2014年6月 わたしのIS潜入記

2014年6月、映像制作者メディアン・ダリアは単身、ダウラ・アルイスラミーヤ(通称イスラム国、以下IS)を訪れ、「カリフ帝国」で3週間を過ごした。彼のまだまだ新鮮で希有な体験を紹介したい。

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07 December 2015, 10:58am

2人の武装した男がわたしを見て驚いた顔をした。こんなふうにふらっとやってきたジャーナリストはこれまでにいなかったからだ。しかし、国境超えの時機を狙って何日間も待機し、1度の失敗を経て、ようやく「イラクとシリアのイスラム国」(イラクとシリアのイスラム国、以下ISIS、2014年6月29日以前の自称)と呼ばれている組織が支配する領土の第一検問所に足を踏み入れることができた。

その約2週間後、支配者アブー・バクル・アル=バグダーディー(Abu Bakr al-Baghdadi)が、新たな宗教的・政治的権威としての「カリフ」を自称した。それは2014年の6月29日、わたしがIS領土内に滞在中の出来事だった。それ以来、ISISはISとして知られるようになった。

わたしが国境を超えるタイミングの合図を待っている間、ISISはイラクで2番目に大きな都市であるモースルを占拠した。この組織はそれまで、シリアのほかの反乱軍の背後に控える守勢的な集団であると見做されていた。

しかし、イラクへの進攻と、バグダディのカリフ宣言により、ISはイラクとシリアだけでなく中東全体を脅かす勢力になった。彼らはいったい何者であり、どこから来て、何を信じているのか、確かめたいと思った。

国境での話に戻る。検問所にいた2人の警備隊が別の男を呼んだ。その男はわたしがやって来るのを待っていたようだった。彼は無線機に向かって「ゲストが到着しました。ゲストが到着しました」と呼びかけた。

メディアン・ダリア(著者)と、ラッカのISメディア・センターで働く若いヨーロッパ人兵士

Photo by Medyan Dairieh.

アブ・ジンダル・アル=イラキ(Abu Jindal al-Iraqi)

アブ・ジンダル・アル=イラキと初めて会ったのは、2004年11-12月、米軍の主導による、バグダッドから西に70キロに位置するファルージャ攻撃の真っ只中であった。アルカイダを含むイラク武装勢力と、米軍、イラク、英国の同盟軍との間で6週間にわたり繰り広げられ、多くの人々が犠牲になった、あの血生臭い戦いだ。それ以来、約10年の歳月が過ぎていた。

アメリカによるイラク侵攻の結果、2003年に解散したサダム・フセイン共和国防衛軍の元大佐であるアル=イラキは、米軍との戦闘のために急場しのぎで組織された砲兵団の司令官であった。当時は、未だアルカイダとの関係はない。また、ひげをきれいにそり落としており、狂信的なイスラム教徒の面影はなかった。

何千人もの男たちが、アル=イラキ同様、一夜にして収入と地位を失った。その多くは軍事的スキルと武器をもってレジスタンスに加わった。

2014年6月、ISが占拠した土地で彼と再会した。たっぷりと髭をたくわえ、どこから見ても献身的なイスラム教徒の風貌に様変わりしていた。最初に会ってから10年の間に、彼の民兵団は、後にISISを設立した、アルカイダの流れを汲む「イラクのイスラム国」に取り込まれた。彼は現在、ISの上級司令官の職に就いている。

アル=イラキの経歴はとりたてて珍しいものではない。ドイツの週刊誌『デア・シュピーゲル』 (Der Spiegel) が入手したISの内部文書によると、組織の中核をなす指導者層は前バース党員で構成されており、組織の運営はイラクの軍事諜報部が作成したマニュアルに沿って行われているそうだ。

IS戦闘員になった元アルカイダ構成員。銃床に刻まれたアルカイダの印を誇示する。アレッポにて

Photo by Medyan Dairieh.

ISの誕生

ISの軍隊は三つの主要な団体からなる。主にイラク軍出身者から成る「イラクのイスラム国」、アフガニスタンに展開するアルカイダの構成員、アブ・オマル・アル=シシャニ (Abu Omar al-Shishani)率いるチェチェンおよびコーカサスの軍団。

アル=シシャニとは、2013年の前回のシリア訪問時に出会った。彼は、ISISとアル=ヌスラ戦線の仲介に忙しく動き回っていた。その当時、緊張は最高潮に達しようとしていた。

2011年、「イラクのイスラム国」の指導者であったアブ・バクル・アル=バグダーディー(Abu Bakr al-Baghdadi)は、アサド政権に対する集団抗議運動が拡大するなか、最も信頼を置いている副官の1人であるアブ・モハメド・アル=ジョラニ(Abu Mohammed al-Jolani)をシリアに派遣した。彼の任務は、アルカイダ系組織のシリア支部「アル=ヌスラ戦線」を設立することであった。

アル=ジョラニとアル=バグダディは、後にアル=ヌスラ戦線の方向性に関する意見の対立によって決別する。バグダディはアル=ヌスラ戦線が「イラクのイスラム国」の指揮下に入ることを望んだ。他方アル=ジョラニはアサド政権との戦いに集中し、人心を掌握するために、あまり過激化していない組織と手を組むことを望んだ。2人の男はアレッポで会談した。

2012年アレッポ。この頃からISISのバッジ(写真右、男性の左肩)とISIS旗がシリアで見られるようになった Photo by Medyan Dairieh.

アルカイダの指導者達からの支援を勝ち取ったアル=ジョラニは、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯に本拠を構えることを望んだ。聞くところによると、ISはアルカイダの指導者と会談するためにリビア人のメンバーをアフガニスタンに派遣しようとしたが、その男はアフガニスタンにたどり着くことができなかったという。そのことから、ISとアルカイダの指導者との関係は極めて薄いことがわかる。

分裂が起こった時、オマル・アル=シシャニ率いるチェチェン人部隊や、「リビアのアル=バッター大隊」として戦闘経験を積んできたリビア人部隊に属していた外国人戦闘員の圧倒的多数がISへの忠誠を誓った。わたしは後にリビアを訪れた際に、戦闘のためにそこに戻っていた「リビアのアル=バッター大隊」のメンバーと会った。

外国人戦闘集団「ムハージルーン(muhajireen)」がシリアにやって来たのは、アサド政権に抵抗するためではない。自分たちはイスラムの戦士であり、「カリフ帝国」を建国するのは宗教的な使命である、と信じていたからだ。

アル=ヌスラ戦線はほかの反乱軍と協力関係を築き上げ、共同の慈善組織に参加し、ともに力を合わせて戦った。他方、ISISが頼ることができるのはその内部組織だけであった。

2014年2月22日、ISISは、アル=ヌスラ戦線と同盟関係にあるサラフィー主義の民兵組織「アハラール・アル・シャーム・イスラム運動(シャームの自由運動)」の指導者、アブ・ハレド・アル=スーリ(Sheikh Abu Khaled al-Suri)を暗殺した。それを受け、アル=ヌスラ戦線は対ISIS戦を宣言した。

しかし、エジプト、イエメン、リビアの民兵組織を含む中東全域の組織から、そして世界中のあらゆる地域から、多くの支援を集めたのはISであった。

ラッカにて
国境を越えてから間もなくしてISの首都ラッカにたどり着いた。そこでは軍事パレードが開催されていた。そのパレードは、私が到着するタイミングに合わせて開催された、ということを後で知った。

戦前、この町は、多数のキリスト教徒が住むリベラルな町だった。人々は夜になると酒場に出掛け、タバコを吸った。しかし今では、通りを歩いても音楽が聞こえることはなく、絵画にもカバーが掛けられ、その様相は一変していた。

ラッカには80を超える国籍の人々が住んでいる。15歳以下の子供は宗教指導クラスに通う。16歳になったら軍事キャンプに参加して訓練を受け、戦闘員に加わることができる。

ラッカに滞在している間、私のそばには常にメディア・チームがいた。ISが制作した映像は質が高いといわれているが、実際のところ、熟練した映像制作者は極めて少ない。テレビ局に勤務している者が数名、映像製作の専門知識を備えている外国人が数名といったところだろう。みる限り、彼らが持っている機材はベーシックなものばかりで、インターネットの通信速度はものすごく遅いようだ。しかし彼らは当たり前のように時間外労働をこなし、毎晩3~4時間の睡眠しかとらず、週7日間ぶっ通しで働いている。

オンライン素材の作成に関しては、海外から、とりわけリビアからの支援が非常に重要な役目を果たしているという。メディアチームのメンバーによると、支援者には英国在住の若い女性もおり、すでに数カ月間、素材の作成を手伝っているそうだ。

さらに、オンラインでのテキスト公開、映像をコピーしたCDを配布、指導者アル=バグダディや、ISの公式スポークスマンであるアブ・モハメッド・アル=ジュラニ(Abu Mohammed al-Julani)の演説を街宣車を走らせて流す、といった基本的な手段によるプロパガンダも忘れない。

当初、ISは、海外のマスコミ報道に対して敵対的な立場をとっていたが、組織が世界中から大きな注目を集めていることに気づきはじめ、複数の報道機関を設立することを決定した。その中で最も有名なメディアはアル・フルガン(Al-Furqan)だ。それに加え、自称「国家」の全州にメディアオフィスを設置した。その各部門は地元の説教師の事務所とつながっている。

7月4日の午前2時頃、銃声と爆撃音によって目が覚めた。一緒にいたメディア・チームの連中は爆弾ベルトを着用し、ライフルをつかみ、一言も発せず外に飛び出していった。まるで町全体が停電したように、すべてが漆黒の闇に包まれていた。

数時間後、米国特殊部隊がラッカ郊外のISキャンプを襲撃したことを知った。その襲撃は、後々、ISに殺害される、人質に取られた多数の西洋人救出を目的とするものであった。だが、後に聞いた話では、そこに人質はおらず、米軍はチュニジアとサウジアラビア出身の士官候補生を含む8人のISメンバーを殺害した後、手ぶらで退散したという。

ISはヨルダン軍もその襲撃に加わっていたと考えている。その証拠としてヨルダンの階級章が付けられた血まみれの軍服の切れ端を見せてもらった。

ISの軍事ドクトリン
ISは、タリバンからアル=ザルカウィを介して引き継いだ戦術と、イラク軍の元士官たちの専門知識を集結することにより、優れた戦闘能力と不正規戦争への対応力を発揮した。

またISは、短距離ロケットと短距離弾道ミサイルを使用することにより戦闘の範囲を拡大しようとしていた。イラク軍の元士官の支援により、手作りの 安価な移動発射台の設定が行われた。

地上戦では、まず、アルカイダの残党と自爆テロ集団が迫りくる敵に対して自爆攻撃を仕掛ける。元イラク共和国防衛軍士官たちは、爆弾攻撃を遂行できるよう、他のグループを指揮してロケットとミサイルの設置場所をガードする。

さらにISは、タリバンが確立した三つの軍事方針を採用している。1つ目は敵を攻撃し、混乱させ、疲弊させ、弱体化すること、2つ目は武器、資金、食料などの供給を確保すること、3つ目はメディアを巧みに利用して組織の人気を高めることだ。

このアプローチの成果は、2014年の夏に明らかになった。ISは瞬く間にヨルダンと同程度の土地を占有し、重火器を含む大量の兵器、洗練された数々の装備、大金を手に入れた。ISは、100年前の植民地時代に締結された、シリアとイラクの国境を確定する「サイクス・ピコ協定」の無効を宣言した。ISによるこの行為は、熱心なイスラム教徒の若者に「グローバル・ジハードを率いるのはISである」というメッセージを植え付けた。

しかし、今、ISにはいくつかの課題がある。重火器のメンテナンスに使用する予備部品、補給品の入手が困難であること、大量に必要な自動車爆弾の製造が追いつかないことである。自動車による自爆攻撃は、その大量展開により、5月のラマディ(イラク西部の都市)占拠を含む、多くの壊滅的攻撃の前哨戦の役割を果たしてきた。ISの戦闘員は、イラク軍、クルド人、シリア反乱軍、時には、シリアの政権を相手に、複数の前線で、それぞれ異なる相手と戦うことを強いられる。

ドイツとフィンランドから来たIS戦闘員 Photo by Medyan Dairieh.

IS は、虎視眈々と機会を伺いながら雌伏する時期は過ぎ、決戦のさなかにいることを認識している。現在、ISの目標は、戦闘をできるだけ長引かせ、敵同士の連携を妨げるべく前線間の距離、兵站を引き伸ばすことだ。敵の軍隊を分散させ遠隔地で攻撃すれば、増援部隊(物資)の到達に時間がかかるうえに、十分な攻撃力をもたない移動中の補給部隊襲撃が可能になるからだ。

ISは、最強の敵であるアメリカとの直接対決は避けられない運命である、と考えている。かつて、フセイン率いる共和国防衛軍の将校であったIS軍の司令官によると、ISが重視するのは防衛ではなく攻撃であり、今まさにその準備を進めているという。

彼は言った。「われわれは作戦を遂行する。その作戦は、アメリカが、われわれとの地上戦を避けられない、と判断してはじめて実現する。それはこちらの望むところであり、アメリカが恐れていることだ」

出発
ついにISが占拠した土地を去る日がやって来た。

わたしは彼らに伴われ、国境の近くまで来た。これからは毎晩ここに来て、暗闇を凝視しなければならない。敵対勢力のパトロールに遭遇せずに国境を超えられる絶好のタイミングを待つためだ。

わたしたちは腰を下ろし、すべてがクリアになるのを待った。彼らは夜間でも周囲を監視することができる精巧なシステムを携えていたが、それをもってしても、国境を超えるのは困難で危険なことだ。

ある日の午前2時半、眠りに就いていたわたしは彼らに起こされ、国境を超えるのは今だと告げられた。彼らはわたしの大きなリュックを持ってくれた。あまりにも大きくてかさばり、自力でかついで歩くことができなかったからだ。

しばらく彼らと一緒に歩いた。国境を越えた先の安全な場所まで送り届けてくれるという。自分たちの身にも危険が迫っているのに、なぜそこまでしてくれるのかと尋ねると、「あんたは俺たちのゲストだからさ」という返事が返ってきた。