イタリアのラディカル・ディスコが挑戦した「魂の解放」
Interior of L'Altro Mondo, designed by Pietro Derossi, Giorgio Ceretti and Riccardo Rosso, Rimini, 1967. (© Pietro Derossi)

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イタリアのラディカル・ディスコが挑戦した「魂の解放」

60年代後半、グルッポ9999(Guruppo 9999)、スーパースタジオ(Superstudio)UFOなどのグループは、皆、芸術や社会変革の触媒になりうる新たな空間を探求していた。クラブこそ、彼らが提示する、既成概念を覆す新たなビジョン実現の最前線を担うスペースであった。

1960年代中頃、イタリアン・デザインは激動の真っ只中にあった。「ラディカル・デザイン」は既存の体制に不満を抱く建築家による運動だ。彼らは機能性ばかりを追い求める建築アイデアに背を向け、自らの内に沸き上がるフィーリングにフォーカスした。

60年代後半、グルッポ9999(Guruppo 9999)、スーパースタジオ(Superstudio)UFOなどのグループは、皆、芸術や社会変革の触媒になりうる新たな空間を探求していた。クラブこそ、彼らが提示する、既成概念を覆す新たなビジョン実現の最前線を担うスペースであった。

ベトナム戦争に対する抗議活動、国内の南北で生じた大きな経済的格差、拡大するする極左勢力の扇動など、国内の政治不安、社会不安に抗うべく、ラディカル・デザイン運動は物理空間の捉え方についての新たなシステムを提案した。後に「パイパーズ」として知られるようになる建物は、まだ生まれたばかりのカウンター・カルチャーを満載したディスコだった。

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根っからユートピア主義の建築家たちが望んだのは、似たような考えを持つ人間が集い、交流できるスペースだった。その最初のひとつが、1965年、ローマにオープンしたパイパー・クラブ(The Piper Club)だ。マンリオ・カヴァリ(Manlio Cavalli)とフランチェスコ・ジャンカルロ・カポレイ(Francesco Giancarlo Capolei)の構想の下、このスペースは実験的マルチメディア表現の受け皿になり、幻惑的な視聴覚テクノロジー、ポップ・アート、音楽が混在する無秩序なクラブになった。

イタリア中のクラブが、すぐに、パイパー・クラブを追いかけ始めた。60年代後半までに、ラルトロ・モンド(L’Altro Mondo)、トリノのパイパー(The Piper)、フィレンツェのマッハ2(Mach 2)、そしてグルッポ9999のスペース・エレクトロニック(Space Electronic)などのスペースは、急進的な演劇、アンダーグラウンド・ミュージックのパフォーマンス、数え切れないほどの芸術的試みを開催していた。スペース・エレクトロニックには、全自動菜園まで完備されていたそうだ。

しかし、これらの運動は短命に終わった。70年代中頃まで営業を続けられたスペースは片手で数るほどしかなかった。そのせいでラディカル・ディスコは、アンダーグラウンド社会史のなかでも、忘れられたも同然の存在になってしまった。

ロンドンのICAで、2015年12月8日〜2016年1月10日まで開催されたエキシビション『Radical Disco: Architecture and Nightlife in Italy(ラディカル・ディスコ:イタリアの建築とナイトライフ)』では、ラディカルにデザインされたスペースにフォーカスし、当時の写真、設計図など、今でもインスピレーション・ソースになり得るさまざまな資料が展示された。

なぜ、ラディカル・ディスコだったのか。エキシビションのキュレーター、キャサリン・ロッシ(Catharine Rossi)に話を聞いた。

「スウィング・チェアに座る恋人たち、フォルテ・デイ・マルミにあるバンバ・イーサにて」designed by UFO(1970年) Photograph by Carlo Bachi, © Lapo Binazzi, UFO Archive

エキシビションで紹介された建築物の社会的、政治的背景について教えていただけますか。その頃、イタリアでは何が起きていたんでしょう。

キャサリン・ロッシ:エキシビションで取り上げた建築家のほとんどが「ラディカル・デザイン」に関わっていました。それは1960年代後半、イタリアの社会情勢に対する異議申し立ての一種でした。他国と同様、イタリアでも1968年に多くの騒乱が発生しましたが、第二次世界大戦敗戦を経験して、イタリア国内の変革を求める声が各方面に広がっていたのです。

大量消費社会となり、ベトナム戦争が激化した時代でしたから、それらに呼応して、国内でも多くの動きがありました。抗議活動の波は10年に及ぶ社会不安へと姿を変え、1970年代になると「赤い旅団」による国内テロが多発しました。しかし、既に1960年代中盤から、戦後イタリア社会の発展のあり方に対する懸念は徐々に強まりつつあったのです。誰もが戦後の高度経済成長の恩恵にあずかったわけではありませんが、現在の景気~不景気の連続に少し似ているかもしれません。

また、当時、自己顕示型消費は最高潮に達し、巨大な経済的発展がありましたが、それも、都市部と北部だけの話です。このエキシビションで取り上げたかったのは、多くのイタリア国民が大事にしていた価値観に対する疑問の萌芽です。建築の価値に対する疑問も同様です。

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引きでみるパイパー・クラブの内観(ローマ、1965年) © 3c+t Fabrizio Capolei, Pino Abbresciae Fabio Santinelli (face2face studio), Corrado Rizza

これらのクラブは時代をリードていましたが、建築家たちは、意図的にこういう麻薬的体験を創ろうとしていたのでしょうか。

ローマのパイパーはとても重要でした。こういった新しいタイプの娯楽スペースはニューヨークやロンドンや他の都市でも生まれはじめていましたが、建築家が先導したのは初めてで、他のどこよりも、自由で形式に捉われないスペースでした。その後、リカルド・ロッソがデザインしたトリノのパイパーがオープンします。彼は、このようなスペースを、本質的には政治的、革命的な行為の顕われとみなしていました。この理由の一端には(これらの建築の)解釈の読み込みが挙げられます。彼らは、文学者であり、メディア研究の先駆けであった、マーシャル・マクルーハンを勉強していました。マクルーハンは、新たなテクノロジー、なかでもマルチ・メディアによるアプローチが人間の潜在能力を拡張する、と提唱していました。

知覚に過剰な負荷をかけようとしたのでしょうか。

それこそ、彼らの主意でしょう。こういったスペースで個人は、照明、音楽、群衆に飲み込まれます。個人の集まりが時空を共有しながらも、思考はそれぞれ個人ごとに発展し、そうして初めて創造の自由が解き放たれていくのです。こうしたクラブにはオーバーヘッド・プロジェクター、フラッシュ・ライトがありました。それらの設備が、断片的なイメージを映し出していました。このような体験を彼らは否定的にとらえず、むしろ解放的なテクノロジーとして考えたのです。

ラルトロ・モンドでのライブ演奏(リミニ、1967年)© Pietro Derossi

60年代に発生したカウンター・カルチャーは、どの程度イタリアで受け入れられたのでしょう? クラブにはどのような人たちが出入りしていたのですか。

ラディカル・デザインの建築家の中には、渡米してアンディ・ウォーホルと会ったり、エレクトリック・サーカスを見たりした建築家もいました。彼らはサンフランシスコのフィルモアにも行ったようですが、それは彼らがクラブをオープンする前のです。彼らはカウンター・カルチャーのヴァイヴスや何もかもに共感したようです。そのヴァイヴスは、間違いなく破壊的で政治色の強いカウンター・カルチャーでした。

どんな人がそのクラブに出入りしていたのか、という質問ですが、そこにいたのは地元の芸術家、建築家、ミュージシャン、世界で活躍していた俳優、そのクラブでパフォーマンスしていたアーティストたちがいました。いろんな場所で出入り禁止を食らっていたリヴィング・シアターなど、アメリカの劇団もそのひとつです。

このようなクラブが、後に発生したディスコ・ブーム、アンダーグラウンドなエレクトロニック・ムーヴメントまでもたなかったのは残念ですね。

そうですね。私たちがこのエキシビションで取り上げたラディカル・ディスコは、新しいテクノロジーの使い方という点で、時代を先取りしていました。他のアート、例えば演劇やファイン・アートとの連動もそうですし、自由という点でも群を抜いていました。ディスコと呼ばれてはいたものの、まだ、海のものとも山のものともつかなかったディスコ草創期のアイデアがあり、産業化と産業にまつわるすべてを拒否していましたから、建物がなかろうが、創造性の爆発がありました。その多くが純粋にコンセプチュアルだったんです。

これらのスペースは閉店してしまいましたが、1980年代初頭に盛り上がったクラブは意志を継ぎ、イタリアはそれ以来、エレクトロニックミュージックに大きく貢献するようになりました。