ルー・リードの写真から考える、シス男性とトランス女性の恋愛を美化する危険性
Collage by VICE Staff | Image via unidentified newspaper clipping
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ルー・リードの写真から考える、シス男性とトランス女性の恋愛を美化する危険性

一見幸せそうなカップルにみえるリードとレイチェルだが、その裏にははるかに複雑な事情が隠されていた。
08 June 2020, 7:07am

5月上旬、ある写真がTwitterのクィアユーザーのあいだで話題になった。そこにはボックス席にゆったりと腰掛けて女性の肩にもたれかかり、彼女のももを親密そうに優しく引っ掻く30台前半のルー・リードが写っている。彼女は左手でリードの頭を抱き、そのまま彼の頭にあごを乗せそうな雰囲気だ。「ルー・リードとトランスジェンダーのパートナーのこの写真のことを考えてる」とツイートには記されていた。

仲むつまじげなふたりの写真は、特にコンテンツにおけるトランス女性を恋愛描写を待ち望んでいる人びと、トランス女性たちが本質的、実存的に愛されないストレート中心な世界のフィクションに反論する根拠を求めている人びとの心に訴えかけたことは、言うまでもない。この写真が提示する、ぶっきらぼうで厭世的なロックスターが、社会の大半から拒絶されるような女性を心から大切にする、というラブストーリーは、単純だからこそ美しい。しかし、この写真の裏には、もっと複雑な真実が隠されている。どのカップルにもいえることだが、ふたりの関係における危険信号は、決して写真には写らない。私たち、つまりシスジェンダーの男性の愛を求めるトランス女性は、自分たちに関する有害なフィクションに甘んじるのではなく、その複雑な背景を理解しておくべきだ。

ここでリードの〈トランスジェンダーのパートナー〉とされているのは、レイチェル・ハンフリーという女性だ。彼女はメキシコ系米国人のトランスセクシュアルで、1973年、ニューヨークの〈Max’s Kansas City〉というナイトクラブでリードに出会った。リードと出会う前後のレイチェルの人生については、1990年にヘルズキッチンのセントクレア病院(Saint Clare’s Hospital)で亡くなったということ以外、ほとんど明らかになってない。歴史研究者たちはふたりの関係そのものを否定しており、レイチェルがリードの音楽のファンだったのか、また、1977年に開かれたパーティーが結婚式だったのかどうかも不明だ。

ひとつ確かなのは、ふたりの関係のおかげでリードは創作のスランプを乗り越えられた、ということだ。モーガン・M・ペイジのトランスジェンダーの歴史をテーマとするポッドキャスト〈One from the Vaults〉によると、「レイチェルは(1975年の『コニー・アイランド・ベイビー』や1978年の『ストリート・ハッスル』などのリードの)代表的なソロアルバムの着想源となり」、これまでの多くのトランス女性と同様、偉大な男性アーティストのミューズを務めたという。「都合の悪い存在になった途端、レイチェルは捨てられました」とペイジは〈One from the Vaults〉の2015年のエピソードで語った。「彼との関係が終わったあと、レイチェルは歴史の表舞台から姿を消しました」

レイチェルが〈都合の悪い存在〉になった経緯については諸説ある。ペイジによれば、レイチェルとリードの関係が終わったのは1978年、ふたりが結婚式で3段重ねのケーキを振る舞い、指輪交換を行なった翌年だという。この式での誓いに法的拘束力はなかったとペイジは指摘するが、ふたりは別れるまでそれを「真剣にとらえていた」という。しかしリードの伝記『Dirty Blvd.』の著者、エイダン・レヴィは、この式は結婚式ではなく、カップルの3年記念日を祝うパーティーだったと主張する。彼によれば、ふたりの関係が決裂したのはレイチェルがリードに性別適合手術を受けたいと打ち明け、リードが反対したあとだという。

彼らの意見の対立は、パートナーの見た目や服装、この場合は身体に関する決断をコントロールしようとする有害な関係性を、トランスジェンダーに置き換えた極端な例といえる。ケーブルテレビ局FXで放送された、1980年代のNYのボールルームシーンを描いたドラマ『POSE』は、2018年のエピソードでこの力関係に触れ、前述のような行為がいかに経済的虐待に発展するかを提示している。特に経済的虐待のターゲットになりやすいのが、トランス女性だ。本作に登場するエレクトラ・アバンダンスは、性別適合手術を受けないことを条件に、パトロンが所有する豪華なアパートに住んでいたが、彼女が彼の意に反することをした途端、その男性は彼女を街へと放り出し、二度と口を利かなくなる。

リードの歌詞を彼の自伝として解釈するなら、別れを告げたのはレイチェルからだった。「愛は消えてしまった」とふたりの別れを歌った曲だとペイジが主張する『ストリート・ハッスル』のタイトルトラックで、彼は歌う。「指輪をはずした/言い残したことは何もない」

リードは2013年に71歳でこの世を去るまで、レイチェルについて公に語ることは二度となかった。また、晩年の彼は、当時発表したアルバムについて、そして作品の着想源となったミューズについて、批判めいた発言をしている。〈One from the Vaults〉によると、彼はかつて「これからのアルバムは、自分が本当に出したいと思うものしか出さない」と断言している。「おふざけも、髪を染めたオカマジャンキーのトリップも、これで終わりだ」

レイチェルとリードの関係にまつわる真実が一般に知られていないので、ロールシャッハテストのように、この写真に自分が見たいものを見出すのは簡単だ。もしあなたがシス男性がトランス女性にも親切にしてくれるという証拠を求めているなら、真実であるかどうかは関係なく、レイチェルとリードの写真はその証拠となるだろう。これは、他のシス男性とトランス女性のカップルにも当てはまる。Twitterで〈ジョン・ウォトヴィッツ(1975年の映画『狼たちの午後』の主人公のモデルとなった人物)〉と検索すれば、トランスジェンダーのガールフレンドの性別適合手術のために銀行強盗を起こした彼を褒め称えるツイートが、数え切れないほど出てくる。しかし、ツイート主たちはいくつか重要な事実を見落としている。例えば、ウォトヴィッツが強盗を働いたのは、恋人のリズ・エデンに振られたあとのことで、彼女を取り戻すためだった。このような度を越した一方的な行為は、有害な恋愛関係につきものだ。また、彼らの大半はリズの名前にすら言及せず、レイチェルが世間に忘れ去られたように、彼女を男が受けるに値しない贖罪の物語の脇役へと押しやっている。

最初にこの写真を見たとき、私は感傷的にならずにはいられなかった。この写真は、私だってシス男性に選ばれる可能性はある、と訴えかけ、普段は恥ずかしくて認められない、社会によって植えつけられた欲望を刺激する。私はここ数年で、こういう思い込みを手放そうと努力してきた。自分の価値や女性としてのありかたを、シス男性に求められるかどうかに基づいて決めるのを止め、どんなに非人間的な扱いを受けようと、誰にも注目されないよりはひとりの男性に気にかけてもらえたほうがマシだ、という自虐的な考えを捨て去るために。

このプロパガンダを破壊するべく、私はリードのような男性がいかに私を〈使い捨て〉てきたかを改めて思い返してみた。最初のデートになると信じて疑わなかった数々のワンナイトラブ、一線を越えた仕打ち、無視されたメッセージ…。そして、リードがいかにレイチェルを使い捨てたかを考えた。彼が彼女の手術に反対しようがしまいが(パートナーを思い通りにコントロールすることを通して、彼はシス男性として、トランス女性である彼女に対してさらに優位に立つことになる)、彼がレイチェルと付き合っていた期間を「オカマのおふざけ」と一蹴し、二度と彼女について公に語らなかったのは確かだ。これこそ、トランスジェンダーに惹かれた男性の多くが、関係が終わった途端に元恋人のトランス女性を社会の周縁へと追いやるさいに持ち出す、典型的な同性愛嫌悪の筋書きだ。

経済的な理由でシス男性のパートナーになる女性は多いが、それはトランス女性にも大いに当てはまる。彼女たちはシス女性に比べて、住む場所を失ったり、雇用において差別に直面する確率が飛躍的に高い。そのうえ、資本主義やミソジニーは、私たちをシス男性にとって好ましくないパートナーに仕立て上げる。私たちは彼らの子どもを授かることもできなければ、完璧な核家族もつくる手助けもできない。私たちが受ける差別によって、彼らを生きづらくする可能性もある。さらに、限られた選択肢のなかでどうにか生きる道を切り拓いたとしても、それによって相手と同じくらい〈まともな〉生活を送り、ワンナイトラブの相手以上の存在になれるとは限らない。

それでもなお、家父長制はそういう男性のひとりに選ばれさえすれば私たちの生き方は認められる、という考えを押し付けてくる。「(トランス女性は)ストレートの男性とセックスし、彼らに愛されるという行為や想いを経て初めて女性として認識される」とカナダ人ジャーナリストのアレックス・V・グリーンはウェブサイト〈The Outline〉で述べ、レイチェルがリードに必要とされなくなったあと事実上「存在しなくなった」というペイジの主張に同意した。

トランス女性自身も、このようなロジックに縛られたままだ。私たちはあらゆるひとと同じように、トランスミソジニーにどっぷり浸かっている。私たちがリードとレイチェルのツーショットのようなイメージに心惹かれ、私たちにも愛される資格があるのだ、と思いたくなる気持ちは理解できる。しかし、そこにおける問題は、私たち自身がトランス女性にまつわる有害なイメージに迎合してしまっていることだ。つまり私たちはなかなか愛されず、私たちを愛してくれる男性はヒーローで、私たちは彼がいなければ不完全な存在だ、と。リードのレイチェルとの関係は、私たちが美化するべきものではない。まるでトランス女性が愛を得がたい存在であるかのように、彼を、そしていかなるシス男性を、トランスジェンダーのパートナーがいるからといって讃えるべきではない。リードがトランスセクシュアルのスーパースター、ホリー・ウッドローンとキャンディ・ダーリンが男性たちをベッドに誘うストーリーを歌った1972年のシングルの歌詞を借りれば、男たちが〈ワイルド・サイドを歩く〉ことを褒め称えることこそが、この有害なロジックの原動力となり、日々危険な道を行く女性たちの存在を消し去っているのだ。

This article originally appeared on VICE US.