまでに出会ったいわゆる〈大人〉たちはみんな、ガキのような変人たちと比べて、精神的にも感情的にもよっぽど未成熟だ。はみ出し者は、それじゃ欲しいものが手に入らないよ、とくぎを刺され続けてきているので、結果としてしぶとさや、克己心、忍耐力が身についている。ホテルのチェックイン・カウンターで激怒したり、店員に尊大な態度をとっているのは、いつもごリッパな〈大人〉たちである。

私にとって感情の成熟を真に示すのは、確固たる労働倫理を抱いているか否かだ。クリエイティブな活動の場合は特にそう。もちろん私にも、ミューズとの出会いを何年も待つようなタイプのアーティストで、尊敬している人たちはいる。だが、私が心から刺激を受けるのは、毎朝起きては仕事に取りかかるタイプのアーティストだ。

ロブ・ゾンビはロックスターではない。バーで〈恋のウォータールー( Waterloo)〉を歌っていたところをレコード会社のお偉いさんに見出されたわけではない。今の彼になるために、身を粉にして創作してきただけだ。彼はディーバだったこともなければ、飲酒運転で交通事故を起こしたこともない。会場のスタッフに暴力をふるったこともなければ、ライブ予定時刻に何時間も遅れたこともない。そもそも最近の彼は、酒を飲まないヴィーガンだ。

ロブ・ゾンビは、歴史上の偉大なアーティストたちと同様、自らの直観を信じているだけなのだ。高尚な作品だって、その本質は下品でおぞましい。シェイクスピアなんて、ペニスのジョークばかりだ。『ボヴァリー夫人』も、馬車内セックスを描いている。マーティン・スコセッシ(Martin Scorcese)監督作品は、EXHUMEDのアルバムよりゴア要素が強いくらいだ。偉大な芸術作品は、楽しいばかりではない。死ぬほど考えさせられるし、これでもかというくらいの衝撃を受けるし、知りたくもない感情を与えてくる。アントナン・アルトーが人間の魂の裡に煮えたぎる力を引き出す演劇を語るとき、彼は、ペンシルベニア州レディングの〈ソヴリン・センター(現サンタンダー・アリーナ)〉で鳴らされたロブ・ゾンビの〈Dragula〉の出だしのコードを聴け、と主張しているわけなのだ。

以下、私信である。

天才クソ野郎、ロブ・ゾンビ様。スノッブどもがあざ笑い、評論家たちが白目むいてあきれるいっぽうで、貴方がドデカいリフを掻き鳴らしながらレザーフェイスについて 歌い、熱心なファンの耳の穴に、貴方にしか歌えないブードゥーの呪術をたっぷりと届けてくれていると思うと、私も安心して眠れます。ぜひそのまま進み続けてください。期待しています。

This article originally appeared on VICE US.