伝説的なフォトグラファーにしてNYアート界のミューズ、マリポールの素顔

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伝説的なフォトグラファーにしてNYアート界のミューズ、マリポールの素顔

NYアンダーグラウンドの生ける伝説とも呼べるマリポールが、この度600部限定(シリアル番号付)となる自身の作品集『Maripola X』を発表した。世界的にも再評価の機運が高まりつつある彼女に、Noiseyのエディターであるキム・テイラー・ベネット(Kim Taylor Bennett)がインタビュー。

うるわしきマリポールと、彼女を愛したアーティストたち

「マリポール」と聞いて、一体どれくらいの読者がピンとくるだろうか? 本名はマリポール・アルメ。1947年にフランスで生まれた彼女は、パリの美大エコール・デ・ボザールでアートを学んだ後、1976年にニューヨークへと移住すると、映画プロデューサー、ファッション・デザイナー、 スタイリスト、フォトグラファー、そして時にはモデルとして、多岐にわたり活躍した。

マリポール本人。自身の写真集 『Maripola X』より

スタジオ54(脚注①)やマクシズ・カンザス・シティ、あるいはアンディ・ウォーホルのスタジオ「ファクトリー」に出入りし、マドンナ、デボラ・ハリー(ブロンディ)、グレイス・ジョーンズといったスーパースターの躍進の影には、いつもマリポールの姿があったという。1979年には、ピースシンボルや十字架のチャームがついたラバー製のブレスレットを専門に扱うアクセサリー・ブランド「Maripolitan Popular Objects」を創立し、大ブームを巻き起こした。また、マドンナの2ndアルバム『ライク・ア・ヴァージン』で提唱したセンセーショナルなビジュアル・イメージは、80年代はもちろん今もなお手本となっている。そう、80年代のNYを彩ったカルチャー・シーンは、マリポールの存在を抜きにしては語れないのだ。

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1980年末、マリポールは元恋人の映画監督/写真家であるエド・ベルドグリオと共に、映画『DOWNTOWN 81』(1981年)を手掛けた。脚本を『インタビュー』誌の元編集長グレン・オブライエンが書き下ろし、苦境のミュージシャン、そしてグラフィティ・アーティストである主人公をなんとジャン=ミシェル・バスキア(脚注②)が演じている。NYのロウワー・イースト・サイドやアルファベット・シティに住む前衛アーティストたちの「とある一日」にフォーカスした作品で、当時は資金難によりお蔵入りに。一部の音声は失われていたが(バスキアの声はソウル・ウィリアムズが吹き替えた)、このフィルムは2000年になってようやく掘り起こされ、日の目を見ることになった。

そんなNYアンダーグラウンドの生ける伝説とも呼べるマリポールが、この度600部限定(シリアル番号付)となる自身の作品集『Maripola X』を発表。5月には久々の来日を果たし、原宿の「BOOKMARC」にてサイン会も行うなど、世界的にも再評価の機運が高まりつつある彼女に、Noiseyのエディターであるキム・テイラー・ベネット(Kim Taylor Bennett)がインタビュー。意外な人物との恋バナも飛び出した、貴重な対話をお楽しみいただきたい。

Velvet Eyes Films からマリポール(『Maripola X songs』)による“Tuesday”

Interview:マリポール(Maripola)

上は『Maripola X』に掲載されている“Tuesday”を基にパリのミュージシャン、レオナルド・ラスリー、アクセル・ウォーストーンとコラボしたビデオ作品。作中でマリポールは、ハスキーな声で彼女の詩“Tuesday”をビートに合わせて、読んだり、歌ったりしている。タリア・マヴロスが監督を務めており、ビデオは「放埒な自由、若者の気ままさ、そこから生まれる快楽主義」といったマリポールのイメージにインスパイアされているのだそう。マリポールのビデオにふさわしく、NYの夜に欠かせないミュージシャン出身のDJ、毛皮や網タイツ、コルセットを身にまとい60年代と現代を足したようなセクシーな女性、アリックス・ブラウンが出演している。

マリポールは今でも写真を撮り続けており、ジュエリーのデザインも手掛けている。数年前にはマーク・ジェイコブスとのコラボで、コレクションも発表。メッシュのネックレス、アール・デコから発想を得たリング、派手なヘアピンのレットの新作、そして14カラットのUFO型クラスプもある。

い合わせ先 email:maripol@atomicglamour.com

彼女が手掛けたすべてのファッション、音楽、写真は、ベッドで美しく絡み合う手足やとろけた体のように交わる。それはまさにアートがあるべき姿――お互いに影響を与え合っている姿なのだ。

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キム:この本の冒頭の詩「私はニューヨークの危険をかぎつける。危険もまた、私をかぎつける」。この一節がとても好きだわ。一般的にニューヨークはもう危険とは思われていないけど、あなたが目まぐるしく活動していた70年代や80年代初期は、どんな様子だった?

マリポール:当時、「ニードル(注射)・パーク」と呼ばれる公園の近くに住んでいたの。ドラッグをやってる人でいっぱいだった。ユニオン・スクエアは、ひったくりに遭わずに通ることは出来ない。それほど物騒だったわ。ジャンキーたちはドラッグのためなら何でもするし、市の財政は破綻状態。マフィアが市を牛耳ってた。フォード大統領は「ニューヨークなんか放っておけ」と言ったわ。

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当時のニューヨークの音楽界やファッション界は快楽主義だったけど、あなたもそんな感じだった? たとえばドラッグなんかには手を出さなかったの?

スタジオ54では、偽のコカインが巨大なスプーンから降ってきたわ! 恋人はドラッグをやってたけど、私は人がやってるのを見てるだけで嫌気がした。もちろん、試したことはあるけど。私は安上がりなデートの相手として有名だったのよ! それから、周りの人の状態に同化することでも知られてた。誰かがコカインをやってたら、私も一緒に元気になるし、ダウナー系の場合は、私もまったりするの。あと、私は近視だったけど、コンタクトレンズをやめて、メガネも嫌でかけてなかったから、私の目には街は美しく映ってた。ある日、コンタクトをつけて街を見てみたら「オー・マイ・ゴッド! なんて汚くてヒドい所なの」って思ったわ。

ハハ、近視が街を美しく見せていたなんて面白いわね。当時好きだった音楽は? ディスコ? スタジオ54には、いつも足を運んでたの?

ええ、でもその前は違う場所に行ってた。マクシス・カンザス・シティとかね。街にはいろんなジャンルの音楽があふれてたから、どんな音楽も聴けた。近所にキッド・クレオール&ザ・ココナッツが住んでたから、いつもライヴ音楽を聴いてたわ。私はジャズが好きだった。兄弟がブルース好きだったし、ブルー・ノートの近くに住んでたこともあったから、ニューヨークに来る前からルー・リードやデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックなんかを聴いてた。

デボラ・ハリーは? 私にとって彼女こそ完璧なポップ・スターだわ。

彼女は大好きよ。私はブロンディの『恋の平行線』のアルバム・カヴァーでスタイリストをしたんだけど、あまり好きにさせてもらえなかった。彼女は白いワンピースを着ていて、私はアクセサリーを少し加えただけ。スカートがちょっと長かったから、何とか上げてもらおうとしたわ。写真によってスカートの丈が膝より上のものや下のものがある。

グレイス・ジョーンズとは今でも友達よね。初めて彼女に会った時の印象は?

彼女はすでにパリのトップ・モデルで、ケンゾーやイッセイ・ミヤケのショーに出てた。彼女は大スターだったわ。まるで彫刻のように非の打ちどころのない長い脚に美しい胸と肩。何をとっても特別だったし、すごくお洒落。初めて会った時、彼女がクローゼットを見せてくれたんだけど、本当に驚いたわ!

写真集にあるマドンナのショットについて聞かせて。

あれは彼女の1stアルバムのカバー写真だったんだけど…ボツになったの。レコード会社の人が、「マドンナらしさが足りない」って。他にもローマの女神のような、長いドレスを着た美しい写真もあったけど、結局、カジュアルな服に戻された。

あなたのラバー・ブレスレットは80年代を象徴するアクセサリーになったわ。なぜラバーだったの?

1979年に東京へ行った時、工業地域をぶらぶらしていて思ったの。配管用の部品をアクセサリーに変えられるんじゃないかって。それに、シャワーを浴びる時も外さなくていいから、実用的だわ。

上半身裸でバスタブの中にいるヴィンセント・ギャロの繊細で無防備な、素晴らしい写真があるけど、この写真を撮った時のシチュエーションを教えて。

(恥ずかしそうに肩をすくめて)さあ、それは言えないわ…。私たちはつき合ってたの。恋人と別れた後、ヴィンセントがそばで支えてくれた。前の恋人が忘れられずに落ち込んでる時、彼が気を紛らわせてくれたの。彼は私に恋をしてたのに、私ったら彼にヒドい態度をとってた。ヴィンセントは若い頃、私たちが行くレストランでウェイターをしていて、私のいるテーブルに来ては色目を使ってた。それで私は(一緒にいる男性を)「この人、私の彼なの」って言ってたわ。つまり、彼が繊細になってる時にそばにいてあげたのは私にとって当然のことなの。だって、彼は私が一番つらい時に…。

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…あなたを支えてくれてた。いい写真ね。

彼は私のセクシーな写真をたくさん撮ってた。その後、エイズが世に現れて、彼は結婚した――当時はそういう風潮だったの――そして、彼の結婚相手の女性が嫉妬して、私の写真を処分しちゃったのよ!

これ、あなた? 素敵なボディだわ。

そう、昔はね(笑)。乾杯! 私は露出狂なの! これが証拠よ。最近亡くなったロニー・カトローンはアンディ・ウォーホルのアシスタントをしてた。ある日、彼が私にこう言ったの。「モデルや女優はたくさんいるけど、ニューヨークで一番セクシーなのは君だ」って。ウォーホルのファクトリーに行った時は、アンディが「あのセクシーなコは誰だ?」って私のことをロニーに聞いたって彼が教えてくれた。その日の格好は、ただのチューブドレスとハイヒールだったんだけど。

「イタリアでボートに乗った時の写真。私の股に彼女の脚があって良かったわ(笑)。 右にいる女のコ、ベネディクトはフランス人のモデルで、彼女以外はみんなスイス系フランス人よ」

ポラロイド写真を撮り始めたのはいつ? ポラロイドが好きな理由は?

1977年に恋人だったエドが、最初のポラロイドカメラをくれた。彼は暗室で写真を現像したり、色を調整したりしてたけど、私はそんなことしたくなかったの。ポラロイドは、すぐに写真が見られるし、私にとって最高のツールだった。それに、遊びでも仕事でも、とても忠実な「相棒」だったわ。

いつも写真に残していたのは、周りのすべてが、はかないものだと感じていたから?

ええ、でも、頭で考えてたことじゃなく、無意識にそう感じてたんだと思う。だけど、映画『DOWNTOWN 81』に関しては、あの時が永遠に続かないとわかってた。それ以外のことは、つかの間でもよかった。いつも動き回って、写真を撮ってたから。私がアメリカ人じゃないことも関係してると思う。自分は異国にやって来た新顔で、新世代のパイオニアなんだと感じてた。視野がアメリカ人より少し広く、驚きの発見がある。一生この国にはいないかもしれないって自覚があるから、写真を撮るのよ。今、みんながiPhoneでやっているようにね。

現代の人々がいつも写真を撮り、シェアしてることが、想像力や、実際の経験を妨げてると感じることはない? みんな記録することに忙しくて、人生を楽しんでいないと感じることは?

アンディ・ウォーホルは「誰でも有名になるのは15分間だけ」と言ったけど、そのとおりよ。私は、今でも銀塩カメラを使ってる人が好き。カメラマンの中には一切デジタルカメラを使わない人がいる。こういうものがいつまで持つかはわからないけどね。私の祖父は写真家だった。叔父さんも、父親もよ。家族が昔に撮ったガラス板写真を今でも持ってるわ。

『DOWNTOWN 81』について「つかの間の時」と感じたのは、たくさんの人々がギリギリの暮らしをしていたから?

彼らが死ぬという意味ではないわ――実際は多くの人が亡くなったけれど――多くの人が捕まって、スタジオ54も閉鎖された。街には大量のドラッグがあふれてた。ドラック漬けなんて脳が耐えられると思う? ニューウェーブが到来したあの時代はとても重要だったと思う。でも、また別のブームが来るから、あまり長続きはしないと思ったの。私たちの世代につながる道を最初に切り開いたのは、ビート・ジェネレーション。お金はほとんど持ってなかったけど、アメリカ各地を旅してた。彼らは類まれな詩人よ。どの世代にも、素晴らしい詩人がいるものだわ。

約20年ぶりに『DOWNTOWN 81』のフッテージを観た時は、どんな気持ちだった?

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胸に迫るものがあった。後世に残すためにあの映画を作って、今ではカルト映画になってる。今度出すHD版では、より細かなディティールも見られるわ。

あなたのファッションに影響を与えた人は?

いないわ! 若い時にテレビでたくさん映画を見てた。私が最も影響を受けたのは、50年代のイタリア映画よ。(ロベルト・)ロッセリーニ監督のモノクロ映画に出てくる――D&Gは今ごろやってるけど――スリップや胸の開いた服。映画からは誰でも影響を受けやすい。あと、私の母も個性的でオシャレだった。

あなたの方が先輩だからおかしな話だけど、友人があなたの写真集を見てダッシュ・スノウ(脚注③)を思い出すと言ったの。彼とは知り合いだったのよね?

ええ、若い頃よく家に来てた。彼のポラロイドには、私が大きく影響してると思う。すごく優しい子だったのよ。亡くなって悲しいわ。近頃、ドラッグに反対する気持ちが強くなってる。フィリップ・シーモア・ホフマン(脚注④)も亡くなったしね。子供たちはドラッグで親を失ってる。ドラッグで得するのは誰? お金に執着する人たちよ。私は声を大にして子供たちに言いたい。ドラッグをやってはダメ――手を出そうとしてはダメよ。肉体的にも精神的にも中毒になって抜け出せなくなる。私はすごく保守的になって、今じゃマリファナも吸わないわ。

街が変化することで、あなたとNYの関係性も変わってきたと思う。今も昔と同じようにインスパイアされることはある?

私が育ったのは、パンクやラップ、ヒップホップが次々と出てきた時代よ。今でもその頃の話し方や態度が出るから驚く人がいる。新たな世代が、何も生み出してないと考えるのは不公平だわ。新しいデザイナー、新しいアーティスト、新しい音楽、新しいものすべてが、とても刺激的よ!

左:「ハルは私たちのオモチャだった。彼は私たちの欲求を満たしてくれる存在で、ゲイで、 でも当時はハッキリしてなかったのかも。とにかく、よくちょっかいを出してたわ。 美しい青年に、みんな母親のように世話を焼いてた。彼は今ギリシャに住んでる。 きっと私たちが彼を愛し過ぎたせいね!」 右:「彼はウォール街で働いてた。とってもハンサムなの。彼とは今も時々会ってる」 Edited by Kohei UENO

NYアンダーグラウンドの生ける伝説とも呼べる女性アーティスト=マリポールが、この度600部限定となる自身の作品集『Maripola X』を発表。マドンナやデボラ・ハリーのスタイリングを手掛け、アンディ・ウォーホルやヴィンセント・ギャロからも愛されたミューズが、今だからこそ振り返る当時のアート・シーンとは。

脚注①スタジオ54:かつてニューヨークのOn West 54 Streetに存在したナイトクラブ。アンディ・ウォーホルをはじめフランク・シナトラ、マイケル・ジャクソン、エルトン・ジョンといった錚々たるセレブが足を運び、イケてない人間は入場を拒否された。後に映画化もされている。

脚注②ジャン=ミシェル・バスキア:ブルックリン生まれのハイチ系アメリカ人アーティスト。アンディ・ウォーホルとの蜜月は有名で、グラフィティの先駆者としても評価が高く、今でもユニクロなどでアートワークが使用されている。1988年、ヘロインのオーバードーズにより27歳の若さで死去。

脚注③ダッシュ・スノウ:「バスキアの再来」とも呼ばれたNYアート界のサラブレッド。写真やグラフィティにも精通し、彫刻やポラロイド作品を手掛けてマルチな才能を開花させていたが、彼もまたドラッグのオーバードーズにより27歳でこの世を去っている。

脚注④フィリップ・シーモア・ホフマン:アメリカ出身の俳優。ポール・トーマス・アンダーソンやトッド・ソロンズ、スパイク・リー、コーエン兄弟といった個性的な監督たちの作品には欠かせない名俳優だったが、2014年2月、ヘロインなどのオーバードーズで死去。46歳だった。