ブラックメタルよりもドス黒いウルトラメタル

MAYHEMのユーロニモスも脱帽するしかなかった、ブラックメタルよりもドス黒いウルトラメタル。麻薬戦争に疲弊した1980年代のコロンビアで生まれた、粗野で暴力的で涜神的なサウンドは、ノルウェイジャン・ブラックメタルよりもリアルだった。何が若者をそこまで駆り立てたのかをPARABELLUMのメンバーに聞く。

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dec 19 2017, 3:44am

PARABELLUMの貴重な演奏シーン.

80年代の国際郵便サービスと劣悪な音質のデモテープによって、メデジンのプリミティブなメタルは、疫病のように広まった。戦禍で疲弊した国ならではの粗野で混沌としたサウンドは、居心地のいい先進国にいながら未知の暴力を音楽に昇華させようと苦闘していたヨーロッパのミュージシャンたちに、強烈な印象を与えた。REENCARNACIÓNやPARABELLUMのような汚らしくて攻撃的なバンドの雰囲気は、メタル特有のサブジャンルのひとつ〈ウルトラメタル〉として、ヘヴィメタルとエクストリームメタルのミッシングリンクを形成した。何をやらかしているのか自覚していなかった、若き実験的なミュージシャンたちがつくりだしたサウンドは、意図せずして、80年代メタルの最も原理主義的なサークルにまで響いた。そして、音楽制よりも勢いに勝る楽曲は、エクストリームメタルのなかでもひときは過激で賛否の分かれる〈ノルウェイジャン・ブラックメタル〉の創始者たちにまで影響を与えたのだ。

母なる死、PARABELLUM誕生

80年代初頭、ブエノスアイレス、マンリケ、アランフエス、ヴィスタ・エルモサといったメデジン周辺のストリートを、黒づくめのだらしない若者のグループが闊歩していた。彼らは、デーモンの顔、ペンタグラム、ヤギの頭、逆十字がプリントされたTシャツを着ていた。彼らが通り過ぎると、敬虔な市民たちは、十代の荒ぶる魂を鎮めるために、十字を切り、自らのロザリオを握りしめて祈った。極端なまでにカトリックで保守的な当時のメデジンにおいて、彼らは、迷える子羊であり、サタニックな不良だった。それゆえ、警察は、彼らを常に警戒していた。しかし、彼らが悪事を働いていたかというとそうでもない。彼らは、新たな都市文化を形成しつつあったバンドの音楽を聴くために、〈ラス・ノタス(las notas)〉と称される集まりを開き、テープレコーダーやレコードプレイヤーを囲んでいただけだった。

80年代、BLACK SABBATH、JUDAS PRIEST、MOTÖRHEADに触発されて、メタルならではのサブジャンルを形成するバンドが続々と誕生した。METALLICA、SLAYER、VENOM、POSSESSED、MORBID ANGELなどのバンドは、新しいサウンドを生みだし、拡散した。彼らのサウンドは、ヘヴィメタルや、それ以前のハードロックよりも速く、ダークでヘヴィだった。スラッシュ、デス、ブラックメタルのはじまりだ。この新たなムーブメントは、メデジンの若者のドン底の現実にマッチした。そして、そこから刺激を受けた若者たちは、期せずしてムーブメントの担い手になったのだ。

1982〜87年、MIERDA、REENCARNACIÓN、ASTAROTH、SACRILEGIOらによって、アンダーグラウンド・コロンビア・メタルのシーンが始まった。それは、ボロボロの楽器の持ち方すらわからず、無手勝流で楽器をつくってしまうような若者たちが始めた、あまりにも直観的なシーンだった。そして、舞台になったのは、血塗られた麻薬売買の最前線であるメデジンの貧相な地域だ。社会の最底辺で、明日をも知れぬ生活を続けざるを得ない若者たちは、怒りやフラストレーションのはけ口を、クレオールで原始的なメタルに見出したのだ。

この時期に生まれたバンドのなかでも、REENCARNACIÓNとPARABELLUMは、伝説だ。ビクトル・ラウル・ハラミージョ (Víctor Raúl Jaramillo)、通称ピオリン(Piolín) 率いるREENCARNACIÓNは、実験をいとわないコロンビアン・メタルバンドの筆頭だ。バイオリンやクラシック・ギターをフィーチャーした彼らの1stアルバム『Reencarnación』(1988)がそれを証明している。同アルバムに収録された「Funeral del Norte」は、ヘヴィでスラッシーなだけでなく、混沌とグラインドネスまでブチ込まれた。セルフ・レコーディングにもかかわらず、彼らのファースト・アルバムには、荒々しいヘヴィなサウンドが詰め込まれている。彼らは、ギターのネックが捻れていようと、良質なメタルをつくれることを証明したのだ。しかし、ウルトラメタルのなかでも、ひときわ神がかっているのはPARABELLUMだ。ブラックで不吉な混沌としたサウンドは、メデジンに蔓延した残忍性や不安を、ある意味、予見していただけでなく、反逆性、疎外感、誠実さによって、コロンビアのメタルヘッズの模範的偶像になった。PARABELLUMのサウンドは、エクストリームメタルというイデオロギーの信奉者にして、ノルウェイジャン・ブラックメタルの第一波を象徴するMAYHEMのリーダー、〈ユーロニモス(Euronymous)〉として名を馳せたオイスタイン・アーセス(Øystein Aarseth)の耳にまで届いた。

MAYHEMが1995年にリリースした『Deathcrush: Dawn of the Black Hearts』 のジャケットは、メンバーであるパル・イングヴェ (デッド) の死体を発見後、ユーロニモスがそれを撮影した。彼は1991年に自殺した。

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呪われたバンドの伝説

1982年、〈ラ・ブルハ(La Bruja)〉こと、カルロス・マリオ・ペレス(Carlos Mario Pérez)がギターを手にし、ドラマーのトマス・シプリアノ(Tomás Cipriano)と演奏を始めたのは、彼が16歳の頃だった。当初、このバンドは〈JUANA LA LOCA〉と名乗り、メデジンのブエノスアイレス地区でリハーサルをしつつ、少ないながらも楽曲を制作していたが、彼らにはシンガーがいなかった。シンガーを発掘するために、彼らは、オーディションを開催した。その場にやって来たのは、〈ラモン・レストレポ(Rámon Restrepo〉という褐色の痩せこけた男だった。彼は、PRABELLUMというバンド名に触発され、あたかも、地獄の業火に飛び込む魔女のごとく、バンドで歌うことを決意したのだ。その後、彼らは、ギターにジョン・ハイロ・グティエレス(John Jario Gutiérrez)を迎え、狂気の行軍をスタートさせた。

彼らの音楽は、当時、完全に新しかった。PRABELLUMに並ぶほどアグレッシブかつダークな演奏で、オーディエンスを狂乱させるバンドは見当たらなかった。だが、彼らを際立たせたのは、カトリック教会を恐れずに攻撃した歌詞だった。PRABELLUMは、当時の〈祝福された〉アンティオキア社会に真っ向から挑戦したのだ。

サタンと死の聖母が教会の祭壇に降臨する

死の聖母の杖が彼女のはらわたを突き刺し、サタンがペニスから射精する

天空は灰色と化し、大地が揺れ、終末が迫る 中心には数千の兆し、おお! 忌まわしき救世主

永遠の救済、鋼の戦士、邪悪な魔法使い

永遠の糾弾、獣はあらゆる人間性を破壊するだろう

嘆きに包まれ、地獄の天使は天国で自慰に耽る

ヘビの舌、ヤギの角を持ち、老人の顔をしたドワーフを従える

PRABELLUM “Engendro 666”, Sacrilegio (1987).

「俺たちの音楽はとても暴力的でけたたましかった。そして、サタニックだ。俺たちほど直接的でダークな歌詞を誰も書かなかった」とラ・ブルハ。この有名人と会話して最初に気付くのは、彼の演奏と同じく、彼の発話のスピードが恐ろしく速いことだ。会話のあいだ、彼は、しばしば質問を置き去りにして歌い、演奏した。彼は、背の低い恰幅のよい男性だ。かぎ鼻で、髪の毛は、16歳だった頃と同じくらい長い巻き毛だ。当時との違いといえば、長い巻き毛が白くなったくらいだろう。また、彼は、足を引きずっていた。疑いようもなく、彼はそのニックネーム通りに〈正義〉を司る人物であり、メデジンの生ける伝説だ。そして、50歳になった彼は、現在、おばと暮らしている。自らの人生を音楽に捧げた男だ。HERPESやORGANISMOSといったバンドの結成はさておき、今、彼は、ギターを教えている。彼は、もはや、若かりし頃のようにサタニックでも涜神的でもないが、彼が「われわれに終身刑を宣告した間違った社会」と呼ぶ世間については、いまだに、極めて批判的なままだ。ラ・ブルハによると、かつて、『Tradition, Family, and Property』という雑誌が彼を批判する記事を掲載したそうだ。記事によると、彼は、ギターを教えずに、「悪魔崇拝とセックス」について教授していたらしい。

80年代を通して、警察はメタルヘッズを犯罪者として扱い、彼らに、盗人、薬物中毒者、平和の脅威、というレッテルを貼った。彼らが犯した罪といえば、半狂乱でのヘッドバンギング、サタンに祝杯を捧じることくらいだった。ラ・ブルハは、メデジンにある全ての監房を知っているという。さらに、彼が何度も警察に拘束されたので、警官たちが彼を〈マーリン〉〈キリストの敵〉と呼ぶようになり、時には、警察の車両が通りすぎるさいに、法の番人たちが窓から手を突き出して彼に向かって手を振ることもあったという。

PARABELLUMが『Sacrilegio』を制作すると、呪われたグループとしての知名度が急激に上昇した。当時、コロンビアのメタルバンドには、民族音楽用のスタジオ以外にレコーディングできる場所がなかった。彼らは、EPに収録された「Madre Muerte」と「Engendro 666」の録音に、民謡の音源制作で有名な〈Discos Victoria〉を選んだ。ラ・ブルハは制作開始から8日後、いかにしてスタジオのオーナーが彼らを追い出したのか、笑いを交えて回想した。どうやら、録音中のテープが呪われているせいで、そのエリアで不可思議な超常現象が起きていたらしいのだ。その恐怖はあまりに大きく、そのエリアのオーナーたちは、あらゆるミサを開き、悪魔を追い払おうとした。バンドは、レーベル〈Discos Fuentes〉〈Sonolux〉に全てを託すつもりだったが、ラ・ブルハによると、「彼らはすでに怯えていた」そうだ。サタニック・バンドがアルバムを出そうとしている、という噂はすでに広まっていた。そのうえ、ジャケットは、街でもひときわ崇拝されている宗教的シンボル〈聖母マリア〉のネガティブなイメージだった。誰も彼らと仕事をしたがらなかった。

その後、彼らは〈Discos Victoria〉へと戻ったのだが、ラ・ブルハによると、「俺たちは、プロデューサーと本気で仕事を完成させようとしたが、彼がテープをデッキにセットしたとたん、そこから火が吹きあがった」そうだ。本当に呪われているかのようでもあり、聖水が溢れたかのようでもあったという。「その男、キンダ・ペクリアルは、仕事を完遂したくなかったんだ」と彼は付け加えた。ところが、幸運にも〈Discos Victoria〉の経営者は、スタッフたちの説得に同意し、1987年3月、ついに、『Sacrilegio』を500枚リリースした。これはもしかすると、数々のトロピカル・ミュージックなかでも、ひときわ輝かしい〈14 Canonazos Bailables〉を制作したレーベルによる、最も涜神的な作品かもしれない。

だが、実のところ、スタジオでの苦難は超常現象でもなんでもなく、当時の彼らの状況からすれば、当たり前のことだった。この頃、メタルグループのほとんどが録音技術を知らなかったので、同様の、呪いとも苦労ともつかない経験をしていたのだ。コロンビアにおいて、スタジオのスタッフたちは、LA SONORA DINAMITA、THE LATIN BROTHERS、JORGE VELOSA Y LOS CARRANGUEROS DE RAQUIRAなど、サルサやバジェナートの仕事には慣れていたので、録音機材は、最大音量の強力で音の大きいギター、どぎついドラム、しわがれたボーカルのために調整されていなかった。そのせいで、その時代のアルバムは、荒々しさが際立つ粗いサウンドが生まれたのだ。

1988年、PRABELLUMは2枚目のEP盤『Mutacion por Radiacion』をリリースした。このEPには2曲しか収録されていない。曲を聴くと、AGNOSTIC FRONT、MINOR THREAT、BLACK FLAGなどのハードコア・パンクの多大なる影響がうかがえる。同年、内部事情により、バンドは解散した。ラ・ブルハによると、その後、彼は、ギターを練習するために閉じこもっていたという。彼のおばは、彼と、彼の音楽探求をサポートすることを決意し、彼がメデジン・ファインアート・スクールで学べるよう援助した。「俺は、ギターを学ぶのがいかに難しいかがわかった。そして、自らが音楽の才能に恵まれていないのを痛感した。俺は、遅れをとり、音符をハミングできるようになるまで4年かかった。克己心と意志でやり遂げたんだ」とラ・ブルハ。今や、彼は、ギターの名手として名を馳せている。PARABELLUMの後、彼はドラッグの合法化や寛容といった社会的テーマを掲げて、ハードコアやグラインドコアのプロジェクトを続けた。ラモンとジョン・ハイロは、BLASFEMIAを結成した。このバンドはいまだ注目を集めている。シプリアノはメデジンの外れにある土地で暮らしており、メタルから遠ざかっている。

2005年、無名のレーベル〈Blasfemia Records〉は、『Tempus Mortis』をリリースした。2枚のEPとリハーサルをまとめたコンピレーションだ。PARABELLUMを語るさいに突き当たるのは、コロンビアのアンダーグラウンド随一の伝説的バンドでありながら、彼らのライブは3度のみ、リリースしたレコードもそれぞれ2曲入りのEPを2枚だけ、という奇妙な事実である。

おそらく、MASACREは、世界的知名度を誇るコロンビアのデスメタル・バンドだろう。80年代末、パブロ・エスコバルの爆弾がメデジンを破壊し、数百人の若者が殺し屋になることを選んだのと同時期に、MASACREは生まれた。彼らの音楽に備わった残忍さ、力強さによって、バンドは自らの血で溺れそうな、瀕死の母国の苦悶を描写した。バンドのデビューアルバム『Requiem』 (1991) の裏ジャケで、シンガーのアレックス・オケンド(Alex Oquendo)は、『Sacrilegio』のカバーがプリントされたシャツを着ている。メデジンにある彼のタトゥースタジオで施術しながら、アレックスは電話に応じてくれた。彼曰く、PARABELLUMの歌詞が記載されたノートが回覧板のようにファンの間を巡った結果、彼らは面喰らい、粗野で恐ろしい音楽をつくり始めたという。

現在、『Sacrilegio』のオリジナル盤はメタルの聖杯として、みんなが探している。「俺たちは500枚の『Sacrilegio』を1枚1,500ペソや2,000ペソで売るのに10年くらいかかった... 今じゃ大体、500,000ペソで売られてる」とラ・ブルハ。

世界中で鳴り響くウルトラメタル

多くの音楽好きにとって、1985年は〈ライヴ・エイド(Live Aid)〉の年だ。そのメガ・コンサートを企画したのはクイーン、マドンナ、スティング、U2といった当時のドレンドを牽引するミュージシャンたちで、彼らは、アフリカの貧困を撲滅するために団結していた。だが、メデジンのメタル・ファンにとって、1985年といえば〈バトル・オブ・ザ・バンド(Battle of the Band)〉だ。そこで勃発したのは、PARABELLUM、MIERDA、SPOOL、LASER、EXCALIBUR、若手のKRAKENのファンたちの軋轢がうんだ歴史的な衝突だ。出演したバンドは、最優秀賞の〈レコード制作〉を賭けて、正々堂々とプラサ・デ・トロス・ラ・マカレナで競い合った。参加者のなかには、みすぼらしい地区から現れたウルトラメタルのグループと、中流地区出身のハードロック・グループがいた。このイヴェントの何が間違っていたのだろう?

この日、ソフトロック・グループのSPOOL (産業ロックを奏でる彼らは〈CASPOOL〉と揶揄されていた)が登場すると、聴衆は、ポップなバラードにひどく腹を立てた。そして、一部の聴衆は、これ以上ないくらい友好的に、その気持ちを岩や砂の詰まったビンで表現した。ウルトラメタルの演奏から、ヘヴィメタルの演奏に変わると、産業ロックのお手本のようなバンドと中産階級を憎む聴衆たちが刺激されてしまったのだ。「DIOMEDES DÍAZとNAPALM DEATHがごちゃまぜにされたみたいだった」とラ・ブルハは描写した。すぐさま、コンサートは、暴動に様変わりし、消防士が散水してその場を収めなくてはならないほどだった。結局、受賞者は不在。PARABELLUMは、暴動の元凶にされた。しかし、このイヴェントの重要なポイントは、暴動よりもなによりも、メデジンにおける、クラシックなハードロックとエクストリームメタルの断絶が明らかになったことだ。「あの日、俺たちは、メタルにはパワーがあり、新しいカルチャーを生んでいたことを実感したんだ」とアレックス・オケンド。

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同様の不和は世界中で発生していた。80年代、だらしない恰好をした、にきびだらけの、数えきれないほどの十代の若者たちは、よりヘヴィで、よりやかましく、反テクニック志向の、凝り固まった音楽観念に囚われない音楽をつくり始めていた。音楽産業に異を唱えるかのような彼らのサウンドは、スラッシュメタル、デスメタル、ブラックメタル、ハードコア、グラインドコアなどのエクストリームで個性的なジャンルとして結実した。

1988年、MASACREのドラマーで、その来歴からして伝説的な故マウリシオ・モントヤ(Mauricio Montoya)、通称〈ブル・メタル(Bull Metal)〉 とともに、アレックス・オケンドは、『Necrometal』を発行した。彼らは、そのジンでバンドをレビューし、情報を拡散した。時を経て、彼らは、他国で活動する、同様のスタイルのジンのスタッフと交流するようになる。彼らは、頻繁にデモテープ、情報、雑誌のコピーを小包に詰め込んで米国や欧州に送り、数か月後に、主にデス、ブラック、スラッシュ情報の詰まった小包を受け取っていた、と自らのスタジオから電話越しにオケンドが教えてくれた。その遣り取りのなかで彼らは、メタルのサブ・ジャンルを発見したそうだ。すぐにみんなが同様の活動を始め、エクストリームメタルは、地球全体にバラまかれたのだ。

彼らがコンタクトしていたメタルヘッズのひとりが、ユーロニモスだ。彼は、少しばかりクレイジーで急進的な男だった。MAYHEMのリーダーを務めると同時に、インナー・サークルを率いていた。90年代初めに姿を現したこのコミュニティーは、悪魔崇拝、異教信仰、古代バイキングの神々を奉じるカルト的イデオロギーを有しており、ノルウェーからのキリスト教排除が使命だと信じていた。さらに、インナー・サークルは、ノルウェイのブラックメタルを統一しようともしていた。IMMOTRAL、BURZUM、GORGOROTH、EMPEROR、SATYRICONなどのバンドがコミュニティに参加していた。そのメンバーたちは、ビールを飲み、森の中で過ごし、音楽を演奏し、コープスペイントに専心していた。当時、この男たちは、平均25歳にも満たない、真の過激派だった。中途半端にサタニックなブラックメタル・バンドを発見しようものなら、彼らは、そのバンドを迫害し、時には、暴力にもうったえた。ノルウェーで、国民の大勢が彼らを記憶しているのは、墓地を荒らし、52の教会に火をかけ、数件の殺人を犯したからだ。その最たる出来事が、1993年、ヴァーグ・ヴァイカーネス(Varg Vikernes,BURZUM)によるユーロニモス殺害だ。彼は、MAYHEMのメンバーであり、BURZUMで全ての楽器を演奏していた男でもある。

アーセスとヴァイカーネスは、両者ともにインナー・サークルのイデオロギーを信奉していたが、両者のスタンスは異なっていた。前者は、悪魔を崇拝する共産主義者とされていた。後者は、異教信仰と国家社会主義を掲げていた。ある晩、ヴァイカーネスは、口論のすえ、23ヶ所、ユーロニモスの体を刺した。彼は、そうしなければアーセスが殺人者となっていただろう、という理由で正当防衛を主張した。その罪により、ヴァイカーネスは21年の懲役刑を宣告されたが、2009年、予定より早く仮釈放された。

教会への放火、キリスト教との戦いとは別に、ユーロニモスは、世界中の音楽情報収集に取り憑かれていた。彼は、オスロでブラックメタルとアンダーグラウンドメタル専門の〈Helvet〉というレコード店を経営していた。世界のどこでMAYHEMのアルバムが取り扱われているのかにも、彼は興味があった。ユーロニモスは、アルバムに住所を同封して、購入者に返信するよう求めた。アレックス・オケンドによると、彼とマウリシオ・モントヤは、MAYHEMのレコードを購入してユーロニモスに手紙を書き、それにユーロニモスが応えたことで、両者が友好関係を築くに至ったという。オケンドとユーロニモスは、音楽、各々の国の政情、生活について語り合った。そして、ユーロニモスは、PARABELLUMとREENCARNACIÓNのダーティで荒削りなサウンドが自らの音楽に影響を及ぼした、と手紙でふたりに伝えたそうだ。

PARABELLUMこそ最初のブラックメタルのバンドだった、と評するのは大げさかもしれない。このジャンルは、ブラジルのSARCÓFAGOや、その名のとおり、英国のVENOMの『Welcome to Hell』(1981) と『Black Metal』(1982) に負うところが大きい。だが、否定できないのは、PARABELLUM、その他ウルトラメタルを象徴するバンドがエクストリームメタル界に生まれたのと、ブラックメタル・ムーヴメントが確立されたのが同時だったという事実だ。80年代、メタルヘッズの大多数は、せいぜい25歳、それ以前の全てを地獄の劫火で焼き尽くすような新しい音楽を生みだし、なおかつ、強烈な反抗心に満ちていた。貧しく保守的なカトリックの国に住んでいたのはもちろんだが、コロンビアの若者たちが特異だったのは、彼らが戦争の残忍さを経験していたからだ。先進国のメタルヘッズが大虐殺の何たるかを理解している気でいたのに対して、メデジンのメタルヘッズは、それを目の当たりにしていたのだ。

ウルトラメタルは、不確実性から生まれた音楽であり、日毎、苦難と暴力に直面しなくてはならない現実に適していた。社会から追いやられ、疎外された若者たちは、カルチャーとしてのエクストリームメタルの進化と深化を経験しただけでなく、麻薬密売と血の匂いが街を飲み込む様をも目撃した。しかし、ウルトラメタルの真の遺産は、同ジャンル信奉者への生き方の手本、暴力の代替たり得るサブカルチャーの土台なのだ。独特で、粗野な録音のウルトラメタルのDIYサウンドは、他国のオリジネイターたちと同じく、エクストリームメタル第1世代として、各サブジャンルの形成に寄与した。当時のコロンビア情勢により、同国の若者たちは、まともな機材でまともな作品を録音し、ツアーするための、リソースやチャンスに恵まれなかった。そのせいで、ウルトラメタル・ムーヴメントは、アンダーグラウンドに止まらざるを得なかった。このムーブメントは、極めて熱烈なファン、原理主義者だけが凶喜ぶカルト・ミュージックにまつわるステレオタイプでもあったのだ。

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