日本アメカジ文化の系譜 石津謙介&祥介 日本ファッションを作った男

日本のアメカジが世界中から注目を集めている。そんな文化はどのような歴史を経て今に至るのだろうか?日本メンズファッションを作り上げてきた先人たちの歩み。

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aug 14 2015, 12:27pm

Photo:Kazumi Kurigami

現在日本発のアメカジファッションが、世界中で高い評価を集めている。90年代に生まれたストリートブランドと呼ばれるブランドが黒人ラッパーや、世界トップのモードブランドのデザイナーを魅了している。また、岡山のデニム、眼鏡の鯖江など、その職人によるハイクオリティーな完成度が認められ、世界中のブランドからオファーが届くという現状がある。

イタリアで開催されているピッティ・ウォモ、ドイツのブレッド&バターなど、世界の展示会での注目度は年々増していることは各ファッションメディアで伝えられているかもしれないが、先日スウェーデンでセレクトショップを営む全身入れ墨だらけの青年と話す機会を得たのだが、アメカジへの入り口は『アウトサイダー』などの定番アメリカンムービーから入ったようだが、掘り続けていくうちに日本ブランドに辿り着き、そのショップの8割を日本のアメカジブランドで固め運営しているという。その理由はマッチョなイメージと繊細さを持つクオリティーだという。
一般的にアメカジといえば、アメリカ人のカジュアルファッションの略語のはずだが、どうやら日本人はそれをサンプリング&ミックスにより、アップデートし、今やアメリカよりもアメリカ然としたスタイル&アイテムを打ち出すようになっているように世界の人々には映るようだ。
この現状は、もちろん現代のデザイナーや職人の際立った才能とセンスがあってこそ認められているのだろうが、単純にそれだけでもないはずだ。そこには先人が紡ぎだしてきた文化の土壌、歴史があった上で、それを賞賛したり、反抗したりを繰り返し、今世界から評価を集める状況に至ったはずだ。
そこで、今回日本のアメリカンカジュアル、メンズファッションを築き上げてきた人々の話に耳を傾ける日本アメカジ文化の系譜 をお送りしたい。

戦後、日本文化を一から作り上げる過程で、VANという日本初のトータルファッションブランドを立ち上げ、様々な概念やスタイル、アイテムを生み出し定着させた故石津謙介氏について、その功績を謙介氏とともに成し遂げた長男である祥介さんに語ってもらった。アイビーファッション、TPO、トレーナー、スニーカーなど数々の文化を生み出し、現代でも定着するに至ったストーリーに迫る。

まず、VANをスタートさせる前、つまり謙介さんが、戦前の日本において、どのようにファッションと関わり合い、どのようなライフスタイル、趣向を抱いていたのかを教えて下さい。

石津謙介は岡山の紙問屋の次男として、1911年に生まれます。まあ簡単に言うと商家のボンボン息子で、大学の入学とともに上京するのですが、今でいう完全な軟派学生ですよね。時代でいうとモボモガ、つまりモダンボーイ、モダンガールと称された人々がカンカン帽に白いスーツという出立ちが流行し、謙介もそんなファッションにのめり込んだ青春時代を過ごします。大学卒業後、実家の紙問屋を継ぐという話になるのですが、時代は日中戦争へ突入する中、パルプが入らなかったり、統制法などで、紙が自由に売買できなくなった。つまり紙問屋を続けることが困難になります。お金持ちのファッション層、つまり鹿鳴館に出入りするようなヨーロッパの正当な社交場のスタイルに憧れていたモボモガが相当数いたのですが、物資が足りなくなったり、一億総国民服、男は軍服、女はもんぺという制服時代に突入していくので、ここでファッションの文化も一旦ストップします。謙介は紙問屋も続けることもできず、日本では働く場所がないということで、それならばと憧れの中国に5年間行くことになります。

日中戦争に突入する中、なぜ中国に憧れを持ったのでしょうか?

当時中国には、上海、天津、ハルピンに租界都市があったんです。つまり、アメリカ人、フランス人、イギリス人、イタリア人など世界中の人々が近隣に居住し経済活動を行うことが可能な都市があったんです。戦時中にも関わらず、競馬やジャズクラブがあったりで、遊び人の集まりみたいな側面もあった場所です。謙介は、欧米の文化に対する憧れが強かったので中国の租界都市に行けば、そんな人々の文化に触れられる、そんな思惑があり憧れていたんだと思います。そこで天津の租界都市に在住し、今のレナウン、当時の佐々木営業部という会社の肌着などを、日本人が経営してる洋品屋の仕事に就くことになります。謙介は様々な国の人と積極的に仕事をし、英語も習得してしまうなど、この時代に異国の文化に触れることになります。しかし敗戦後、いくら租界都市とはいえ中国人から報復される危険性が出てきて、日本に帰国せざるを得ない状況になります。日本に持って帰れるものはバッグひとつだけで、他の財産はすべて手放さなければならなかった。そんな切羽詰まった状況で初めてアイビーリーガ出身の人と出会います。それがアメリカ軍として、日本人の帰国の手続きに関しての仕事をしていたオブライエン中尉です。もちろん、さまざまな国の人にも影響されていたんですが、中でもこのオブライエン中尉との出会いは印象的だったようで、アイビーリーガの人々のファッションやライフスタイルについて根堀り葉堀り聞いていたようです。

日本に帰国後40年代後半から、一気にアイビーリーガの人々のファッションにのめり込んでいくのですね?

今の時代感だとそう思うかもしれないですが、実はアイビーファッションを打ち出すには、そこから10年以上の月日が経ったあとなんです。思想という面では、アイビーリーガというものへ憧れを抱いていましたが、敗戦後の時代背景です。日本に帰ってからは、天津で働いていた繋がりで当時のレナウンにまず入社します。そこでは、肌着やセーターを作ったりと、まだアイビーリーガのファッションをという段階ではありませんでした。

社会背景も含めて、実現するにはいくつもの課題をクリアしなくてはならなかったということですね?

そうですね。敗戦後ということもあり、日本の社会はまだまだ光が見えないトンネル時代でした。戦争の後遺症がもちろん続きます。洋服でいえば、戦中は一億総国民服という時代から、敗戦直後は、大学生までは全員詰襟しか着たことがない、社会人になっても親が作ってくれた紺の背広上下で1年中1着で過ごすという時代が続いていくことになります。だからこそアパレルブランドを立ち上げるというのも現実的ではなかったのですが、レナウンで2、3年勤めた後、1950年頃、そこにいた3人の同僚と独立しVAN JACKETの前身である石津商店を大阪で始めます。戦後5年くらいで、ようやく社会が上向きになっていきそうだということが感じられたんだと思います。

では、その当時アメリカの洋服も日本に輸入され、入ってきていたのですか?

石津商店を始めた頃はまだほとんど入ってないですね。軍の放出品が、御徒町とか神戸のガード下とか、中古品を中心に流れていました。いわゆる闇市です。闇市での情報や、駐留軍の軍人とその家族の生活ぶりや、アメリカのファッション誌、『メンズウエア』や『エスクワイヤ』などは手に入れることができました。世間にアメリカの文化というものが、少しずつ浸透していくことになります。戦前は英国が憧れの国。国会から政治のシステムから着るものまで。スーツはサビルローだし、とにかく憧れは英国でした。戦後トンネルがあけてからはアメリカを目の当たりにして、負けたはずのアメリカを、こんな国があるんだと、いっせいに日本中がアメリカを向きはじめます。音楽だってそうだし。マッカサーが下地を敷いたっていうのも大きかった。

では音楽や映画などのカルチャーは、どのようなアメリカの文化が浸透し始めていたのでしょうか?

50年代の音楽というとエルビス・プレスリーと連想する人も多いかと思いますが、我々にとってはちょっと後のイメージ。戦前ビッグバンド系のスウィングジャズと連動したダンスブームがあった影響で、トロンボーンのトミー・ドーシー、クラリネットのベニー・グッドマンなどへ憧れを抱いていたので、戦後はその流れで大人はモダンジャズですよね。映画ではジェームス・ディーンという印象が強いかと思いますが、当時は、ほとんど西部劇しか入ってきていない印象でした。やはり勧善懲悪的なストーリーの、日本でいう時代劇のような内容が親近感を持て分かりやすかったんだと思います。その頃のアイドルというとジョン・ウェインでしたね。ただ音楽も映画も、ファッションとリンクしていたかというと、日本ではそこまで関連性がなかったと思います。その後アメリカでは、マイルス・デイビスなどが、黒人なりにアイビーをアレンジしたスタイルを、エクストリームアイビーなどと呼ぶように、ファッションとの結びつきが感じられますが、日本ではまだまだ、ファッション、音楽、映画などが個別の文化として捉えられていて、多少ジャズとの連動感はありましたが、今ほど密接ではなかった時代です。

そんな社会状況の中、石津商店ではどういったコンセプト、商品展開でスタートするのですか?

コンセプトとしては、単品メーカーという色が強かったので、トータルで提案するブランドとしてのコンセプトは確立されていませんでした。アイテムとしては重衣料が中心で、テーラードジャケット、コート、スラックスなどを中心に始めます。その作り方も今からすると独特かもしれませんが、工場に作りたいものを発注するというのではなく、石津商店内にテーラーの職人を集めます。戦前はモボモガのためのスーツ、戦時中は国民服を縫っていたテーラーの人ですので、彼らが縫えるものからスタートしたわけです。お世辞にも、アイビーとは似ても似つかない紳士服からのスタートでした。戦前は、先にも述べたようにイギリスのサビルローをテーラー屋さんは目指していたわけなので、できるもの、縫えるものが限られていたわけです。

では徐々にアイテムラインナップが増えていくんですね。

そうですね。石津商店は単品メーカーだったけど、ニットや、シャツなどサイズに左右されないものも増えてきて、後半にはスタジャン、スウィングトップとかは作れるようになっていたし、テーラードジャケットでもアイビーと名付けた型も存在していたんです。その後、いよいよ石津商店からVANブランドとしてスタートするわけです。

石津商店からVANへの移行。ここで初めて日本のファッションブランドが誕生するのですね。経済白書で「もはや戦後ではない」と発表されたのが1956年ということを考えると、世の中は大分復興に向かっていたということですね。

はい。ただメンズのファッションというとまだまだで、未開拓の状態でした。トータルコーディネートやトータルイメージで提案するブランドは日本にはまだなかったと思います。シャツ屋さんはシャツだけを、帽子屋さんは帽子だけをという単品メーカーしかなかったんです。そんな中、ひとつのコンセプトを持った、ブルックスブラザーズのようなトータルイメージで打ち出す日本初のメンズブランドとしてスタートします。

VANがトータルブランドとしての道を歩むことを決意するに至った経緯を教えて下さい。

謙介はVANでモードやファッションをやろうとしていたのではなくて、日本人が世界基準の洋服が着られるようにしたい。つまり文化として日常の生活に密着した風俗を広めることをコンセプトとしていました。そこで、天津でオブライエン中尉から聞いた、そしてその後アメリカのファッション誌からインスパイアされたアイビーを打ち出すのです。風俗として日本人に洋服のいろはを広め定着させるには、まずはアメリカ人のみんなが着てる服、ベーシックなものを参考にして広めないとそれは叶わないと考えたからです。そこでアメリカンスタンダードと考えたときに、一番ちゃんとそれを体現し着ているのが、アイビーリーガであるという、着眼点を持ったんです。アイビーの人は上層階級。学生で言えば、そのほとんどが富裕層の若者だから、それを参考にするのがよかろうということでアイビーを紹介しようと考えたわけです。テイスト的にはジャケットスタイルが中心で何よりその特徴は、細身というシルエットだったのかもしれません。それまではダボっとしたシルエットだったんですが、ビシッとした細身のシルエットを提案します。もちろん今見ると野暮ったい部分もありますけどね。

現在でも出版される『MEN’S CLUB』(婦人画報社、現ハースト婦人画報社)の記事。石津祥介さんがモデルとして、アイビーファッションを体現した記事。

なるほど。風俗としてアメリカ人のような世界基準の洋服の着こなしを、日本人にもスタンダードスタイルとして定着させるべくVANを通じて広めたかったということですね。では、例えばブルックス ブラザーズを輸入するといった発想はなかったのでしょうか?

当時は1ドル360円だったということもあります。日本に持ってきても高額になるし、規制もされていたので輸入が難しい時代だったのです。ただ最も大きな理由としては、日本人の体格の問題がありました。当時の日本人の平均身長は今よりも低かったため、例えばブルックス ブラザーズに行っても、ボーイズサイズしか着れないんです。シャツはともかく、スーツは大きすぎてとても着れない。だったら似たものを作ってしまえって単純な発想でもありました。

具体的にはどんなアイテムを作っていたのですか?

いわゆるボタンダウンシャツにコットンパンツというのが代表でした。わかりやすいのはボタンダウンシャツで、これはイギリスの文化ではなく、ブルックス ブラザーズが考案したと言われているアメリカンスタイルのシャツです。いわゆるポロ競技の際、風邪で襟が靡かないようにという発想で生まれたものなので、それまでのドレスシャツと比べると、スポーティーで、とてもカジュアルなアイテムです。コットンパンツにも言えることですが、それまでのウールのスラックスと比べると大分カジュアル。ただこの頃は、みなさんがイメージされるアイビーよりも、ずっとフォーマルな印象があるかもしれません。今の時代でいうと、ちょっとしたビジネススタイルと思われるかもしれません。そんな印象が大きく変化するのが、謙介がはじめて渡米した、59年以降になります。ここで改めてアイビーリーガを目の当たりにします。そしたら40年代に中国で見たオブライエン中尉のアイビースタイルから、明らかに進化している。スーツでもディテールはそんなに変わらないんだけど、細身になってるせいか、着ている人の印象が大きく変わってる。何より学生は、とてもカジュアルなスタイルをしていることに衝撃を受けます。スーツというよりかはカットソーだったり、スニーカーだったり。この体験後VANはそれまでの高級なビジネススタイルという方向性から、若年層に向けたカジュアルウエアブランドへとテイストを変更し、今皆さんが思い描くようなアイビースタイルを提案していくことになります。そして今も皆さんがアメカジという名で呼ぶ日本のカジュアルスタイルの礎を築いていくことになります。

VANのシャツ&タイが掲載された記事。ボタンダウンシャツについてのキャプションは、当時スポーティーな印象のあったものを、ビジネスシーンで着用するよう提案する熱い一節が見受けられる。『MEN’S CLUB』(婦人画報社、現ハースト婦人画報社)より。

確かに、ここで謙介さんが違うファッション、例えばイタリアやフランスなどのファッションを持ち込んでいたら、現代の日本のメンズカジュアルのスタンダードの概念も変わっていたかもしれませんね。

日本の中ではまだ何もなかった時代だから、目立ったのでしょう。決してアメリカでは注目される服ではなくて、一番見慣れた服を日本人が行ってアイビーといってやり始めたらわけですから、ミラノ、ロンドンファッションでもよかったし、おそらく何をもってきても、それなりに広がったんだと思います。そう考えると何か違うファッションに着目していたら、今の日本において、まったく異なるファッション文化が形成されていたかもしれません。しかし、先ほども述べたように謙介は洋服を持ってきて広めるというより、日本人が世界で通用するファッションの着こなしができるという風俗を広めたかった。もちろん天津でのオブライエン中尉との出会いもあったと思いますが、風俗として広めたいという思想があったからこそ、アイビーファッションに行き着き提案していくことになります。

そして、謙介さんが実際にアメリカで体感したアイビーリーガたちのカジュアルなファッションを日本人が着こなせるような提案になっていくのですね。そこで、トレーナーが開発されるのですね。

そうです。まずは、アイビーリーガが着ていたTシャツからで、それまでは日本にはカットソーを着るという習慣がなかったですし、Tシャツを街で着ている人もいなかった。Tシャツを作ろうにも当時はシルクスクリーンなどないので、謙介が白い下着を買ってきて、それをお風呂場で染めてカラフルTと銘打って売っていたり、文房具のマジックが出たばかりだったので、マジックでTシャツに直接絵や字を書いて、小売店に持って行って販売してました。その後、アイビーリーガの人々が学内で着ているトレーニングウェアをトレーナーと銘売って発売します。本来はスポーツをするときに着るスウェットシャツを、街着として日本でも提案する。同じように当時ズックと呼ばれていた運動用の靴をスニーカーと名付けて、それまでは革靴しか街で履いていなかったのですが、運動靴を概念を変えて紹介する。まさに時と場所と状況に適した、TPO(time,place,ocassion)という言葉を打ち出した謙介らしいファッションを提案していくことになります。このように謙介が行いたい風俗を作るっていうコンセプトが具現化されていきます。

1965年「アイビー特集号」の『MEN’S CLUB』(婦人画報社、現ハースト婦人画報社)の表紙。
みゆき族と呼ばれた人々の街角スナップの模様。『MEN’S CLUB』(婦人画報社、現ハースト婦人画報社)より。

この謙介さんの打ち出しは社会において、どのように広がっていったのですか?

ひとつは、VANの立ち上げとともに現在の『メンズクラブ』の前身である『婦人画報増刊 男の服飾』が創刊されたことが大きかったです。これは、VANが発行部数の半分を買い取るという約束で始まったということもあり、ともに成長していくことになります。創刊後には、VANの通信販売を10品番ほど開始しているなど、影響力は大きかったんです。もうひとつが、お客さんによる口コミです。百貨店の中にVANコーナーが出来始め、それが一軒増え、二軒増えといった感じで徐々に拡大していく。東京と近畿地方だけでしたが、あるお客さんがVANを買ってくれて、それを違うお客さんに紹介してといった口コミが大きかったです。それでも、当時は知る人ぞ知るVANという印象でした。大きく変化し始めたのは謙介が渡米した後、60年代にカジュアル路線に変更してからで、みゆき族という社会現象を巻き起こします。それでも『メンズクラブ』を読んでいた人は、東京でさえまだ一握り程度という状況だったと思います。しかもいわゆるボンボン学校の。当時はまだ学生がアルバイトをするような時代ではないから、親が買ってくれる層しかファッションに興味を持つ人はいないんです。そんなこともあって、銀座のみゆき通りにあるVANショップ周辺に行かないと、せっかくオシャレをしていても誰も認めてくれないわけです。今で言う若者たちが渋谷、原宿に集まるのと同じですよね。アイビーに興味がない他のクラスの人は、価値を見出してくれないですから。そうして銀座のみゆき通りにアイビーファッションに身を包んだ若者が集まる、みゆき族と呼ばれた現象で1964年くらいのことです。

1965年、婦人画報社、現ハースト婦人画報社からリリースされた『TAKE IVY』の初版本。

そして1965年、いよいよ祥介さんが『TAKE IVY』を作るんですね。

僕は当時婦人画報社、現在のハースト婦人画報社に入社し、『メンズクラブ』の編集として数年働き、その後VANに入社しました。僕らの世代は、まさにアイビーファッションに夢中だったこともあり、本場のアイビーリーガをダイレクトに伝えたいということで、この写真集をくろすとしゆき、長谷川元らと作ることになります。この取材の際にアイビーリーガから最も影響を受けたのが、ライフスタイルでした。例えば学食でトレーを持っていて、自分で好きなものをお皿に盛るという、今でいうビュッフェ形式の食事の仕方であったり、車や自転車などの乗り物であったり、謙介が提唱するように運動着を構内で普通に着ているその姿だったりが、とにかく僕としては、あり得ないくらいカッコよく見えたんです。もっというと、学生なのにこんなに肉を食べれるのかと(笑)。そりゃ体格も違ってくるし、戦争してもかなわないだろうなんて感じていました。ただ、当時のアメリカでは、極々普通のことですので、何がカッコよくて、僕らが何にそんなに興奮しているのか理解できないといった感じでした。別にアイビーリーガの人々が特別オシャレをしていた訳でもないですし、そのライフスタイルも日常の一コマでしかないので、アメリカ人からしたら本当に平凡な写真だったんだと思います。今の日本ではビュッフェ形式などは普通にあるし、別に何がカッコいいんだなんて思うかもしれませんが、当時の日本の社会背景からすると、やはりとても憧れるものでした。

『TAKE IVY』より。学食にてバイキング形式で、食事をする模様のワンカット。

そんな『TAKE IVY』を出した時の日本での反応はいかがだったのですか?

実はそんなに受けませんでした(笑)。ただ、その後西武百貨店の中に、実際にビュッフェ形式のカフェテラスができるなど、徐々に日本にもアイビーリーガのファッションとともに、ライフスタイルも浸透していく感じはありました。VANも、この後66年から69年まで、とても業績を伸ばすことになります。したがって、ある種当時の日本では『TAKE IVY』はとてもエッジィーな表現手段として捉えられていたのかもしれませんが、徐々に広がっていく過程は実感できていました。

『TAKE IVY』を出版されたのが65年。時代背景でいうとこれ以降、世界ではベトナム戦争の裏側で、ヒッピーと呼ばれる文化が攻勢を成すかと思いますが、VANとしてはどのような変化をしていくことになるのですか?

やはりヒッピーの影響は日本でも大きかったです。70年代初頭になると、みんな急に髪の毛が伸び始めて、ズボンの裾が広がり始めていきました。そんな中VANは基本的にはアイビーファッションを貫きます。一方でアメリカのジーンズブランド、ラングラーを日本で展開し始めます。日本ではヒッピーの影響などで、初めてジーンズというものが欠かせなくなってきたので、別会社としてラングラージャパンを立ち上げたのです。つまり、この流れや考え方でいうと、VANはトレンドのブランドとして興盛を成していた60年代後半までと比べると、明らかに影が落ち始めています。しかし、会社の業績はウナギ登りでした。そんなこともあり、例えば経営の面で仕事ができる人、人事の面のスペシャリストなどが入ってきて、クリエティブに特化しただけのかつての方針では、会社を支えきれない状況になっていくので、それに合わせた経営方針がとられることになります。これが、クリエイティブな面だけを打ち出したい謙介などの意向と対立し、作りたいものが作れず、昨年の実績で売れたものしか作れないといった悪循環を生み出していくことになります。今思えば金を生むことに意識がいくと、何でもそうですが文化的価値が下がっていく。そして金を生む人は服のことはわからないですから。しかし、ビジネス的には一時的にはですが、その後ドンドン拡大していきます。確かに、謙介のいう風俗を作りたいということを考えると、みんなが着てくれないとそれは実現できない。カッコイイことだけをしていれば楽しいのだけど、別に流行服を作りたかったわけではないので、ビジネス的な拡大にも踏み切りました。本当はクリエイティブが分かる人だけでやり続けるのがブランドとしては最も良いのですが、それでは社会貢献にもならないですしね。ただ、その拡大路線の方法を間違えたことは確かです。

60年代後半から70年代、VANはビジネスが拡大し、クリエイティブだけに集中できない中でも、様々な風俗を打ち出していくことになりますよね。

ファッション的には、大きな変化はなかったと記憶していますが、プロモーション活動で日本に新たな風俗をもたらします。例えば、今でいうショッピングバッグですが、ブランドオリジナルのものをVANが初めて生み出しました。これが大ヒットし、その後この手法がすっかり定着していくことになります。こういう風俗を作るという活動に謙介も含めて熱中していきます。

洋服という意味では好きなものが作りづらい環境の中、プロモーションでその才覚を発揮していくわけですね。そしてますます会社の業績は上がっていく。そんなジレンマの中、70年代が進んでいくのですね。

そうですね。70年代中盤に入るとそのジレンマがより顕著になります。確かにトレンド面ではヒッピー文化がより成熟し、ヘビーデュティーなどアウトドアアイテムを中心としたファッションが流行し、さらにはコム デ ギャルソンやヨウジヤマモトなど、それまでメンズ服では、ほとんど存在していなかったデザイナーズブランドが誕生し流行し出します。クリスチャン ディオールなどはありましたが、男の服にデザイナーという人が関与していったのが、この時代です。そんなトレンドにVANのアイビーファッションが押されたというのはありますが、最も大きかったのが、いわゆるトレンドであったVANが、衣料品産業として変化してしまうという、ビジネスの形態に最も問題があったと思います。もちろんブランド名こそ量販店に卸すものと差別化していましたが、全国どこの駅でも買えるような展開をしていくことになってしまったため、もはやVANブランドはカッコイイものではなく、誰もが知るブランドへと変化してしまったことが最も大きかったです。結果として、ブランドイメージとしては地に落ち、次第に好調だった売上も毎年下がり続けるようになります。とうとう1978年には倒産するところまでいってしまいます。

英語版として2010年に復刻された『TAKE IVY』の表紙(POWERHOUSE BOOKS)。
『TAKE IVY』(POWERHOUSE BOOKS)より。

なるほど。ブランドの維持がビジネス的にも難しくなってしまったんですね。ただ、VANがやってきたことが確実に日本、そして世界中に大きな影響力として、今尚受け継がれています。直接的なことでいうと『TAKE IVY』が2000年代になって世界中で出版されることになります。このような現象をどのように捉えていますか?

ビジネス的にはおかしくなってしまったのですが、謙介が体現した風俗としてのファッションは、VANがなくなったとしても、皆さんの生活に根付いていたということだと思います。例えばポロ ラルフ ローレンが日本で展開されだして、のちにローレン氏が、「VANが日本にアイビーファッションを根付かせてくれていたおかげで、ラルフ ローレンを日本で広めることに苦労はなかった」と、嬉しい言葉をもらったこともありました。『TAKE IVY』についてもとても驚かされました。2000年代中盤以降、アメリカのファッション関係のデザイナーたち、例えばトム・ブラウンなどが、みなバイブルとして『TAKE IVY』を取り上げたせいなのか、オークションなどで高値も話題となり、英語版で出版されることになりました。その後、オランダ語版、韓国語版と世界中の言語で出版されることになります。それが話題となり『ニューヨークタイムズ』で取り上げられたりと、60年代の日本であまり話題にならなかったのですが、2000年代に入ってから世界中での評価の方が大きかったというのは、なんとも不思議な感じでした。なんでアメリカにこのような写真が残ってなかったんだ、って『ニューヨークタイムズ』に書いてあるのですが、当時、アメリカ人にとっては極々普通の学生の普通のファッション、普通のライフスタイルだったわけで、わざわざ写真を撮って残しておくほど価値があるものではなかったのではないかと。その後、アメリカ国民全体が、自分たちの過去の文化に目を向け始めた時代の流れも大きかったんだと思います。とにかく、初版から50年近く経った現在での評価には、びっくりしたというのが素直な感想です。

日本においてもVANが作ってきたものが、ライフスタイルにすっかり定着しています。そしてVANで育った現代のデザイナーが世界で注目をされている。

VANが謙介がやってきたことは、何度も言うようですが、風俗としてのファッションを広めたかった。したがって、当時アメリカでオニツカやフジクラと呼ばれていたスニーカーを、日本の街用のアイテムとして定着させる。階級意識の強いアメリカでは、アイビーリーガがいくらカッコよかったとしても、ブルックス ブラザーズやJプレスは、低所得者の人は買わないブランドだし、アイビースタイルを真似るということはなかなかないので、誰もが着れるものとして日本で定着させたり、男の人がファッションに興味を持つこと自体を否定されていた時代に、衣食住すべてにおいて豊かに成長すべきだと提案したりと、概念を変化させ定着させていく。まさに謙介がやってきたことはTPOって言葉に尽きるかもしれないです。なにせVANが提案した洋服といえば、決してブームになるような奇抜なものではなく、今でいうユニクロにあるようなベーシックなものしか作ってこなかったわけですからね。全国のVAN一期生の息子や孫の世代が世界で評価されたり、日本のファッションが世界で評価を集めているという話は、謙介はきっとあの世ですごく喜んでいることだと思います。

石津 祥介

VAN創業者、石津謙介氏の長男。1935年岡山市生まれ。ファッションディレクター。明治大学文学部中退後、桑沢デザイン研究所卒。その後、婦人画報社、現ハースト婦人画報社『メンズクラブ』編集部を経て、1960年(株)ヴァンヂャケット入社、主に企画・宣伝部と役員兼務。1965年の写真集『TAKE IVY』著作。
現在は日本メンズファッション協会常務理事、日本ユニフォームセンター理事歴任。石津事務所代表として、アパレルブランディングや、衣・食・住 に伴う企画ディレクション業務を行う。また、VICE JAPAN立ち上げの際のN.Y.のパーティーにて出席してもらい、挨拶をお願いしたという繋がりもある。

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