2015年に生前のファイフ・ドーグが語った1990年のこと

「あっちの部屋ではジャングル・ブラザーズ、こっちの部屋ではデ・ラ・ソウル、そっちの部屋ではクィーン・ラティファがセッションしてた」

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16 April 2016, 7:45am
screenshot via youtube

2016年3月22日、A Tribe Called Quest (以下、ATCQ)のファイフ・ドーグ(Phife Dawg)がこの世を去った。享年45歳。

1990年代、ATCQ、De La Soul、Jungle Brothers、Black Sheep、Queen Latifah、その他大勢からなる「ネイティブ・タン(Native Tongue)」の活躍によって、HIPHOPシーンのみならず音楽シーン全体が激変した。なかでもATCQの果たした役割は、いまさら記すまでもなく大きかった。そんなATCQのファイフ・ドーグは、1990年代が幕を開けた1990年をどう過ごしていたのだろう。2015年、生前のファイフが当時を振り返った貴重なインタビューを紹介したい。

1990年には何をしていましたか?

19歳、いや20歳になった年だ。その頃はまだ祖母の家に住んで、まっとうな仕事に就かず、アホみたいにストリートで遊びまわってた(笑)。ファースト・アルバムにも全面的には関わっていない。参加したのは15曲中4曲だけ。歌詞は全部Q-Tip。スタジオにもあまりいなかった。ATCQはQ-Tipとアリがメインだった。ジャロビとはよくつるんでいたけど、調理の専門学校に通う、ってやめちゃったんだ。俺たちはクルーだったけれど、正式に契約をしていなかったんだ。『The Low End Theory』の制作まで、俺はATCQの正規のメンバーじゃなかった。

グループに正式に加わるまではどうしていたんですか?

少しずつ成長していった。両親と祖母の公共料金だとか、いろんな支払いをサポートできるようになってはじめて、自分が何をやっているか実感したんだ。現実的で素晴らしい成果があがる、本気になって取り組むべきことが見つかったのに気付いたんだ。ゆっくりだったけど、着実に成長していった。成長の度合いは人それぞれだろうけど、俺は成長が遅かったんだ。

それはどんなふうに? ただ友達とさわぐだけでなく、実際に何らかのトラブルに巻き込まれたことはありますか?

バカげたことをして、とんでもないトラブルに巻き込まれるようなガキではなかった。時間を守り、他人に敬意を払い、「己の欲するところを人に施す」ようなタイプだった。リンデン通りか192番あたりでずっとたむろしてチンピラじみた真似するよりも、もっとほかにすべきことがあった、俺はビジネスパーソンになる必要があったんだ。自分だけじゃなく、グループを代表しなきゃならなかった。

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当時は何が楽しかったんですか?

クラブ、ライブ、ニックス(Knicks)の試合。ファースト・アルバムのレコーディングはマディソン・スクエア・ガーデン(ニックスのホーム)からほんの1、2ブロックのところにあるスタジオだったんだ。ほかのアルバムはほとんどバッテリーで録音したけど、そこも、マディソン・スクエア・ガーデンから数ブロックだった。

ライブはどこで観ていたんですか?

ザ ・リッツ、ウェブスターホール、いろんなところ。「マース」というクラブもあった。スタジオのセッションがなければ、火曜の夜には決まって、クイーンズ地区の高校時代の友人と一緒にニュージャージーのローラースケート場に通ってた。そこには女の子がたくさんいて、ひたすら彼女たちと喋ってた。スケートなんかしたら必死になりすぎて疲れるからね。

当時の服装を教えて下さい?

ジーンズとティンバーランド定番だった。ジャージもいっぱい持ってたよ。天気によっては、スノーケルのジャケット、春にはスターターのジャケットを着てた。それが俺のパターン。

デビュー・アルバムのレコーディング・セッションにはあまり参加していなかったそうですが、何か憶えているますか?

あっちの部屋ではジャングル・ブラザーズ、こっちの部屋ではデ・ラ・ソウル、そっちの部屋ではクィーン・ラティファがセッションしてた。ATCQにセッションの予定がなくても、ただスタジオでくつろいでいた。ほかのアーチストと仲良くなって、物事の進め方を覚えて、創造力をはたらかせて有意義な時間を過ごしていた。ブース内では笑顔と冗談が絶えなかった。グループはファミリーだった。俺たちにとって「ネイティブ・タン」っていう言葉は、短なるグループ名じゃなくて「ファミリー」の意味だったんだ。

スタジオで酒を飲んだり、タバコを吸ったり、宴会みたいな雰囲気になることはありませんでしたか?

それはなかった。ほかのグループの誰かがそしていても、俺たちは加わらなかった。それはセッションじゃなかったんだ。旨いもんたくさん食べるのはセッションだけど、酒とタバコは違う。

特に記憶に残っている曲は?

Q-Tipに始めて「Footprints」を聴かされたときは、思わず「わぉ、すげぇ!」ってさけんだよ。今でもシングルカットしなかったのが悔やまれる。まあ、何事にも理由があるからね。

そのレコードが発売された月のビルボードチャートのトップ10に入っていたのは、シネイド・オコナー、ポーラ・アブドゥル、マイケル・ボルトン、エアロスミスでしたが、当時はポップミュージックについてどう思っていました?

ジャネット・ジャクソンの大ファンだった。シネイド・オコナーも好きだった。当時はジャンルを問わず音楽全般にとって良い時代だった。俺たちはヒップホップだったけど、それにこだわっていたわけじゃない。特にジャロビは何でもありだった。俺たちはあの「Walk Like An Egyptian」を歌いながら歩き回っていた(笑)。

『Ice Ice Baby』と『U Can’t Touch This』も1990年に発売です。ああいう感じのヒップホップについては?

ノーコメント。ハマーのビデオを観るのは、レオタード姿の女の子を眺めるためだった。何が言いたいかわかるだろ?

もちろんATCQが、ああいうのとは一線を画すものをつくろうとしていたのはわかっています。ポップカルチャーが当時、ヒップホップあるいはラップとして受け入れていたヒット曲に対して異を唱えるような曲を、意識的に創ろうとしていましたよね?

よくもまあ、そこまで想像力がはたらくね。俺たちはやりたいことをやっていただけだよ。ハマーは自然体でエネルギーに満ちていた。それが彼だった。俺たちも同じ。

『People’s Instinctive Travels』の発売から約5か月後に『Momma Said Knock You Out』をリリースしたLL Cool Jと、彼の当時の活動についてはどう思いますか?

LL Cool Jはレジェンドだ。彼の90年代の活躍はすばらしかった。俳優として成功した今も、気が向いたら最高にクールなMCとして活動している。LLとは出身地が同じで、彼がラップをやっていた頃から知っている。俺は彼の音楽を聴いて育ったんだ。いつか成功するのはわかってたけど、これほどビッグになるとはね。

レーベルからいっ般受けする方向に進むのを求められていると感じませんでしたか?

あんまりない。ジャイヴ・レコードは、俺たちが独自の路線を進んでいるのを理解してくれていたハズだ。とにかく自由にさせてくれた。シングル『…El Segundo』で、「聴いてくれ。これがATCQなんだ」と訴えられて、その後は好きにさせてもらえるようになった。一般受けする方向に進むように背中を押された覚えは1度もない。

ATCQは示唆に富んだヒップホップの伝統を受け継ぐグループとして知られています。グループに関する記事には大抵「アフロセントリック(アフリカ中心主義)」という言葉が使われていました。そのような文化に関連する言及は、あなたにとって重要だったんですか? それとも、ただ単にラップしたかっただけなんですか?

ある程度は重要だったことにしておこう。母親には、極めてアフロセントリックに育てられたからね。アフロセントリックな家庭で育ち、クワンザ(Kwanzaa)とか、アフリカゆかりの行事を祝っていた。Q-Tipほど深入りはしてないけれど、特定の物事に順応する方法は身に着けてた。おっしゃるとおり、俺はただラップをやりたかっただけだ。ラップに熱中していた。何を着ているとか、何を着る必要があるとか、何を着たいとか、服装にはあまり興味がなかった。さっき服装について聞かれたけど、ダシキ(dashiki, アフリカの民族衣装)はほとんど着たことがない。たとえ似合ったとしても、ヴィヴィッドな色合いは好きじゃなかった。

店に入ってATCQのレコードが陳列されているのを初めて見た時の感慨は憶えていますか?

うん、昔はクイーンズのレコード店によく出入りしていた。そこでATCQのアルバムが視界に入ったときは、思わず二度見した。その日に、そこに置いてあるなんて思いもよらなかったんだ。俺が買いたかったほかのアルバムと一緒に並んでただけでとても嬉しかった。

ほかにはどんなアルバムが並んでいたんですか?

EPMDの『Strictly Business』、ビッグ・ダディ・ケインのファーストアルバム『Long Live The Kane』、ビズ・マーキーの『Goin’ Off』、ブギ・ダウン・プロダクションズの『Criminal Minded』と『By All Means Necessary』。すべてお気に入りのグループとMCのアルバムで、そんなもんと一緒に俺たちの作品が並んでるなんてかなりすごいことだった。

そのレコード店の名前を教えて下さい?

「The Music Factory off Jamaica Avenue」っていう店だ。ダ・ビートマイナーズ(Da Beatminerz)のミスター・ウォルトがそこで働いていたんだ。DJイーヴィル・ディーの兄貴で、2人ともプロデューサーで、ブラック・ムーンとか ヘルター・スケルターのレコード、ブート・キャンプ・クリックの全てをプロデュースしてる。俺はレコードショップで、ミスター・ウォルトとつるんでたんだ。

そこで1日中レコードを聴いていたんですか?

うん、正式にATCQのメンバーになる前はそこで働こうとしてた。ただひたすら、音楽に囲まれて過ごしたかったんだ。

ATCQが本格的に活動を始めた時、若者の代弁者であろうとしていましたか? ユース・カルチャーとの関連性を教えてください。

もちろん、若者と、耳を傾けてくれる連中の代弁者になろうとしてた。ATCQだけがそうだったんじゃない。ヒップホップ界のみんなにとって、音楽は、若者が発する社会改革のメッセージなんだ。

『Can I Kick It』の歌詞ではディンキンズ市長についてのリリックがありますね。でも、あなたのラップはQ-Tipほどヘビーではありません。政治家についてのリリックを入れた理由を教えてください。ニューヨーク市初の黒人市長の誕生は、あなたにとってそんなに重要だったんですか?

そりゃそうだよ。彼はニューヨーク州の代表になった。オバマが大統領になったのと同じくらい大きな出来事だ。黒人が市長になるなんてめったにない。黒人市長は、アトランタのアンドリュー・ヤング、シカゴのハロルド・ワシントン、デトロイトのクワメ・キルパトリックとデイブ・ビンなんかがいるけど、その数は少ない。黒人が市長に選ばれるなんて滅多にない。だからディンキンズ市長の誕生は重要だったんだ。大人になってから思い出せる、ディンキンズ以前のニューヨーク市長はコッチしかいないけどね。

あなたにとって、コッチは遠い存在でしたか?

まさにそのとおりさ。ディンキンズの次はジュリアーニ。再び黒人の市長が選出されて嬉しかった。

ニューヨークにいた黒人の若者は、当時どんな問題を抱えていましたか?

最近、警察とのいざこざが大きく報道されているけど、それは今に始まったことじゃない。警察の横暴さは昔から変わっていない。俺たちがいい車に乗っていたら追跡されて停車させられるのがオチだ。何も変わっていない。それどころか悪化している。

悪化しているんだか、わかりやすくなったんだか。

もちろんわかりやすくなった。だけど、見聞きしたことから判断すると、悪化している気もする。警察の蛮行、人種間の緊張、レイシャル・プロファイリング、どれもまったくなくなっていない。

『People’s Instinctive Travels…』の発売当初の批評を読むと、ほとんどの批評家がそのオリジナリティを褒め讃えていました。でも、『ローリング・ストーン』には、このアルバムはせいぜい一時的にカレッジラジオで流されるくらいで長くはもたないだろう、と書かれていました。そういうことを思い出して、ほくそ笑んだりはしないんですか?

いいや、ないね。結局のところ、個人の意見にすぎないからね。その人がそう感じたんならそれでいいんじゃないかな。今でも批評はされるけど、はっきりいってどうでもいい。

Phife Dawg, R.I.P.

ATCQのファイフ・ドーグ追悼で涙に濡れたアポロシアター