「不安障害は、気持ちの持ちようではなく脳のバランスの問題なのだと割り切れれば、すこし気が楽になるかもしれませんね」

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拭えない不安はどこからやってくるのか

「不安障害は、気持ちの持ちようではなく脳のバランスの問題なのだと割り切れれば、すこし気が楽になるかもしれませんね」

私の不安のきっかけは、たったいちどの失敗だった。寝坊して、朝からの仕事に遅刻してしまったのだ。当たり前だが、遅刻した私はかなり怒られ、そのときはものすごく凹んだ。それ以来、早く起きなければならない仕事の前日は、布団に入れなくなった。あのときのようにまた寝坊して、明日の仕事に遅刻してしまったらどうしよう、という不安感に襲われどうしても布団では寝つけない。結局、熟睡してしまわないように床で仮眠をとり、翌朝、休まらなかった身体を引きずって家を出る。不安は、最悪の状況を回避するために必要なのは確かだろうが、頭のなかでどんどん膨らみ、それを自らコントロールできなくなると、不安を振り払うために同じことをなんども繰り返す〈強迫性障害〉に陥ってしまう。

自分の意思とは無関係に不安が頭に浮かぶ〈強迫観念〉、その不安を払拭するための〈強迫行為〉からなる強迫性障害は、強迫行為を止めようとするとさらに不安が募ってしまい、自力で克服するのは難しいとされる。強迫性障害の治療では、薬物療法と行動認知療法を併用する場合が多く、まず薬物療法で状態を安定させ、行動認知療法のなかでも再発予防効果が高いとされる曝露反応妨害法を用いて、やらなければ気が済まなかった行動を我慢することで、強迫行為と強迫観念を徐々に減らしていく。しかし、薬物療法は脳の全体に作用するため、吐き気、食欲不振、便秘などの副作用を伴うこともあり、効果に個人差があるという。脳の局所回路を刺激する深部脳刺激術(Deep Brain Stimulation、DBS)という治療法もあるが、そのメカニズムは未だはっきりしておらず、決定的な治療法にはなり得ていないという。脳の局所に作用し、的確に症状を抑えられる治療法はないのだろうか?

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「尾状核が強迫性障害に似た、頭から離れない不安の起源であることを今回初めて示すことができました」とメールでのインタビューに答えてくれたのは、京都大学白眉センター霊長類研究所特定准教授の雨森賢一氏だ。同准教授は、2018年9月5日、米国マサチューセッツ工科大学博士研究員でリサーチサイエンティストの雨森智子氏、同大学のAnn M. Graybiel教授とともに、『持続する悲観的な意思決定の源となる神経メカニズムを解明 ー不安が頭から離れない原因とはー』を発表し、脳の大脳基底核にある尾状核が〈頭から離れない不安〉の起源であることを明らかにした。

この研究が発展し、〈葛藤を伴う意思決定〉のメカニズムが神経回路レベルで解き明かされれば、ヒトの不安障害やうつ病の治療に役立つであろうと期待されている。

同研究では、ヒトと相同な脳構造をもつとされるマカクザルが実験に用いられた。実験では、空腹のマカクザルに流動性のエサを与えると同時に、その顔面に空気を吹きつけた。顔に吹きつけるのはただの空気だが、マカクザルはそれを嫌がり、〈罰〉として認識するという。

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〈報酬〉としてのエサと、〈罰〉としての空気が同時に与えられるとき、マカクザルは葛藤しながらも、報酬と罰のセットを受け入れるか、もしくは拒否するかを選択する。

例えば、もらえるエサが少なく、空気が強ければ、エサを受け入れないなど、マカクザルは、報酬と罰のバランスをもとに行動を選択することもできる。しかし、マカクザルの脳に微弱の電流を流し、尾状核のある神経回路を刺激すると、マカクザルは罰を過大評価し、空気を嫌がってエサを欲しがらなくなったという。同研究グループは、こうした実験を繰り返し、尾状核のなかに〈ネガティブ回路〉があることをつきとめたのだ。

さらに、いちど〈ネガティブ回路〉への刺激を経験したマカクザルは、その後も悲観的な価値判断に固執してしまい、ネガティブな意思決定を繰り返すことがわかった。つまり、いちど罰を過大評価してしまうと、たとえもらえるエサが多くても、それを拒否するようになる。この発見により、何度手を洗っても、まだ汚れている気がして再び手を洗ってしまったり、鍵の閉め忘れがないか繰り返し確認してしまう強迫性障害のモデルとなる可能性があるという。

またネガティブ回路とは逆に、刺激すれば楽観的な価値判断を下す〈ポジティブ回路〉が尾状核にあることもわかった。本研究では、ポジティブ回路への刺激で楽観的選択が持続するかどうかは明らかになっていない。しかし、ポジティブ回路への刺激を強くすれば、楽観的選択が持続する可能性がある、と雨森准教授は予想する。

「ポジティブ回路を刺激されたマカクザルは、罰を全く気にしなくなります。おそらく相当ハッピーな状態なのでしょう。こうした異常な状態を微小な刺激で引き起こせるので、すごい反応だな、と感動しました」

強迫性障害に悩まされているひとびとが、脳に流れる電流を自らコントロールし、ポジティブ回路を刺激してハッピーな気持ちだけを感じるようにすることはできないのだろうか。脳波などをモニターしながら、意図的にコントロールしようとする〈ニューロフィードバック〉などはあるが「信頼性の高い手法となるにはさらなる進歩が必要なようです」と雨森准教授。

では、いっそのこと、尾状核にあるネガティブ回路をなんらかの方法で破壊してしまえば、拭えない不安を断ち切ることができるのだろうか。

「ネガティブ回路を取り除いてしまうと、逆に罰をうまく感じられなくなり、依存症のように異常な状態になるかもしれません」と雨森准教授は懸念する。「ネガティブ回路やネガティブな感情自体は、正常な反応だと考えていますし、罰や嫌なことは避けようとすること自体は病的ではありません。今回は、ネガティブ回路の過活動により、全体のバランスが崩れた状態になったと考えています」

脳活動のバランスがいちど崩れてしまうと、意識だけで正常な状態を取り戻すことは難しいが、雨森准教授は、刺激により脳の活動を簡単に変えられるという。「〈ネガティブ回路〉だけでなく、脳活動のバランスを取り戻すような〈ポジティブ回路〉も存在します。不安障害は、気持ちの持ちようではなく脳のバランスの問題なのだと割り切れれば、すこし気が楽になるかもしれませんね」

「もっと全体的な回路の理解や、刺激技術の進歩が必要ですが、神経科学の観点からすると、この回路の適切なコントロール法が確立すれば、うつ病の軽減や強迫性障害などの不安障害の解消などが期待できます」と雨森准教授。今回の研究結果がうつ病や強迫性障害の治療に役立つようになるにはさらなる研究が必要だ。「霊長類の認知脳科学は、地道でとても時間がかかるものです。基本的には、僕のキャリアをかけて追求するような問題だと捉えています」