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マイナー・スレットからラジオヘッドまで9:30 CLUBの伝説

ワシントンD.C.にある9:30 CLUBは、アメリカで最もポピュラーなライヴハウスのひとつだ。やはり特筆すべきは、初期D.C.ハードコア・シーンと共に歩んできたところ。9:30 CLUBは、BAD BRAINSやMINOR THREATの「ホーム」でもあった。

ワシントンD.C.にある9:30 CLUBは、アメリカで最もポピュラーなライヴハウスのひとつだ。オープンから今年で35年、現在のVストリートに移ってからは20年。もちろん、誰だって地元のクラブを伝説と呼びたがるものだが、9:30 CLUBには正真正銘、数々の伝説が残っている。「ローリング・ストーン」や「ビルボード」などの雑誌は、全米で最も愛されるライヴハウスとして9:30 CLUBを挙げており、キャパ1200人規模の会場では世界で最も多くの客を集めたナイトクラブでもある。これまでにNIRVAVA、ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)、ジェームス・ブラウン(James Brown)、ドレイク、アデルなど、様々なアーティストが9:30 CLUBのステージに立ったが、やはり特筆すべきは、初期D.C.ハードコア・シーンと共に歩んできたところ。9:30 CLUBは、BAD BRAINSやMINOR THREATの「ホーム」でもあった。

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デイヴ・グロール(Dave Grohl – FOO FIGHTERS、NIRVANA、SCREAM)
「廊下にポツンと立って、俺のヒーローたちが通り過ぎていくのを黙って見ていたものさ。VOIDやIRON CROSSのシンガーとかね。ドキドキして震えていたよ」

9:30 CLUB では35/20周年の節目を記念して、「THE 9:30 CLUB’S WORLD FAIR」というイベントが行われており、未公開写真や貴重なフライヤーなどが展示されている。さらに数々の伝説をまとめた264ページもの限定本『9:30 THE BOOK』も刊行される。D.C.ハードコア・シーンのこと、クリントン大統領が訪れたときのこと、ラジオヘッドがサプライズ演奏したときのこと。更にアーティストはもちろん、9:30 CLUBに関わってきた人々のインタビューも収録されている。今回その一部を掲載することに、9:30 CLUBは快く了承してくれた。

Flier courtesy of 9:30 Club

「HARDCORE MATINEES(ハードコア・マチネ)」

入場者に年齢制限を設けるクラブが当たり前であったのに対し、日曜の昼に公演をすることで、全年齢を対象にした企画。たちまちD.C.のハードコア〜パンクシーンのパートナー的イベントとなった。しかし9:30 CLUBは、最初からこのイベントを歓迎していたわけではなかった。

ダンテ・フェランド(Dante Ferrando – IRON CROSS、GREY MATTER、IGNITION、現ライヴハウスBLACK CATのオーナー)
「オーナーのドディは、俺たちに言ったよ。『あなたたちがやっている音楽はいいと思うし、あなたたちのシーンも好きよ。でもこの会場ではやれない。だって全然儲からないし、危ないこともあるだろうし。トイレをメチャクチャにされたくないの』。それで俺たちは、マチネというコンセプトを思いついたんだ」

アレック・マッケイ(Alec MacKaye – FAITH、UNTOUCHABLES、IGNITION、THE WARMERS)
「最初は受け入れてくれなかった。当時9:30 CLUBは、俺たちが憧れるような大物、例えばイギリスのバンドなんかをブッキングしていたからね。だからもちろん俺たちもあそこで演奏したかった。それにはドディを説得しなければならなかった。彼女とは何回もミーティングしたよ。『日曜にマチネをやらせてください。スタッフは一人いれば大丈夫です。バーも必要無いし、電気をつけもらって、PAさえ用意してもらえれば、僕らはショーをやれます』ってね」

ドディ・ディサント(Dody DiSanto – 9:30 CLUB最初の共同オーナー)
「私は、『あなたたちは何がしたいの? 何を求めているの? 何が問題なの?』って尋ねていたわ。彼らのショーをOKした結果、ぶたれたりするのもいやだったし、警察沙汰もごめんだった。とにかく争いごとは避けたかったの。9:30 CLUBには、30メートルほどの狭い廊下があるんだけど、だんだんハードコアの連中が溜まり始めてね。みんなに聞こえる大きな声で、いくつかのルールを宣言したの。とにかく問題を起こさないで欲しかった。ものすごく危険なことになるから。例えば、誰かが首を折ったら、その責任は私。私の保険を使うことになるんだから」

ヘンリー・ローリンズ(Henry Rollins – BLACK FLAG、ROLLINS BAND)
「俺たちはまだ若くてね。まぁ、やんちゃだったんだ。突然ドディの9:30 CLUBに乗り込んで、彼女が守ってきたシーンを引っ掻き回したんだ。当時、クラブの客層はアートスクール出身で、赤ワインを飲むようなパンクロック好きのヘタレたちだった。タキシードのジャケットの袖を肘あたりまで折り返しているようなね。でもBAD BRAINS、BLACK MARKET BABY、DISCHORD RECORDSなんかの影響で、俺たちみたいな連中が増えてきた。つまり、最初の彼女の答えは「ノー」だったんだよ。

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ジェフ・ネルソン(Jeff Nelson – TEEN IDLES、MINOR THREAT、DISCHORD RECORDS共同オーナー)
「ドディは、ようやくハードコア・マチネを了承してくれた。正直言うと、通常のショーが出来ないのにフラストレーションは感じていたけれどね。あと僕らは、D.C.が法律で、食べ物を出さない店が酒を出すのを禁じている、と知った。そして食べ物を出すのであれば、年齢を理由に客を拒否してはいけないことも知ったんだ。そのことも追い風になったと思う」

イアン・マッケイ(Ian MacKaye – TEEN IDLES、MINOR THREAT、FUGAZI、DISCHORD RECORDS共同オーナー)
「1981年の夏、MINOR THREAT、GOVERNMENT ISSUE、YOUTH BRIGADEでやったショーが、きっかけだった。たくさんのキッズたちが押し寄せてきてね。あまりにも大勢が並んでいるので、ドディが、『人が多すぎるわ。今日はショーを2回する?』と提案されたのを覚えている。『本当に?ワオ!!』って喜んだよ。何かが起こりつつあるのを感じたのは、そのときだ」

Fliers pictured in 9:30: The Book

「レディオヘッドのサプライズ・ショー」

9:30 CLUBの長い歴史で、最も動員を集めたライヴは、公式のものではなかった。1998年6月13日のことだった。

「車に乗っていたときに、突然電話が掛かってきたんだよ」と、9:30 CLUBの共同オーナー、セス・ハーウィッツ(Seth Hurwitz)は語る。「ラジオヘッドのスタッフからだったんだけど、『今晩、そちらでは何をやっていますか?』と質問されたんだ。客とし何かショーでも観たいんだろう、と思っていたら、彼は、テクニカルな質問を幾つもしてきたんだ。それで『レディオヘッドは演奏したいんだ!』と気付いた。『やりましょう』と誘ったよ」

レディオヘッドを含む多くのミュージシャンは、BEASTIE BOYSの故アダム・ヤウク(Adam Yauch)がオーガナイズするRFKメモリアル・スタジアムでのイベント『チベタン・フリーダム・コンサート』で演奏することになっていた。しかし、1日目に雷が落ち、数名の観客が怪我をしたせいで、レディオヘッドの出演前にイベントは中止になった。そこでレディオヘッドのトム・ヨーク(Thom Yorke)たちは、『フリーチベット』を訴えるために、他の手段を考え始めたのだ。

「レディオヘッドとR.E.M.は、深夜0時ごろに演奏すると決めたんだ」と、当時WHFSのプログラム・ディレクターだったボブ・ウォーグは振り返る。「だって『OKコンピューター』で大ブレイク中のレディオヘッドだよ。どんなにクールなことだったか、想像がつくだろう?」

「レディオヘッドを観れなかったから、がっかりして運転していたら、突然ラジオから、レディオヘッドが9:30 CLUBで演奏をする、とアナウンスがあってね。あの瞬間は忘れられない」と、DC101の元アシスタント・ディレクター、デイブ・ヘネシーは語る。「僕らはUターンをし、クラブに向かって車を走らせた。着いたときには、既に5,000人以上が並んでたよ。ドアマンが人数を数えながら歩いていた光景を、今でも覚えてる。幸運にも僕らは入れたけど、僕らの10人か15人ほど後ろにいた人たちは『もう無理です』って断られてたよ」

PULPが午前0時半にオープニング演奏をした後、レディオヘッドは午前2時にステージに立った。観客の中には、フェスのために街にやってきていたトップスターもいた。

「信じられなかった」とハーウィッツは語る。「クラブに到着したら、床にはレディオヘッドの機材があって、R.E.M.のマイケル・スタイプ(Michael Stipe)も近くにいた。バルコニー席には、ブラッド・ピット(Brad Pitt)とジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)。その頃、二人の関係は、まだ噂にすぎなかった。本当に夢の中にいるようだった。最もマジカルな瞬間のひとつだね」