HISTORY OF DJ : HOUSE ②

良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」9月に東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。ハウス編第二回です。

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17 augusti 2015, 12:39pm

HISTORY OF DJ : HOUSE ①はコチラから

HISTORY OF DJ:ハウス編の第二回は、発祥の地ニューヨーク、シカゴからひとっ飛びして、ヨーロッパでの成り立ちを見てみたいと思います。

舞台は80年代後半のロンドン… と来ると思うでしょ?違うんですよ。その前にイビサなんです!ヨーロッパにおけるハウスの発展は、意外にもスペインはバレアリック諸島の小島であるイビサ島から始まります。昨今ではすっかり芸能人なども訪れるバブリーなパーティー・アイランドのイメージが定着しているこの島ですが、実はそのずっと前から特殊なクラブ・カルチャーがあったんですねぇ。

第二次世界大戦後も独裁者フランコ将軍に統治されていたスペインでは、反体政府勢力や同性愛者は投獄されたり精神病院に送り込まれたりしていたといいます。フランコ政権下でそうした”アウトロー”だった人々の一部が逃れ、ひっそりと暮らし独自のコミュニティーを築いていたのがイビサ島だったのです。60年代に入ると欧米のリベラルなアーティストやヒッピーたちの間で密かに話題となったこの島に、ミュージシャンも訪れるようになります。また、避暑地としてイギリスからの旅行者も惹きつけるようになり、次第に島に居ついた人々や訪問者が集うバーなどが増えていきました。

DJ Alfredo via www.alfredoibiza.com

73年にPacha、続いてKu(現在のPrivilege)というディスコがオープンします。これらは旅行者向けの英米で流行っていたようなヒット曲が流れるような店でしたが、76年にオープンしたAmnesiaという屋外クラブは、もう少し”通”が集うような店だったといいます。同年にアルゼンチンからイビサに移り住んできたある人物に、この店のオーナーが「うちでレコードをプレイしないか」と声をかけたのが83年。

AMNESIA Ibiza 1989 – Dj Alfredo

その人物が、DJアルフレドでした。もともと評論などを仕事にしていたため音楽に精通していたというアルフレドは、Amnesiaでヒットチャートの曲からクラシック、ラテン音楽などを織り交ぜたエクレクティック(折衷的)な選曲をプレイし始めます。例えばその頃の彼の十八番がこんなの。

ピンク・フロイドがかかったかと思えばザ・キュアーが、あるいはグレース・ジョーンズやシャーデー、もしくはジルベルト・ジルや「ピンク・パンサーのテーマ」など、様々なジャンルを横断するDJプレイが次第に話題となります。「アルフレドは86年の時点で既にハウスをかけていたわ」と、イギリス人女性DJ、ナンシー・ノイズも後に証言しています。その頃シカゴやデトロイトで作られていたこの新しいダンス・ミュージックを、アルフレドはスペインの小島でいち早くプレイしていたんです。これらを含めた、イビサ特有の、リラックスしたラテンとロックの要素を含んだサウンド及びDJスタイルが、「バレアリック・ビート」と呼ばれるようになります。

Paul Oakenfold

1987年8月、ここにロンドンでDJをしていた数人のイギリス人の若者がやって来ます。そのうちの一人、ポール・オーケンフォールドの誕生日を祝うためでした。このグループの中にはダニー・ランプリングとニッキー・ホロウェイもいました。Amnesiaでアルフレドのジャンルを横断した奔放なDJスタイルと、ハウス・ミュージックと、エクスタシーというドラッグを初体験した彼らは大きな衝撃を受け、すぐさまロンドンでそれを再現すべくパーティーを開始。オーケンフォールドはHeavenというクラブのアフターアワーズで「Spectrum」というパーティーを開始し、翌年にはランプリングがShoomというクラブをオープンし、ホロウェイはAstoriaというライブハウスで「Trip」というパーティーを始め、それぞれがレジデントDJを務めて瞬く間に人気を獲得していきます。

Boy’s Own

またロンドンで同じ頃、アンドリュー・ウェザオールとテリー・ファーリーという若者が、二人の仲間と共に「Boy’s Own」というファンジンを制作し始めます。サッカーと音楽とファッションを中心にした内容で、コピーをホッチキスで留めただけのものでしたが、この頃の現地の若者のサブカルチャーを最もリアルに記録していた媒体とも言われるほど。ここに、ポール・オーケンフォールドが英国で初めてアシッド・ハウスについての記事を書いたのが88年。そして、同年に記録に残っている初の「野外アシッド・ハウス・レイヴ」を主催したのも、この「Boy’s Own」のメンバーたちでした。ご存知の通り、彼らもDJとして活動を始め、ロンドンのシーンを牽引する存在に。90年にはレーベルBoy’s Own Recordings(93年にJunior Boy’s Ownと改名)を始動し、後にアンダーワールドやケミカル・ブラザーズなどを輩出していくことになります。

Andrew Weatherall

この80年代末のアシッド・ハウス及びエクスタシー、違法レイヴの爆発的ブームの初期が、「セカンド・サマー・オヴ・ラヴ」と呼ばれるもの。60年代後半にアメリカ西海岸で起こったヒッピー革命が「サマー・オヴ・ラヴ」と呼ばれていたことから、それと同様の自由と愛と平和を象徴するものとして、新たなライフスタイルと文化のムーヴメントとして、若者の意識を大きく変えました。しかし、これが全てロンドンを中心に起こったかというと、そうではありません!

そうです。マンチェスターを忘れるべからず!2002年の映画『24アワー・パーティー・ピープル』でよく知られるようになったHaçiendaというクラブが、このセカンド・サマー・オヴ・ラヴのもうひとつの重要な震源地でした。

こちらはディスコとは全く違う文脈で、パンク以降の音楽として台頭していたニューウェーヴという、電子楽器を多用したロック/ポップ・バンドを中心としたシーンが盛り上がっていました。78年に同地で設立されていたFactory Recordsは、ジョイ・ディヴィジョン及びニュー・オーダーを世に送り出し、大成功を収めていたのです。このレーベルのオーナーが82年にオープンしたライブハウスがHaçiendaでした。

Haçiendaでは国内外の様々なロック、ニューウェーヴ、EBM(エレクトロニック・ボディ・ミュージック)、インダストリアルなどのバンドのライブに加え、クラブ・イベントも開催されていました。その代表的なDJがマイク・ピッカリング。Factory Records所属のバンド、クアンド・クアンゴのメンバーだったピッカリングは、自分のバンドやニュー・オーダーのツアーの同行で頻繁にニューヨークを訪れていたそうです。その際にThe LoftやParadise Garageを体験し、それをマンチェスターで再現したいとDJを始めたと言っています。

85~86年からシカゴ産のハウス・ミュージックをプレイしていた彼が、イギリスで最初にハウスをかけたDJではないかと言われていますが、興味深いことに、クアンド・クアンゴの「Love Tempo」(82年)は一方で、ラリー・レヴァンがParadise Garageでヘヴィー・プレイしていた曲でした。

Mike Pickering via Wikimedia Commons

ピッカリングがレジデントDJとしてHaçiendaで88年から開始した「Nude」、「Hot」といったアシッド・ハウスのパーティーによって、この街でも爆発的なブームとなります。高揚感と多幸感をもたらすエクスタシーというドラッグが新たな音楽体験を助長し、地元のサッカー・フーリガンから元パンク、ニューウェーヴ・ファンも巻き込んで、ハウスが若者たちを魅了したわけです。そんな若者の中に、フランス人青年ロラン・ガルニエや近郊の町に住んでいたサシャも含まれていました。この狂乱の初期数年間のシーンを総じて「マッドチェスター」と呼んだりします。

808 State – Pacific State

シカゴで起こったのと同じように、そのシーンに出入りしていた若者やミュージシャンたちが、自分たちもハウス・ミュージックに影響された音楽を制作し始めます。ア・ガイ・コールド・ジェラルドや808ステートがマンチェスターのハウス・サウンドを形作ったのと同時に、ハッピー・マンデーズやザ・ストーン・ローゼスといったポスト・パンク/ニューウェーヴのバンドもこのサウンドを取り入れ、独自のスタイルを築き上げていったことがとても面白いですよね。これらのバンドが全国区の人気を獲得していったことで、イギリス全土のバンド系のオーディエンスにもハウス・ミュージックとレイヴ・ムーヴメントが浸透していったのです。

「Hallelujah (Club Mix)」はハッピー・マンデーズの楽曲を、ポール・オーケンフォールドとアンドリュー・ウェザオールがリミックスしたもの。89年のリリースで、当時の雰囲気や流れが集約されてる感じがしますね。

イギリスにおけるハウスは、労働者階級の若者にとってのカウンターカルチャーでした。保守的で抑圧的な新自由主義を推し進めたサッチャー政権(79~90年)下で、それに対抗するユースカルチャーとしてインパクトを与えたパンク・ロックも勢いを無くし、賃金は下がり、失業率が上昇。未来に希望が持てなくなっていた若者たちにとって、生きる喜びと自由を実感させてくれる音楽がハウスだったのです。高揚感と一体感を体験出来るレイヴに若者がみんな行くようになり、サッカー場から暴力的なフーリガンが居なくなったとか!

Raving ’89

イギリスでは社会現象にまでなったアシッド・ハウス、ところ変われば同じ音楽でもその意味が変わってくるんですね。では、第二回はここまでにして、次回最終回では、90年代以降のハウス・ミュージックの商業的・音楽的な進化と多様化の過程をご紹介しつつ、ハウスDJのプレイ・スタイルについての考察をしたいと思います!

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