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「さよならも言えなかった」遺族が語る、新型コロナに感染した父の最期

「父の最期の日々に家族がひとりも側にいられなかったと思うと、胸が張り裂けそうだ」

by Leandro Resurreccion IV; as told to Therese Reyes; translated by Nozomi Otaki
16 April 2020, 7:45am

日本旅行中のレアンドロと父親。ALL PHOTOS COURTESY OF THE AUTHOR.

今年3月末、法学生のレアンドロ・レザーレクシオン4世は、新型コロナウイルス(COVID-19)による呼吸不全で父親を喪った。57歳だった。父親のレアンドロ・レザーレクシオン3世は、フィリピン総合病院(Philippine General Hospital)、小児病院〈Philippine Children's Medical Center〉、ファーイースタン大学ニカナー・レエズ医療財団(Far Eastern University - Nicanor Reyes Medical Foundation)などに勤める小児骨髄移植の名医だった。

あっという間の出来事だった。入院のわずか10日後、父は世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスによって、帰らぬ人となった。

始まりは普通のせきだった。医師である父は、すぐに自らを家族から隔離した。父は何日も部屋にこもっていた。僕たちは部屋のドアの前に食事を置き、チャットで会話をした。ふたりの弟たちも妹も僕自身も、初めはそれほど深刻に考えていなかった。そんなある日、父からマスクと耳慣れない薬を買ってきてほしい、と頼まれた。

そのとき、僕は何かがおかしいと気づいた。父は強い人だった。とても健康で、持病もなかった。僕たちが父を病院に連れていき、レントゲンを撮ってもらうと、肺炎であることがわかった。

「私は入院しなくちゃいけない」。レントゲンの検査結果を受け取ると、父は電話でひと言そう告げた。同時にCOVID-19の検査も受けたが、結果が出るのは数日後だった。最近では、肺炎はすぐに入院が必要な症状とみなされている。その晩、声がすっかり変わり、熱は低いにもかかわらず息苦しそうな父の姿に、僕は思わず泣き崩れてしまった。父は入院前に家に戻り、荷物をまとめた。父が休暇に出かけるかのように服をたくさん持っていったことに気づいたのは、彼が亡くなったあとだった。父は戦う覚悟を決めていたのだ。

病室まで父に付き添うと、父はこちらを見て、ピースサインをつくってみせた。彼はマスクをしていたが、その下では微笑んでいることが僕にはわかった。

それが、父の顔を見た最期の瞬間だった。

coronavirus death family grief filipino
家族でセルフィー。

その翌日、先生たちから、父を集中治療室に移動させると告げられた。父は、もっとしっかり経過観察をするためだよ、といって僕を安心させようとしたが、その直後に鎮静剤が投与され、挿管もされた。そのときになってようやく、僕たちは父がCOVID-19陽性であることを知った。

その後、全ての連絡が途絶えた。「愛してる」とメッセージを送ったが、結局返事が来ることはなかった。

ロックダウンが始まったばかりの頃は、朝起きて何もすることがないのが悩みの種だった。しかし一瞬にして、悩みは入院している父のことへと変わった。僕の視点は180度変化した。朝起きると30分おきに携帯をチェックし、先生たちからのメールを待った。メールがない日は良い日だ。悪いことは起きていないという証拠だから。

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父とパートナーのシェリル・シンゾン。

僕の気持ちはまるでジェットコースターのようだった。良い日もあれば、悪い日もあった。それは次第に良い〈時間〉と悪い〈時間〉へと変わっていった。父が亡くなる前日は、良い日だった。バイタルが安定してきたので、筋弛緩薬の投与が中止された。父は回復するかもしれないと希望を抱いたが、その晩、容態が急変した。肺機能が停止したため、臓器不全を起こす恐れがあるとのことだった。先生たちから電話があり、2種類の強力な抗ウイルス剤投与の許可を求められた。

人生でもっともつらい電話がかかってきたとき、僕は眠っていた。電話が鳴ると、僕は家から駆け出して通話ボタンを押した。父の心臓が止まったという知らせだった。僕は可能な限り蘇生処置を続けてほしい、と先生に懇願した。しかし、20分経っても意識は戻らなかった。僕があと2分だけお願いしますと頼むと、先生は聞き入れてくれたが、父が目覚めることはなかった。

そうして、父はこの世を去った。

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モールで、大好きな父とくっついている。

僕はまずガールフレンドに電話し、ひたすら泣いた。何も言えなかったが、彼女は何が起こったか理解してくれた。その後、きょうだいや祖父にも伝えた。

僕たちはみんな、なかなか父の死を受け入れられずにいる。けじめをつけることができなかったからだ。さよならを言うこともできなかった。父の最期の日々に家族が誰も側にいられなかったと思うと、胸が張り裂けそうだ。

亡くなったあとは、もっとつらかった。次に父を見たのは、遺体安置所だった。しかし実際に父の姿を目にしたわけではない。僕は遺体袋を確認しただけで、厳重な感染対策のためにそれを開けることは許されなかった。安置所から父を運び出した葬儀社のひとたちは、全身防護服を着ていた。あんな光景は見たことがない。父はすぐに火葬され、僕がもう一度父を抱きしめることができたのは、家に骨つぼを持ち帰ったあとだった。あまりにも現実離れしていて、僕が抱いているのは本当は父じゃないんじゃないか、とすら思った。

最後に会ったとき、父は生きていて、笑顔だった。次に会ったときは、父は灰になっていた。

父は充実した人生を送った。楽天家で、自由奔放で、常に自分が自分のための太陽になりなさい、と僕たちに言い聞かせていた。ある日、父はふと思い立って髪を伸ばし始めた。大きなバイクが欲しいと言い出したときは、すぐにバイクを買った。学校まで迎えにきてもらい、ただコオロギを食べるだけのためにマニラ近郊のパンパンガ州まで行ったこともあった。

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父とバイク。

父が亡くなったあと、数え切れないほどの人びとから、父との思い出にまつわるメッセージが送られてきた。父が優秀な外科医であることは知っていたが、彼がこれほど多くのひとの人生に関わってきたとは思ってもいなかった。父の死を知って、彼の似顔絵を描いてくれた元患者さんもいた。

〈Philippine Children's Medical Center〉の小児外科主任として、父は病院がコロナのパンデミックによって大混乱に陥ったあとも、患者たちが治療を受けられるよう手はずを整えていた。専門医なので他の誰かに任せることもできたが、父はずっと現場に立ち続けた。

父はずっと僕のヒーローだったが、他の多くのひとのヒーローでもあった。ありきたりに聞こえるかもしれないが、今はそのことに慰められている。

最後に父に感謝を伝えられるチャンスがあればよかったのに、と願わずにはいられない。

僕をいちばん近くで支えてくれ、僕のいちばんのファンでいてくれた父に会いたい。悩みがあるときは、いつも父が解決策を教えてくれた。これからは、自分で答えを見つけなければならない。僕を導いてくれた父に感謝している。

僕はあと1年ロースクールで学んだら、父のように社会に出る。それが今の僕の原動力だ。両親は離婚しているので、父が亡き今、僕がひとりできょうだいたちを支えていかなければいけない。家族を養いながら、父のように、自分なりの方法で謙虚にこの国に尽くしていきたい。

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父と同僚の医師たち。

みんなにはCOVID-19の重大さを理解してほしい。父が亡くなったのは悲しいが、父は最後の犠牲者ではない。僕たちは浅はかにも、この病気は普通のインフルエンザと同じだと思い込んでしまったが、実際は違う。この病気は父親、母親、姉妹、兄弟、家族を奪っている。僕の父もそのひとりだ。

それでも、僕は今回の体験を通して、僕たちフィリピン人が一丸となって闘っていけるという希望を抱いた。多くの人びとが、懸命にそれぞれの務めを果たしている。市民はできるだけ家で過ごし、最前線で闘う人びとのために寄付を募るひともいる。有権者の生活を補償しない政治家を糾弾したり、要求されている以上の働きをする政治家を称える声も多い。今はフィリピンの人びとの悪い面よりも、良い面が際立っている。僕たちは恐れながらも、恐怖に立ち向かっている。

僕の家族に起こったことは紛れもない悲劇であり、他の誰にもこの悲劇を味わってほしくない。同じ悲しみを体験しているひとには、物事はいつか良くなるという希望を捨てないでほしい、と伝えたい。今はつらくても、いつかは乗り越えられるはずだ。

This article originally appeared on VICE ASIA.