「アイヌの女としてきれいになりたい」 現代に生きるアイヌの文身(いれずみ)

カミソリで皮膚に傷を入れ、シラカバを燃やした煤を塗り込み、アオダモの煮汁で止血する。北海道札幌市在住の八谷麻衣さんは、アイヌの伝統的な手法で自らの肌に文身を施す。ヴォーカルグループ、マレウレウのメンバー(マユンキキ)としての活動で知られる彼女の、もうひとつの貌をドキュメント。写真は、2008年からアイヌの人々を追いつづけている池田宏が撮影。

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26 March 2018, 9:51am

カミソリで皮膚に傷を入れ、シラカバを燃やした煤を塗り込み、アオダモの煮汁で止血する。北海道札幌市在住の八谷麻衣さんは、アイヌの伝統的な手法で自らの肌に文身を施す。ヴォーカルグループ、マレウレウのメンバー(マユンキキ)としての活動で知られる彼女の、もうひとつの貌をドキュメント。写真は、2008年からアイヌの人々を追いつづけている池田宏が撮影。

八谷さんは、子供のころから自分がアイヌだとわかっていましたか?

わかっていました。うちは両親ともアイヌなんです。「お前はアイヌだからね。それを恥ずかしいと思うんじゃないよ」と、物心つくまえから父に言われていました。

ご両親はアイヌの活動をなさっていた?

父はやってなかったけど、母はやっていました。母は川村カ子ト(かわむらかねと)* の娘なんです。川村カ子トアイヌ記念館での行事もあるし、保存会でアイヌの古式舞踊を踊っていました。小さいころは私も一緒に踊ってたんです。

* 1893年生まれ、北海道旭川永山町(現・旭川市永山)出身。上川アイヌの長で旧国鉄の測量技手。川村カ子トアイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力した。1977年没

近所には一緒に遊ぶようなアイヌの友達はいましたか?

旭川の近文(ちかぶみ)地区に住んでいたけど、まわりにアイヌの友達はいませんでした。小学校でも、自分がアイヌだとオープンにしているのは私ぐらい。まぁ、川村カ子トの孫だと知られていたから隠しようもなかったんですけど。地元のニュースでアイヌの踊りのことをやるときは、担任の先生が「八谷さんが出ているのでみんなで観ましょう」と言って教室のテレビをつけたりして。恥ずかしいからやめてぇ! と思ったけど。

クラスの子たちの反応は?

「凄いなぁ、テレビに出るなんて」みたいな。小学校の友達は私がアイヌって知ったうえで仲良くしてくれていたから、差別みたいなことはなかったんですよ。中学に入ってからは多少あったけど。

多少あったというのは?

男の子に「アイヌは学校来んな!」と言われたり。でも、私は父からアイヌは人間という意味だと教わっていたので、来るなと言った子に「人間が学校来たらいけないんだったら自分だって来なきゃいいのに」と言い返してました。私、性格悪かったんですね。だから、いじめたくなる要素のひとつにアイヌがあっただけで、アイヌだから差別されたわけではなかったかもしれない。両親が離婚して、私は小4からずっとひとり暮らししてたんです。家にうるさく言う親がいなくて、中学が面白くないと、行かなくなりますよね。ちょうど、悪いことや楽しいことをいろいろ知りはじめたころだし。旭川の一条通と宮下通のあいだの道にナンパスポットがあって、そういう目的の車が何台もいたんです。友達と一緒に歩いてるとき、車を横づけして声をかけられたこともありました。

そのころ八谷さんはアイヌの活動をやっていましたか?

いいえ。とっくに踊りとかもやめちゃって、ヤンチャな生活をしていました。

その後、高校へは進学しましたか?

私は高専に行きたくて体験入学もしたんだけど、お金がなくて入れなかったの。しかたなく旭川の行きたくない高校に入ったんだけど、ひとりで住んでるから学校行くのが面倒くさくなって、友達とお酒をがんがん飲んで歌いまくって朝まで遊んで。

いまから20年ぐらいまえですね。アムラー、細眉、ルーズソックスの時代。

そう。「新緑の時期だから緑にしましたぁ」なんて言って、季節ごとに髪の色を変えていたんです。緑にしたりピンクにしたり。「そんな髪で学校来るな」と先生に怒られました。やりたいことなんてわかってなかったけど、ここにいたらやりたいことできないと思って、名古屋の友達に電話したら「来る?」って言ってくれて。その子は中学を卒業して名古屋に行って美容師の勉強をしてた。学校で使うお金だと噓をついて父に2万円振り込んでもらって、飛行機で名古屋に行ったの。当時はスカイメイトがあったから安かったんです。退学届けをもらって自分で書けるところだけ書いて、「残りは書いてください」と書き置きしたら、週末に家に来た父が見てパニックになったみたい。退学届あるし、どこにいるかわかんない。携帯電話なんてなかったころだから連絡つかないし。

それから?

居酒屋でバイトして楽しく暮らしました。ところが数カ月して、父が来ちゃった。友達全員に連絡して、名古屋にいるのがわかったらしいんです。ひとこと「帰るぞ」と言っただけで、あきれ果てて怒りもしなかったですね。帰りの飛行機でタバコを吸ったのを覚えてます。「ちょっと火借りていい? もういいよね、父さんのまえで吸っても」と言って。当時は飛行機のなかでタバコを吸えたんですよ。

帰ってどうなりましたか?

「もういい、好きにしろ」と言われました。「俺が悪かったよ。お前をひとりにして全部やらせて、行きたくない高校に行かせて。高校に戻らなくていいから、生活できるように自分で働け。家賃の心配はしなくてもいい」と。「やったぁ!」と大喜びして、旭川のライブハウスで働きだしたんです。

ライブハウスの名前を覚えてますか?

ソウルトレイン。いまはもうそのお店ないですよ。70年代のソウル、ディスコ中心の選曲で、お客さんもそういう世代の人たち。みんなホールで踊って。

音楽的には嫌いじゃなかった?

大好き! フィリピン人のバンドが箱バンで、1日に7ステージぐらい出てました。私はヴォーカルのフレディという男と付き合ってたんです。歌がうまくて、ジェイムズ・ブラウンのセックスマシーンが凄くよかった。そのころ50歳ぐらいだったから、いまは生きてるかどうかもわからないけど。

八谷麻衣さん。北海道白老郡白老町の飛生の森にて

アイヌのことをもっと知りたいと思うようになったのはいつごろですか?

それから2年後、私が17歳のとき、東京にいた姉がアイヌの勉強をしたいと言って北海道に帰ってきたんです。それでなんとなく私もまたアイヌのことをやるようになりました。そしてその後、たしか私が22歳のとき、父方のひいおばあちゃんが母語(アイヌ語)話者だったと知りました。もう亡くなっていたんですけど、私はひいおばあちゃんのことが大好きでした。でも、大好きな人が喋っていた言葉がわかんないっておかしいじゃんと思って、それでアイヌ語を勉強しはじめたんです。

ひいおばあさんが母語話者だと知るのに、何かきっかけがありましたか?

ひいおばあちゃんは「モンノのばば」と呼ばれてました。父方のおばあちゃんの家に遊びに行ったときにひいばあちゃんの話になったんです。「モンノのばばはアイヌ語べらべらだったんだぞ。旭川の博物館に録音テープが残ってるし」とおばあちゃんが言った。でも、ひいおばあちゃんは娘であるおばあちゃんのまえではアイヌ語で喋らなかったらしいんですけど……。おばあちゃんは、私がアイヌのことに興味をもちはじめたのを喜んでいました。それで形見分けと生前形見分けとして、ひいおばあちゃんとおばあちゃんの着物をもらいました。

八谷さんが日常生活のなかでアイヌ語に触れる機会はありましたか?

母方のほうのおばあちゃんが話すのを聞いたことがあるんです。おばあちゃんが入院したときにお見舞いに行ったら、それまでアイヌ語で喋ったことなかったのに「ヘンパノ オシッパ」と言われて。それは「早く帰れ」という意味なんですよ。せっかくお見舞いに来たのにそんなこと言われてショックだったけど、それまでナマのアイヌ語に触れる機会がなかったので感動したし嬉しかった。10年ちょっとまえ、おばあちゃんが82歳、私は23歳でした。

アイヌの文身に興味をもったのは、いつですか?

同じころ、22、3歳だったと思います。それまで私はアイヌの女性の文身を口裂け女みたいな恐いものとしか思っていませんでした。ところが、アイヌ語を学びだしてからアイヌ記念館で文身の女性の写真や資料をじっくり見るようになって、文身の美しさに気づいたんですよ。納得できたというか。それからしばらくして、あるプロジェクトで昔のアイヌの格好をする機会があって、そのときに口に文身を描いてみたんです。

どうやって描いたんですか?

アイライナーを使って。ドキドキしました。母方のひいおばあちゃんは文身を入れてはなかったんですけど、口にペイントした彼女の写真が残っています。朝、父方のひいおばあちゃんの着物を出して着て、母方のひいおばあちゃんの写真を見ながら口に描いて。一緒に住んでいた人に「どう思う?」と聞いたら、「初めて見るからわかんないけど、似合っていると思うよ」と言ってくれました。それで「じゃあ、行ってくる!」って──。

どこに?

朝イチのバスに乗って、そのころ住んでいた旭川から札幌まで2時間かけて行ったんですよ。運転手さんはギョッとしてました。だけど札幌に着いて北大で知人たちに見せたら、みんなが「きれい!」「凄い!」「似合ってるよ」って言ったんです。それまで私、「きれい」とか「かわいい」とか言われたことがなかったから、そりゃ有頂天になりますよね。美意識は時代によって変容していくものなのに、昔のアイヌの女性のような外見にして、この現代に「きれい」と言われたことが凄く嬉しかった。それまで着物を着てマタンプシ(鉢巻き)を締めても、何かが足りないような違和感が自分のなかにあったんです。私はきれいになりたいけど、それはアイヌとしてきれいになりたいってことなんだと理解しました。ペイントじゃなく、ちゃんと口に文身を入れて、ずっときれいな状態でいたいと思ったんです。でも、それを母に言ったら、もうメチャメチャ反対されて。

猛反対の理由は、よく言われる「親からもらった体を傷つけるな」的な?

それもあるし、「アイヌの女たちが文身でどれだけ傷ついてきたかを考えなさい」と言われました。「時代に合わないものをなんでわざわざやるのか」とも。

お母さんは文身をしたアイヌの女性を実際に見たことがあるんですか?

見ています。マスクをして隠したり、孫の運動会に行けなかったり──。そんな話を聞きました。「自分に子供が生まれたらどうするの?」と言われたし。

八谷さんは見たことがありますか?

いいえ。口に入れた人も手に入れた人も写真でしか見たことがないんです。

お母さんが反対しなければ、入れていたんですね。

うん、口にね。あのとき相談しなかったら、入れてたんじゃないかな。でも、顔のことだから言わなきゃと思って。うちの母さん、すっごい怖いの。子供のころ、茶筒で叩かれたのを覚えてます。他人にはやさしいのに。

アオダモの幹にマキリ(アイヌの小刀)の刃を入れ、樹皮の色を確かめる
シラカバの幹に刃を入れ、手で横方向に樹皮を剝がす

文身を入れるのに必要な知識はどうやって得ましたか?

2011年5月、白老町のアイヌ民族博物館の研修生になったんです。29歳でした。伝承者育成事業の一環としてアイヌ文化をいろいろ学ぶんだけど、そのときに知里真志保* の 『分類アイヌ語辞典〈第1巻〉植物篇』** を見て凄い衝撃を受けました。アオダモの項目に何頁にも渡って文身についての詳しい記述があるんです。児玉作左衛門やいろんな学者の論文が引用されていて。地方によってアオダモやヤチダモ以外に、ミズキ、クロウメモドキ、クワなんかの皮、ヨモギの葉、ハマナスの根、黒豆なんかを使ったとか細かく書いてある。マキリ(小刀)やカミソリではなく黒曜石で切っていたことも。ほかにもいろんな文献を調べました。 『いれずみ(文身)の人類学』*** 、 『身体の文化人類学』**** といった本。それから 『アイヌ民俗文化財調査報告書』***** というシリーズのなかの文身について書かれている箇所を全部読んだり。日本の文身の本も、アイヌの文身について触れていたりするからチェックして。そういう文献に書いてあることを一つひとつ試しました。試しに試した結果、いまの入れ方になったんです。

* アイヌの言語学者。文学博士。1909年生まれ、北海道幌別町字登別町(現・登別市)出身。東京帝国大学文学部言語学科卒業。1955年、『分類アイヌ語辞典』で朝日文化賞受賞。1961年没

** 知里真志保(著)、日本常民文化研究所(刊)、1953年

*** 吉岡郁夫(著)、雄山閣出版(刊)、1996年

**** 吉岡郁夫(著)、雄山閣出版(刊)、1989年

***** 1982年より北海道教育委員会が発行しているアイヌ文化に関する調査報告書

黒曜石は痛そうですね。

試しに黒曜石で唇を少し切ったことがあるけど、すっごく痛かった。昔、口の文身を入れてるとき、気絶したら冷水をかけて起こしたそうです。起きてるときに入れないとダメみたいで。押さえつけて入れたという話も残っているし。

持ち帰ったアオダモの枝を削り、樹皮を集める
鍋でアオダモの樹皮を煮出すと青色の汁がとれる
シラカバの樹皮はよく燃える。鍋の底で黒煙を受け、煤を集める

初めて左手に入れたときのことを教えてください。

白老のアイヌ民族博物館の研修生になって1年たったころ、エムシ(儀刀)を作る実習で、鞘に彫刻刀で模様を彫っているときに手元が狂って左手の薬指を5ミリぐらい切ったんです。隣では、ほかの研究生が白樺の煤で鞘に色づけをしていました。傷があって、煤もある……入れちゃおう! と思って。それで傷に煤を擦り込んだらきれいに入った。そのすぐあと、やはり実習でアオダモと白樺の皮を取りに行く機会があったんですよ。家に持ってかえってアオダモを煮て、白樺を焼きました。最初は恐いから、すでに5ミリ入ってる左手薬指1本だけにカミソリで傷をつけて、煤とアオダモの汁を擦り込みました。それが凄くきれいに見えて、あとから指輪ぐらいに太くした。それがまたきれいに見えて、ほかの指にも入れていった。まわりの人たちからは「本当に入れるとは思わなかった」「俺、引くかも。これ以上はやめなよ」なんて言われました。

口にペイントしたときはもてはやされたけど、手に本当に入れたら引かれた。

私は精神的に不安定なところがあって、みんなそれを知ってるから心配だったんでしょう。でも、私は自分の左手がどんどん好きになっていって。手首に入れるのは怖かったけど、ちょっとだけのつもりで切りました。痛かったけど、どこまでやれるかやってみようと思ってやってたらテンション上がっちゃって。指のときより血がだらだら出るし、どんどん腫れていく。「わ、わ、わわぁ」って言いながら切ってたの。

左手首の内側に入れたときは出血が多かった。その血で描いたツバメの絵(2012年)

さっき右手に入れるところを見せてもらいました。カミソリで切るまえに皮膚をアオダモの煮汁をしみこませたパフで拭いたのは消毒のためですか?

そう。それからアオダモには消炎と止血の効果もあるんです。

そして煤を塗って跡をつけ、その上からカミソリで切り、煤を塗り込む。

血があまりにも出たらアオダモで拭く。切って、煤入れて、アオダモ入れて、切って、煤入れて、アオダモ入れて、切って──の繰り返し。血と煤だけだと伸びがよくないし、血はすぐに固まっちゃうから、アオダモの汁で薄めたほうが入れやすかったりもする。

皮膚をアオダモの煮汁で拭いて消毒し、シラカバの煤で下書きをしたのち、カミソリで切る

昔、アイヌの女性は何歳から文身を入れたんですか?

7、8歳とか、初潮を迎えるころとか、いろんな説があるんですけど、口の文身は結婚するまでに完成してないといけなかった。文身をしてない女と結婚した男は儀式に参加できなかったそうです。でも、手の文身に関しては入れる時期が決まっていなかった。手は結婚したあとでもいいの。

口の文身が入っていることがアイヌの女性の結婚の条件だった。

そう。「口は夫のためだけに喋り、手は夫のためだけに働く」というアイヌの女性にまつわる凄く嫌な言葉があって、それを表したのが文身だという説がある。そんなことあるかい! って私は思ってるけど……。まだまだいろんな言い伝えがあるんですよ。例えば、女の人は悪い血が多いからその血を出して、代わりに煤を入れたという民間療法的なこともあるし、魔除けのような呪術的な意味もあった。あとは、文身をしていないとアイヌだとわからないから、死んであの世に行ったとき、先に死んだ親戚に手を引いてもらえず地獄を彷徨うとか、地獄で凄く痛い物を使って無理やり入れられるとか。アイヌは死後の世界を凄く大切にするので、文身が入ってないまま死んじゃった女性には、ちゃんと切って煤を入れてから埋葬したそうです。生きているあいだだけではなく、死んでからもアイヌとして暮らしていくのであれば、文身は必須だったの。それほどアイヌにとって文身は密接なものだったけど、徳川幕府は寛政に1回と安政に2回* 、禁令を出しているんです。でも3回も禁令が出たのにアイヌは文身をやめなかった。ところが明治維新後** に「これから生まれる女子に文身を入れるな」というお達しがあってからは減っていったんです。

* 寛政11年(1799)、安政2年(1855)、安政5年(1858)に禁令が出された

** 明治4年(1871)に開拓使の布告が出された

江戸時代には文身を守ることができたアイヌが、明治になってから禁令を受け入れていったのはどうしてだと思いますか?

和人の文化に溶け込んだほうがいいんじゃないか、という考えもあったと思う。美意識が変わって、文身していない和人の女性のほうが美しく見えたのかもしれない。

八谷さんは、アイヌが和人文化に溶け込んでいくことに関して否定的な立場ではない?

うん。それはふつうのことだと思っているから。

繰り返し傷つけて煤を塗り込む。入れたばかりの右手と、2012年から3度入れて色を重ねた左手

ほかの誰かから文身を入れてほしいと言われたらどうしますか?

もしアイヌの子でいたら、入れてあげたい。自分で入れたことがない子は、例えば、どのぐらい切ったらいいかもわからないじゃない。私は完璧にわかっているし。もともとは、文身ばあさんみたいな人が入れていたわけだから、自分がその役割をできるなら伝承活動としてやってもいいかもしれない。でも、「入れて」と言ってくる和人の知り合いはいるけど、アイヌはいないんですよね。

和人でも入れますか?

それはちょっと。だって必要ない文化だし。日本には和彫りの文化があるんだから、和人はそっちに行ったほうがいいんじゃない? って思う。どうしてもアイヌの文様が入れたいんだったら、ほかを当たってほしい。

どこかタトゥースタジオに行って機械彫りでアイヌの文様を──。

そう。私はアイヌの伝統的なやり方で、アイヌの風習としての文身をやっているんであって。和人がアイヌの文身を入れたいとか、私には関係のない話だもん。例えば、私はハジチ(針突)* を入れたいと思わないし。

* 琉球王国の女性が手の甲や前腕に入れた入れ墨。奄美諸島には明治9年(1876)、沖縄県には明治32年(1899)に禁止令が出された
アオダモの煮汁をしみこませたパフ、八谷さん自作のマキリ、カミソリの刃

たしかにアイヌの八谷さんが琉球の女性のハジチを入れるのはヘンですね。

わけわかんないじゃん。どこにいても文化はあるんだから、自分の文化を大事にしたうえで話をするなら乗るかもしれないけど、和人なのにアイヌの文身を入れたいとか言ってくる人って、自分の文化を大事にしていないんだよ。自分のところはないがしろにしてアイヌに憧れて、夢見がちな眼差しで「アイヌになりたいんですぅ」って言ってくる人がいる。なれるわけないじゃん。

そういう人は多いですか?

多い。でも、べつにどんな人が来ようといいの。ヘンなアイヌのところに行くんだったら私のところに来てって感じ。

ヘンなアイヌとは?

ミュージシャンとか木彫家とかではなくアイヌのパフォーマーで、「我々はカムイの力で──」みたいなことを言う人たちがいるでしょ。彼らは和人が望むアイヌ像を演じているだけだから、ブレるんです。私は自分がアイヌの文化に精通しているとは言わないけど、自分なりのアイヌ観はできあがっていると思う。

指で煤を塗り込み、アオダモの煮汁を含ませたパフで拭く。約1時間で右手すべての指に入れる

いままで生きてきて、自分がアイヌじゃなかったらいいのにと思ったことはありますか?

アイヌの人間関係が面倒で嫌になったことはあるけど、アイヌが嫌になったことはありません。アイヌだからって理由で嫌な思いをしたことがないの。たぶんそれは幼少期に聞かされた父の言葉が刷り込まれているからだと思います。「アイヌであることを恥ずかしいと思うんじゃないよ」という。私は運が強いタイプなんでしょう、いろんな人に助けられて育って、いまはアイヌの歌をうたって、アイヌの文身をして、アイヌ語を勉強して教えてもいる。生活は楽ではないけど、やりたいことをやれているのは凄く恵まれていると思うんです。だから、悩んでいるアイヌの子が私のところに相談しに来たら、自分の話をするかもしれない。最終的にはその子が考えて自分で解決することなんだけど。

アイヌの文身には様々な呼称があるが「シヌイェ」がよく知られている

八谷さんが自分に文身を入れるのは、伝承活動という意識もあるんですか?

アイヌ文化の伝承のためにやっているつもりは一切ないですね。最初は、アイヌの文身をした人を見たことがなかったから、だったら自分に入れて見てみたいという好奇心がありました。いまは、きれいになりたいという気持ちで入れています。自分が目立ちたくてやっている。目立ちたいから入れるのは誠実じゃないと思いますか? でも、昔のアイヌの女も目立ちたい、きれいになりたいという気持ちだったと思うんです。だったら同じですよね。アイヌ語を学んだり教えたりする活動は、自分たちの言葉を伝えて残していこうという気持ちがあるから続けていることなんだけど、文身はそうではなく、個人的なこと。わざわざ山に行って白樺とアオダモを採って、伝統的な方法で入れようとする人はいないでしょ。私だけがやっていることがひとつある。そこに凄く優越感があるんですよ。その先の希望としては、文身をしてアイヌの衣装を着て、ふつうに街を歩いて、きれいだと思われたい。

口の文身は、みんな驚くでしょう。

いま私、写真のプロジェクトをやっているんです。アイヌの衣装を着て、口に文身を描いて、街で出会った人に写真を撮ってもらう。「あなたのイメージするアイヌの写真を撮ってください」と言って。そうするとその人なりのアイヌ像が出るんです。私はただ、言われたことをして写真を撮ってもらう。最初のころは一眼レフで撮ってもらっていたんだけど、使い方に慣れていないとそれだけで相手が緊張するから、iPhoneに変えたんです。いま、十数人撮ってもらったけど、やっぱり偏りが出ます。「木のそばで祈ってください」とか、どうしても自然や祈りといったイメージがあるんですね。で、写真を撮ってもらったあとで、毎回、私は決まって聞くんです。「恐いですか? きれいですか?」と。

みんな、なんて答えますか?

「ちょっと怖いです」と言う人もいれば、「でも、アイヌの人ってそんな感じですよね」と濁す人もいる。「きれいです」と言った人はまだいないけど、続けてやっていくうちにいつか言ってくれるかもしれないと思って。

アイヌ語は伝承のため、文身は自分のため。では、マレウレウ* での音楽活動は八谷さんのなかでどういう位置づけなんですか?

* アイヌの伝統的なウポポ(歌)を再生し、伝える女性グループ。2010年、ミニアルバム「MAREWREW」を発表後、活動を本格化。2012年、フルアルバム「もっといて、ひっそりね。」をリリース。2016年にはファースト・ミニアルバムを新たに録音し、ボーナストラック4曲を追加した「Cikapuni(チカプニ)」をリリース。2016年、NHK(Eテレ)「オトナの一休さん」の音楽を大友良英のプロデュースで担当(同年、サントラ発売)。マレウレウはアイヌ語で「蝶」の意

伝承活動として紹介されることが多くて、もちろんそうなんだけど、私はメンバーが凄く大事で、一緒に歌ってるのが楽しいんです。伝承していくことと個人的なことの中間みたいな。アイヌ語も文身も歌も、どれも大事。

今日、文身を入れるところを見せてもらったけど、あんなに血が出ていたのに不思議とグロテスクに感じませんでした。入れはじめてから終わるまで1時間ぐらい、無言で見入ってしまいましたね。

不思議なんですよね。いままで入れるところを見せた人も、最初は「見るの恐い」と言う。でも、いざ始めると私も相手も真剣で、終わったらふたりともフーッとなる。何かを一緒にしたような気持ちになるんですよ。